烏碣岩の戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ウラ・グルンの戦役
万暦35(1607):烏碣岩の戦
万暦36(1608):宜罕山の戦
万暦40(1612):烏拉河の戦
万暦41(1613):烏拉城の戦
そのほか関聯する戦役
天命07 (1622):「洪匡失国

烏碣岩の戦(ウケツガンのたたかい)は、万暦35年農暦1月末から2月初にかけて烏碣岩で行われたマンジュ・グルン (満洲国)ウラ・グルン (烏拉国)との間の戦役。

李朝史上では門岩之敗[1]文岩大敗[1]とも呼ばれる。ウラに従属していた東海女真のツェムテヘ[2]が従属先のマンジュ・グルンへの鞍替えを希望した為、マンジュ軍がその領民の保護と移送に向ったが、移送阻止を図るウラ軍と烏碣岩で鉢合わせした。ウラは将帥が戦死したことで大敗を喫し、勢力縮小を余儀なくされた。

背景[編集]

吉林師範大学客員教授・趙東昇は自身の著書 (『扈伦研究』『乌拉国简史』) において、以下のように指摘する。

万暦21 (1593) 年の古勒山戦役で大敗した結果、マンジュで囚われの身となっていたブジャンタイは、三年経った万暦24 (1597) 年、ようやくウラに帰還して国主に即位したが、復讐心を抑えつつヌルハチ居城ヘトゥアラを訪れ、国境を遵守し互いに侵犯せず、亡命者を受け入れず、という原則に基づき (表向きの) 盟約を結んだ。[3]

ブジャンタイはこれ以後、東北方面に力を注ぎ、10年足らずで東は豆満江、北はアムール (黒龍) 江、西は現吉林省松原市前ゴルロス自治県県境、東北は海浜地区まで領土を拡げた。[3]東海諸部の天然資源はその頃のウラにとって已に貴重な経済収入源であり、対明貿易もウラの壟断的状況下にあった。[4]

同じ時期、マンジュは遼東地区全域にまで勢力を拡大し、東海諸部真珠黒貂 (くろテン) の毛皮など稀少な天然資源の利権を求めて北へ領土拡大を急いでいた。しかし上述の通り、同地区は已にウラ・グルンの勢力圏内であり、ウラ属下の多数の部落がマンジュの行手を阻んでいた。[3]

経過[編集]

図1
図:「揚古利戰退烏拉兵」

寝返り[編集]

万暦35 (1607) 年の旧暦1月[5][6]東海ワルカ部のフィオ・ホトン (城)[7](現吉林省琿春市三家子満族郷古城村)[8]城主・ツェムテヘ[2]は、建州部入りして太祖ヌルハチに謁見、ウラ国主・ブジャンタイの苦虐を訴え、建州部への鞍替えを希望した。(一説には、長距離輸送の問題で大量の珍珠や紫貂などを持て余していたところへ、ヌルハチから高価買取りの打診があり、一族領民挙げての鞍替えに至ったとも。)[4]ヌルハチは弟のシュルハチ (舒爾哈斉)、長子の褚英[9]、次子の代善の三ベイレと、大将[10](大臣[5]) のグヮルギャ氏フュンドン、侍衛[5]の扈爾漢、揚古利[6]らに命じ、兵3,000を率いてフィオ[7]領民の保護、移送に向わせた。なお、ヌルハチはブジャンタイを捕虜の身から解放してウラ国主に即位させた後、両国間で投降民の収容を禁止する取り決めを締結していた。[4]

出動した日の夜、纛[11](軍旗) の上に突如白い光[12]が閃耀し、驚いた建州軍一行が手で振り払うと光は消えてしまった。シュルハチは内心この出兵を不当と考え進軍を躊躇していたが、[4]折しも軍旗の上に現れた白い光を凶兆と看做し[13][14]、撤退を主張した。しかし褚英[9]と代善を翻意させるには至らず、二人は今更引き返すなど言語道断[15][16]と進軍を強行した。

移送開始[編集]

フィオ・ホトン[7]に到着した建州軍一行は、城周辺の村落約500戸を保護し、先行隊としてフュンドン[17]と扈爾漢に兵300をつけ領民を護送させた。[18]先行隊を見送った建州軍はフィオ・ホトン[7]に火を放ち、城内外の一切を焼き払ってその地を後にした。[4][19]

