古勒山の戦

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太祖大敗九部兵
ヌルハチ (左上)、下半身裸で敗走するミンガン (右上)
戦闘地点 遼寧省撫順市新賓満族自治県上夾河鎮古楼村
戦闘時期 万暦21(1593)旧暦9月
戦闘国 マンジュ
統帥者
  • ヌルハチ
  • エイドゥ
死傷者数 4,000名 不詳
戦闘結果 敗北 戦捷

古勒山の戦 (コロク・ザンのたたかい/ グレ・イ・アリン-) は、イェヘ率いる九部連合軍とヌルハチ率いるマンジュ軍がグレの山[1]で衝突した明朝末期の戦役。

マンジュ・グルンとフルン (海西女真) 四部の間の力関係に変化が生じたことから、女真族統一の分岐点となったとされる。戦捷したヌルハチは「軍威大イニ震ヒ、(周辺国は) 遠キモ邇ちかキモ攝おそレ服したが[2]った。

前史[編集]

因縁の地[編集]

グレは、清朝太祖・ヌルハチの祖父・ギオチャンガと父・タクシが横死した因縁の地とされる。

ヌルハチの外(曽)祖父ともいわれる王杲は、建州兵を率いて屡々明朝の辺疆を侵犯したことから、明朝の忠臣であった初代ハダ国主・ワンにより執えられ、万暦帝に引き渡された後、磔死した。子・アタイはハダと明朝への恨みから、イェヘのヤンギヌらに投じて再び明朝辺疆を侵犯した。このアタイの居城がグレ・ホトンであり、アタイの妻はギオチャンガの孫娘 (リドゥンの娘) であった。

アタイに手を焼いていた明朝は、一気にけりをつけようとグレ・ホトンに侵攻し、ニカン・ワイランというトゥルン城主がその先導を買って出た。きな臭さを感じたヌルハチ祖父・ギオチャンガは、子・タクシを連れてグレ・ホトンへ向った。

明軍の李成梁はグレ・ホトン攻略に手こずり、中々陥落させられずにいた。そこでニカン・ワイランは城内にむかって、アタイを殺し、明軍に投降した者を次のグレ城主とすると叫び、敵兵を教唆した。野心をくすぐられたアタイの部下はその場でアタイを殺害し、続々と城外に出て投降したが、李成梁は待っていましたとばかりに片端からアタイの部下を皆殺しにした。

この時、城内ではギオチャンガとアタイの間でアタイの妻を巡って押し問答があった。アタイは妻と離れることを拒み、タクシは父・ギオチャンガが出てこないことに痺れを切らして城内に進入した。やがてニカン・ワイランの奸計でアタイが殺されると、城内にいたギオチャンガ父子も、どさくさに紛れて明軍に殺害された。

ヌルハチは経緯を知って慟哭し、明朝に抗議したものの、得られたのは慰めとばかりの家畜や銀と、「マンジュの王にニカン・ワイランを据える」という衝撃の発言であった。ヌルハチはここに明朝への復讐を決意し、僅かな腹心とともに挙兵した。

満洲建国[編集]

蜂起以来、建州部を統一し、1987年にマンジュ・グルン (満洲国)[3]を樹立したヌルハチは、当時のフルン (海西女真) にとっての脅威となっていた。万暦19 (1591) 年に領土割譲を求めて拒まれたイェヘ東城主・ナリムブルは、万暦21 (1593) 年6月にフルン聯合軍としてヌルハチ属領のフブチャ・ガシャンを襲撃した。しかしヌルハチが報復としてハダ属領のフルギヤチ・ガシャンを掠奪し、更に策略によってハダ国主・メンゲブルを撃退させたことで、ナリムブルの目論見はまたもや失敗におわった。(→「富爾佳斉大戦」)

顛末[編集]

九国聯合軍の動向[編集]

図:「羣鴉路阻兀里堪」

万暦21 (1593) 年9月25日[4]、フルギヤチ戦での敗戦に得心の行かないイェヘ国主・ブジャイナリムブルは、ハダ国主・メンゲブルウラ国主・ブジャンタイホイファ国主・バインダリ (以上、フルン四部) の外、蒙古ノン・ホルチン部ウンガダイ、マングス[5]、ミンガン[6]三ベイレ、シベ[7]部、グワルチャ[8]部、更に長白山のジュシェリ[9]路主・ユレンゲ[10]およびネイェン[11]路主・セオウェン[12]とセクシ[13]、これら九部 (九姓之国) を糾合し、計30,000の兵が三隊にわかれて進軍した。

