本田博

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本田 博(ほんだ ひろし、昭和25年(1950年3月22日 - )は、日本科学技術者エコノミスト

1992年6月、国連地球サミット(UNCED)に参加し、International Energy Agency (IEA)、APEC Energy Working Groupの活動等にも注力する。UNCED後、米仏独を含む海外首脳レベルとの書簡による交流活動を継続中。宇宙環境利用推進センターでは、NASA, ESA, 独仏加宇宙機関、ロシア科学アカデミー、NASDA関係者との科学技術交流活動に従事した。

日本ペンシルバニア州立大学(Penn State)同窓会長(1993-1997) を務めた後、1998年、同学 Board of Trustees (代表者 Edward Junker理事長、Graham B. Spanier総長)より、日本出身の卒業生として、初のDistinguished Alumnus Awardを授与され、なおかつ、2021年現在においても唯一の受賞者である。日本機械学会 技術と社会部門での1997年の活動に端を発した産業フロンティア研究会の代表を務め、学士会会員として日本の頭脳と言われる様々な分野での第一人者との討論や意見交換を行う。

経歴[編集]

石川県金沢市出身。大阪府立茨木高等学校卒業を経て、京都大学工学部機械工学科1972年卒。

山下勇 (三井造船社長、後にJR東日本初代会長、経済団体連合会副会長、ISO President等歴任) が創設した海外留学制度によりThe Pennsylvania State University (Penn State)[1],[2]の Department of Engineering Science and Mechanics (Honors Department) 修士課程を1976年8月修了後[3]、海洋構造物である石油掘削用Jack-Up Rigの強度に関する研究を行い、1986年1月、京都大学より工学博士号を授与される[4]。

造船・重機械業界に属する同社では、技術研究所、機械事業本部、経営企画部、事業開発部などで勤務後、1991年より、財団法人日本エネルギー経済研究所 Senior Economist 兼 太平洋コールフロー推進委員会(JAPAC)Director Energy Master Plans & Conferences[5]、財団法人宇宙環境利用推進センターでは地下無重力実験センター室長などを務め、調査や出版の仕事に従事した[6]。この頃以降、財団法人での講演以外に、東京電機大学大学院、同志社大学湘南工科大学でも教鞭を取る。

2000年より、東京都立科学技術大学教授待遇などのポストを得て、2002年6月、米国エネルギー省エネルギー技術研究所から、”Political Environment of Japan"と題する講演に対し、Certificate of Appreciation for Outstanding Presentationを授与される。米国シカゴに本部を置くInstitute for the International Education of Students (IES) 講師 (講義科目 The Contemporary Economy of Japan)、東京大学 Executive Program講師なども務め、2019年5月、ボストンのJohn F. Kennedy Presidential Library登録研究者となる。

日本機械学会(JSME)において、東京大学生産技術研究所木内学教授及び西尾茂文教授の指名により、日本の産業フロンティア研究分科会主査、技術と社会部門研究企画委員長、及びChair of Session on Global Industry Frontier of the 21st Century at the JSME Centennial Grand Congress 1997 (日米仏から講師を招聘)などを務める。

米国機械学会The American Society of Mechanical Engineers (ASME)では、Nominating Committee Member (役員推薦委員会委員)、国際機械工学コングレス(IMECE)におけるEngineering and Technology Management Group 代表、Technology and Society Division Chairなどを務めた。IMECE 2000~IMECE 2004では、歴代ASME会長によるパネルセッション、英国 Department of Trade and Industry (DTI), 米国 National Institute of Health (NIH)、National Science Foundation (NSF) からDirectorレベルの講師、民間企業の社長を招いてのセッションなどの組織化及び座長を務めた。IMECE 2011~2014で発表した講演論文については、Wisconsin大学のSubha Kumpaty教授夫妻との共著による日米印の三カ国連携による将来のグローバルリーダー養成についての発表、規制科学・規制工学についての発表 (後にAmerican Journalに論文掲載[1]) などが上げられる。


著書、報告書、講演論文集、Symposium Proceedings、論文、グローバル化や地球環境問題についての連載講座、IMECE報告記事などを、和英の言語で合計200編以上出版。

人物[編集]