出発した先行隊は、豆満江江畔、李朝との国境沿いに在る鍾城近くの烏碣岩 (現朝鮮人民民主主義共和国咸鏡北道一帯) に至って、[20]兵10,000を擁するウラ国の妨害に遭遇した。ブジャンタイには義父でもあるヌルハチと事を構える気はなく、ツェムテヘ[2]を捉えて訊問する為に、叔父・ボクド、従兄・常住[21]、従弟・胡里布[22]らを派遣したのであった。[4][23]扈爾漢は情況を察知するや、領民500戸を山の嶺に固め、兵100人を割いて護衛に当たらせた上で、伝令を後続部隊の諸ベイレに派遣、残りの兵200を整えて山中に配置し、同じく山中に陣を取った[18]ウラ軍と対峙しながら夜を明かした。[24]

図:「洪巴圖魯代善貝勒敗烏拉兵」

戦闘開始[編集]

翌日、ウラ兵10,000が攻勢に出たものの、大将・揚古利の隊が駆け着けウラ兵7名を誅殺 (建州軍は負傷1名)[25][26]、怯んだウラ兵は河を渡って山中へ退却し、動静のないまま両軍の対峙が続いた。同日昼過ぎ[27][28][29]、建州軍の三ベイレが揃って戦地入りしたが、褚英[9]と代善はウラの大軍をみて憤怒し、兵を鼓舞[30][31]してウラ軍の許へ河を渡った。

褚英[9]と代善は各々兵500を率いて二手に分かれ、[32]山を登りウラの兵営を挟撃した。[33]ウラ軍の将帥・ボクドは追撃する代善に冑を捕まれて斬殺され、将帥を失い大混乱に陥ったウラ兵は武器や馬を棄てて倉皇と逃げ惑ったが、[34][35]晴れ渡った空が瞬く間に曇り出して大雪に変わると、負傷した多数の逃亡兵らが凍死した。[36]ボクドの子も戦死、[37]常住[21]父子と胡里布[22]は捕縛、ウラ兵の戦死者は3,000にのぼり、建州軍は馬5,000匹と甲冑3,000を鹵獲した。

当初山麓で遅れをとっていた兵500を擁するシュルハチ軍は、敗走兵を追撃するにあたり俄然進軍を開始したものの、聳え立つ山に進路を阻まれ、廻り道をしたことで首級を上げるには至らなかった。[38]常書と納斉布の二将軍は、兵100人を連れてシュルハチと一所に止まり、敵討滅に向わなかった為にヌルハチの怒りを買った。シュルハチの懇請により、常書は銀百両、納斉布は領民の没収を言い渡され、死罪を免れた。[39]

影響[編集]

戦いに敗れたウラ国は豆満江流域への影響力を喪失した。大部分の東海女真がなおもウラ国に従属しているとは言え、建州部が東海各部に続く要路を切り拓いたことで、この後、ウェジ (窩集) 部クルカ (庫爾喀) 部などがヌルハチ一連の征討と懐柔を受けて次第に建州部の支配下に組み込まれ、建州部の兵源へと変貌していく。[4]また、シュルハチと常書、納斉布の二将軍は、実際は山上で進軍を止め傍観策を採ったともされ、[40]この時の行動が後に兄・ヌルハチとの決裂を招く要因となった。[41]

余話[編集]

ダイシャンの昆孫にあたる昭槤は著書『嘯亭雜錄』巻8「禮烈親王纛」において以下のように述懐している。

先、烈親王同鄭莊親王、征輝發ホイファ,夜間大纛頓生光焰,鄭王欲凱旋。先烈王曰「焉知不爲破敵之吉兆也?」因整師進,卒滅其國。故、今余邸中、纛頂皆懸生鐵明鏡於其上,有異於他旗之纛,按定制,纛頂皆用銅火焰。蓋以誌瑞也。[42]

これは恐らく「輝發ホイファ」ではなく「烏拉ウラ」の誤りで、「烏碣岩の戦」の戦いを指しているものと思われる。「烈親王」はヌルハチの子・代善ダイシャン、「鄭莊親王」はヌルハチの弟シュルハチのこと。同氏は自身の邸宅に飾られている纛 (軍旗) の尖端はどれも「生鐵明鏡」が懸かっていたらしく、この戦闘の勝利に肖って敢えて通常の「銅火焔」とは違う意匠にしたのだろうと推測している。

