毒入りオレンジ事件

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毒入りオレンジ事件(どくいりオレンジじけん)は、1982年3月11日号「週刊文春」の記事に端を発し、毎週4月8日号までの5回にわたる連載にて告発した、日本のプロボクシング史上最悪の事件と言われるエピソードである。

概要[編集]

週刊文春は、特別取材班による国内・国外潜行6ヶ月の取材の成果として、「金平正紀協栄ボクシングジム会長が、渡嘉敷勝男具志堅用高の防衛戦の相手に薬物を混入したオレンジジュースを飲ませた」とする記事を掲載[1]。「サンデー毎日」が金平の反論記事を載せるなど[2]、他誌やスポーツ紙、NHKもトップニュースで取り上げ[3]、テレビのワイドショーも後追い報道を繰り広げ[4]、国会でも取り上げられるなど大きな騒動になった[4][5]。ボクシング界の醜聞にしては異例の過熱ぶりであった[4]

週刊文春には、買収されて「毒入りオレンジジュース」を出したホテルの料理長の証言と、薬の成分が筋弛緩剤であること、その他の搾取と恐喝などについての内容が書かれていた[1]。金平は鬼籍入りしたため真相は闇の中である(実際には下剤であったと言われている)。

  • 搾取についての一例としてあげられるのは、具志堅がタイトルをフローレスメキシコ)に明け渡した1981年3月8日の沖縄戦。収入は、テレビの放送権料が9千万円、CM料が肖像権料等を含めて1億5千万円、地元に売る興行権料が5千万円。支出は具志堅に7千万円(マネジメント料、税込み)の他、前座試合にかかる諸経費。すると協栄ジムには、1億円前後が転がってくる[6]
  • 1979年秋の、保育園施設の建設に対する妨害は、その手口を問題視された。当時の協栄ジムは国鉄(現JR代々木駅近くにあった。(現社会福祉法人代々木鳩の会)「鳩の森保育園」がジムに隣接する土地に施設を建設しようとしたが、金平は「せっかく作ったジム屋上のネオン看板が(施設がじゃまして)国鉄山手線から見えなくなる」と主張し、知人であった日本青年社の社員三人をジム階上のアパートに住民登録させ、工事妨害を図った。いわゆる占有屋の手口に近い[7]。そのビラの内容の1部によれば「園の弁護士に暴力をふるう。一方的に怒鳴り散らし、物を投げ、閉め出す…というスポーツ団体にあるまじき態度」という。しかし、この件は1981年11月28日「看板料」(決算委員会での楢崎弥之助委員によれば、看板料300万円・引っ越し料300万円)として保育園側が金平に600万円を直接支払い、和解した[8]

この事件が原因で、金平は1982年にボクシング界からライセンスを無期限剥奪された(7年後に処分が解除、プロボクシング界に復帰)。また、具志堅の引退セレモニーも中止になった。

疑惑の発端[編集]

具志堅が、WBA世界ジュニアフライ級(ライトフライ級)タイトルを失った後、金平会長は、オプションのある内に、タイトルを取り戻すために具志堅に再挑戦を促すが首を縦に振らない。系列協栄河合ジムの当時同級日本チャンピオンであった伊波政春を挑戦者に1度は決めたが、交渉にあせり、マッチメイクは失敗する。そこで、協栄ジムのデビュー以来9連勝「具志堅二世」の呼び声の高い多田浩幸に出番は回ってきたが、1981(昭和56)年、具志堅敗戦直後に日本同級タイトル戦を伊波に挑戦して敗れ[9]、同年4月当時OPBF東洋太平洋ジュニアフライ級チャンピオン&WBA同級世界3位の金龍鉉韓国で遠征試合をして敗れてしまった。同ジムにあと一人、具志堅の「スパーリング・パートナー」として残っていたのが、渡嘉敷勝男だった。渡嘉敷は、当時日本ランキング同級1位とはいうものの、世界の檜舞台から見れば、無名のボクサーであった。金平会長は、渡嘉敷を世界タイトルにふさわしい挑戦者とするために、1981(昭和56)年6月2日後楽園ホールにて「世界タイトル挑戦者決定戦」と銘打ち、多田が闘った金龍鉉と10回戦を行った。金平会長にすれば、どうしても負けられない一戦であった。金は、1980(昭和55)年1月27日大阪にて具志堅用高(V11)に挑戦し、15回判定負けはしたものの、OPBF東洋・大平洋同級チャンピオンを3度防衛[10]しているため、ボクシング専門誌[11]は、「渡嘉敷、世界3位・金から大金星」と報じた。渡嘉敷の10R判定勝ちであった。

