杜錫鈞
杜錫鈞 | |
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プロフィール | |
出生: | 1882年[1] |
死去: |
1951年8月 中国北京市 |
出身地: | 清直隷省河間府故城県 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 杜錫鈞 |
簡体字: | 杜锡钧 |
拼音: | Dù Xījūn |
ラテン字: | Tu Hsi-chün |
和名表記: | と しゃくきん |
発音転記: | ドゥー シージュン |
杜 錫鈞(と しゃくきん)は中華民国の軍人。北京政府、直隷派の軍人。後に南京国民政府(汪兆銘政権)に参加した。字は鴻賓。
事績[編集]
初めは湖北新軍に加入する。後に日本への留学を許可され、陸軍士官学校第4期を卒業した。帰国後は、湖北省の新軍第8鎮で管帯、第2協統領を歴任している[2]。
辛亥革命勃発後は革命派に加わり、湖北軍政府軍令部部長、北伐軍第1軍総司令官に任命された。1912年(民国元年)、湖北第4師師長・陸軍中将となった。翌年1月、漢口鎮守使となる。1915年(民国4年)12月、袁世凱の皇帝即位とともに、一等男に封じられた。1920年(民国9年)、漢黄鎮守使に任ぜられる。1926年(民国15年)2月、呉佩孚により湖北省省長に任命されかけたが、反対に遭い、取り止めとなった。杜錫鈞は結局、留守軍司令に任ぜられた。呉が失脚すると、杜も下野し、天津に隠居している[2]。
1940年(民国29年)3月、杜錫鈞は汪兆銘(汪精衛)の南京国民政府に参加し、華北政務委員会治安総署署長に任ぜられた。1943年(民国32年)3月1日 、河北省長を兼任する[3]。11月、華北政務委員会の改組に伴い、綏靖総署署長に異動している。1944年(民国33年)、華北政務委員会常務委員となった。1945年(民国34年)2月、河北省省長を、3月、綏靖総署署長をそれぞれ離任し、華北政務委員会常務委員のみをつとめる[2]。
日本敗北後、杜錫鈞は蔣介石の国民政府に逮捕されたものの、まもなく釈放されている。しかし中華人民共和国が成立した頃に再び逮捕され、1951年8月に北京市で処刑された。享年70[4][5]。
注[編集]
参考文献[編集]
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
南京国民政府(汪兆銘政権)
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