「部民制」の版間の差分

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伴造氏族の成立は、[[雄略天皇|雄略]]朝において認められる。[[金錯銘鉄剣|稲荷山鉄剣]]にみえるヲワケは、杖刀人集団(トモ)を率いる伴造であった。
伴造氏族の成立は、[[雄略天皇|雄略]]朝において認められる。[[金錯銘鉄剣|稲荷山鉄剣]]にみえるヲワケは、杖刀人集団(トモ)を率いる伴造であった。


=== 部、部曲・民部、子代・名代・御名代 ===
=== 職業部、部曲・民部、子代・名代・御名代 ===
今日の一般的な理解は次のようになっている。
今日の一般的な理解は次のようになっている。


;[[部]](しなべ)
;[[職業部]](しなべ)
:[[海部]](あまべ)、[[飼部]](かいべ(犬・鳥・馬など))麻績部(おみべ)錦織部(にしごりべ)などのように具体的な職掌名を帯びる部のことで、それぞれ伴造に統率され、朝廷に所属する。
:[[海部]](あまべ)、[[飼部]](かいべ(犬・鳥・馬など))麻績部(おみべ)錦織部(にしごりべ)などのように具体的な職掌名を帯びる部のことで、それぞれ伴造に統率され、朝廷に所属する。
;[[子代]](こしろ)・[[名代|御名代]](みなしろ)
;[[子代]](こしろ)・[[名代|御名代]](みなしろ)
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;[[部曲]](かきべ)
;[[部曲]](かきべ)
:諸豪族の所有民で、[[蘇我部]]や[[尾張部]]、[[大伴部]]など、豪族の名を帯びる部である。
:諸豪族の所有民で、[[蘇我部]]や[[尾張部]]、[[大伴部]]など、豪族の名を帯びる部である。

部とその所有者との関係を軸とした説明であるが、異論も多いようである(ここは、[[鎌田元一]]や前之園亮一の部民制を主に参考にした)。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2012年12月5日 (水) 10:17時点における版

部民制(べみんせい)とは、ヤマト王権の制度であり、王権への従属・奉仕の体制、朝廷の仕事分掌の体制をいう。トモ制(ともせい)とも称する。

概説

その種類は極めて多く、大きく2つのグループに分けることが出来る。1つは何らかの仕事にかかわる一団で、もう1つは王宮豪族に所属する一団である。前者には語部馬飼部、後者には蘇我氏大伴氏のものなどがあげられる。語部は、伴造(とものみやつこ)である語造(かたりべのみやつこ)氏に率いられ、朝廷の儀式の場で詞章(かたりごと)を奏することをその職掌とした。蘇我氏や大伴氏が蘇我部や大伴部を所有しえたのも、彼らが王権を支えるとして、朝廷組織のなかにその位置を占めていたからである。

律令制の実施に伴って廃止されていく。律令制の実施後の部称は、たんに父系の血縁を表示するだけの称号であるにすぎず、所属する集団との関係を示すものではない。

670年(天智9)の庚午年籍(こうごのねんじゃく)以後、すべての人民が戸籍に登録されるようになると、部称は個人のとして残され、以後は代々父系によって継承されることになったのである。

部民制の成立

5世紀頃には、畿内及びその周辺の中小豪族をトノモリ(殿守)・モヒトリ(水取)・カニモリ(掃守)・カドモリ(門守)など、宮廷の各種の職務を世襲的に分掌する「トモ」として、大王のもとに組織する体制が成立していた。そのようなトモ制の拡大・発展の結果、5世紀後半には、さらにトモノミヤツコ(伴造)がトモ(伴)を率いるという体制も整備された。

大和政権は朝鮮半島情勢の緊迫化に伴って、磐井の乱後に、屯倉制部民制を列島中に拡げていった。とくに乱後の九州では、軍事的部民が設置された。大和政権は、肥後地方に日下部壬生部建部久米部などに軍事的部民を設置した。物部関係では、筑紫・豊・火に及ぶが特に筑紫に多い。大伴関係では、筑紫・豊・火に分布するものの密度は低い。

松江市の6世紀後半の岡田山1号墳から出土した鉄刀に「額田部臣」銘が刻まれていた。出雲地方に部民が設定されていたことが分かる。額田部とは、地域の首長額田部臣が部民を統率して欽明天皇の皇女、後の推古天皇の宮に奉仕していたと考えられている。出雲地域ではこのほかにも『出雲風土記』意宇(おう)郡舎人郷条に欽明朝の時日置(へき)臣志毘(しび)が大舎人となったこと、神門(かむど)郡日置郷条にもおなじく欽明朝の時日置伴部が派遣されてきて「政」を行ったことなどの伝承があり、欽明朝の頃に部民制支配が確立したと考えられている。

