游邃
游 邃(ゆう すい、生没年不詳)は、西晋から五胡十六国時代の人物。
生涯
[編集]永嘉の乱により中原が乱れると、魏郡出身の黄泓やかつて昌黎郡太守であった逄羨・宋奭(宋晃の父)と共に幽州の薊へ避難した。
やがて黄泓と共に、遼西に割拠していた慕容部の大人慕容廆に帰順した。游邃らは慕容廆から客人の礼をもって厚遇された。
大興元年(318年)3月、龍驤長史に任じられ、慕容部における儀法の制定に携わった。
大興4年(321年)12月、慕容廆が東晋より遼東公に冊封されると、裴嶷と共に改めて長史に任じられた。
その後の動向は不明である。
逸話
[編集]幽州を統治する司空王浚は游邃の兄の游暢へ幾度も手紙を出し、幕僚として招聘しようとした。游暢はこれに応じて王浚の下へ赴こうとしたが、游邃は「彭祖(王浚の字)の刑政(刑事と政事)は修まっておらず、華戎(漢民族と異民族)も離反しております。この邃が考えるところ、その治世は長くは持たないでしょう。なのに、どうして兄上は動かずにその運命を待とうというのですか」と反対した。これに游暢は「彭祖は残忍で猜疑心が強い。流民が(王浚を見限って)北へ行こうとした時には、これを尽く殺したこともあったという。今、彼は何度も私へ呼びかけているのに、もし私が応じなければ、卿(游邃)にまで禍が及んでしまうだろう。また今は乱世であるから、一族で別々に属した方が子孫を残しやすいであろう」と述べると、游邃はこれに従った。こうして游暢は王浚に帰順したが、後に王浚と共に石勒の手に掛かり、命を落とした。
広平游氏
[編集]王浚の司馬であった游統、その弟で石勒の主簿であった游綸は游邃の同族であり、游暢・游邃と共に著名な存在であった。
游暢の子の游泓[2]は游邃と同じく慕容部(前燕)に仕え、居就県令に任じられた。
広平游氏は北魏の代まで繁栄し、尚書游明根、その子で尚書右僕射游肇、同族の散騎常侍游雅は高官を歴任している。