脚註・参照元[編集]

  1. ^ a b “太祖朝”. 清朝通史. 2. 紫禁城出版社. p. 72 
  2. ^ a b c Ts'emtehe:策穆特黑 (『清史稿』巻223)、策穆特赫(『滿洲實錄』,『欽定盛京通志』)。
  3. ^ a b c ““扈伦轶事”-‘布占泰的传说’-‘4. 汗王背约,乌碣岩之战’”. 扈伦研究. 未詳. pp. 70-71 
  4. ^ a b c d e f g 乌拉国简史. 中共永吉县委史办公室. pp. 65-72 
  5. ^ a b c “丁未年春正月”. 欽定盛京通志. 未詳. https://zh.m.wikisource.org/wiki/欽定盛京通志_(四庫全書本)/卷031#謁. "(1)丁未年春正月瓦爾喀部費優城長策穆特赫來朝告曰吾等因地方遙阻附烏拉烏拉貝勒布占泰遇吾等虐甚乞移家來附太祖命貝勒舒爾哈齊褚英代善大臣費英東侍衞扈爾漢率兵三千至費優城徙之……" 
  6. ^ a b “布佔泰”. 清史稿. 223. 未詳. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷223#布佔泰. "三十五年春正月,東海瓦爾喀部蜚悠城長策穆特黑謁太祖,自陳屬烏喇,為布佔泰所虐,乞移家來附。太祖命貝勒舒爾哈齊、褚英、代善率諸將費英東、扈爾漢、揚古利等以兵三千至蜚悠城,收環城屯寨五百戶,分兵三百授扈爾漢、揚古利護之先行。布佔泰使其叔博克多將萬人要諸途。日暮,扈爾漢依山結寨以相持。翌日,烏喇兵來攻,揚古利率兵擊敗之,烏喇兵引退,渡河陟山為固。褚英、代善等率後軍至,緣山奮擊,烏喇兵大敗,代善陣斬博克多。是日晝晦,雪,甚寒,烏喇兵死者甚眾,俘其將常住、胡里布等,斬三千級,獲馬五千、甲三千以還。" 
  7. ^ a b c d Fio hoton:蜚悠城 (『清史稿』巻223)、斐悠城 (『清史稿』巻216)、費優城 (『欽定盛京通志』)、斐優城 (『滿洲實錄』)。*「斐・蜚:fěi」、「費:fèi」、「悠・優:yōu」。hotonは「城」の意。
  8. ^ 满族姓氏寻根词典. 辽宁民族出版社. p. 438 
  9. ^ a b c d 洪・巴図魯 (『滿洲實錄』)とも。
  10. ^ “丁未年”. 滿洲實錄. 未詳. https://zh.wikisource.org/wiki/清實錄/滿洲實錄/卷三滿洲實錄. "(1)丁未年東海瓦爾喀部斐優城主策穆特赫謁太祖曰吾地與汗相距路遙故順烏拉國主布占泰貝勒彼甚苦虐吾輩望往接吾等眷屬以便來歸太祖令弟舒爾哈齊與長子洪巴圖魯貝勒次子代善貝勒與大将費英東扈爾漢等率兵三千往斐優城搬接……" 
  11. ^ “丁未年春正月”. 欽定盛京通志. 未詳. https://zh.m.wikisource.org/wiki/欽定盛京通志_(四庫全書本)/卷031#謁. "(2)……時夜陰晦軍中大纛之上有光眾爲異捫視無有復樹之光如初舒爾哈齊曰吾自幼從上征討所歷之地多矣未見此異其非吉兆耶欲還兵褚英代善曰或吉或兇兆已定吾等何所見而遽還將何以報命吾父邪遂决意前進……" 
  12. ^ “丁未年”. 滿洲實錄. 未詳. https://zh.wikisource.org/wiki/清實錄/滿洲實錄/卷三. "(2)……是夜陰晦忽見旗有白光一耀眾王大臣盡皆驚異以手摩之竟無所有之復然舒爾哈齊貝勒曰吾自幼隨征無處不到從未見此奇怪之事想必兇兆也欲班師洪巴圖魯代善二王曰或吉或兇兆已見矣果何據而遂欲回兵此兵一回吾父以後勿復用爾我矣言訖率兵強進……" 