吉備の部

吉備における部民を古代の文献や木簡に現れる氏姓を調べると、部民の中核御名代(みなしろ)は、健部(たけるべ)・伊福部(いふきべ)・宇治部(うじべ)・額田部(ぬかたべ)・日下部(くさかべ)・矢田部(やたべ)・丹比部(たじひべ)・刑部(おさかべ)・軽部(かるべ)・白髪部(しらかべ)・石上部(いそのかみべ)・小長谷部(おはつせべ)・私部(きさいべ)・壬生部(みぶべ)がある。これらは5~6世紀の大王ごとに設置され、大王の宮廷に奉仕した部民である。御名代には在地の首長の子弟がなる。子弟たちはある期間、都に出仕して、大王の身の回りの世話(トネリ)や護衛(ユゲヒ)、食膳の用意(カシハデ)にあたった。この三種の原始的な職務を、ヤマト大王が各地の首長に義務づけた統治方法の一つが御名代である。

広島県域の部

広島湾から太田川流域にかけて佐伯部・大伴部・若桜部・伊福部、江の川上流の可愛川流域には壬生部・品治(ほむち)部・丹比(たじひ)部・御使(みつかい)部、庄原市・比婆郡では刑部・春日部・物部、三次市・双三郡では私部・刑部・額田部、福山市周辺には服部・矢田部・品治部春部島嶼部海部倉橋部などの設置が想定されている[1]

豪族所有部民

豪族の所有民については、例として畿内の有力豪族巨勢臣の巨勢部(こせべ)・尾張連尾張部(おわりべ)・蘇我臣の宗我部(そがべ)などがある。しかし、これらの部民は、各豪族の所有民ではなく、豪族たちは朝廷の構成員であることで認められたのである。[2]

職業部民

職業部民としては、錦織(にしごり)部・土師(はじ)部・須恵(すえ)部・弓削(ゆげ)部・麻績(おみ)部・渡(わたり)部・犬養(いぬかい)部・馬飼(うまかい)部・鳥飼(とりかい)部などがある。

氏姓制度(うじかばねせいど)

ヤマト政権の豪族層は、ウジと呼ばれる組織を形成していた。蘇我氏・紀氏・大伴氏・物部氏・秦氏・漢氏・忌部氏・史氏等をはじめ大小幾多のウジがあった。

古代のウジは、血縁関係ないし血縁意識によって結ばれた多くの家よりなる同族集団で、有力家族の長が氏上(うじのかみ、うじがみ)となり、族長的な地位に立っていた。その直系・傍系の血縁者や非血縁者の家族を氏人(うじびと)といい、これに隷属し統率されていた。

ウジは、ヤマト政権の政治組織という性格をもっていた。ウジはたんに自然発生的に形成された血縁的集団ではなく、大王に臣従を誓い、奉仕することを義務づけられた血縁的集団である。中央・地方のウジは、大王との間に隷属・奉仕の関係を結び、それを前提にして氏上は朝廷における一定の政治的地位や官職・職務に就く資格と、それを世襲する権利を与えられた。また、その出自(しゅつじ)や政治的地位・官職の高下・職務内容の違いに応じて、カバネを賜与され、部民(べみん)などの隷属民を領有することを認められたのである。

一般に氏姓(うじかばね)制といわれる。

カバネには臣(おみ)・連(むらじ)・伴造(とものみやつこ)・国造(くにのみやつこ)などがある。

ウジの組織は、5世紀末以降、史料から確認できる。広範に整備されるのは6世紀のことである。

臣(おみ)と連(むらじ)は、基本的な違いが存在していた。それは、臣と称する豪族は、蘇我氏・吉備氏など、一般に地名をウジの名とし、それぞれの地域を基盤とする首長であったのに対して、連と称した豪族は、大伴氏・物部氏など、トモとしての職掌を名にもつ伴造のウジとしたのである。つまり、臣は王権に対して相対的な独自性を有するが、連は大王への臣従をその本質としたのである。

伴造氏族の成立は、雄略朝において認められる。稲荷山鉄剣にみえるヲワケは、杖刀人集団(トモ)を率いる伴造であった。

職業部、部曲・民部、子代・名代・御名代

今日の一般的な理解は次のようになっている。

職業部(しなべ)
海部(あまべ)、飼部(かいべ(犬・鳥・馬など))麻績部(おみべ)錦織部(にしごりべ)などのように具体的な職掌名を帯びる部のことで、それぞれ伴造に統率され、朝廷に所属する。
子代(こしろ)・御名代(みなしろ)
刑部(おさかべ)・額田部(ぬかたべ)など、王(宮)名のついた部のことで、伴造に統括される一種の品部であるが、特に王家・王族の所有である点が特徴である。品部は、舎人(とねり)・靫負(ゆげい)・膳夫(かしわで)などとして奉仕する
部曲(かきべ)
諸豪族の所有民で、蘇我部尾張部大伴部など、豪族の名を帯びる部である。

脚注

  1. ^ 西別府元日「芸備の自然と地域の形成」 岸田裕之編 室山敏明・西別府元日・秋山信隆・中山富広・賴祺一・児玉正昭・宇吹暁『広島県の歴史』山川出版社 1999年 28ページ
  2. ^ 狩野久「古代国家の発展と吉備」 藤井学・狩野久・竹林栄一・倉地克直・前田昌義『岡山県の歴史』山川出版社 2000年 34・37ページ

参考文献

  • 鎌田元一「部についての基本的考察」『日本政治社会史研究 上』塙書房、1984年。