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「ピーテル・パウル・ルーベンス」の版間の差分

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| name = ピーテル・パウル・ルーベンス<br />Peter Paul Rubens
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'''ピーテル・パウル・ルーベンス'''('''Peter Paul Rubens''', [[1577年]][[6月28日]] - [[1640年]][[5月30日]])は、[[バロック]]の[[フランドル]]の[[画家]]及び[[外交官]]。「ルーベンス」は[[ドイツ語]]読みで、[[オランダ語]]では「リューベス」と発音する
'''ピーテル・パウル・ルーベンス'''<ref>「ルーベンス」は[[ドイツ語]]読みで、[[オランダ語]]では「リュベンス」と発音する。</ref>{{lang-nl-short|Peter Paul Rubens}}、[[1577年]][[6月28日]] - [[1640年]][[5月30日]])は、[[バロック|バロック期]]の[[フランドル]]の[[画家]][[外交官]]。[[祭壇画]]、[[肖像画]]、[[風景画]]、神話画や寓意画も含む[[歴史画]]など、様々なジャルの絵画作品を残した


ルーベンスは[[アントウェルペン]]で大規模な工房を経営し、生み出された作品はヨーロッパ中の貴族階級や収集家間でも高く評価されていた。またルーベンスは画家としてだけではなく、古典的知識を持つ[[人文主義|人文主義学者]]、美術品収集家でもあり、さらに外交官としても活躍してスペイン王[[フェリペ4世 (スペイン王)|フェリペ4世]]とイングランド王[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]からナイト爵位を受けている。
==生涯==
[[17世紀]]、[[バロック]]時代のヨーロッパを代表する画家である。[[ルネサンス]]期絵画の均整のとれた構図や理想化された人物表現とは一線を画し、ルーベンスの絵画は、動きの多い劇的な構図、人物の激しい身振り、華麗な色彩、女神像などに見られる豊満な裸体表現など、[[バロック絵画]]の特色が十二分に発揮されたものである。人物のまとう毛皮の色などに、黒を色彩のひとつとして積極的に用いていることも特筆される。


[[欧州大学院大学]]の奨励金制度には、毎年著名な歴史上の人物の名前がつけられており、1976年から1977年の奨励金制度はピーテル・パウル・ルーベンスと名付けられた<ref>{{cite web
[[1577年]]、[[アントウェルペン]]出身だった両親が亡命していた[[ドイツ]]西北部の[[ノルトライン=ヴェストファーレン州]][[ジーゲン]]に生まれた。ルーベンスが10歳の時に父親が没し、母親はルーベンスを連れて故郷へ戻る。絵の修業を始めたのは14歳頃からである。師匠の一人であったオットー・ファン・フェーンは、ギリシア・ローマの古典に造詣の深い、教養ある人物で、ルーベンスはこの師から多大な影響を受けている。
| title = Promotions and Patrons
| publisher =College of Europe
| url = http://www.coleurope.eu/website/about-college/history/promotions-and-patrons
| accessdate = 2012-10-25 }}</ref>。


== 生涯 ==
[[1600年]]にはイタリアへ渡り、マントヴァ公の宮廷画家となった。イタリアで約8年間活動した後、[[1608年]]にはアントウェルペンに戻っている。[[1609年]]、長らく争っていた隣国オランダとの間に[[休戦協定]]が結ばれ、平和が戻ったフランドルでは絵画の需要が急増し、イタリア帰りのルーベンスには注文が殺到した。この年からスペインの王女[[イサベル・クララ・エウヘニア|イサベル]](ネーデルラントの統治者でもあった)の宮廷画家となったルーベンスは、前世紀の[[ヴェネツィア]]の画家同様、工房を設置し、多くの弟子たちを動員して大量の注文制作をこなした。
=== 幼少期から青年期 ===
[[File:Peter Paul Rubens 105.jpg|thumb|left|『ルーベンスとイザベラ・ブラントの肖像』(1609年 - 1610年)<br />[[アルテ・ピナコテーク]]([[ミュンヘン]])<br />『すいかずらの木陰』『すいかずらの葉陰』などとも呼ばれるこの作品には、ルーベンスと最初の妻イザベラが描かれている。]]
ルーベンスは、ヤン・ルーベンスと妻マリアとの間に、ドイツの[[ジーゲン]]で生まれた。父ヤンは[[プロテスタント]]の[[カルヴァン主義|カルヴァン主義者]]で、1568年にマリアとともに[[南ネーデルラント|スペイン領ネーデルラント]]総督アルバ公[[フェルナンド・アルバレス・デ・トレド|フェルナンド]]のプロテスタント迫害のために、アントウェルペンから[[ケルン]]へと逃れてきた夫婦だった。ヤンは[[オランダ総督]]オラニエ公[[ウィレム1世 (オラニエ公)|ウィレム1世]]の二度目の妃[[アンナ・ファン・サクセン|アンナ]]の法律顧問さらには愛人となり、1570年にジーゲンのアンナの宮廷へと居を移している。アンナの愛人であることが発覚して投獄されていたヤンだったが後に釈放され、1577年にマリアとの間にルーベンスが生まれた。その後1578年にヤン一家はケルンへと戻ったが、1587年にヤンは死去している。1589年にマリアはルーベンスとともに故郷のアントウェルペンへと移住し、ルーベンスはこの地でカトリック教徒として成長した。宗教的影響をルーベンスの作品の多くに見ることができ、後年のルーベンスはカトリックの改革運動である[[対抗宗教改革]]の影響を受けた絵画様式の主導者となっている<ref>Belkin (1998): pp. 11 - 18.</ref>。


ルーベンスはアントウェルペンで人文主義教育を受け、ラテン語と古典文学を学んだ。14歳ごろにアントウェルペン生まれの芸術家トビアス・フェルハーフト ([[:en:Tobias Verhaeght]]) に弟子入りし、その後引き続いて当時のアントウェルペンの主要な画家だった[[アダム・ファン・ノールト]]とオットー・ファン・フェーン ([[:en:Otto van Veen]]) に師事した<ref>Held (1983): 14–35.</ref>。ルーベンスの芸術家としての最初期の修行は、先人たちの作品の模倣、模写だった。手本となったのは、[[ルネサンス|ルネサンス期]]のドイツ人芸術家[[ハンス・ホルバイン]]の[[木版画]]、ルネサンス期のイタリア人画家[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]の作品を原画としたイタリア人版画家マルカントニオ・ライモンディの[[エングレービング|銅版画]]などである。ルーベンスは1598年に修業を終え、一人前の芸術家として芸術家ギルドの[[聖ルカ組合]]の一員となった<ref>Belkin (1998): pp. 22 - 38.</ref>。
聖ヤコブ教会にお墓がある。
{{clear}}


=== イタリア時代(1600年 - 1608年)===
==『マリー・ド・メディシスの生涯』==
[[File:Rubens lerma.jpg|thumb|right|『レルマ公騎馬像』(1603年)<br />[[プラド美術館]]([[マドリード]])<br />スペイン貴族レルマ公フランシスコ・ゴメス・デ・サンドバル・イ・ロハスの肖像画で、ルーベンスが最初にスペインを訪れたときの作品。]]
[[Image:Peter Paul Rubens 035.jpg|200px|thumb|''マリー・ド・メディシスの生涯:マリーのマルセイユ到着'' 1622-25 [[ルーヴル美術館]]]]
ルーベンスは1600年にイタリアへと向かった。最初に訪れたのは[[ヴェネツィア]]で、[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ|ティツィアーノ]]、[[パオロ・ヴェロネーゼ|ヴェロネーゼ]]、[[ティントレット]]らの絵画を目にしている。その後[[マントヴァ]]へ向かい、マントヴァ公[[ヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガ]]の宮廷に迎えられた。ヴェロネーゼとティントレットの色彩感覚と作品構成は、当時のルーベンスの作品に即座に影響を与え、後年になって円熟期を迎えたルーベンスの作品にはティツィアーノからの大きな影響が見られる<ref>Belkin (1998): p. 42; 57.</ref>。
ルーベンスは[[1622年]]、パリに赴き、当時のフランス皇太后[[マリー・ド・メディシス]]の注文による、彼女の生涯を題材とした連作の制作にとりかかる。マリー・ド・メディシスはその名が示すとおり、[[フィレンツェ]]の[[メディチ家]]の出身で、フランス王[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]の妃であり、[[ルイ13世 (フランス王)|ルイ13世]]の母である。マリー・ド・メディシスは、その権勢欲の強さから、息子である国王ルイ13世と対立し、ついには王宮から追放されてしまう。この連作は、そのマリーが、[[リュクサンブール宮殿]]に飾るために注文したものであった。偉大な業績を残したわけでもなく、ドラマ性に乏しいこの女性の一代記を絵画化するにあたり、ルーベンスは古代神話の神々や寓意の人物像などを巧みに画面に取り入れて、壮大な作品に仕立て上げている。