  13. ^ 『滿洲實錄』「吾レ幼キ自リ隨ヒテ征シ、到ラザル處無ケレドモ、未ダ從テ此ノ奇怪之事ヲ見ズ。想フニ必ズ兇兆也。」(幼い頃から皇上に随い戦地を渡り歩いたが、このような不思議な現象は初めて見る。凶兆に違いない。)
  14. ^ 『欽定盛京通志』「吾レ幼キ自リ上ノ征討スルニ從ヒ、歷スル所之地多シ矣。未ダ此ノ異ヲ見ズ。其レ吉兆ニ非ズ耶。」(幼い頃から皇上に附き従って戦地を幾つも渡り歩いたが、この奇妙な現象はみたことがない。これは吉兆ではない。)
  15. ^ 『滿洲實錄』「或ヒハ吉、或ヒハ兇、兆已ニ見(アラハ)レリ。果シテ何ニカ據リテ遂ニ兵ヲ回(カヘ)サムト欲ス。此ノ兵一タビ回ラバ、吾ガ父以テ後、復タ爾ト我トヲ用ウルコト勿カラム矣」(吉でも凶でも、予兆は已に現れてしまっている。一体全体、どうして兵を退こうなどと考えるのか。一度退いて御覧なさい。父はもう二度とあなたも私も信用しようとは思わなくなるでしょう。)
  16. ^ 『欽定盛京通志』「或ヒハ吉、或ヒハ兇、兆已ニ定レリ。吾等何ノ見ル所ゾ遽カニ還將ス。何以ゾ吾ガ父ニ命ヲ報ヒム邪。」(吉でも凶でも兆は已に定っている。我が父に報告するのに何をみて俄に撤収したと言えばよいのだ。)
  17. ^ “丁未年”. 滿洲實錄. 未詳. https://zh.wikisource.org/wiki/清實錄/滿洲實錄/卷三. "(3)……至斐優城收四周屯寨約五百戶先令費英東扈爾漢領兵三百護送不意烏拉國布占泰發兵一萬截於路扈爾漢見之将五百戶眷屬紮營于山巓以兵百名看守一面馳報眾貝勒一面整兵二百佔山列營與敵兵相持經一夜……" 
  18. ^ a b “丁未年春正月”. 欽定盛京通志. 未詳. https://zh.m.wikisource.org/wiki/欽定盛京通志_(四庫全書本)/卷031#謁. "(3)……至費優城盡收環城屯寨凡五百戶令扈爾漢率兵三百護之先行布占泰發兵萬人邀諸路扈爾漢見之令五百戶結寨山巓以兵百人衞之使人馳告後隊諸貝勒是夕烏拉兵萬人我國扈爾漢兵僅二百人各據山一面結營相持……" 
  19. ^ 中国語版ではこれを旧暦1月末のこととしているが、典拠不明。
  20. ^ “太祖朝”. 清朝通史. 2. 紫禁城出版社. p. 69 
  21. ^ a b 常柱 (『清史稿』卷216)とも。
  22. ^ a b 瑚哩佈 (『欽定盛京通志』)、瑚哩布(『清史稿』卷216)とも。
  23. ^ 中国語版には「……建州军队行进至图们江畔朝鲜边境钟城附近的乌碣岩时与前来截击的乌拉军队相遇。当时大雪纷飞,……」とあり、建州軍の先行隊とウラ兵が鉢合わせした時に大雪が降っていたとあるが、大雪が降ったのは翌日で、鉢合わせした日は已に空が暮れていたため戦闘に至らなかった。参照:『清史稿』巻223「……是日晝晦,雪,甚寒……」、『欽定盛京通志』卷31「代善追及烏拉統兵貝勒博克多從馬上以手攫其胄而斬之時天氣晴明忽陰晦大雪寒洌」。
  24. ^ 中国語版ではこれを旧暦2月頭のこととしているが、典拠不明。
  25. ^ “丁未年”. 滿洲實錄. 未詳. https://zh.wikisource.org/wiki/清實錄/滿洲實錄/卷三. "(4)……次日烏拉兵來戰大将揚古利率眾奮力交鋒殺烏拉兵七人我兵止傷一人敵兵退回渡河登山畏懼無復敢來兩軍紮營相持是……" 
