津田守彦
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津田 守彦(つだ もりひこ、1847年(弘化4年11月[1])- 1913年(大正2年)3月17日[1])は、幕末の福岡藩士、明治期の政治家。衆議院議員。幼名・誠、旧名・武右衛門守正[2]。
経歴
[編集]筑前国那珂郡福岡荒戸町(現福岡県福岡市中央区荒戸)で、福岡藩士・津田茂代の長男として生まれ、同藩士・津田武右衛門守一の養子となる[2]。養家は砲術指南の家柄で、津田も藩命により長崎、鹿児島に派遣され洋式砲術・練兵を学び、帰藩後、洋式練兵を教授した[2]。明治維新後、旧領地の縁で怡土郡三雲村(現糸島市)に移り、農業、蚕業を営む[2]。
1873年4月、怡土郡一円の戸長に任じられた[2]。土木組合の設置、農産品評会の開催、勧業組合の設立、畜産業の振興、養蚕の奨励と普及、製糸場の設置などに尽力し、地域産業の振興を推進した[2]。1884年、志摩郡前原村に旧制中学校が設立されると同校長に就任し、子弟の教育に努めた[2]。
政界では、怡土村会議員、糸島郡会議員、福岡県会議員を務めた[1][2]。1890年7月、第1回衆議院議員総選挙に福岡県第一区から出馬して当選[1]。以後、第3回総選挙まで連続3回の当選を果たした[1]。
また、九州鉄道の創立委員となり、1888年下半期から1892年上半期まで取締役を務めた[1][2]。1899年、海外移民を計画し、メキシコなどへの移民事業に従事した[1][2]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 糸島郡教育会、福岡県糸島郡教育会編『糸島郡誌』福岡県糸島郡教育会、1927年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。