噂を聞いたヌルハチはウリカン[14]に東路経由で偵察に行かせたが、ウリカンはヌルハチ居城から100里隔たった山の嶺で消魂しく鳴き喚くの大群に遭遇した。前進を試みれば飛び掛かって来る烏を不思議に思い、急ぎ帰還してヌルハチに報告すると、ヌルハチはジャカ[15]路から渾河へ向かうよう命じた。渾河北岸に着くや一面に瞬く灯火が目に入り、多数の敵兵が露営を張っていた[16]。敵兵は食事を終えると夜闇にまぎれてシャジ[17]嶺を越えていった。

ウリカンが帰還した時にはすでに午前二時[18][19]をすぎていた[20]。ヌルハチは報告を受けると、翌日出発することを各将軍に伝令させて就寝した。妻・グンダイ[21]はヌルハチが恐怖の余り現実逃避を始めたと思い込み[22]揺り起こしたが、ヌルハチは敵の到来が分かれば怖いこともない[23]、とまた寝入ってしまった。

ヌルハチ出兵[編集]

万暦21 (1593) 9月26日の暁、[24]食事を済ませたヌルハチは、ベイレ、大臣らを祖廟に集め、二度礼拝して祈祷した。祈祷を終えると兵を率いてトクソ[25]部落に至った。ヌルハチは機動性を考え、渡し場で兵に命じて頓項 (頸部の防具) と籠手を脱ぎ棄てさせた。[26]

ジャカに到着した一行は、ジャカ城のナイフ[27]、サンタン[28]という二人の守衛から、イェヘ軍の動向に就いて、午前八時頃[29]に到着しジャカ城を包囲したものの攻略できず、ヘジゲ城[30]に標的を易え大挙して進軍していった、と聞かされ、忽ちに色を失った。後から同じくジャカ城のラングタリ[31]という者が現れると、ヌルハチ軍の兵数を尋ね[32]ながら丘に登ってヌルハチ軍の兵を見渡し[33]、勝利を請け負って兵を鼓舞[34]した。ヌルハチは偵察を派遣すると、もし敵兵に撤退の動向があれば、この夜直ちに、然もなくば明朝を期して攻撃をしかけることを指示した。偵察兵が帰還すると、敵兵は正に兵営や防塁を設置し、食糧などを搬入していることが判明した為、ヌルハチも設営を始めた。

この夜、イェヘ軍の兵営から逃走し投降する者が一人あり、ヌルハチにイェヘ軍の動向を密告した。[35]それに拠ると、イェヘ軍で兵10,000、ハダウラホイファの三軍で兵10,000、蒙古ホルチン、シベ、グヮルチャの三軍で兵10,000、合計で兵30,000とわかり、ヌルハチの兵はまたもや色を失った。ヌルハチはそれに対し、烏合の衆は頭を一人二人討ち取れば自然に崩潰すると踏んで、天険に陣を張りそこに誘い込んで奇襲をかけるか、誘いに乗らない場合は四隊にわかれてやおら進軍すれば好いと考え、且つ兵たちには敵の頭目を狙うよう訓示した。

ヌルハチ挙兵[編集]

万暦21 (1593) 年9月27日の東雲、ヌルハチ率いる軍が挙兵した。イェヘ軍はヘジゲ城への攻撃を開始していたが、陥落には至っていなかった。イェヘ軍が再度ヘジゲ城に攻撃を開始したところに到着したヌルハチ軍は、ヘジゲ城へ向けてグレの山の天険に陣を張った。ヌルハチは部下にグサ (旗) 兵を率いて隊列を整え、待機するよう指示し、エイドゥ[36]バートルに兵100をつけて敵の挑発に向わせた。イェヘ軍はエイドゥをみるや城塞攻撃をやめて追撃を始めた。引き込まれたイェヘ軍がヌルハチ軍の迎撃で九人斬伐されると、イェヘ軍は一旦退却した。[37]

イェヘ国のブジャイとギンタイシ[38]、およびホルチン部の三ベイレが連携して攻撃をしかけ、ブジャイがエイドゥの挑発に乗って突入すると、[39]木に躓いた馬が転倒、[40]すかさず兵卒のウタン[41]が飛びかかり、ブジャイに跨り槍で一突き刺殺して首級をあげた。[42]