マントヴァ公からの金銭的援助を受けたルーベンスは、1601年に[[フィレンツェ]]を経由して[[ローマ]]を訪れた。ローマでは[[古代ギリシア]]、[[古代ローマ]]の芸術作品に触れ、イタリア人芸術家たちの作品の模写に務めている。とくに[[ヘレニズム|ヘレニズム様式]]の彫刻『[[ラオコーン像]]』や、[[ルネサンス期のイタリア絵画|イタリア・ルネサンス]]の巨匠[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]、[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]、[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]の作品がルーベンスに大きな影響を与えた<ref>Belkin (1998): pp. 52 - 57</ref>。また、当時のローマ画壇で最先端だった画家[[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ|カラヴァッジョ]]の作品が持つ高度な自然主義表現にも影響を受けた。後にカラヴァッジョの『キリストの埋葬 ([[:en:The Entombment of Christ (Caravaggio))]]』の複製画を制作したほか、マントヴァ公からの依頼を受けて、現在は[[パリ]]の[[ルーヴル美術館]]が所蔵するカラヴァッジョの『聖母の死 ([[:en:Death of the Virgin (Caravaggio)]])』の買い付けも手配した<ref>Belkin (1998): p. 59.</ref>。また、アントウェルペンのドミニコ会修道院による、現在は[[ウィーン]]の[[美術史美術館]]が所蔵するカラヴァッジョの『ロザリオの聖母』の購入にも協力している。ルーベンスはこのローマ滞在時にサンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ聖堂 ([[:en:Santa Croce in Gerusalemme]]) からの依頼で、最初の祭壇画『聖へレナと聖十字架』を完成させている。
==外交官としての一面==
多くの言語に精通していたルーベンスはイタリア、スペイン、英国にも足跡を残し、外交官としての一面もあった。上述したオランダとフランドルの休戦協定の有効期間は12年間で、[[1621年]]にその期限が切れると、フランドルは再び戦火にさらされた。当時、北部ネーデルラント(オランダ)は独立していたが、フランドル(今のベルギー)は引き続きスペインの支配下にあった。[[1628年]]、前述のイザベラ王女は和平のための外交使節として、ルーベンスをスペインのマドリードに派遣した。ルーベンスはそこでスペイン最大の画家[[ディエゴ・ベラスケス|ベラスケス]]に会っており、またスペイン宮廷が所蔵していた[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ|ティツィアーノ]](ヴェネツィア派の巨匠)の絵画を模写するなど、画家としての活動もしている。


[[File:Rubens, madonna della vallicella.jpg|thumb|left|『ヴァリチェッラの聖母』(1608年)<br />キエーザ・ヌオーヴァ([[ローマ]])<br />キエーザ・ヌオーヴァ(サンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ聖堂)の主祭壇画。]]
== 代表作 ==
ルーベンスは1603年に、マントヴァ公からスペイン王[[フェリペ3世 (スペイン王)|フェリペ3世]]への贈答品を携えた外交官としてスペインを訪れた。ルーベンスはこのスペイン滞在中に、先代のスペイン王[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]が収集したラファエロとティツィアーノの膨大な作品群を目にしている<ref>Belkin (1998): pp. 71 - 73</ref>。このスペイン滞在中にフェリペ3世の重臣レルマ公フランシスコ・ゴメス・デ・サンドバル・イ・ロハス ([[:en:Francisco Goméz de Sandoval y Rojas, Duke of Lerma|Duke of Lerma]]) を描いた『レルマ公騎馬像』には、ティツィアーノの傑作『[[:file:Carlos V en Mühlberg, by Titian, from Prado in Google Earth.jpg|カール5世騎馬像]]』などの作品からの影響が見られる。このスペイン訪問が、その後ルーベンスが果たしていく外交官としての最初の役目となった。
[[Image:Peter Paul Rubens 066.jpg|200px|thumb|''キリスト降架'' 1611-14 アントウェルペン大聖堂]]

* マリー・ド・メディシスの生涯(1622-25)([[ルーヴル美術館]])
ルーベンスは1604年にイタリアへと帰還し、その後の4年間でマントヴァ、[[ジェノヴァ]]、ローマを転々とした。ルーベンスはこの時期に『ブリジーダ・スピノラ=ドリア侯爵夫人』などの肖像画を多数制作しており、マリア・ディ・アントーニオ・セッラ・パッラヴィチーニを描いた肖像画は、後世の画家[[アンソニー・ヴァン・ダイク]]、[[ジョシュア・レノルズ|ジョシュア・レイノルズ]]、[[トマス・ゲインズバラ]]らの作品にも影響を与えた<ref>Belkin (1998): p. 75.</ref>。
* キリスト昇架(1609-10)(アントウェルペン、聖母マリア大聖堂)

* キリスト降架(1612-14)(アントウェルペン、聖母マリア大聖堂)
1606年から1608年にかけてはほとんどの時期をローマで過ごした。このときに、ルーベンスが肖像画を描いたマリア・パッラヴィチーニの兄にあたる枢機卿ヤコポ・セッラの尽力もあって、当時ローマで新築された教会キエーザ・ヌオーヴァ(サンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ聖堂)の主祭壇画制作という重要な依頼を受けている。この祭壇画には、古のローマ教皇[[グレゴリウス1世 (ローマ教皇)|グレゴリウス1世]]とローマにちなむ聖人たちが、天使が掲げる[[聖母子]]の肖像を見つめている場面が描かれている。祭壇画の最初のヴァージョンは、現在グルノーブルの美術館が所蔵する、一枚の[[キャンバス]]に描かれたものだったが、間もなく3枚の石板に描き直したものに置き換えられた。現在もキエーザ・ヌオーヴァに安置されている、サンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラで起こったといわれる奇跡を描いたこの祭壇画は、重要な祝祭日にのみ銅製のカバーが外されて一般に公開されている<ref>Jaffé (1977): pp. 85 - 99; Belting (1994): pp. 484 - 490, 554 - 556.</ref>。
* キリスト復活(1610-22)(アントウェルペン、聖母マリア大聖堂)

* 聖母被昇天(1625-26)(アントウェルペン、聖母マリア大聖堂)
イタリアでの経験は、その後もルーベンスの作品に影響を与え続けた。後年になってイタリアを離れてからも、イタリアの知人たちと多くの書簡を交わしており、イタリア名の「ピエトロ・パウロ・ルーベンス (Pietro Paolo Rubens)」として署名し、イタリアへ戻ることを強く望んでいることを書き綴っているが、ルーベンスのイタリア帰還が叶うことはなかった<ref>Belkin (1998): p. 95.</ref>。
* レウキッポスの娘たちの略奪(1618頃)(ミュンヘン、アルテ・ピナコテーク)

* シュザンヌ・フールマンの肖像(1622頃)(ロンドン・ナショナル・ギャラリー)
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* エレーヌ・フールマンの肖像(1630頃)(ミュンヘン、アルテ・ピナコテーク)
File:Peter Paul Rubens - The Judgment of Paris - WGA20307.jpg|『パリスの審判』(1601年頃)<br />[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ロンドン]])
File:Rubens Deposition.jpg|『キリストの埋葬』(1602年)<br />[[ボルゲーゼ美術館]]([[ローマ]])
File:Rubens Fall of Phaeton.jpg|『パエトンの墜落』(1604年 - 1605年頃)<br />[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー・オブ・アート]]([[ワシントンD.C.]])
File:Marchesa Brigida Spinola-Doria.jpg|『ブリジーダ・スピノラ=ドリア侯爵夫人』(1606年)<br />[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー・オブ・アート]]([[ワシントンD.C.]])
File:Peter Paul Rubens - Pokłon z Antwerpii.jpg|『羊飼いの礼拝』(1608年頃)<br />聖パウルス教会([[アントウェルペン]])
</gallery>