1950年 (昭和25年) 3月22日、金沢市内にて、大阪市東区の薬品会社勤務 (後に、常務取締役) で、金沢市無量寺町出身の本田榮一 (1922-2003) と、高等小学校時代、読み書き算盤などが優等で、金沢市の陸軍病院 (後に、国立石川病院) 看護婦第一期生 (後に、教育班において後進の指導を担当) であった金石出身の旧姓 土室豊子 (1924-1952) の間に、長男として生まれる。豊子は、博を妊娠していた時期、医師から 「今、出産すると体を弱めるから…。」 と忠告されていたが、思い切って出産した。 1951年に入って胸を病み、金沢の病院に入院した豊子を、同年8月、祖母の本田つゆと共に見舞いに訪れた博は、母の顔を忘れ、母からキャラメルを与えられて、初めて、博と仲良くなれたと、豊子は、榮一に送った手紙で述べている。博が病院を去った後、母の心は子への思いで満たされ、博を育て、教育するために、すぐにでも良くなって退院したいと、夫への手紙で訴えていた。豊子の父は地元の郵便局長であった。生母豊子の存在は、継母喜美子と継母から生まれた妹、啓子、純子、英里子との関係への配慮から、博が21歳になり、企業での就職試験と面接が行われる直前まで伏せられており、それまで博は、喜美子が生母であると信じ切っており、その後も、継母への愛情と感謝の気持ちには変わりなかった。真実を知らされ、豊子の写真を初めて見た時は、まるで恋人に出会った時のような思いであった。千葉県在住の長男 亮と長女 直子は、博と別居生活を送る。

1955年、大阪で最も古い大阪市東区 (現在、中央区) の愛珠幼稚園入園、1956年、同区愛日小学校入学後、出生の秘密が博の耳に入ることを恐れた榮一は、1957年春、大阪市此花区に転居し、梅香小学校へ転入、1965年、春日出中学校に入学する。小学校時代は、豊子が得意であった珠算を習わされ、特に、暗算が得意であった。6桁程度の足し算・引き算や、4桁程度の掛け算・割り算を空で出来た博は、後に、米国留学先の工学系大学院での学友から驚異の目を持って見られた。英語を学ぶ事も希望したが、両親から中学生になるまで待つように言い渡され、海外留学の為の絶好の英語習得機会を逃す事になった。

中学1年生になってから、通訳経験のあるシニア女性から、週2回、英語を学ぶ事が許され、当時は、英語の発音が良くない英語教諭が大半であり、正当な発音が重要である事を認識するだけでもメリットになる事を認識した。春日出中学校時代の成績は、学年でもトップレベルであったが、スポーツ部に入部する事を両親から禁止された事は、後のテニス人生でのハンディにもなった。特に、転校先の高槻第一中学校軟式テニス部は、同学年の男子の頑張りで、大阪府の大会で、1964年春、個人・団体共に優勝したのである。

1966年4月、大阪府高槻市に転居し、一学年16組、約800人の高槻市立第一中学校に転入。全高槻市立中学校英語暗唱大会で入賞するも、上位を美人女子学生達に独占され、悔しい思いをした。スピーチ前に、審査員であった欧米人とインド人の男性審査員に英語で挨拶するも、彼らの目は、すべて美人女子学生達に注がれ、男子は相手にされず、彼らと残りの日本人女性審査員の3人だけで、公正な審査が出来るのであろうかと不信感を持ったからであった。さらに問題は、スピーチの内容は、英語の教科書から、英語教諭が、選ばれた生徒の意見や希望を聞かずに適当に選んで、当該の生徒に申し渡しており、優勝者の題目が、Abraham Lincoln's Motherと輝かしいものであったのに、本田の題目は、Johnny Apple Seedと、何とも地味なテーマだったのである。しかも、その英語教諭は、テーマを与えた直後、本田に「きっと、君が優勝する。」と励ましの為に言ったのであろうが、後で考えると実に無責任な言葉だったのである。

高槻市立第一中学校同学年の成績上位4人の内、3人は、競争の激しい大阪府立北野高校に進学したが、本田博は、テニス部に入部希望があったので、他の約60人と共に、通学時間の短い茨木高校に進学した。しかし意外にも、北野高校に進んだ3人の内2人は、関西或いは中京の名門国立大学の入学試験に苦労し、浪人していた。

大阪府立茨木高等学校時代は、軟式テニス部に入部し、バスケットボール部やラグビー部の仲間とも仲良くしていた。1965年11月の高校創立70周年記念日に、授賞前のノーベル賞作家川端康成先輩と日本を代表する評論家大宅壮一先輩が講演を行い、学び知る事が多くあった。自分の世界に入り込んだ川端氏の講演は、高校生の殆どに対して分かりにくいものであったが、大宅氏の講演は、全校生が大爆笑であった。