ブジャイの死に敵兵は慟哭、落胆し、[43]ベイレらは自らの兵も顧みず一目散に逃げ出した。ホルチン部のミンガンはこの時馬が泥濘に嵌り、慌てて鞍を外し、自らも来ていた物を全て脱ぎ去って、真裸で馬に跨り遁走した。[44]頭を失い混乱に陥った敵兵をヌルハチ軍が奇襲し、窪み[45]には敗残兵の死体が累々と重なった。ヌルハチはハダ国チャイハ[46]部落の南、ウェヘユウェン[47]にまで追撃し、夜、縄を張って道を封鎖すると、敗走を図る敵兵を捕らえ、殺戮した。[2][48]この戦役でヌルハチ軍は、首級4,000を挙げ、馬3,000、甲冑1,000を鹵獲した。[49]

余波[編集]

図:「太祖恩養布占泰」

古勒山の戦における九部聯合軍の惨敗の結果、建州部海西諸部の力関係に変化を来し、後の海西諸部滅亡につながった。ヌルハチはこの戦役で名を揚げ、軍威発揚によって遠方も近隣諸国も悉く従属させた。明朝により左都督正二品龍虎将軍に昇級されると、ヌルハチは自ら「女直国建州衛の夷人管束の主」と称した。

万暦21 (1593) 年9月28日、即ち古勒山の戦の翌日、兵卒がとある捕虜を殺そうとしたところ、贖罪の機会をくれと喚く為、ヌルハチの許へ連行した。ヌルハチが誰何すると、捕虜はウラ国主・マンタイの弟・ブジャンタイであると身分を明かした。命乞いをするブジャンタイをヌルハチは恕宥し、稀少な猞狸猻の皮衣を与えて、訓育することにした。ヌルハチはブジャンタイを時機をみてウラ国に返し、次期国主に即位させて、自分の支配下におこうと企図したが、この以降、ブジャンタイは屡々背盟を繰り返し、ヌルハチによりウラ・グルン (烏拉国) は討滅される。

万暦21 (1593) 年11月23日[50]、ヌルハチはグレ山での大勝利の余勢を駆って、九国聯合軍に参与した廉で満州長白山ジュシェリ路に進攻し、討滅した。部主のユレンゲ[51]らが捕縛され、領民ごと移住させられたことで実質的に帰順した。

同年12月23日[52]には、ヌルハチはエイドゥ、ガガイ[53]、安費揚古の三部将に兵1,000をつけ、同じく九国聯合軍に参与したネイェン路の居城であるフォドホ[54]の山城に進攻させた。日毎に攻撃させ、三箇月後の翌万暦22 (1594) 1月に路主・セオウェンとセクシを斬殺した。

更に初期に征服した鴨緑江部、長白山女真を統治圏に組み込むと、ヌルハチは挙兵より10年で、建州部周辺国を全て制圧し、最後に建州各部を統一して、後金を樹立することになる。

図:「三將圍攻佛多和山城」

比定地[編集]

2005年に現地調査を行った日本学術振興会の承・杉山両氏の報告書には、本戦役で重要とされる三つの地名、シャジ[17]、ヘジゲ[30]、グレの比定地について考察がなされている (以下抜粋)。

グレはサルフを経て撫順へと至る街道上に在り、山間を北へ渾河流域を経て進むとハダ、イェヘに至る要衝であることから、1560-70年代に蘇子河流域を席巻した王杲 (ヌルハチ外(曾)祖父)、アタイ父子は同地に居城を構えた。1574年、1583年と二度に亘って明朝武将・李成梁が王杲父子を征討した戦役と、1593年の古勒山の戦、これらの戦役全ての記録を綜合すると、王杲が拠ったグレ城の向いの山にはヘジゲ城が、その近隣にはシャジ城が在ったことがわかる。

シャジ城はフチャ (富察) 氏マンセ・ドゥジュフ[55]、アハイ[56]父子が拠ったことから別名「莽子城」とも呼ばれる。この城主・マンセの娘がグンダイ[21](後述) である。シャジは「シャジ嶺 (峠)」(後述) という記載もみえることから、この一帯の地名だとされる。

グレは現在の遼寧省撫順市新賓満族自治県上夾河鎮古楼村 (鼓楼村とも) に位置し、「古楼 (鼓楼)」[57]は「グレ」の転訛とされている。グレの城は上述の通り王杲父子の居城であると同時に、ギオチャンガ (ヌルハチ祖父) が横死した地でもあり、更にそれがきっかけとなって、後に孫のヌルハチが挙兵しマンジュ・グルン (満洲国) を樹立することになる為、早くから注目されてきた。