=== アントウェルペン時代(1609年 - 1621年) ===
[[File:Metropolitan Rubens Achelous.jpg|thumb|right|250px|『アケロオスの祝宴』(1615年頃)<br />[[メトロポリタン美術館]]([[ニューヨーク]])<br />ルーベンス(人物)とヤン・ブリューゲル (父)(風景、動物)との合作絵画]]
1608年に母マリアが病に倒れたことを聞いたルーベンスは、イタリアを離れてアントウェルペンへと戻ることを決めた。しかしながらマリアはルーベンスがアントウェルペンに戻る前に死去してしまった。母の病以外にルーベンスがアントウェルペンへと戻った理由の一つとして、当時ネーデルラント諸州とスペインとの間で勃発していた[[八十年戦争]]が、1609年4月の停戦協定 ([[:en:Treaty of Antwerp (1609)]]) の発行によって12年間の休戦期 ([[:en:Twelve Years' Truce]]) がもたらされたことがあげられる。この停戦協定によって当時のアントウェルペンは新たな隆盛を見せ始めていたのである。1609年9月にルーベンスは、スペイン領ネーデルラント君主のオーストリア大公[[アルブレヒト・フォン・エスターライヒ (1559-1621)|アルブレヒト7世]]と大公妃でスペイン王女の[[イサベル・クララ・エウヘニア|イサベル]]の[[宮廷画家]]に迎えられた。当時アルブレヒト7世の宮廷が置かれていた[[ブリュッセル]]ではなく、アントウェルペンに工房を設置することを特別に許可されたルーベンスは、宮廷からの作品制作依頼だけではなく、他の顧客からの制作依頼も受けていた。1633年に大公妃イサベルが死去するまで、ルーベンスとイサベルの信頼関係は深く、ルーベンスは画家としてのみならず特使や外交官の役割もこなすようになっていた。ルーベンスは1609年10月3日にアントウェルペンの有力者ヤン・ブラントの娘イザベラ ([[:en:Isabella Brant]]) と結婚している。

1610年にルーベンスは自身がデザインした新居に移り住んだ。現在では博物館として使われている、アントウェルペン中心部に位置するこのルーベンスの家 ([[:en:Rubenshuis]]) はイタリア風の建築様式で建てられた邸宅(ヴィッラ)で、工房も併設されていた。弟子とともに幾多の絵画作品を制作する場所であると同時に、当時のアントウェルペンで最高級の私的美術品収蔵場所であり、同じく最高級の蔵書を誇る私的図書室でもあった。当時のルーベンスは多くの弟子と助手を抱えていた。ルーベンスの工房出身者でもっとも有名な芸術家になったのは、後年イングランドの宮廷画家となる若き日の[[アンソニー・ヴァン・ダイク]]である。ルーベンスの工房ですぐに頭角を現したヴァン・ダイクは、フランドルの肖像画家の第一人者となり、師のルーベンスと共同で絵画制作に当たることもよくあった。ルーベンスは、当時のアントウェルペンで活動していたほかの画家とも共同制作をすることがあり、動物画を得意とした[[フランス・スナイデルス]]や、自身の親友で花を得意とした[[ヤン・ブリューゲル (父)]]らとの作品が現存している。<!-- 【訳出せず】Another house was built by Reubens to the north of Antwerp in the [[polder]] village of [[Doel]], "De Hooghuis" (1613/1643), perhaps as an investment. The "High House" was built next to the village church.-->

[[File:Peter Paul Rubens - Raising of the Cross - WGA20204.jpg|left|thumb|250px|left|『キリスト昇架』(1610年 - 16011年)<br />聖母マリア大聖堂(アントウェルペン)]]
アントウェルペンの聖母マリア大聖堂 ([[:en:Cathedral of Our Lady, Antwerp]]) の『キリスト昇架 ([[:en:The Elevation of the Cross (Rubens))]]』(1610年)、『キリスト降架 ([[:en:The Descent of the Cross (Rubens)]])』(1611年 - 1614年)のような祭壇画は、イタリアからの帰還して間もないルーベンスが、フランドルにおいても画家として第一人者であるという評価を確立するのにとくに重要な役割を果たした。例えば『キリスト昇架』は、ティントレットの『[[:file:Jacopo Tintoretto 021.jpg|キリスト磔刑]]』の構成とミケランジェロの躍動感溢れる人体表現をルーベンス独自の作風で融合させた絵画となっており、[[バロック絵画|バロック期宗教画]]の最高峰として高く評価されている作品である<ref>Martin (1977): p. 109.</ref>。

ルーベンスは絵画以外に版画や書物の装丁も手がけた。とくに友人でもあったバルタザール・モレトゥスが経営していた出版社 ([[:en:Plantin Press|Plantin-Moretus publishing house]]) から発行された版画が、ルーベンスの技量をヨーロッパ各地に広めることに貢献した。一対の美しい[[エッチング|銅版画]]を例外として、ルーベンスは下絵を描くだけで、版画制作自体はルカス・フォルステルマン ([[:en:Lucas Vorsterman]]) のような専門家に任せていた<ref>Pauw-De Veen (1977): pp. 243 - 251.</ref>。ルーベンスは当時を代表する版画家[[ヘンドリック・ホルツィウス]]のもとで修行した版画家を多く雇い入れている。また、ルーベンスは自身が関係した版画に関する版権を確立しており、とくに版画の複製が大量に行われていたホラントで複製版画の横行を抑制することに成功した。ルーベンスは後に、イングランド、フランス、スペインでも自身の作品に対する版権を認めさせることに成功している<ref>A Hyatt Mayor, Prints and People, Metropolitan Museum of Art/Princeton, 1971, no.427–32, ISBN 0-691-00326-2</ref>。

<gallery>
File:Peter Paul Rubens - Descent from the Cross - WGA20212.jpg|『キリスト降架』(1611年 - 1614年)<br />聖母マリア大聖堂([[アントウェルペン]])
File:Daniel in the Lions' Den 1613-1615 Peter Paul Rubens.jpg|『ライオンの穴の中のダニエル』(1613年 - 1615年)<br />[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー・オブ・アート]]([[ワシントンD.C.]])
File:Rubens Venus at a Mirror c1615.jpg|『鏡を見るヴィーナス』(1614年 - 1615年頃)<br />プライベート・コレクション
File:Peter Paul Rubens 091b.jpg|『イサベル・クララ・エウヘニア王女』(1615年)<br />[[美術史美術館]]([[ウィーン]])
File:07leucip.jpg|『レウキッポスの娘たちの略奪』(1617年頃)<br />[[アルテ・ピナコテーク]]([[ミュンヘン]])
</gallery>

=== 『マリー・ド・メディシスの生涯』と外交官としての活躍(1621年 - 1630年) ===
[[File:Peter Paul Rubens 037.jpg|thumb|left|『王女の交換』(1622年 - 1625年)<br />[[ルーヴル美術館]](パリ)<br />連作『マリー・ド・メディシスの生涯』の一点。左がマリー・ド・メディシスの長女でフランス王女[[イサベル・デ・ボルボン|エリザベート・ド・フランス]]、右がスペイン王女[[アンヌ・ドートリッシュ|アナ・マリア・マウリシア]]。]]
{{main|:en:Marie de' Medici cycle}}
1621年にフランス王太后[[マリー・ド・メディシス]]が、[[パリ]]の[[リュクサンブール宮殿]]の装飾用に、自身の生涯と前フランス王で1610年に死去した夫[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]の生涯とを記念する連作絵画2組の制作をルーベンスに依頼した。この依頼でルーベンスが描いたのが、現在[[ルーヴル美術館]]が所蔵する、24点の絵画からなる『マリー・ド・メディシスの生涯』で、1組目の連作が完成したのは1625年のことだった。ルーベンスはもう一組の連作の制作も開始していたが、こちらは最終的に未完のままに終わっている<ref>Belkin (1998): p. 175; 192; Held (1975): pp. 218 - 233, esp. pp. 222 - 225.</ref>。1630年にマリー・ド・メディシスは、息子のフランス王[[ルイ13世 (フランス王)|ルイ13世]]によって追放され、幼少期のルーベンスが暮らしていたケルンの邸宅で1642年に死去した<ref>Belkin (1998): pp. 173 - 175.</ref>。

