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'''陸奥守'''(むつのかみ)は[[陸奥国]]の[[国司]]であり、行政・司法等、国務一切を総轄する長官で、定員は1名。従五位上相当の職。
'''陸奥守'''(むつのかみ)は[[陸奥国]]の[[国司]]であり、行政・司法等、国務一切を総轄する長官で、定員は1名。従五位上相当の職。


== 概要 ==
== 概要 ==

陸奥国の国府は現在の[[宮城県]][[多賀城市]]にあり、八世紀前半から国司が派遣されるようになった。当初は蝦夷対策の重責を担っていた。[[後醍醐天皇]]の時代には[[親王任国]]となっていた。
陸奥国の国府は現在の[[宮城県]][[多賀城市]]にあり、八世紀前半から国司が派遣されるようになった。当初は蝦夷対策の重責を担っていた。平安時代、陸奥国は66ヶ国中、日本の北限である東北地方一帯において、山形県・秋田県をのぞくすべてを含む広大な領域を有する大国であった。陸奥国は当時の朝廷の支配の及ぶ領域においては北限に接し、金山や良馬に恵まれる一方、朝廷の支配に属さない蝦夷と服従しながらもしばしば謀叛した蝦夷の俘囚らの勢力を平定する任務を帯びていた。また、東北一帯が陸奥国、出羽国と定められた後も服属しない蝦夷がいたため、陸奥国が青森県まですべてを領有しきれていなかった。
故にしばしば陸奥国には[[征夷大将軍]]や[[鎮守府将軍]]が派遣され、平定した地域には陸奥国府と並び鎮守府が置かれ、その長官たる鎮守府将軍は国司と同格とされた。
かような戦乱の伴う危険の高かった故に代々の陸奥守には清和源氏や桓武平氏など軍事貴族が任ぜられることが多く、また陸奥守が鎮守府将軍を兼ねる場合も少なくなかった。

その好例が河内源氏の棟梁 [[源頼義]]とその子、[[源義家]]である。頼義は源氏の始祖 [[源経基|経基王]]以来、父の代まて4代にわたり鎮守府将軍を歴任しており、蝦夷の俘囚長で奥六郡の支配者 [[安倍氏 (奥州)|安倍氏]]が国府に背いたため、これを平定するために陸奥守鎮守府将軍として派遣され、12年の歳月を経て平定した。これを[[前九年の役]]という。

その後は、しばらく陸奥は平穏であったが、依然として東北には陸奥国に編入しきれていない蝦夷の領域があり、頼義の遠縁にあたる[[大和源氏]]の[[源頼俊]]が[[清原氏]]の援軍を得て、青森北端までを制圧し、陸奥国府の威光が東北一帯まで及ぶようになった。この戦いを[[延久蝦夷合戦]]という。

その後、頼義の子で武勇の誉れ高い源義家も安倍氏の後に奥六郡の支配者となった[[清原氏]]の内紛に介入、これを鎮定し、武勲を挙げた。これを[[後三年の役]]という。

後三年の役が平定された後は、[[奥州藤原氏]]が奥羽一帯の実質的な支配者となり、陸奥国司は徴税官的側面が強くなった。三代 藤原秀衡は陸奥守鎮守府将軍の地位を得たが、敵対心を抱いた頼朝により免官運動がなされ、程なく免官されたという。

藤原秀衡の死後、奥州藤原氏は源頼朝に討たれ、鎌倉幕府が成立すると、陸奥守は[[北条氏]]や[[安達氏]]など有力御家人が務める栄職とされた。

鎌倉幕府滅亡後は、[[後醍醐天皇]]の時代には[[親王任国]]となっていたため、後の[[後村上天皇]]となる義良親王が陸奥国府に入り、[[北畠顕家]]が陸奥大介鎮守府大将軍を務めた。

戦国時代には、[[島津貴久]]や[[武田信虎]]などが任ぜられた。


== 近世 ==
== 近世 ==
[[伊達政宗]]以降、陸奥守の職は[[伊達家]]当主・[[仙台藩]]主に与えられるのが慣例となり、幕末まで続いた。
[[伊達政宗]]以降、陸奥守の職は[[伊達家]]当主・[[仙台藩]]主に与えられるのが慣例となり、代々[[伊達氏]]が世襲し幕末まで続いた。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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[[Category:東北地方の歴史|むつのかみ]]
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2007年5月4日 (金) 05:13時点における版

陸奥守(むつのかみ)は陸奥国国司であり、行政・司法等、国務一切を総轄する長官で、定員は1名。従五位上相当の職。

概要

陸奥国の国府は現在の宮城県多賀城市にあり、八世紀前半から国司が派遣されるようになった。当初は蝦夷対策の重責を担っていた。平安時代、陸奥国は66ヶ国中、日本の北限である東北地方一帯において、山形県・秋田県をのぞくすべてを含む広大な領域を有する大国であった。陸奥国は当時の朝廷の支配の及ぶ領域においては北限に接し、金山や良馬に恵まれる一方、朝廷の支配に属さない蝦夷と服従しながらもしばしば謀叛した蝦夷の俘囚らの勢力を平定する任務を帯びていた。また、東北一帯が陸奥国、出羽国と定められた後も服属しない蝦夷がいたため、陸奥国が青森県まですべてを領有しきれていなかった。 故にしばしば陸奥国には征夷大将軍鎮守府将軍が派遣され、平定した地域には陸奥国府と並び鎮守府が置かれ、その長官たる鎮守府将軍は国司と同格とされた。 かような戦乱の伴う危険の高かった故に代々の陸奥守には清和源氏や桓武平氏など軍事貴族が任ぜられることが多く、また陸奥守が鎮守府将軍を兼ねる場合も少なくなかった。

その好例が河内源氏の棟梁 源頼義とその子、源義家である。頼義は源氏の始祖 経基王以来、父の代まて4代にわたり鎮守府将軍を歴任しており、蝦夷の俘囚長で奥六郡の支配者 安倍氏が国府に背いたため、これを平定するために陸奥守鎮守府将軍として派遣され、12年の歳月を経て平定した。これを前九年の役という。

その後は、しばらく陸奥は平穏であったが、依然として東北には陸奥国に編入しきれていない蝦夷の領域があり、頼義の遠縁にあたる大和源氏源頼俊清原氏の援軍を得て、青森北端までを制圧し、陸奥国府の威光が東北一帯まで及ぶようになった。この戦いを延久蝦夷合戦という。

その後、頼義の子で武勇の誉れ高い源義家も安倍氏の後に奥六郡の支配者となった清原氏の内紛に介入、これを鎮定し、武勲を挙げた。これを後三年の役という。

後三年の役が平定された後は、奥州藤原氏が奥羽一帯の実質的な支配者となり、陸奥国司は徴税官的側面が強くなった。三代 藤原秀衡は陸奥守鎮守府将軍の地位を得たが、敵対心を抱いた頼朝により免官運動がなされ、程なく免官されたという。

藤原秀衡の死後、奥州藤原氏は源頼朝に討たれ、鎌倉幕府が成立すると、陸奥守は北条氏安達氏など有力御家人が務める栄職とされた。

鎌倉幕府滅亡後は、後醍醐天皇の時代には親王任国となっていたため、後の後村上天皇となる義良親王が陸奥国府に入り、北畠顕家が陸奥大介鎮守府大将軍を務めた。

戦国時代には、島津貴久武田信虎などが任ぜられた。

近世

伊達政宗以降、陸奥守の職は伊達家当主・仙台藩主に与えられるのが慣例となり、代々伊達氏が世襲し幕末まで続いた。

関連項目