考古学調査の結果、古楼村には現在三つの城址が確認され、シャジ、ヘジゲ、グレそれぞれがいづれかの一つに該当するとされている。

龍頭山城址[編集]

夾河左岸、夾河と蘇子河の合流点附近に龍頭山と呼ばれる台地があり、同台地上に龍頭山城址がある。由来は文字通り、西を向いた龍の頭にみえることからといわれる。城址は北と西にそれぞれ夾河と蘇子河が迫り、東南方向にのみ尾根が続く天然の要塞である。杉山ら調査団はこの城址を以てグレの城に比定しているが、『考察紀實』はこの城址をヘジゲの城に比定している。

天橋嶺城址[編集]

蘇子河が夾河と合流し西に向きを変える地点のすぐ近くに屹立している小高い丘陵は天橋嶺と呼ばれ、古楼村の入り口にあたる。現在は南麓を削って車道が通されているが、本来は北側に玄菟古道が通っていた。この丘陵上に土塁と空堀で防禦を固めた城砦がある。それが天橋嶺城址である。グレ城は「三面屹立」と形容され、その点では三つの城址すべてが該当するが、『考察紀實』は天橋嶺の峻険さを以て同地の城址をグレ城と比定している。但し同書副主編・張徳玉が単独で発表した「新宾清前遗迹考察紀实」[58]と、王潔「古勒城新考」[59]では龍頭山城址をグレ城、天橋嶺城址をヘジゲ城としている。

迎風閣城址[編集]

古楼村集落の真北に隆起する急傾斜の丘陵は、山上に存在する古廟に因んで迎風閣山と呼ばれる。同山に存在する迎風閣城址は、間に集落を挟む為、蘇子河からやや距離があるが、すぐ下に河を望むことができる。歴史的にシャジ城は比較的簡単に陥落し、遺構に認められる防禦施設が貧弱であることから、『考察紀實』はこの城址をシャジ城に比定している。この城址より更に西北には「西敵山城址」と呼ばれる第四の城址が発見されているが、王潔はこれをグレとみることについて否定している。

* 尚、維基百科「古勒山之戰」はグレ城を「上夹郷古楼村西北」(典拠不詳) としている。

参照元・脚註[編集]