1621年にネーデルラントとスペインとの12年間の休戦期が終わると、スペイン・ハプスブルク家の君主たちはルーベンスを外交的任務に重用し始めた<ref name="peace">Belkin (1998): 199–228.</ref>。1624年にフランスの大使がブリュッセルから送った書簡には「スペイン王女([[イサベル・クララ・エウヘニア]]を指す)の命によって、ルーベンスがポーランド王子の肖像画を描きに来ている」と記されている。この書簡に書かれているポーランド王子[[ヴワディスワフ4世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ4世]]が、イサベルの私的な賓客としてブリュッセルを訪れたのは1624年9月2日のことだった<ref>{{cite web |author= |url= http://www.nndb.com/people/895/000031802/ |title= Peter Paul Rubens |work= www.nndb.com |publisher= |pages= |page= |date= |accessdate=2008-08-27}}</ref><ref>{{cite web |author= |url= http://www.codart.nl/exhibitions/details2/412/ |title= Polonica |work= www.codart.nl |publisher= |pages= |page= |date= |accessdate=2008-08-27}}</ref>。

1627年から1630年にかけての期間が、ルーベンスの外交的活動がもっとも激しかった時期である。ルーベンスはスペインとネーデルラントに平和をもたらすために、スペインとイングランドの王宮を何度も往復した。さらに、ルーベンスは画家、外交官両方の役割を担って、ネーデルラント北部を何度か訪れており、各地の宮廷で賓客として遇されている。ルーベンスが爵位を与えられたのもこの時期で、1624年にスペイン王フェリペ4世から、1630年にイングランド王チャールズ1世から、それぞれナイト爵を授かった。また、1629年には[[ケンブリッジ大学]]から美術修士号 ([[:en:Master of Arts (Oxford, Cambridge and Dublin)]]) を授与されている<ref>Belkin (1998): pp. 339 - 340</ref>。

[[File:Peter Paul Rubens 004.jpg|thumb|right|『アダムとイヴ』(1628年 - 1629年)<br />[[プラド美術館]]([[マドリード]])<br />ティツィアーノが描いた『アダムとイヴ』をルーベンスが模写した作品。]]
ルーベンスは1628年から1629年にかけての8カ月間[[マドリード]]に滞在し、外交官としての職務だけでなく、スペイン王フェリペ4世らの依頼に応じて重要な絵画作品を制作した。イタリア時代にも目にしていた、スペイン王宮が所蔵していたティツィアーノの作品に改めて触れ、『アダムとイヴ』など、ティツィアーノの作品の模写を多く描いている<ref>Belkin (1998): pp. 210 - 218.</ref>。また、ルーベンスは、フェリペ4世の宮廷画家としてマドリード王宮にいた[[ディエゴ・ベラスケス]]と親交を持ち、翌年に二人でイタリアへと旅行する計画を立てた。しかしながらルーベンスはアントウェルペンに帰還することを余儀なくされ、結局ベラスケスは一人でイタリアを訪れている<ref>Belkin (1998): pp. 217 - 218.</ref>。

マドリードからアントウェルペンへ戻ったルーベンスだったが、すぐに別の任務を与えられてイングランドへと赴き、1630年4月まで[[ロンドン]]に滞在した。このロンドン滞在中に描いた重要な作品が『平和と戦争の寓意』(1629年、[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]](ロンドン))である<ref>{{cite web |url=http://www.nationalgallery.org.uk/cgi-bin/WebObjects.dll/CollectionPublisher.woa/wa/work?workNumber=ng46 |title=Minerva protects Pax from Mars ('Peace and War') |accessdate=15 October 2010 |publisher=The National Gallery}}</ref>。平和を希求するルーベンスの強い思いが描かれたこの作品は、イングランド王チャールズ1世に贈られた。

諸国の収集家や貴族階級間でのルーベンスの国際的な名声はますます高くなっていったが、ルーベンスとその工房では、アントウェルペンの後援者からの絵画注文もこなし続けていた。このような作品として、聖母マリア大聖堂の『聖母被昇天 ([[:en:Assumption of the Virgin Mary (Rubens)]])』(1625年 - 1626年)などを好例として挙げることができる。

<gallery>
File:Peter Paul Rubens 095b.jpg|『フランス王太后マリー・ド・メディシス』(1622年)<br />[[プラド美術館]]([[マドリード]])
File:Le Chapeau de Paille by Peter Paul Rubens.jpg|『シュザンヌ・フールマン』(1622年 - 1625年)<br />[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ロンドン]])
File:Rubens Władysław Waza.jpg|『ポーランド王子ヴワディスワフ4世』(1624年)<br />ヴァヴェル城([[クラクフ]])
File:Baroque Rubens Assumption-of-Virgin-3.jpg|『聖母被昇天』(1625年 - 1626年)<br />聖母マリア大聖堂([[アントウェルペン]])
File:Rubens peace-war.jpg|『平和と戦争の寓意』(1629年)<br />[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ロンドン]])
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=== 晩年(1630年 - 1640年) ===
[[File:Peter Paul Rubens 019.jpg|thumb|right|『毛皮をまとったエレーヌ・フールマン』(1638年頃)<br />[[美術史美術館]]([[ウィーン]])<br />ルーベンスの二度目の妻エレーヌ・フールマン。当時25歳前後。]]
ルーベンスは最晩年に当たる10年間をアントウェルペンとその近隣で過ごしている。イングランドのホワイトホール宮殿の、建築家[[イニゴー・ジョーンズ]]が設計したバンケティング・ハウスの天井画制作など外国からの注文は依然として多く、これらの仕事に忙殺されていたが、ルーベンスは自身の芸術の新境地を開きたいと考えていた。

最初の妻イザベラが死去した4年後の1630年に、当時53歳だったルーベンスは16歳のエレーヌ・フールマンと再婚した。エレーヌをモデルとした肉感的な女性像を、『ヴィーナスの饗宴』(1635年頃、[[美術史美術館]](ウィーン))、『三美神』(1635年頃、[[プラド美術館]]([[マドリード]]))、『パリスの審判』(1639年頃、[[プラド美術館]]([[マドリード]]))など、以降のルーベンスの作品に多く見ることができる。スペイン王宮からの依頼で描かれた『パリスの審判』では、エレーヌはローマ神話の美神[[ウェヌス|ヴィーナス]]として描かれている。ルーベンスが私的に描いたエレーヌの肖像『毛皮をまとったエレーヌ・フールマン』、通称『小さな毛皮』は、『メディチ家のヴィーナス ([[:en:Venus de' Medici]])』 のような古代ギリシア彫刻に見られる「[[クニドスのアプロディーテー|恥じらいのヴィーナス]]」のポーズで描かれている。

1635年にルーベンスはアントウェルペン郊外に土地を購入し、ここのステーン城、またはルーベンスの城 ([[:en:Elewijt Castle|Rubenskasteel]]) と呼ばれる邸宅で最晩年のほとんどをすごしている。この場所で描かれた風景画に『ステーン城の風景』(1636年頃、ナショナル・ギャラリー(ロンドン))、『畑から戻る農夫』(1637年頃、[[ピッティ宮殿#ピッティ美術館|ピッティ美術館]](フィレンツェ))などがある。また『フランドルの祝祭』(1630年頃、ルーヴル美術館(パリ))のような、ピーテル・ブリューゲルが得意としたフランドルの伝統的な風俗画も描いている。

慢性の通風を患っていたルーベンスは心不全で1640年5月30日に死去し、アントウェルペンの聖ヤーコプ教会に埋葬された。ルーベンスが残した子女は8人おり、そのうち3人がイザベラ、5人がエレーヌとの間に生まれた子供で、最年少の子供はルーベンス死去時に生後8カ月の乳児だった。

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File:Peter Paul Rubens 014.jpg|『フランドルの祝祭』(1630年頃)<br />[[ルーヴル美術館]]([[パリ]])
File:Peter Paul Rubens - The Feast of Venus - Google Art Project.jpg|『ヴィーナスの饗宴』(1635年頃)<br />[[美術史美術館]]([[ウィーン]])
File:The Three Graces, by Peter Paul Rubens, from Prado in Google Earth.jpg|『三美神』(1635年頃)<br />[[プラド美術館]]([[マドリード]])
File:Peter Paul Rubens 060.jpg|『ステーン城の風景』(1636年頃)<br />[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ロンドン]])
File:Peter Paul Rubens 102.jpg|『畑から戻る農夫』(1637年頃)<br />[[ピッティ宮殿#ピッティ美術館|ピッティ美術館]]([[フィレンツェ]])
File:Peter Paul Rubens 115.jpg|『パリスの審判』(1639年頃)<br />[[プラド美術館]]([[マドリード]])
</gallery>


