江馬天江

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胡鉄梅筆 江馬天江肖像(還暦)明治9年(1886年)

江馬 天江(えま てんこう、文政8年11月3日1825年12月12日) - 明治34年(1901年3月8日)は書家漢詩人医師幕末から明治期の京都を代表する文人

本姓は下阪氏。は聖欽。は永弼、のちに正人。近江の人。

略歴[編集]

近江国坂田郡中村の下阪篁斎の第6子として生まれる。医学を修めてのち、21歳で仁和寺侍医の江馬榴園の養嗣子となった。大坂に出て緒方洪庵洋学を学び、梁川星巌に師事し詩文を学び詩作に興じた。幕末維新期になると実兄の板倉槐堂山中静逸谷如意などと国事に奔走した。

1868年(明治元年)には東京明治政府太政官に出仕するも翌年致仕して京都に戻る。1869年(明治2年)に開校した私塾立命館では、塾長として儒学の講義を担当した。

1884年(明治17年)には、小堀遠州が作庭した退亨園のある邸宅に隠棲。多くの文人煎茶会書画会[1]などを通して交流し文芸にふける。

同世代の神山鳳陽頼支峰漢詩人村上仏山小野湖山書家巖谷一六陳曼寿篆刻家山本竹雲小曽根乾堂らとも交流した。還暦の記念に清人画家の胡鉄梅によって肖像画が画かれている。

大正6年(1917年)、従五位を追贈された[2]

息子の章太郎医学者、その子の歴史学者として活躍した。

著作[編集]

  • 『賞心賛録』
  • 『古詩声譜』
  • 『退亨園詩鈔』

脚注[編集]

  1. ^ 山紫水明処書画会(明治11年・1878年5月5日)京都鴨川鳩居堂熊谷直行主催。天江のほかに山中静逸宮原易安田能村直入板倉槐堂村瀬雪峡らが参加した。
  2. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.43

参考文献[編集]