  26. ^ “丁未年春正月”. 欽定盛京通志. 未詳. https://zh.m.wikisource.org/wiki/欽定盛京通志_(四庫全書本)/卷031#謁. "(4)……翼日烏拉以萬人攻我二百兵我國大將揚古利馳至先衆奮擊斬烏拉兵七人我兵止傷一人烏拉兵退渡河登山畏懼不敢前兩軍相向駐營……" 
  27. ^ 未時(=14:00前後)(『滿洲實錄』)、日過午(=12:00前後)(『欽定盛京通志』)
  28. ^ “丁未年”. 滿洲實錄. 未詳. https://zh.wikisource.org/wiki/清實錄/滿洲實錄/卷三. "(5)……是日未時三王率兵齊至見之洪巴圖魯代善二王策馬奮怒曰吾父素善征討今雖在家吾二人領兵到此爾眾毋得憂懼布占泰曾被我國擒捉鐵索系頸免死而主其國年時未久布占泰猶然是人其性命從吾手中釋出豈天釋之耶爾勿以此兵爲多天助我國之威吾父英名夙著此戰必勝眾皆曰吾等願效死力遂奮勇渡河……" 
  29. ^ “丁未年春正月”. 欽定盛京通志. 未詳. https://zh.m.wikisource.org/wiki/欽定盛京通志_(四庫全書本)/卷031#謁. "(5)……日過午我國後隊諸貝勒兵悉至見烏拉兵衆褚英代善策馬而前諭衆曰吾父每有征伐無不摧堅陷敵今雖未親履行間而我等奉命來此爾衆何憂昔布占泰來侵我國我國擒而縛之吾父宥其死復豢養之歸主其國為時未久人猶是人魯從吾手而釋非有天幸得脱也今豈不能再縛之耶彼兵雖多我國荷天眷仗天威吾父威名夙著破敵兵必也衆軍士皆曰願効力遂渡河……" 
  30. ^ 『滿洲實錄』「吾ガ父素ヨリ善ク征討ス。今家ニ在(イマ)シ、吾二人兵ヲ領ヰテ此ニ到レリト雖モ、爾ガ眾、憂懼ヲ得ル毋レ。布占泰、曾テ我ガ國ニ擒捉セ被レ、鐵索デ頸ヲ系ギタレド、死ヲ免ジテ其國ノ主トシ、年時未ダ久カラズ。布占泰、猶然トシテ是レ人ナリ。其ノ性命吾ガ手中從リ釋シ出ダシタル、豈ニ天ノ之ヲ釋シタル耶。爾此ノ兵ヲ以テ多シト爲ス勿レ。天我ガ國之威ヲ助ケム。吾ガ父英名夙ニ著シ。此ノ戰必ズ勝ツ」(戦に秀でた父の代わりに今回は我ら二人が統帥にあたっているが、それでも懼れるなかれ。ブジャンタイは嘗て我が国の捕虜となりて後、死罪を赦されウラ国主に即位した。時も経ていないが、あやつは依然変わっていない。あやつの命は我らが見逃したのであり、天が赦したのではない。相手の数を多いと思うなかれ。天は我らに味方し、父の威光があれば、この戦負けるはずがない。)
  31. ^ 『欽定盛京通志』「吾ガ父征伐ノ有ル每ニ、堅ヲ摧カズ敵ヲ陷(オト)サザルハ無シ。今未ダ親ラ行(háng)間ヲ履マズ、我等命ヲ奉リ此ニ來リト雖モ、爾ガ衆、何ゾ憂ヘム。昔、布占泰來リテ我ガ國ヲ侵シ、我國擒ヘテ之ヲ縛リキ。吾ガ父其ノ死ヲ宥シ、復タ之ヲ豢養シ、歸シテ其ノ國ノ主トナシキ。為時未ダ久カラズ、人猶ホ是ノ人ノゴトシ。曾テ吾ガ手ニ從ヒテ釋セリ、天ノ幸有アリテ脱シ得タルニ非ズ也。今豈ニ再ビ之ヲ縛ルコト能ズ耶。彼ノ兵多シト雖モ、我國天眷ヲ荷シ、天威ニ仗シ、吾ガ父ノ威名夙ニ著シク、敵兵ヲ破ルハ必也」(我が父は戦となると負けたことはなかった。今回はこの場にいない。代わりに我ら二人が命を受けて統帥にあたっている。しかし案ずるなかれ。昔、ブジャンタイは我が国に侵攻し、却って捉えられたが、我が父の赦しを得、城で養われ、ウラに送還されて国主に即位した。あれから年月もそれほど経たず、あやつは依然あの時のまま変わらない。嘗ては我らの手により命を儲けたが、それは天が救った命ではない。今、どうして再びあやつを捉えることができないであろうか。相手の兵は多いが、我らは天が味方している。天と父の威光を恃めば、敵は必ずや破れよう。)