  1. ^ グレ, gure, 古勒 (清太祖武皇帝實錄, 清太祖高皇帝實錄)/ 古哷 (滿洲實錄)。*「gure(グレ) i(の) alin(山)」。
  2. ^ a b “秋九月壬子朔”. 清太祖高皇帝實錄. 1. 未詳. https://zh.wikisource.org/zh-hant/清太祖高皇帝實錄. "是役也斬級四千獲馬三千匹鎧胄千副以整以暇而破九部三萬之眾自此軍威大震遠邇懾服矣" 
  3. ^ マンジュ・グルンは清太祖ヌルハチが樹立した国家。大日本帝国関東軍の傀儡国家である満洲帝国とは別。マンジュは海西女真を制圧すると、アイシン・グルン (金国=後金) に改号する。子・ホンタイジの時にダイチン・グルン (大清国) と改号される。中国では清以前の政権を「建州部」(建州女真) と表記することが多い。
  4. ^ 『太祖高皇帝實錄』「(万暦二十一年)秋九月壬子朔」
  5. ^ ᠮᠠᠩᡤᡡᠰ (manggūs):莽古(『太祖武皇帝實錄』、『滿洲實錄』)、莽古思(『太祖高皇帝實錄』)。
  6. ^ ᠮᡳᠩᡤᠠᠨ (minggan):明安。* ᠮᡳᠩᡤᠠᠨ (minggan)は満洲語では「千」の意。
  7. ^ ᠰᡳᠪᡝᡳ (Sibei):實伯(『太祖武皇帝實錄』)、席北(『太祖高皇帝實錄』)、錫伯(『滿洲實錄』)。
  8. ^ ᡤᡡᠸᠠᠯᠴᠠ (Gūwalca):刮兒恰(『太祖武皇帝實錄』)、卦爾察(『太祖高皇帝實錄』)、卦勒察(『滿洲實錄』)。
  9. ^ ᠵᡠᡧᡝᡵᡳ (jušeri):朱舍里(『太祖武皇帝實錄』)、朱舍里(『太祖高皇帝實錄』)、珠舍哩(『滿洲實錄』)。* 満州長白山三部の一。
  10. ^ ᠶᡠᠯᡝᠩᡤᡝ (Yulengge):衛主・悠冷革(『太祖武皇帝實錄』)、路長・紆楞格(『太祖高皇帝實錄』)、路主(ᡤᠣᠯᠣᡳ ᡝᠵᡝᠨ, goloi ejen)・裕楞額(『滿洲實錄』)。
  11. ^ ᠨᡝᠶᡝᠨ (Neyen):內陰(太祖武皇帝實錄)、訥殷(『太祖高皇帝實錄』、『滿洲實錄』)。
  12. ^ ᠰᡝᠣᠸᡝᠨ (Seowen):衛主・搜穩(『太祖武皇帝實錄』)、路長・搜穩(『太祖高皇帝實錄』)、路主・搜穩(『滿洲實錄』)。
  13. ^ ᠰᡝᡴᠰᡳ (Seksi):塞革失(『太祖武皇帝實錄』)、塞克什(『太祖高皇帝實錄』、『滿洲實錄』)。
  14. ^ ᡠᡵᡳᡴᠠᠨ (urikan):兀里堪
  15. ^ ᠵᠠᡴᠠ (jaka):加哈(太祖武皇帝實錄)、扎喀(『太祖高皇帝實錄』、『滿洲實錄』)。
  16. ^ 維基百科「古勒山之戰」には「九部聯軍將大本營駐紮於渾河北岸,……」(九部聯合軍は大本営を渾河北岸に設置し、…)とあるが、この時は一時の急速の為に露営を張ったに過ぎず、食事を終えると直ぐに出発して嶺越えをしている。所謂「大本営」を張ったのはこれ以降の話の流れからヘジゲであると推定される。
  17. ^ a b ᡧᠠᠵᡳ (šaji):夏雞(『太祖武皇帝實錄』)、沙濟(『太祖高皇帝實錄』、『滿洲實錄』)。
  18. ^ 『太祖武皇帝實錄』、『滿洲實錄』「五更矣」。
  19. ^ “五更[ゴコウ”]. 精選版 日本国語大辞典. 小学館. https://kotobank.jp/word/五更-500308. "② 一夜を五分した最後の時刻。現在の時刻で、春は午前三時頃から五時頃まで、夏は午前二時頃から四時頃まで、秋は午前二時半すぎから五時頃まで、冬は午前三時二〇分すぎから六時頃まで。寅の刻。戊夜(ぼや)。五声。" 
  20. ^ 維基百科「古勒山之戰」より引用、典拠一切なし。
  21. ^ a b ᡤᡠᠨᡩᠠᡳ (Gundai):滾代・皇后(『太祖武皇帝實錄』)、妃・富察氏(『太祖高皇帝實錄』)、袞代・皇后(『滿洲實錄』)。
  22. ^ 『太祖武皇帝實錄』「今九國ノ兵馬來リテ攻ムニ、何故ニ盹睡シタル。是レ昏昧カ、抑モ畏懼カ」