== その他 ==
== その他 ==
[[File:Peter Paul Rubens Massacre of the Innocents.jpg|250px|thumb|『[[幼児虐殺 (ルーベンス)|幼児虐殺]]』<br />[[アートギャラリー・オブ・オンタリオ|オンタリオ美術館]]([[トロント]])]]
『[[フランダースの犬]]』において主人公のネロが見たがっていた絵画(アントウェルペン大聖堂にある「キリストの昇架」と「キリストの降架」)の作者として有名。ネロが祈りを捧げていたアントウェルペン大聖堂のマリアも、ルーベンスの作品(「聖母被昇天」)。
ルーベンスは多作の芸術家だった。顧客からの依頼で描いた作品の多くは宗教的題材の「歴史画」であり、神話や狩猟の場面が描かれているものもあった。また、自身や近親者などの肖像画、さらに晩年には風景画も描いている。その他には、タペストリや版画のデザイン、式典の装飾なども手掛けている。

現存するルーベンスの下絵は極めて力強い筆致で描かれているが、それほど精密なものではなく、下絵を描く際にインクやパステルではなく油彩を使用することが多かった。また、絵画作品の[[支持体]]に[[板絵|板]]を使用し続けた最後の著名な画家のひとりで、とくに遠距離を運搬する必要がある作品であれば、大規模な作品であっても板を支持体として使う場合が多かった。祭壇画であれば、経年変化などの問題を最小限にするために、支持体に石板を採用することもあった。

ルーベンスは肉感的でふくよかな女性を作品に描くことを好んだ。後世になってルーベンスが描いたような肢体の女性を「ルーベンス風」あるいは「ルーベンスの絵のようにふくよかな (''Rubenesque'' )」と呼ぶことがあり、現代オランダ語ではこのような女性を意味する「{{lang|nl|Rubensiaans}}」という言葉が日常的に使用されている。

『[[フランダースの犬]]』において、主人公のネロが見たがっていたアントウェルペン大聖堂の絵画である『キリスト昇架』と『キリスト降架』の作者はルーベンスで、ネロが祈りを捧げていたアントウェルペン大聖堂のマリアも、ルーベンスが描いた『聖母被昇天』である<ref>{{cite web
| title = 「フランダースの犬」に出てくるルーベンス作品
| publisher =《「フランダースの犬」情報センター》
| url = http://www.a-dog-of-flanders.org/8-2-0.html
| accessdate = 2012-10-25 }}</ref>。

<!-- 【重複説明につき訳出せず】===Workshop===
Paintings can be divided into three categories: those he painted by himself, those he painted in part (mainly hands and faces), and those he only supervised. He had, as was usual at the time, a large workshop with many apprentices and students, some of whom, such as [[Anthony Van Dyck]], became famous in their own right. He also often sub-contracted elements such as animals or [[still-life]] in large compositions to specialists such as [[Frans Snyders]], or other artists such as [[Jacob Jordaens]].-->
2002年7月10日に[[サザビーズ]]で開催されたオークションで、新たにルーベンスの真作であると鑑定された『[[幼児虐殺 (ルーベンス)|幼児虐殺]]』が、4,950万ポンドで落札された<ref name=ctv>CTV television network: ''[http://www.ctv.ca/servlet/ArticleNews/story/CTVNews/1026525054058_144 Thomson family buyer of $117-million painting]'', July 13, 2002.</ref>。落札したのはカナダの第2代トムソンオブフリート男爵ケネス・ロイ・トムソンで、[[オールド・マスター]]の作品についた値段としては当時の最高額であった。
{{-}}
== 出典 ==
{{Reflist|2}}

== 参考文献 ==
* {{cite book
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| title = Rubens
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* Pauw-De Veen, Lydia de. "Rubens and the graphic arts." In: ''Connoisseur'' CXCV/786 (Aug 1977): 243–251.

== 関連文献 ==
* クリスティン・ローゼ・ベルキン([[高橋裕子 (美術史)|高橋裕子]]訳)『リュベンス』岩波書店 2003年
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== 外部リンク ==
==参考文献==
{{Commons category|Peter Paul Rubens}}
*クリスティン・ローゼ・ベルキン([[高橋裕子]]訳)『リュベンス』岩波書店 2003年
* [http://www.lalaragimov.com/research Rubens's palette and painting materials, with bibliography]
*[[中村俊春]]『ペーテル・パウル・ルーベンス 絵画と政治の間で』三元社 2006年
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*内藤秀夫『忍冬の葉陰で バロックの輝き P・P・ルーベンス』NATEC EDITION 2010年
* [http://www.guardian.co.uk/arts/features/story/0,11710,903646,00.html ''The Guardian'': Rubens]
* At the exhibition ''Drawings by Peter Paul Rubens'' in the Metropolitan Museum of Art (MET) of New-York 115 drawings of Pieter-Paul Rubens were on display in April 2005. [http://www.metmuseum.org/special/se_event.asp?OccurrenceId={ADA9FB86-5C39-42A0-8E1F-DDD00D319F70} The Metropolitan Museum of Art (New York)]
* [http://www.liverpoolmuseums.org.uk/walker/collections/17c/rubens.asp ''The Virgin and Child with St Elizabeth and the Child Baptist'' 1630-35]
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*[http://www.vlaamsekunstcollectie.be/index.aspx?local=en&p=themaspub&query=identifier=913&toppub=913&page=1 Rubens's ''Adoration of the Magi'', at "Flemish Art Collection", the official site of the three major museums in the Flemish Region of Belgium]
* [http://www.peterpaulrubens.org 290 of images by the artist, and more.]
*{{cite web |url=http://online.wsj.com/article/SB10001424052748703298004574459753201012282.html |title=The Art of Diplomacy - Review of "Master of Shadows: The Secret Diplomatic Career of the Painter Peter Paul Rubens"|author=Mark Lamster |date=10 October 2009 |publisher=Wall Street Journal | accessdate=2012-10-25}}
*[http://www.rubensonline.be RubensOnline]: a database with every Rubens painting in Flemish public collections and historical places [Dutch]
*[http://www.wilanow-palac.pl/madonna.html Madonna] at the Palace Museum in Wilanów


{{Authority control|LCCN=n/79/055561}}
==関連項目==
{{Commons|Peter Paul Rubens}}
* [[フランダースの犬]]
*[[肥満]]:肥満の体型の類型の一つに、彼の描いた裸婦のように全身にくまなく脂肪がついている体型を「ルーベンス型」という。


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[[zh:彼得·保羅·魯本斯]]
[[zh:彼得·保羅·魯本斯]]

2012年11月16日 (金) 05:02時点における版

ピーテル・パウル・ルーベンス
『自画像』(1623年)、オーストラリア国立美術館(キャンベラ)
本名 Peter Paul Rubens
誕生日 1577年6月28日
出生地 ヴェストファーレンジーゲン(現在のドイツ
死没年 1640年5月30日(1640-05-30)(62歳没)
死没地 スペイン領ネーデルラントアントウェルペン(現在のベルギー
国籍 ベルギー
運動・動向 バロック
芸術分野 絵画, 外交
影響を受けた
芸術家
ミケランジェロティツィアーノカラヴァッジョピーテル・ブリューゲル
影響を与えた
芸術家
ヴァトードラクロワ
テンプレートを表示

ピーテル・パウル・ルーベンス[1]: Peter Paul Rubens1577年6月28日 - 1640年5月30日)は、バロック期フランドル画家外交官祭壇画肖像画風景画、神話画や寓意画も含む歴史画など、様々なジャンルの絵画作品を残した。

ルーベンスはアントウェルペンで大規模な工房を経営し、生み出された作品はヨーロッパ中の貴族階級や収集家間でも高く評価されていた。またルーベンスは画家としてだけではなく、古典的知識を持つ人文主義学者、美術品収集家でもあり、さらに外交官としても活躍してスペイン王フェリペ4世とイングランド王チャールズ1世からナイト爵位を受けている。

