片山一男
片山 一男(かたやま かずお、1892年(明治25年)3月7日[1][2][3] - 1953年(昭和28年)12月27日[1][2][4])は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・河本。
経歴
[編集]岡山県[4]久米北条郡大井西村[1]坪井下[3](久米郡大井西村[2][5][6]、大井町、久米町[2]を経て現津山市坪井下)で、素封家・河本芳太郎の長男として生れ、同村の親族、医師・片山恒四郎の養子となる[1][2][3][注釈 1][注釈 2]。三宮電信局通信書記補を経て[4][5][6]、実業家を目ざして同郷の西山和三郎の秘書となり[1]、久米銀行千代支店長、山陽銀行千代支店長、同落合支店長、津山土地支配人、東京小松川土地建物常務取締役などを務めて成功をおさめ[1][4][6]、岡山土地倉庫常務取締役、東京平井三業社長、宇部燃料工業社長、津山土地取締役、中国住宅取締役などを務めた[5][6]。
政界では大井西村会議員に選出され、1931年(昭和6年)岡山県会議員に当選し2期在任して同参事会員も務めた[1][2][4][5]。1936年(昭和11年)2月、第19回衆議院議員総選挙に岡山県第1区から立憲民政党公認、同党小川郷太郎の腹心として出馬し初当選したが[1][2][7]、同年4月、選挙買収容疑で起訴され、のちに有罪となり第20回総選挙には立候補できなかった[1][8]。1942年(昭和17年)4月、第21回総選挙で翼賛政治体制協議会の推薦を受け岡山県第1区から出馬して当選し[1][2][9][10]、衆議院議員に通算2期在任[4]。この間、翼賛政治会政調商工委員、同大蔵兼務委員などを務め[5]、その後、日本進歩党に所属した[4]。戦後、公職追放となった[1][11]。
1931年(昭和11年)丸善石油(現コスモ石油)の製油所新設計画の政治工作に係わり、同社に入社し取締役、社長を歴任[1][12]。その他、鉱油輸入販売取締役社長、鶴見油脂代表取締役、丸善商事取締役、石油共販取締役などに在任した[4][5]。公職追放で丸善石油社長を退任[12]。追放解除後、政界に復帰を目指したが1950年(昭和25年)に高血圧で倒れて断念[1][13]。丸善石油に会長として復帰したが[2]、1953年12月に狭心症のため急死した[1][13]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『岡山県歴史人物事典』297頁。
- ^ a b c d e f g h i 『岡山県大百科事典 上』616頁。
- ^ a b c 『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』232頁。
- ^ a b c d e f g h 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』174頁。
- ^ a b c d e f 『翼賛議員銘鑑』107頁。
- ^ a b c d 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』127頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第19回』433頁。
- ^ 『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』234-235頁。
- ^ 『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』235頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第21回』425頁。
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、一般該当者名簿223頁。公職追放の該当事項は「推薦議員」。
- ^ a b 『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』235頁。
- ^ a b 『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』236頁。
参考文献
[編集]- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第19回』衆議院事務局、1936年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 『翼賛議員銘鑑』議会新聞社、1943年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第21回』衆議院事務局、1943年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 上』人事興信所、1943年。
- 山陽新聞社編『昭和の岡山 政治と人と 上(戦前・戦中編)』山陽新聞社、1979年。
- 『岡山県大百科事典 上』山陽新聞社、1980年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『岡山県歴史人物事典』山陽新聞社、1994年。