  32. ^ “丁未年春正月”. 欽定盛京通志. 未詳. https://zh.m.wikisource.org/wiki/欽定盛京通志_(四庫全書本)/卷031#天眷仗. "(6)……褚英代善各率兵五百分二路緣山奮擊烏拉兵大敗代善追及烏拉統兵貝勒博克多從馬上以手攫其胄而斬之……" 
  33. ^ “丁未年”. 滿洲實錄. 未詳. https://zh.wikisource.org/wiki/清實錄/滿洲實錄/卷三. "(6)……洪巴圖魯代善二王各領兵五百二路登山而戰直衝入營烏拉兵遂敗有博克多貝勒被代善王左手捉其盔頂殺之其子亦被殺生擒常住父子並胡裡布殺兵三千獲馬五千匹甲三千副……" 
  34. ^ 努尔哈赤传-正说清朝第一帝. 北京出版社. pp. 59-60 
  35. ^ “丁未年春正月”. 欽定盛京通志. 未詳. https://zh.m.wikisource.org/wiki/欽定盛京通志_(四庫全書本)/卷031#天眷仗. "(7)……時天氣晴明忽陰晦大雪寒洌被傷敵兵棄甲逃者僵仆甚衆……" 
  36. ^ “丁未年”. 滿洲實錄. 未詳. https://zh.wikisource.org/wiki/清實錄/滿洲實錄/卷三. "(8)……是日晴明霎然陰雲大雪其被傷敵兵凍死甚多……" 
  37. ^ “丁未年春正月”. 欽定盛京通志. 未詳. https://zh.m.wikisource.org/wiki/欽定盛京通志_(四庫全書本)/卷031#天眷仗. "(8)……是役也陣斬博克多及其子生擒貝勒常住與貝勒瑚哩佈斬三千級獲馬五千匹甲三千副……" 
  38. ^ “丁未年”. 滿洲實錄. 未詳. https://zh.wikisource.org/wiki/清實錄/滿洲實錄/卷三. "(7)……時追殺敗兵之際舒爾哈齊貝勒原率五百兵落後立於山下至是方驅兵前進又被大山所阻及繞山而來未得掩殺大敵……" 
  39. ^ “丁未年”. 滿洲實錄. 未詳. https://zh.wikisource.org/wiki/清實錄/滿洲實錄/卷三. "(9)……及班師太祖賜弟舒爾哈齊名爲達爾漢巴圖魯褚英奮勇當先賜名爲阿爾哈圖圖們代善與兄並力進戰殺博克多賜名爲古英巴圖魯常書納齊布二将負太祖所託不隨兩貝勒進戰破敵領兵百名與達爾漢貝勒立於一處因定以死罪達爾漢巴圖魯懇曰若殺二将即殺我也太祖乃宥其死罰常書銀百兩奪納齊布所屬人民" 
  40. ^ 中国語版より引用。典拠不明。
  41. ^ 努尔哈赤传-正说清朝第一帝. 北京出版社. p. 290 
  42. ^ “禮烈親王纛”. 嘯亭雜錄. 8. 不詳. https://zh.wikisource.org/wiki/嘯亭雜錄/卷八#禮烈親王纛 

参照文献・史料[編集]

實錄[編集]

  • 編者不詳『滿洲實錄』四庫全書, 1781 (漢) *中央研究院歴史語言研究所版

史書[編集]

研究書[編集]

  • 趙東升, 宋占荣『乌拉国简史』中共永吉県委史弁公室 (1992) (中国語)
  • 朱誠如『清朝通史』巻2「太祖朝」紫禁城出版社 (2002) (中国語)
  • 閻崇年『努尔哈赤传-正说清朝第一帝』北京出版社 (2006) (中国語)
  • 趙力『满族姓氏寻根词典』遼寧民族出版社 (2012) (中国語)

Webサイト[編集]