欧州大学院大学の奨励金制度には、毎年著名な歴史上の人物の名前がつけられており、1976年から1977年の奨励金制度はピーテル・パウル・ルーベンスと名付けられた[2]

生涯

幼少期から青年期

『ルーベンスとイザベラ・ブラントの肖像』(1609年 - 1610年)
アルテ・ピナコテークミュンヘン
『すいかずらの木陰』『すいかずらの葉陰』などとも呼ばれるこの作品には、ルーベンスと最初の妻イザベラが描かれている。

ルーベンスは、ヤン・ルーベンスと妻マリアとの間に、ドイツのジーゲンで生まれた。父ヤンはプロテスタントカルヴァン主義者で、1568年にマリアとともにスペイン領ネーデルラント総督アルバ公フェルナンドのプロテスタント迫害のために、アントウェルペンからケルンへと逃れてきた夫婦だった。ヤンはオランダ総督オラニエ公ウィレム1世の二度目の妃アンナの法律顧問さらには愛人となり、1570年にジーゲンのアンナの宮廷へと居を移している。アンナの愛人であることが発覚して投獄されていたヤンだったが後に釈放され、1577年にマリアとの間にルーベンスが生まれた。その後1578年にヤン一家はケルンへと戻ったが、1587年にヤンは死去している。1589年にマリアはルーベンスとともに故郷のアントウェルペンへと移住し、ルーベンスはこの地でカトリック教徒として成長した。宗教的影響をルーベンスの作品の多くに見ることができ、後年のルーベンスはカトリックの改革運動である対抗宗教改革の影響を受けた絵画様式の主導者となっている[3]

ルーベンスはアントウェルペンで人文主義教育を受け、ラテン語と古典文学を学んだ。14歳ごろにアントウェルペン生まれの芸術家トビアス・フェルハーフト (en:Tobias Verhaeght) に弟子入りし、その後引き続いて当時のアントウェルペンの主要な画家だったアダム・ファン・ノールトとオットー・ファン・フェーン (en:Otto van Veen) に師事した[4]。ルーベンスの芸術家としての最初期の修行は、先人たちの作品の模倣、模写だった。手本となったのは、ルネサンス期のドイツ人芸術家ハンス・ホルバイン木版画、ルネサンス期のイタリア人画家ラファエロの作品を原画としたイタリア人版画家マルカントニオ・ライモンディの銅版画などである。ルーベンスは1598年に修業を終え、一人前の芸術家として芸術家ギルドの聖ルカ組合の一員となった[5]

イタリア時代(1600年 - 1608年)

『レルマ公騎馬像』(1603年)
プラド美術館マドリード
スペイン貴族レルマ公フランシスコ・ゴメス・デ・サンドバル・イ・ロハスの肖像画で、ルーベンスが最初にスペインを訪れたときの作品。

ルーベンスは1600年にイタリアへと向かった。最初に訪れたのはヴェネツィアで、ティツィアーノヴェロネーゼティントレットらの絵画を目にしている。その後マントヴァへ向かい、マントヴァ公ヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガの宮廷に迎えられた。ヴェロネーゼとティントレットの色彩感覚と作品構成は、当時のルーベンスの作品に即座に影響を与え、後年になって円熟期を迎えたルーベンスの作品にはティツィアーノからの大きな影響が見られる[6]

マントヴァ公からの金銭的援助を受けたルーベンスは、1601年にフィレンツェを経由してローマを訪れた。ローマでは古代ギリシア古代ローマの芸術作品に触れ、イタリア人芸術家たちの作品の模写に務めている。とくにヘレニズム様式の彫刻『ラオコーン像』や、イタリア・ルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロラファエロの作品がルーベンスに大きな影響を与えた[7]。また、当時のローマ画壇で最先端だった画家カラヴァッジョの作品が持つ高度な自然主義表現にも影響を受けた。後にカラヴァッジョの『キリストの埋葬 (en:The Entombment of Christ (Caravaggio))』の複製画を制作したほか、マントヴァ公からの依頼を受けて、現在はパリルーヴル美術館が所蔵するカラヴァッジョの『聖母の死 (en:Death of the Virgin (Caravaggio))』の買い付けも手配した[8]。また、アントウェルペンのドミニコ会修道院による、現在はウィーン美術史美術館が所蔵するカラヴァッジョの『ロザリオの聖母』の購入にも協力している。ルーベンスはこのローマ滞在時にサンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ聖堂 (en:Santa Croce in Gerusalemme) からの依頼で、最初の祭壇画『聖へレナと聖十字架』を完成させている。

『ヴァリチェッラの聖母』(1608年)
キエーザ・ヌオーヴァ(ローマ
キエーザ・ヌオーヴァ(サンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ聖堂)の主祭壇画。

ルーベンスは1603年に、マントヴァ公からスペイン王フェリペ3世への贈答品を携えた外交官としてスペインを訪れた。ルーベンスはこのスペイン滞在中に、先代のスペイン王フェリペ2世が収集したラファエロとティツィアーノの膨大な作品群を目にしている[9]。このスペイン滞在中にフェリペ3世の重臣レルマ公フランシスコ・ゴメス・デ・サンドバル・イ・ロハス (Duke of Lerma) を描いた『レルマ公騎馬像』には、ティツィアーノの傑作『カール5世騎馬像』などの作品からの影響が見られる。このスペイン訪問が、その後ルーベンスが果たしていく外交官としての最初の役目となった。

ルーベンスは1604年にイタリアへと帰還し、その後の4年間でマントヴァ、ジェノヴァ、ローマを転々とした。ルーベンスはこの時期に『ブリジーダ・スピノラ=ドリア侯爵夫人』などの肖像画を多数制作しており、マリア・ディ・アントーニオ・セッラ・パッラヴィチーニを描いた肖像画は、後世の画家アンソニー・ヴァン・ダイクジョシュア・レイノルズトマス・ゲインズバラらの作品にも影響を与えた[10]

1606年から1608年にかけてはほとんどの時期をローマで過ごした。このときに、ルーベンスが肖像画を描いたマリア・パッラヴィチーニの兄にあたる枢機卿ヤコポ・セッラの尽力もあって、当時ローマで新築された教会キエーザ・ヌオーヴァ(サンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ聖堂)の主祭壇画制作という重要な依頼を受けている。この祭壇画には、古のローマ教皇グレゴリウス1世とローマにちなむ聖人たちが、天使が掲げる聖母子の肖像を見つめている場面が描かれている。祭壇画の最初のヴァージョンは、現在グルノーブルの美術館が所蔵する、一枚のキャンバスに描かれたものだったが、間もなく3枚の石板に描き直したものに置き換えられた。現在もキエーザ・ヌオーヴァに安置されている、サンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラで起こったといわれる奇跡を描いたこの祭壇画は、重要な祝祭日にのみ銅製のカバーが外されて一般に公開されている[11]

イタリアでの経験は、その後もルーベンスの作品に影響を与え続けた。後年になってイタリアを離れてからも、イタリアの知人たちと多くの書簡を交わしており、イタリア名の「ピエトロ・パウロ・ルーベンス (Pietro Paolo Rubens)」として署名し、イタリアへ戻ることを強く望んでいることを書き綴っているが、ルーベンスのイタリア帰還が叶うことはなかった[12]

アントウェルペン時代(1609年 - 1621年)

『アケロオスの祝宴』(1615年頃)
メトロポリタン美術館ニューヨーク
ルーベンス(人物)とヤン・ブリューゲル (父)(風景、動物)との合作絵画

1608年に母マリアが病に倒れたことを聞いたルーベンスは、イタリアを離れてアントウェルペンへと戻ることを決めた。しかしながらマリアはルーベンスがアントウェルペンに戻る前に死去してしまった。母の病以外にルーベンスがアントウェルペンへと戻った理由の一つとして、当時ネーデルラント諸州とスペインとの間で勃発していた八十年戦争が、1609年4月の停戦協定 (en:Treaty of Antwerp (1609)) の発行によって12年間の休戦期 (en:Twelve Years' Truce) がもたらされたことがあげられる。この停戦協定によって当時のアントウェルペンは新たな隆盛を見せ始めていたのである。1609年9月にルーベンスは、スペイン領ネーデルラント君主のオーストリア大公アルブレヒト7世と大公妃でスペイン王女のイサベル宮廷画家に迎えられた。当時アルブレヒト7世の宮廷が置かれていたブリュッセルではなく、アントウェルペンに工房を設置することを特別に許可されたルーベンスは、宮廷からの作品制作依頼だけではなく、他の顧客からの制作依頼も受けていた。1633年に大公妃イサベルが死去するまで、ルーベンスとイサベルの信頼関係は深く、ルーベンスは画家としてのみならず特使や外交官の役割もこなすようになっていた。ルーベンスは1609年10月3日にアントウェルペンの有力者ヤン・ブラントの娘イザベラ (en:Isabella Brant) と結婚している。