京都大学在学中は、軟式テニス部に属し、関西六大学軟式庭球連盟副理事長などを歴任し、全日本学生、全日本一般のダブルス・シングルス選手権などにも出場した。大した戦績はなかったが、ダブルスの後衛として納得出来るプレーが出来た全日本一般ダブルス・シングルス選手権で試合を終えた直後、関西の雄、同志社大学のホープ大山憲一君 (後に、主将) から、過分なはなむけの言葉をいただき、その後の人生を支える言葉にもなった。軟式テニス部では、全学の様々な学科出身の仲間から、学ぶ事が多くあった。大学紛争の最中、講堂が学生に占拠され、一学期の授業がキャンセルされたが、軟式テニスの練習は予定通り行われた。東京大学入試が1969年には行われず、頭脳明晰な後輩に刺激を受けた。同部OB会は、関西OB会 (会長 山本寛昭 (西日本学生シングルス選手権優勝者)) だけでなく、東京OB会 (会長 徳田八郎衛(地球物理学専攻)) もある。1974年6月からの米国留学後は、硬式テニスに転じ、習志野市硬式テニス大会男子シングルス55歳以上の部で、優勝、準優勝などを果たした。

機械工学科首席卒業の恩師故河本實教授、博士論文の面倒を見ていただいた柴田俊忍教授、矢部寛教授、駒井謙治郎教授、建築工学科の野中泰二郎教授 (Fulbright留学し、Brown大学でPh. D.取得) には、学ぶ事が多くあったが、逆に、スポーツマンの特質なども認識し、好意を持っていただいたようであった。

若い頃、デンマークに技術留学した山下勇氏 (後に、日米賢人会議のメンバー) の視点の多様さと行動力には、ただ驚くばかりで、米国留学に際しても学ぶべき事が多くあった。1975年、Waldorf Astoria New York Hotel で開催された山下社長主催の顧客を招いてのパーティには、留学生も招かれた。パーティ後の仲間内の集いでは、留学報告を求められ、最後に「アメリカで体重が増えましたので、帰国後は、花籠部屋にでも入門して相撲取りにでもなります。」と冗談を飛ばすと、殆どの社員は笑ったが、一人だけ、苦虫を噛みつぶしたような顔をして、「君、それでは体重が足りないよ。」と切り返したのが山下社長で、当意即妙の受けに感心すると共に、同氏の親心のようなものを心深く感じた次第であった。

Penn Stateでの大学院生時代は、勉学以外にも、大学院生用の寮Atherton Hall (2000年よりThe Schreyer Honors College)では、米国人学生のみならず海外からの留学生、一人で行くことの多かった大学所有の2つのゴルフコース (学生料金:当時は年間60ドルで、どちらでもプレイ可能) では、初対面で様々な人々にお会いして、話をしながら一緒に回り、学ぶ事が多くあった[2][7]。

米国の母校Penn Stateの同窓会活動においては、Penn Stateでレスリング部主将を務め、自らのみならず、同部も米国東部カレッジリーグ優勝に導き、1924年のパリオリンピックにおいて、日本初のWrestling Freestyleでメダルを獲得した内藤克俊プラーク[8]のJoab L. Thomas同学総長への献呈(1995年5月5日)[3][9]-[10]、さらに米国外の同窓会支部では唯一の Japan Chapter of Penn State Alumni Association Endowed Scholarshipの創設を、当時、過半の資金提供をしていただいたJoab L. Thomas総長と共に行った。1997年には、John A. Brighton筆頭副学長と共に、東京大学蓮見重彦総長、京都大学長尾真総長、東北大学阿部博之総長を、Penn State 国際プログラム担当学部長の代理として訪問し、国際交流の促進に寄与した。また、歴代総長並びにEric Barron現総長、College Football Head Coachとして世界的に著名な故Joe Paterno監督(映画ジョーイ(Something for Joey)にも出演)との交友がある。

日本エネルギー経済研究所への赴任時には、これについて、生田豊朗理事長 (後にWorld Energy Council President) から前述の山下勇会長へ直接のご依頼をいただいた。海外の先進国首脳とのやり取りにおいては、日本で培った繊細な感覚と米国流の積極的なマインドの使い分け、時には、誠実さの徹底などが功を奏した。また、海外では、下記の英文著書を謹呈することが、信用を得る上で有効な事も多くあった。日本での中学生時代には、お前は嘘をつけないから、政治家にはなれないなどと年配者に言われたりしたものであるが、海外では、一般的な日本人の感覚と少し違った面があり、これは、実際に体験し、肌で感じなければ分からないのである。これについては、宇宙環境利用推進センターでの職務も同様であった。ロシア科学アカデミーからの招聘講師とのお付き合いでは、一対一で、レストランや飲み屋でひとときを過ごした後、彼のホテルの部屋で、ウォッカのぐい飲みの応酬で締めを行った事もあった。

