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林忠満

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
林忠満
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 天文9年6月6日1540年7月19日[1][2]
改名 政通、縁正、忠満[3]
別名 藤五郎、藤八郎、藤助[3]
戒名 道見[1][2]
主君 松平清康広忠
氏族 三河林氏[3]
父母 林忠長[1][2]
忠時[2]
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林 忠満(はやしただみつ)は、戦国時代三河国武将松平氏の家臣。

生涯

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林氏信濃守護小笠原氏の傍流で、松平氏初代親氏の代よりの家臣と称する家柄である[4][3]。忠満は初め岡崎城主の松平清康に仕え、岡崎五人衆の一人にも数えられた[5][1]天文6年(1537年森山崩れ以降、三河を追われていた松平広忠が今川氏の後援を得ると、八国詮実大久保忠俊成瀬正頼大原惟宗と謀って広忠を岡崎城に迎え入れ、この功により15貫文の加増を受けた[6][7]天文9年(1540年安祥城在番中、織田信秀との合戦で戦死した(安城合戦[1][7]

出典

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参考文献

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  • 新編岡崎市史編集委員会 編『新編 岡崎市史』《中世》新編岡崎市史編さん委員会、1989年。 
  • 新編岡崎市史編集委員会 編『新編 岡崎市史』《総集編》新編岡崎市史編さん委員会、1993年。 
  • 『新訂 寛政重修諸家譜』 4巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1964年。ISBN 978-4-7971-0208-6