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松平定基

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平定基
時代 江戸時代中期
生誕 貞享3年11月17日1686年12月31日[1]
死没 宝暦9年閏7月13日1759年9月4日[2]
改名 巌松丸、岩松(幼名)、定基
別名 甘裳(号)
戒名 本国院天誉相覚実仙大居士[2]
墓所 愛媛県今治市国分の松平家墓地
官位 従五位下美作守、采女正
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉家宣家継吉宗
伊予今治藩
氏族 久松松平家定勝
父母 父:松平定陳、母:溝口重雄の5女・せい
兄弟 定基渡辺登綱正室、松平重休正室、服部正令
正室:細川綱利の養女・

養子:定郷
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松平 定基(まつだいら さだもと)は、江戸時代中期の大名伊予国今治藩の第4代藩主。定房系久松松平家4代。官位従五位下美作守、采女正。

生涯

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貞享3年(1686年)11月17日、第3代藩主・松平定陳の長男として誕生。元禄13年(1700年)12月に従五位下、美作守に叙任する。元禄15年(1702年)、父の死去により跡を継いで采女正となる。藩政においては総社川の改修工事を行なうが、工夫たちに賃金を支給せず、無理な工事を行なったため、完成までには至らなかった。さらに藩内の士風が乱れたので粛清も行った。

享保17年(1732年)2月2日、従弟で婿養子・定郷に家督を譲って隠居し、宝暦9年(1759年)閏7月13日に死去した。享年74。

系譜

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脚注

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  1. ^ 『今治郷土史 資料編 近世 2 (国府叢書)』今治市、1989年、p.88。
  2. ^ a b 『今治郷土史 資料編 近世 2 (国府叢書)』今治市、1989年、p.173。