1610年にルーベンスは自身がデザインした新居に移り住んだ。現在では博物館として使われている、アントウェルペン中心部に位置するこのルーベンスの家 (en:Rubenshuis) はイタリア風の建築様式で建てられた邸宅(ヴィッラ)で、工房も併設されていた。弟子とともに幾多の絵画作品を制作する場所であると同時に、当時のアントウェルペンで最高級の私的美術品収蔵場所であり、同じく最高級の蔵書を誇る私的図書室でもあった。当時のルーベンスは多くの弟子と助手を抱えていた。ルーベンスの工房出身者でもっとも有名な芸術家になったのは、後年イングランドの宮廷画家となる若き日のアンソニー・ヴァン・ダイクである。ルーベンスの工房ですぐに頭角を現したヴァン・ダイクは、フランドルの肖像画家の第一人者となり、師のルーベンスと共同で絵画制作に当たることもよくあった。ルーベンスは、当時のアントウェルペンで活動していたほかの画家とも共同制作をすることがあり、動物画を得意としたフランス・スナイデルスや、自身の親友で花を得意としたヤン・ブリューゲル (父)らとの作品が現存している。

『キリスト昇架』(1610年 - 16011年)
聖母マリア大聖堂(アントウェルペン)

アントウェルペンの聖母マリア大聖堂 (en:Cathedral of Our Lady, Antwerp) の『キリスト昇架 (en:The Elevation of the Cross (Rubens))』(1610年)、『キリスト降架 (en:The Descent of the Cross (Rubens))』(1611年 - 1614年)のような祭壇画は、イタリアからの帰還して間もないルーベンスが、フランドルにおいても画家として第一人者であるという評価を確立するのにとくに重要な役割を果たした。例えば『キリスト昇架』は、ティントレットの『キリスト磔刑』の構成とミケランジェロの躍動感溢れる人体表現をルーベンス独自の作風で融合させた絵画となっており、バロック期宗教画の最高峰として高く評価されている作品である[13]

ルーベンスは絵画以外に版画や書物の装丁も手がけた。とくに友人でもあったバルタザール・モレトゥスが経営していた出版社 (Plantin-Moretus publishing house) から発行された版画が、ルーベンスの技量をヨーロッパ各地に広めることに貢献した。一対の美しい銅版画を例外として、ルーベンスは下絵を描くだけで、版画制作自体はルカス・フォルステルマン (en:Lucas Vorsterman) のような専門家に任せていた[14]。ルーベンスは当時を代表する版画家ヘンドリック・ホルツィウスのもとで修行した版画家を多く雇い入れている。また、ルーベンスは自身が関係した版画に関する版権を確立しており、とくに版画の複製が大量に行われていたホラントで複製版画の横行を抑制することに成功した。ルーベンスは後に、イングランド、フランス、スペインでも自身の作品に対する版権を認めさせることに成功している[15]

『マリー・ド・メディシスの生涯』と外交官としての活躍(1621年 - 1630年)

『王女の交換』(1622年 - 1625年)
ルーヴル美術館(パリ)
連作『マリー・ド・メディシスの生涯』の一点。左がマリー・ド・メディシスの長女でフランス王女エリザベート・ド・フランス、右がスペイン王女アナ・マリア・マウリシア

1621年にフランス王太后マリー・ド・メディシスが、パリリュクサンブール宮殿の装飾用に、自身の生涯と前フランス王で1610年に死去した夫アンリ4世の生涯とを記念する連作絵画2組の制作をルーベンスに依頼した。この依頼でルーベンスが描いたのが、現在ルーヴル美術館が所蔵する、24点の絵画からなる『マリー・ド・メディシスの生涯』で、1組目の連作が完成したのは1625年のことだった。ルーベンスはもう一組の連作の制作も開始していたが、こちらは最終的に未完のままに終わっている[16]。1630年にマリー・ド・メディシスは、息子のフランス王ルイ13世によって追放され、幼少期のルーベンスが暮らしていたケルンの邸宅で1642年に死去した[17]

1621年にネーデルラントとスペインとの12年間の休戦期が終わると、スペイン・ハプスブルク家の君主たちはルーベンスを外交的任務に重用し始めた[18]。1624年にフランスの大使がブリュッセルから送った書簡には「スペイン王女(イサベル・クララ・エウヘニアを指す)の命によって、ルーベンスがポーランド王子の肖像画を描きに来ている」と記されている。この書簡に書かれているポーランド王子ヴワディスワフ4世が、イサベルの私的な賓客としてブリュッセルを訪れたのは1624年9月2日のことだった[19][20]

1627年から1630年にかけての期間が、ルーベンスの外交的活動がもっとも激しかった時期である。ルーベンスはスペインとネーデルラントに平和をもたらすために、スペインとイングランドの王宮を何度も往復した。さらに、ルーベンスは画家、外交官両方の役割を担って、ネーデルラント北部を何度か訪れており、各地の宮廷で賓客として遇されている。ルーベンスが爵位を与えられたのもこの時期で、1624年にスペイン王フェリペ4世から、1630年にイングランド王チャールズ1世から、それぞれナイト爵を授かった。また、1629年にはケンブリッジ大学から美術修士号 (en:Master of Arts (Oxford, Cambridge and Dublin)) を授与されている[21]

『アダムとイヴ』(1628年 - 1629年)
プラド美術館マドリード
ティツィアーノが描いた『アダムとイヴ』をルーベンスが模写した作品。

ルーベンスは1628年から1629年にかけての8カ月間マドリードに滞在し、外交官としての職務だけでなく、スペイン王フェリペ4世らの依頼に応じて重要な絵画作品を制作した。イタリア時代にも目にしていた、スペイン王宮が所蔵していたティツィアーノの作品に改めて触れ、『アダムとイヴ』など、ティツィアーノの作品の模写を多く描いている[22]。また、ルーベンスは、フェリペ4世の宮廷画家としてマドリード王宮にいたディエゴ・ベラスケスと親交を持ち、翌年に二人でイタリアへと旅行する計画を立てた。しかしながらルーベンスはアントウェルペンに帰還することを余儀なくされ、結局ベラスケスは一人でイタリアを訪れている[23]

マドリードからアントウェルペンへ戻ったルーベンスだったが、すぐに別の任務を与えられてイングランドへと赴き、1630年4月までロンドンに滞在した。このロンドン滞在中に描いた重要な作品が『平和と戦争の寓意』(1629年、ナショナル・ギャラリー(ロンドン))である[24]。平和を希求するルーベンスの強い思いが描かれたこの作品は、イングランド王チャールズ1世に贈られた。

諸国の収集家や貴族階級間でのルーベンスの国際的な名声はますます高くなっていったが、ルーベンスとその工房では、アントウェルペンの後援者からの絵画注文もこなし続けていた。このような作品として、聖母マリア大聖堂の『聖母被昇天 (en:Assumption of the Virgin Mary (Rubens))』(1625年 - 1626年)などを好例として挙げることができる。

晩年(1630年 - 1640年)

『毛皮をまとったエレーヌ・フールマン』(1638年頃)
美術史美術館ウィーン
ルーベンスの二度目の妻エレーヌ・フールマン。当時25歳前後。

ルーベンスは最晩年に当たる10年間をアントウェルペンとその近隣で過ごしている。イングランドのホワイトホール宮殿の、建築家イニゴー・ジョーンズが設計したバンケティング・ハウスの天井画制作など外国からの注文は依然として多く、これらの仕事に忙殺されていたが、ルーベンスは自身の芸術の新境地を開きたいと考えていた。

