アマラスンタ

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後世のニュルンベルク年代記に描かれたアマラスンタ

アマラスンタAmalasunthaAmalasuenthaAmalaswinthaAmalasuintha、? - 535年4月30日、在位:534年)は、東ゴート王国の第3代君主、女王である。アマラスウィンタとも。初代国王で大王と呼ばれるテオドリックの娘であり、第2代国王アタラリックの母、次代テオダハドの従姉妹にあたる。

生涯[編集]

大王テオドリックと正妻アウドフレダの娘であるが、彼女の生年は知られていない。しかし、テオドリックとアウドフレダとの結婚は493年である為、それ以降に誕生したとの推測が可能である。テオデリックには男子の後継者がいなかったため、彼は西ゴート族出身で、アマル家の血筋を引くとされるエウタリックにアマラスンタを嫁がせた。これによってエウタリックは王の後継者となり、ローマではこれを記念して大祝賀会が催された。しかし、エウタリックは523年に突如死去し、エウタリックとアマラスンタの息子アタラリックが後継者となった。

テオデリックが526年に死去したとき、アタラリックは10歳であったため、母親であるアマラスンタが摂政として実際の統治を行った。彼女はテオドリックの政治を引き継ぎ、ローマ元老院との協調路線を採り、ゴート族とローマ人に対してアタラリックへの忠誠を誓わせたが、テオドリックの時代からの反対派であるテオダハドや将軍トゥリンとの抗争も継承しなければならなかった。彼女は両者と協調する行動もとったが、反対派の猛攻は凄まじく、一時は東ローマ帝国への亡命も試みた。しかし、彼女は反対派の頭目である将軍トゥリンを暗殺することに成功、反対派勢力を粛清、罷免するなどして王国を維持した。

534年に息子のアタラリックが放蕩の末に死亡するが、アマラスンタは事前に東ローマ帝国と同盟関係の更新の交渉を行っていたため、次代の国王(女王)として即位することとなった。女王即位にあたり、反対派であったテオダハドを共同統治者として指名するなど彼の懐柔を試みたが、534年末、テオダハドにクーデターを起こされて失脚した。ウォルシニィ湖(現ボルセーナ湖)のマルタナ島に幽閉されたアマラスンタは、535年に彼女を恨む反対派の生き残りに暗殺された。没年齢は確定できないが、父母が結婚した時期(493年)や第1子であるアタラリックが516年生まれであることを考慮した場合、少なくとも30歳には達していたと思われる。

子女・子孫[編集]

アマル家の血筋を引くとされるエウタリック(? - 523年)との間に1男1女を儲けた。

  • アタラリック(516年 - 534年) - 長男。東ゴート王国第2代国王。
  • マタスンタ(517年/518年 - ?) - 長女。東ゴート王国第5代国王ウィティギスの王妃となる。ウィティギスは国内で支持基盤を固めなくてはならず、アマル家とのつながりを持ってより王位を確かなものにしよう、との思惑から妻と別れてマタスンタと強引に結婚した為、18歳のマタスンタはこの望まない結婚に反発を覚え、加えてこの結婚のためにすげなく離婚されたウィティギスの妻にも同情し、怒りを内に秘めていたと言われている。539年、ウィティギスはベリサリウスから和平を持ちかけられるが、この矢先にラヴェンナの穀物倉庫が全焼、人々は王妃マタスンタの手引きではないか、と疑い内部の結束が揺らいたという。結局、ウィティギスとマタスンタは東ローマ軍の捕虜となり、コンスタンティノポリスに送られ、マタスンタはユスティニアヌス1世の従兄弟・ゲルマヌス・ユスティヌス(? - 550年)と再婚し、息子・ゲルマヌス(550年 - 605年)を儲けた。故にゲルマヌスはアマラスンタとエウタリックの孫でテオドリックの曾孫、アタラリックの甥にあたる。

参考文献[編集]

  • Herwig Wolfram & Thomas J. Dunlap『History of the Goths』(University of California Press、1990年) ISBN 0520069838
  • Peter Heather『The Goths』(Blackwell Publishers、1998年) ISBN 0631209328
  • 松谷健二『東ゴート興亡史 東西ローマのはざまにて』(中公文庫、2003年) ISBN 4122041996

関連項目[編集]

先代:
アタラリック
東ゴート女王
534年
次代:
テオダハド