  23. ^ 『太祖武皇帝實錄』「敵ヲ畏ルル者必ズ枕ヲ安ゼズ。我彼ヲ畏レザル故ニ熟睡スルノミ。前ニ夜黑ノ兵三路我ヲ侵スト聞キ,來期未ダ得ザレバ,我ガ心安ゼズ,今日已ニ到レリ,我ガ心始メテ定マレリ。我若シ欺騙スル處有ラバ,天必ズ我ヲ罪シ,我當ニ之ヲ畏ルベシ。我天命ヲ承ケ,各國土ヲ守リ,彼我ノ安分ナルヲ樂マズ,反リテ故無ク九部之兵ヲ糾合シ,無辜之人ニ欺害ス,天豈ニ之ヲ祐ケム?」/ 『太祖武皇帝實錄』「人懼ルル所有ラバ、寢ルト雖モ、寐ヲ成サズ。我果シテ懼レナバ、安ゾ能ク酣寢セム。前ニ葉赫ノ兵三路來リテ侵サムヲ聞キ、期無キニ因リテ、時ニ以テ念ヲ爲ス。既ニ至レバ、吾ガ心安カナリ。吾若シ葉赫ニ負フ有ラバ、天必ズ之ヲ厭フ。安ゾ懼ザルヲ得ム。今我天命ニ順ヒ、疆土ヲ安ズ。彼我ヲ悅マズ、九國之兵ヲ糾シ、以テ無咎之人ヲ戕害ス。天必ズ祐ケザルヲ知ル也。」/ 『滿洲實錄』「敵ヲ畏ルル者、必ズ枕ヲ安ゼズ。我彼ヲ畏レザレバ故ニ熟睡スルノミ。前ニ葉赫ノ兵三路我ヲ侵サムト聞ク。來期未ダ得ザレバ我ガ心安ゼズ。今日已ニ到レバ我ガ心始メテ定レリ。我若シ欺騙スル處有ラバ、天必ズ我ニ罪シ、我當ニ之ヲ畏ルベシ。我天命ヲ承ケ、各國土ヲ守ル。彼我ノ安分ナルヲ樂マズ、反リテ故無ク九部之兵ヲ糾合シ、無辜之人ヲ欺害ス。天豈ニ之ヲ佑ケム。」
  24. ^ 『太祖武皇帝實錄』,『滿洲實錄』「天明」/『太祖高皇帝實錄』「及旦」。
  25. ^ ᡨᠣᡴᠰᠣ (tokso):拖素(『清太祖武皇帝實錄』)、拖克索(『清太祖高皇帝實錄』、『滿洲實錄』) 。
  26. ^ 『清太祖武皇帝實錄』,『滿洲實錄』「爾等可盡解臂手頓項留於此若傷肱傷頸唯命是聽不然身受拘束難以勝敵我兵輕便必獲全勝矣」/ 『清太祖高皇帝實錄』「盡解爾蔽手去爾護項或項臂傷亦惟天命不然身先拘縶難以奮擊我兵輕便破敵必矣」* 「臂手」「蔽手」は手部を、「護項」「頓項」は頸部を保護する為の防具。
  27. ^ ᠨᠠᡳᡥᡡ (naihū):奈虎(『太祖武皇帝實錄』)、鼐護(『太祖高皇帝實錄』、『滿洲實錄』)。* ᠨᠠᡳᡥᡡ (naihū)には北斗星の意もある。
  28. ^ ᠰᠠᠨᡨᠠᠨ (Santan):山坦。
  29. ^ 『太祖武皇帝實錄』など「辰時」。
  30. ^ a b ᡥᡝᠵᡳᡤᡝᡳ (Hejige):黑機革(『太祖武皇帝實錄』)、黑濟格(『太祖高皇帝實錄』)、赫濟格(『滿洲實錄』)。
  31. ^ ᠯᠠᠩᡨᠠᡵᡳ (langtari):狼塔里(『太祖武皇帝實錄』)、郎塔里(『太祖高皇帝實錄』)、郎塔哩(『滿洲實錄』)。* ラングタリかランタリか不明。
  32. ^ 『太祖武皇帝實錄』など「貝勒ハ何(イヅク)ニ在マス。我ガ兵見(アラハ)レタルハ幾何(イクバク)有リ」。
  33. ^ 『清太祖武皇帝實錄』には「言訖登山望敵勢」、『清太祖高皇帝實錄』には「言訖遂登山望之」、『滿洲實錄(漢文)』には「言訖登山望敵形勢」とあり、『清太祖高皇帝實錄』以外は「敵兵の勢力」を覧るために山に登ったとしているが、『滿洲實錄(満文)』には「musei(吾等の) cooha(兵) udu(幾何) bi(あり(や)) seme(と) hendufi(云ひ), jugūn(路) i(の) dalbai(側の) alin(山) i(の) dele(上に) tafufi(登り) coohai(兵の) baran(勢ひ) be(を) tuwafi(見て) hendume(曰ひける),……」とあり、直後に「musei(吾等の) cooha(兵も) inu(亦) geren(多し)」と言っているので、眺めたのは敵兵ではなくヌルハチの兵のはずである。*「muse」は聞き手と話し手を含めた「我ら」。中国語の「咱們」に相当する。
  34. ^ 『清太祖武皇帝實錄』,『滿洲實錄』「若シ來ル兵ヲ以テ多シト爲サバ、我ガ兵モ亦タ少カラズ。昔、大明ト交戰シキ。彼ノ兵山ニ漫チ野ニ遍リキ。我ガ兵二三百、尚ホ其ノ眾キヲ敗リキ。今、我ガ兵膽氣、驍勇有リ。必ズ此ノ兵ヲ敗ラム。若シ勝ズンバ、我軍法ニ甘ズ。」/ 『清太祖高皇帝實錄』「若シ敵兵ヲ以テ多シト爲サバ、我ガ兵モ亦タ豈ニ少シヤ。昔、明ヲ征ツ時、彼ノ兵山野ニ漫チ、我僅二三百人、尚ホ其ノ眾キヲ敗リキ。我ガ国之人、驍勇、敢戰。必ズ敵兵ヲ破ラム。如シ勝タズンバ、吾軍法ニ甘ズ。」