金選手は、崔承哲マネージャーと鄭英華トレーナーの3人で5月30日に来日し、協栄側の用意した後楽園近くのビジネスホテルSに宿泊する。協栄ジムの関係者によれば、「5月31日、試合前の減量で金はあまり食べない。その代わりレモンを注文して絞って飲んでいた。」と本郷のスーパーI商店でレモンを220円で購入し、それに小型の注射器で薬液を注入し5個(または3個)を食堂ウェイターに金選手へ手渡すように託した。しかし、協栄スタッフの一人が、金平会長がホテルSから帰宅した後、そのレモンをウェイターから回収したため金選手側には渡らなかった。

試合前日の6月1日は、「毎回同じ果物だと不自然」「レモンだと、一旦ウェイターに手渡さなければいけないから」と十数個のオレンジを新宿の有名H園と中野駅前のスーパーで買い、その内、薬物を仕込ませた6個を茶色の紙袋に入れ、「崔マネージャーに渡すように」とホテル・フロントに預けた。このオレンジを巡って、翌2日の試合直後の後楽園ホール控え室で、崔マネージャーは、「この試合はおかしい。問題にする!記者団に公表する!」と気が狂ったような大声で、息巻き続けたのが発端だった[12]

後日談[編集]

金平正紀の長男で当時16歳だった金平桂一郎は振り返って「通学で電車に乗ると『週刊文春』の中吊り広告にデカデカと"金平""協栄ジム""薬物"の文字が踊り、車内にも文春を読んでいる人がいっぱいいて本当に驚きました。学校でも何人もの級友から『本当なの?』と聞かれるのにも参りました」「父は居直り(田中角栄が好きだったから)俺はボクシング界の闇将軍になる!と豪語していました。ライセンス剥奪後も父の人柄を慕って支援して下さる方が多くいたことが支えになっていたと思います。父と事件について語り合ったことは一度もありません。しかし父は文春さんの記事を含め、関連記事を全部スクラップして保存していました。そこからは、意外にも客観的に騒動を見ていた父の姿が浮かんでくるのです。あの頃は、日本選手が海外で試合をしても、妨害工作を受けることが度々ありました。事件の真相は別にして、そういう時代だったことは事実です」「父は一貫して事実関係を否定していましたが、日本ボクシングコミッションは『限りなく黒に近い灰色』という結論を下しました。これがボクシング界の『答え』だったと思います。そしてあの騒動によって、ボクシング界が良い方向に変わっていったことも確かでしょう」[3]、「色んなことも含めて全部、協栄ジムの歴史ですし、私はそれを息吹で感じています」[13]などと述べている[3]

脚注[編集]

  1. ^ a b “本紙特別取材班による—国内・国外取材6ヵ月 カンムリワシ具志堅用高は『汚れた英雄』だった 金平会長は薬物投入の仕掛人!”. 週刊文春: 24-31頁. (3月11日号 1982). 
  2. ^ “死闘!薬物リング 金平前会長逆襲の成算 独占インタビュー『文春をKOするぞ』”. サンデー毎日: 16-20頁. (3月28日号 1982). 
  3. ^ a b c “50周年総力特集52本 『私はそこにいた』 昭和57年 協栄・金平会長が語る毒入りオレンジ事件と父”. 週刊文春: 151-152頁. (4月2日号 2009). 
  4. ^ a b c “金にまつわる「金平問題」後日譚”. 週刊サンケイ: 22-25頁. (4月8日号 1982). 
  5. ^ 衆議院会議録情報 第96回国会 法務委員会 第6号
  6. ^ 1982年4月1日号「週刊文春(金平問題第4弾!)」
  7. ^ 衆議院会議録情報 第96回国会 決算委員会 第2号
  8. ^ 1982年4月8日号「週刊文春(金平問題第5弾!)」
  9. ^ 日本L・フライ級王座変遷
  10. ^ 金龍鉉(韓国)公式戦記録
  11. ^ ボクシング・マガジン1981年7月号
  12. ^ 1982(昭和57)年3月11日号「週刊文春(金平問題第1弾!)」
  13. ^ 金平桂一郎 (2007年12月27日). オフレコ厳禁. インタビュアー:テリー伊藤. pp. 74-78. テリー伊藤 対談,537 アサヒ芸能.