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ガロファロ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ガロファロ
ガロファロ画『幼子イエスの眠り』
ルーヴル美術館所蔵
生誕 Benvenuto Tisi da Garofalo
1481年
フェラーラ
死没 1559年9月6日
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ガロファロことベンヴェヌート・ティシ・ダ・ガロファロベンヴェヌート・ティージ・ダ・ガローファロIl Garofalo or Benvenuto Tisi da Garofalo, 1481年 - 1559年9月6日)は、ルネサンス後期=マニエリスムイタリア画家フェラーラ派に属する。フェラーラ公国エステ家宮廷に仕えることから画家としてのスタートを切った。初期の作品は牧歌的な作風だったが、芸術的に洗練されたフェラーラ宮廷のお気に召すよう、複雑な奇をてらった表現を狙いもした。

生涯

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ガロファロはフェラーラに生まれた。ドメニコ・パネッティ(en:Domenico Panetti)の下で徒弟をしていたと言われ、もしかするとロレンツォ・コスタのところにもいたかもしれない。ドッソ・ドッシとは同世代で合作することもたまにあった。1495年ボッカチオ・ボッカチーノen:Boccaccio Boccaccino)について、クレモナで仕事をした。ボッカチーノはガロファロにヴェネツィア派の彩色法の手ほどきをした。1509年から1512年までの3年間を、ガロファロはローマで過ごした。その時に、ジュリオ・ロマーノの影響で、古典的様式を身につけるに至った。

フェラーラ人紳士ジェローニモ・セグラートに招かれて再びローマに行き、ラファエロの下でバチカン宮殿の「署名の間」の装飾の仕事をした。家庭の事情でフェラーラに戻ると、アルフォンソ1世・デステから絵の依頼があり、Delizia di Belriguardoなどの宮殿を、ドッシと共に手掛けた。そこでガロファロはロンバルディア派ローマ派ヴェネツィア派の手法も身につけることになった。

ガロファロはフェラーラのいたるところで、油彩画、フレスコ画を描いた。その中には、サ・フランチェスコ教会にある『幼児虐殺』(1519年)、そして傑作『キリストへの裏切り』(1524年)も混じっている。前者を描くにあたっては、勉強のために粘土の人形を作った。1550年に失明するまで、ガロファロはコンスタントに仕事を続けた。祝日にも神への愛を示すため修道院で絵を描いた。結婚したのは48歳で、2人の子供をもうけた。1559年9月6日(もしくは16日)、その子らを残して、ガロファロはフェラーラで世を去った。

ジュリオ・ロマーノジョルジョーネティツィアーノルドヴィーコ・アリオストとは友達だった。『楽園』という絵の中でガロファロは聖カタリーナと聖聖セバスティアヌスの間にアリオストを描いている。若い時分にはリュートをたしなみ、フェンシングにも興じた。フェラーラの画家の中では最高のランクに入っていた。弟子の中にはジローラモ・ダ・カルピがいる。

円熟した作品とその評価

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ガロファロはとてもくだけた精細装飾を組み合わせて、聖なる作品を作った。作品のいくつかはラファエロと相似(時にはかなり)しているものの、方法論でははっきりと区別するに足る、鮮やかな色を使った、古風な様式だった。しかし、ガロファロの作品が感覚・方法とも小綺麗な狭さから脱することは滅多になかった。

ガロファロのけっして成功とは言えない作品でも、その冷たく陶器のように堅い質感の中には、ヴェネツィア派の彩色の痕跡を残す調和が保持されている。若い頃の作品でいうと、パラッツォ・シアッラにある『猪狩り』がその良い例である。後の作品では、ローマのパラッツォ・コロンナ(en:Palazzo Colonna)にある『騎士の行進』など、オランダの画家・カイプ(父:ヤーコプ・カイプ、子:アルベルト・カイプ)をイタリア風にした風情がある。カイプに較べて、よりロマンチックで洗練されている。

ガロファロの初期の作品には、先述した『猪狩り』の他に、ヴェネツィア美術アカデミーに、傑作の一つ『群衆の中の4人の聖者と聖母』(1518年)がある。ミラノブレラ美術館にある『ピエタ』(1527年)はますます様式化されていく処理の仕方を見ることができる。モデナ・ギャラリーの『聖母』(1532年)はうっとりするような作品である。他にも、フェラーラの図書館に『信仰の勝利』がある。