  35. ^ 維基百科「古勒山之戰」には「……努爾哈赤派出武理堪前去偵查,擒獲葉赫一卒。經訊問得知來犯之敵有3萬之眾,……」(ヌルハチは武理堪を派遣して偵察させ、イェヘ軍の兵卒を一人捉えた。訊問によると敵は三万の大軍で、……)とあるが、典拠一切なし。「武理堪」なる人物は上述のウリカンと同一人物かと思われる。『清太祖武皇帝實錄』には「夜黑營中一人逃來」、『清太祖高皇帝實錄』には「葉赫營有一人來降者」、『滿洲實錄』には「葉赫營中一人逃來」とあり、『清太祖高皇帝實錄』以外はいづれも自発的投降者としている。
  36. ^ ᡝᡳᡩᡠ (Eidu):厄一都(『太祖武皇帝實錄』)、額亦都(『太祖高皇帝實錄』、『滿洲實錄』)。
  37. ^ 維基百科「古勒山之戰」には「第三日,努爾哈赤率兵馬據險布陣,聯軍主帥葉赫貝勒布寨與納林布祿對赫濟格城發動連續進攻,雙方互有傷亡。努爾哈赤派大將額亦都率領精銳騎兵百人,……」(三日め、ヌルハチ軍が天険に據って陣を取ると、聯合軍将帥・イェヘベイレ・ブジャイとナリムブルがヘジゲの城に連続して進攻し、双方に死傷者が出た。ヌルハチは大将・エイドゥに精鋭100名を率いさせ、……)とあるが、典拠一切なし。
  38. ^ ᡤᡳᠨᡨᠠᡳᠰᡳ (gintaisi):金台石(『清太祖高皇帝實錄』、『清太祖高皇帝實錄』)、錦台什(『滿洲實錄』)。
  39. ^ 『清史稿』「本紀1」には「太祖令額亦都以百人挑戰。葉赫貝勒布齋策馬拒戰,馬觸木而踣,我兵吳談斬之。」(ヌルハチがエイドゥに100人を率いて嗾けさせると、イェヘベイレのブジャイは馬に鞭を搏って応戦したが、馬が木に触れて躓き、ウタンが斬殺した)とある。
  40. ^ 維基百科「古勒山之戰」には「在布置完滾木礌石等防禦工事後努爾哈赤就就寢入睡。」「……山上滾木擂石齊下,額亦都調頭殺向聯軍。」とある。「滾木礌石」とは、傾斜や高所から落としたり転がしたりして敵に中てるための丸太や岩のことを指すようだが、典拠一切なし。『滿洲實錄』には「所騎之馬被木撞倒」(乗っている馬が木に「ぶつかられ」て倒れ)とあるが、具体的にどういう状況なのかまでは記載がなく、ヌルハチが事前に防禦の一環として設置したという下りも、岩についても見当たらない。
  41. ^ ᡠᡨᠠᠨ (Utan):吾談(『太祖武皇帝實錄』)、吳談(『太祖高皇帝實錄』)、武談(『滿洲實錄』)。
  42. ^ 『滿洲實錄(満文)』「manju(滿洲) gurun(國) i(の) coohai(兵の ) utan(武談) i(と) gebungge(呼ぶ) niyalma(者) sujume(驅け) dosifi(進み) bujai(布齋) beile(貝勒) be(に) aktalame(跨り) yalufi(乘り) gidalame(槍突きて) waha(殺せ) manggi(しにぞ),……」
  43. ^ 維基百科「古勒山之戰」には「納林布祿看到兄弟被殺昏倒在地,被屬下急忙救走。」(納林布禄は兄弟が殺されたのをみて気を失い、部下が慌てて救い出した。)とあるが、典拠一切なし。
  44. ^ 『滿洲實錄(満文)』「monggoi(蒙古の) korcin(科爾泌) i(の) minggan(明安) beile(貝勒) i(の) yaluha(乘れる) morin(馬) lifafi(泥に陷ち) tuhenefi(填まりて) morin(馬) i(の) enggemu(鞍), etuhe(着けたる) fakūri(股引) be(を) gemu(皆) waliyafi(打ち棄て), bontoho(裸の) morin(馬) yalufi(騎り) arkan(からがらに) seme burulame(逃げ失せ) tucike(出でき),……」 『清史稿』「本紀1」には「科爾沁貝勒明安馬陷淖中,易驏馬而遁。」(ホルチンベイレのミンガンは馬が泥に嵌り、裸馬に"乗り換え"て逃げた)とある。
