熊谷直時

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熊谷 直時(くまがい なおとき、建保5年(1217年) - 弘安3年5月25日1280年))は鎌倉時代御家人安芸国熊谷氏初代当主。父は熊谷直国[1]。子に熊谷直久[1](なおひさ)、熊谷直高[1]熊谷直基[1](なおもと)。弟は熊谷祐直[1]幼名千乕丸・千虎[1]・千虎丸[1]・千虎法師[1]。通称二郎三郎[1]、左衛門次郎[1]、平内左衛門二郎[1]、法名西忍[1]。妻は大叔父・熊谷直勝(なおかつ)の娘。官途は図書介・図書助[1]

生涯[編集]

父の直国は1221年承久の乱における宇治川の戦いで討死したが、その戦功を賞されて、同年9月に執権北条義時により、安芸国三入荘を与えられた。翌1222年(貞応元年)には三入荘に入部し、所領の北端に近い場所に伊勢ヶ坪城を築いて、本拠と定めた。

1234年(文暦元年)、母の吉見尼の計らいによって、直時の所領であった西熊谷郷と三入荘の1/3を幕府の命令によって、弟で熊谷直勝の養子となっていた弟の熊谷祐直に譲る事態となった。この事件で、安芸国の熊谷氏は本庄系熊谷氏、新庄系熊谷氏の二派に別れるに至った(熊谷家文書第15号)。

また、熊谷祐直は早速三入荘に下向し、桐原に新山城を築いて居城とした。1235年(嘉禎元年)に、鎌倉幕府の命により、安芸国の厳島神主家当主・藤原親実が熊谷氏の所領を調査して、「安芸三入庄地頭得文田畠等配分注文」を幕府に提出し、六波羅探題北条時房北条泰時の連署承認がなされたが、この書類が非常に雑なものであったため、この兄弟の所領争いを激化させた。争いはその後も続き、最終的に1264年(文永元年)まで、所領の論争は続くこととなった。

1280年(弘安3年)、武蔵国熊谷郷にて病死した。享年73[1]

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 今井尭ほか編 1984, p. 335.

参考文献[編集]

参考資料[編集]

  • 熊谷家文書

関連項目[編集]