最初の妻イザベラが死去した4年後の1630年に、当時53歳だったルーベンスは16歳のエレーヌ・フールマンと再婚した。エレーヌをモデルとした肉感的な女性像を、『ヴィーナスの饗宴』(1635年頃、美術史美術館(ウィーン))、『三美神』(1635年頃、プラド美術館マドリード))、『パリスの審判』(1639年頃、プラド美術館マドリード))など、以降のルーベンスの作品に多く見ることができる。スペイン王宮からの依頼で描かれた『パリスの審判』では、エレーヌはローマ神話の美神ヴィーナスとして描かれている。ルーベンスが私的に描いたエレーヌの肖像『毛皮をまとったエレーヌ・フールマン』、通称『小さな毛皮』は、『メディチ家のヴィーナス (en:Venus de' Medici)』 のような古代ギリシア彫刻に見られる「恥じらいのヴィーナス」のポーズで描かれている。

1635年にルーベンスはアントウェルペン郊外に土地を購入し、ここのステーン城、またはルーベンスの城 (Rubenskasteel) と呼ばれる邸宅で最晩年のほとんどをすごしている。この場所で描かれた風景画に『ステーン城の風景』(1636年頃、ナショナル・ギャラリー(ロンドン))、『畑から戻る農夫』(1637年頃、ピッティ美術館(フィレンツェ))などがある。また『フランドルの祝祭』(1630年頃、ルーヴル美術館(パリ))のような、ピーテル・ブリューゲルが得意としたフランドルの伝統的な風俗画も描いている。

慢性の通風を患っていたルーベンスは心不全で1640年5月30日に死去し、アントウェルペンの聖ヤーコプ教会に埋葬された。ルーベンスが残した子女は8人おり、そのうち3人がイザベラ、5人がエレーヌとの間に生まれた子供で、最年少の子供はルーベンス死去時に生後8カ月の乳児だった。

その他

幼児虐殺
オンタリオ美術館トロント

ルーベンスは多作の芸術家だった。顧客からの依頼で描いた作品の多くは宗教的題材の「歴史画」であり、神話や狩猟の場面が描かれているものもあった。また、自身や近親者などの肖像画、さらに晩年には風景画も描いている。その他には、タペストリや版画のデザイン、式典の装飾なども手掛けている。

現存するルーベンスの下絵は極めて力強い筆致で描かれているが、それほど精密なものではなく、下絵を描く際にインクやパステルではなく油彩を使用することが多かった。また、絵画作品の支持体を使用し続けた最後の著名な画家のひとりで、とくに遠距離を運搬する必要がある作品であれば、大規模な作品であっても板を支持体として使う場合が多かった。祭壇画であれば、経年変化などの問題を最小限にするために、支持体に石板を採用することもあった。

ルーベンスは肉感的でふくよかな女性を作品に描くことを好んだ。後世になってルーベンスが描いたような肢体の女性を「ルーベンス風」あるいは「ルーベンスの絵のようにふくよかな (Rubenesque )」と呼ぶことがあり、現代オランダ語ではこのような女性を意味する「Rubensiaans」という言葉が日常的に使用されている。

フランダースの犬』において、主人公のネロが見たがっていたアントウェルペン大聖堂の絵画である『キリスト昇架』と『キリスト降架』の作者はルーベンスで、ネロが祈りを捧げていたアントウェルペン大聖堂のマリアも、ルーベンスが描いた『聖母被昇天』である[25]

2002年7月10日にサザビーズで開催されたオークションで、新たにルーベンスの真作であると鑑定された『幼児虐殺』が、4,950万ポンドで落札された[26]。落札したのはカナダの第2代トムソンオブフリート男爵ケネス・ロイ・トムソンで、オールド・マスターの作品についた値段としては当時の最高額であった。

出典

  1. ^ 「ルーベンス」はドイツ語読みで、オランダ語では「リュベンス」と発音する。
  2. ^ Promotions and Patrons”. College of Europe. 2012年10月25日閲覧。
  3. ^ Belkin (1998): pp. 11 - 18.
  4. ^ Held (1983): 14–35.
  5. ^ Belkin (1998): pp. 22 - 38.
  6. ^ Belkin (1998): p. 42; 57.
  7. ^ Belkin (1998): pp. 52 - 57
  8. ^ Belkin (1998): p. 59.
  9. ^ Belkin (1998): pp. 71 - 73
  10. ^ Belkin (1998): p. 75.
  11. ^ Jaffé (1977): pp. 85 - 99; Belting (1994): pp. 484 - 490, 554 - 556.
  12. ^ Belkin (1998): p. 95.
  13. ^ Martin (1977): p. 109.
  14. ^ Pauw-De Veen (1977): pp. 243 - 251.
  15. ^ A Hyatt Mayor, Prints and People, Metropolitan Museum of Art/Princeton, 1971, no.427–32, ISBN 0-691-00326-2
  16. ^ Belkin (1998): p. 175; 192; Held (1975): pp. 218 - 233, esp. pp. 222 - 225.
  17. ^ Belkin (1998): pp. 173 - 175.
  18. ^ Belkin (1998): 199–228.
  19. ^ Peter Paul Rubens”. www.nndb.com. 2008年8月27日閲覧。
  20. ^ Polonica”. www.codart.nl. 2008年8月27日閲覧。
  21. ^ Belkin (1998): pp. 339 - 340
  22. ^ Belkin (1998): pp. 210 - 218.
  23. ^ Belkin (1998): pp. 217 - 218.
  24. ^ Minerva protects Pax from Mars ('Peace and War')”. The National Gallery. 2010年10月15日閲覧。
  25. ^ 「フランダースの犬」に出てくるルーベンス作品”. 《「フランダースの犬」情報センター》. 2012年10月25日閲覧。
  26. ^ CTV television network: Thomson family buyer of $117-million painting, July 13, 2002.

参考文献

  • Belkin, Kristin Lohse (1998). Rubens. Phaidon Press. ISBN 0-7148-3412-2 
  • Belting, Hans Edmund Jephcott訳 (1994). Likeness and Presence: A History of the Image before the Era of Art. University of Chicago Press. ISBN 0-226-04215-4. http://books.google.com/books?id=kuWm7jVWFiEC&printsec=frontcover&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false 
  • Held, Julius S. (1975) "On the Date and Function of Some Allegorical Sketches by Rubens." In: Journal of the Warburg and Courtauld Institutes. Vol. 38: 218–233.
  • Held, Julius S. (1983) "Thoughts on Rubens' Beginnings." In: Ringling Museum of Art Journal: 14–35. ISBN 0-916758-12-5.
  • Jaffé, Michael (1977). Rubens and Italy. Cornell University Press. ISBN 0-8014-1064-9 
  • Martin, John Rupert (1977). Baroque. HarperCollins. ISBN 0-06-430077-3 
  • Mayor, A. Hyatt (1971). Prints and People. Metropolitan Museum of Art/Princeton University Press. ISBN 0-691-00326-2 
  • Pauw-De Veen, Lydia de. "Rubens and the graphic arts." In: Connoisseur CXCV/786 (Aug 1977): 243–251.

関連文献

  • クリスティン・ローゼ・ベルキン(高橋裕子訳)『リュベンス』岩波書店 2003年
  • 中村俊春『ペーテル・パウル・ルーベンス 絵画と政治の間で』三元社 2006年
  • Alpers, Svetlana. The Making of Rubens. New Haven 1995.
  • Heinen, Ulrich, "Rubens zwischen Predigt und Kunst." Weimar 1996.
  • Büttner, Nils, Herr P. P. Rubens. Göttingen 2006.
  • Corpus Rubenianum Ludwig Burchard. An Illustrated Catalogue Raisonne of the Work of Peter Paul Rubens Based on the Material Assembled by the Late Dr. Ludwig Burchard in Twenty-Seven Parts, Edited by the Nationaal Centrum Voor de Plastische Kunsten Van de XVI en de XVII Eeuw.
  • Lilar, Suzanne, Le Couple (1963), Paris, Grasset; Reedited 1970, Bernard Grasset Coll. Diamant, 1972, Livre de Poche; 1982, Brussels, Les Éperonniers, ISBN 2-87132-193-0; Translated as Aspects of Love in Western Society in 1965, by and with a foreword by Jonathan Griffin, New York, McGraw-Hill, LC 65-19851.
  • Vlieghe, Hans, Flemish Art and Architecture 1585-1700, Yale University Press, Pelican History of Art, New Haven and London, 1998. ISBN 0-300-07038-1

外部リンク

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