  45. ^ 『滿洲實錄(満文)』「nuhaliyan(窪める) sangga(穴) de(に) jalume(滿てつ) sahame(積みつ) tuhebume(填め込みて),……」
  46. ^ ᠴᠠᡳᡥᠠ (Caiha):釵哈(『清太祖武皇帝實錄』)、柴河寨(『清太祖高皇帝實錄』、『滿洲實錄』)。
  47. ^ ᠸᡝᡥᡝ ᠶᡠᠸᡝᠨ (wehe yuwen):吾黑運(『清太祖武皇帝實錄』)、渥黑運(『清太祖高皇帝實錄』、『滿洲實錄』)。
  48. ^ 維基百科「古勒山之戰」には「……建州軍一路追擊至100餘里之外的輝發部境內。直至天黑,努爾哈赤才收兵回城。」(ヌルハチの建州軍はひたすら追撃し、100里余り離れたホイファ部の領地内に至ったが、空が暮れ、撤退した。)とあるが、典拠一切なし。 『滿洲實錄』には「追奔至哈達國柴河寨之南、渥黑運地。是夜。結繩截路。邀殺敗兵甚眾。」(ハダ国のチャイハ部落の南、ウェヘユウェンまで追撃した。その夜、縄を張って道を封鎖し、敗走を図る兵を捕まえては皆殺しにした)とある。
  49. ^ 陳, 康祺 (1886). “太祖擊敗葉赫哈達(二則)”. 郎潛紀聞 (二筆). 15. 未詳. https://zh.wikisource.org/wiki/郎潛紀聞二筆/卷十五#太祖擊敗葉赫哈達(二則). "次日,祝告堂子以行,果獲大捷,斬級四千,獲馬三千匹,鎧甲千副。正正堂堂,以整以暇,而破九部二萬之眾,自此軍威大震,遠邇懾服矣。" 
  50. ^ 万暦二十一年十月辛巳朔となっているが、恐らく辛亥朔の誤り。
  51. ^ ᠶᡠᠯᡝᠩᡤᡝ (Yulengge):悠冷革(『太祖武皇帝實錄』)、紆楞格(『太祖高皇帝實錄』)、裕楞額(『滿洲實錄』)。
  52. ^ 万暦二十一年十一月辛巳朔
  53. ^ ᡬᠠᡬᠠᡳ (G'ag'ai):剛蓋(『清太祖武皇帝實錄』)、噶蓋(『清太祖高皇帝實錄』、『滿洲實錄』)。*満洲文字にはアルファベット「g」で表記されるのが二つあり、後ろに母音「a, o, ū」を伴う場合は喉の奥から出す音、母音「e, u, i」を伴う場合は日本語に近いガ行の音であった。これは満洲語固有の発音体系であり、漢語を含めた外来語で「ga」を表すのに従来の「ᡤ」は使えなかった。そこで外来語の「ga」を表すために「ᡬ」という文字がダハイにより発明された。ガガイにはその外来語表記が使われている。
  54. ^ ᡶᠣᡩᠣᡥᠣ (fodoho):佛多和。*ᡶᠣᡩᠣᡥᠣ (fodoho)には柳の意もある。
  55. ^ Mangse (莽色) Dujuhū
  56. ^ Ahai (阿海)
  57. ^ 古楼、鼓楼、ともに現代中国語普通話の拼音では「gǔlóu」(グゥロウ)。
  58. ^ 张, 德玉. “新宾清前遗迹考察紀实”. 满族发源地历史研究: 69-74. 
  59. ^ 王, 洁 (2005). 付 (傅), 波. ed. “古勒城新考” (中国語). 赫图阿拉与满族姓氏家谱研究 (瀋陽市: 辽宁民族出版社): 282-287. 

参照文献・史料[編集]

  • 編者不詳『清太祖高皇帝實錄』巻1 (康熙25年:西暦1686) (中国語)
  • 烏拉納喇・多爾衮『大清太祖承天廣運聖德神功肇紀立極仁孝武皇帝實錄(順治重修『太祖武皇帝實錄』)』巻1 (順治12年:西暦1655) (中国語)
  • 編者不詳『滿洲實錄』巻2「九月內」清史館 (1781年) (中国語)
  • 陳康祺『郎潛紀聞 (二筆)』巻15「太祖擊敗葉赫哈達 (二則)」(1886) (中国語)
  • 趙爾巽, 他100余名『清史稿』巻1「本紀一-太祖本紀」清史館 (1928年) (中国語)

論文[編集]

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