また、ガロファロは、ジョルジョ・ヴァザーリの『画家・彫刻家・建築家列伝』に紹介された画家の一人である。

代表作

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  • 『聖母子』(1510年)ミラノ、Galleria d'Arte Studiolo[1]
  • 『聖家族』 アンジェ美術館 [2]
  • 『子供の崇拝』(1508年 - 1509年)フェラーラ国立絵画館
  • 『ネプトゥヌスとパラス』(1512年)ドレスデン・アート・ギャラリー[3]
  • 『雲の聖母』(1514年)フェラーラ国立絵画館
  • 『天蓋の聖母』(1517年)ナショナル・ギャラリー (ロンドン)
  • 『幼児虐殺』(1519年)フェラーラ国立絵画館
  • 『柱の聖母』(1523年)フェラーラ国立絵画館
  • 『聖母戴冠』(1524年)フェラータ大聖堂
  • 『栄光の聖母』(1532年)ローマ、カピトリーノ美術館
  • 『聖セバスティアヌス』 ナポリカポディモンテ美術館[4]
  • 『聖母戴冠』 [5]
  • 『受胎告知』(1528年)ローマ、カピトリーノ美術館[6]
  • 『聖母戴冠』(1532年)モデナ
  • 『ラザロの蘇生』(1534年)フェラーラ国立絵画館
  • 『キリストの洗足』 ナショナル・ギャラリー (ワシントン)[7]
  • 『洗礼者ヨハネの祝福』(1542年)ボローニャ、サン・サルバトーレ
  • 『受胎告知』(1550年)ミラノ、ブレラ美術館
  • 『聖ドミニクとシエナの聖カタリーナと聖母子』(1500年頃 - 1505年)ナショナル・ギャラリー (ロンドン)[8]
  • 『アキテーヌの聖ウィリアム、聖クレア、パドヴァの聖アントニオ、聖フランチェスコと聖母』(1517年 - 1518年)ナショナル・ギャラリー (ロンドン)[9]
  • 『異教徒の生贄』(1526年)ナショナル・ギャラリー (ロンドン)[10]
  • 『洗礼者聖ヨハネ、聖エリザベト、聖ザカリアス、聖フランチェスコ(?)と聖家族』(1520年)ナショナル・ギャラリー (ロンドン)[11]
  • 『アレクサンドリアの聖カタリーナ』(1515年頃 - 1530年)ナショナル・ギャラリー (ロンドン)[12]
  • 『ゲッセマネの祈り』(1520年代 - 1530年代)ナショナル・ギャラリー (ロンドン)[13]
  • 『聖アウグスティヌスの幻視』(1518年頃)ナショナル・ギャラリー (ロンドン)[14]
  • 『愛の寓意』(1527年頃 - 1539年)ナショナル・ギャラリー (ロンドン)[15]
  • 『キリストとサマリアの女(1536年)[16]
  • 『聖ヨハネ、聖エリザベトと聖母』 ロンドン、コートールド・ギャラリー [17]
  • 『果樹園のイエス』 [18]
  • 『バッカスの勝利』(ラファエロの1517年の未完成スケッチをガロファロが1540年に完成させたもの)ドレスデンアルテ・マイスター絵画館
  • 『聖家族』[19]
  • 『マルス、ウェヌスとクピド』 クラクフ、ヴァヴェル城

参考文献

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  •  この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Tisio, Benvenuto". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 26 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 1014.
  • Freedberg, Sydney J. (1993). Pelican History of Art. ed. Painting in Italy, 1500-1600. Penguin Books 
  • Francis P. Smyth and John P. O'Neill (Editors in Chief) (1986). National Gallery of Art, Washington DC. ed. The Age of Correggio and the Carracci: Emilian Painting of the 16th and 17th Centuries. pp. 141-43 
  • Dosso Dossi, Garofalo, and the Costabili Polyptych: Imaging Spiritual Authority The Art Bulletin, June, 2000 by Giancarlo Fiorenza

外部リンク

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