1995年総長退任後、Alabama州Tuscaloosa市に戻られた元アラバマ大学総長でもある故Joab L. Thomas博士並びに関係者の支援の元に、姉妹都市であるTuscaloosa市と習志野市との交流活動の活発化に注力し、交流活動を高校レベルから大学レベルに引き上げるための提案書を、当時Tuscaloosa のAlvin DuPont市長と習志野市の荒木勇市長に提出した。また、Tuscaloosa市関係者の要請に従って、同市市議会で短く演説し、George W. Bush大統領の要請にもかかわらず、米国連邦議会で演説することを断った小泉純一郎首相と比べられ、自らの評価を高める事につながった。2001年9月11日の同時多発テロ事件により飛行機欠便の最中、ASME主催のDesign Engineering ConferenceでPlenary Lectureを12日にPittsburghで行った後、13日にはTuscaloosa市へ向けて一昼夜車を運転し、大学レベルの交流活動の皮切りとして、9月14日午後、アラバマ大学Honors Programの学生に講義を行った[3][4]

日本の地方自治体向けなどの講演に関しては、浦安市国際交流協会[11]主催による「ホンネで活かす在住外国人」(浦安国際センター、1994年頃)、習志野市民カレッジ主催の外国人住民への配慮と接し方についての講演 (習志野市大久保公民館、2006年)、浦安市国際交流協会主催による「在住外国人は何を求めているか -仕事と職場の問題-」 (浦安国際センター、2007年3月31日)[12]、「グローバル人材をどう育てるか?」(東京都 文京Civic Center、2018年6月18日) などを行い、多い時には約300名の聴講者があり、実体験や著書を元にした話に対して、様々な反響があった。

学士会会報に「アメリカの学術と教育の文化について思う」題する邦文が掲載された2005年9月1日の程なく後、学士会夕食会に出席すると役員席中央の故團藤重光理事長 (法学者(刑法・刑事訴訟法)) の真横の席に誘導された。すると驚いた事に、周囲の役員は、この二人だけの会話が出来るようにとの配慮からか、遠くの席へ移動したのである。これまで、このような経験はなく、團藤先生の人格と重みを感じ、その後の学士会での活動がしやすくなった事は、言うまでもない。米国でも、同様の経験はあったが、周りの役員が席まで移動するような事はなかった。その後は、刑法/刑事訴訟法分野で故團藤先生の後を継がれた松尾浩也先生 (学士会常務理事、後に理事長) と、電子メールなどで連絡を取らせていただき、その律儀なお心遣いに接し、光栄に感じた次第である。

著書[編集]

  • 本田博、モノを見る目 (奥村孝監修)、第1章 研究開発を見る、pp. 1-81 (日経BP社、1990年1月30日)
  • Hiroshi Honda, ed., Working in Japan: An Insider's Guide for Engineers (ASME Press, New York, 1991) 170 pages
  • 本田博編著、ホンネで活かす外国人社員 (日刊工業新聞社、1994年4月13日) 246 pages
  • Hiroshi Honda, editor/author, Working in Japan: An Insider's Guide for Engineers and Scientists (ASME Press, July 2000) 320 pages
  • 本田博・アラン モギッシ共著、規制科学・規制工学概論 Introduction to Regulatory Science and Engineering: Focusing on Selected Issues of Local, National and Global Importance (養賢堂、2017年6月) 188 pages

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ Honda, 2016.
  2. ^ Honda(1990)
  3. ^ a b 本田(2005年)
  4. ^ Honda, (November 2008)

参考文献[編集]

  1. Pennsylvania State University http://www.psu.edu
  2. ペンシルバニア州立大学
  3. Hiroshi Honda, An Analysis of the Effect of a Crack Type Flaw at a Gear Tooth Fillet by Finite Element Techniques, Master of Science Thesis Submitted to the Pennsylvania State University (August 1976) with One NASA-Cited JSME Transactions Quality Paper Published from the Thesis Contents
  4. Hiroshi Honda, Research on the Strength of Racks for Jack-Up Units, Doctoral Dissertation Submitted to Kyoto University, Japan (October 1985) with Six ASME and JSME Transactions Quality Papers Published from the Dissertation contents 
  5. Honda, H, Editor, JAPAC News No. 1- No. 8 (1992-1994)
  6. 本田博編, JSUP ニュース, Honda, H,. Editor, JSUP News No. 54-59 (1997-1998)
  7. Hiroshi Honda, As Others See Us, The Penn Stater (November/December 1990) pp. 32-35. 
  8. 本田博、アメリカの学術と教育の文化について思う、学士会会報[2005年9月1日号]
  9. "Some Thought on American Academic and Educational Culture" by Hiroshi Honda, ASME Japan News (November 2008)
  10. Joab Thomas
  11. Honda, H., Editorial Committee Member, 習志野市国際交流協会 Narashino International Association (NIA) 編集部, 編 NIA Square, No. 46-52 (1999-2001) in English and Japanese
  12. 本田博編修、2007 年 3 月 31 日開催 浦安市国際交流協会創立 20 周年記念シンポジウム「在住外国人は何を求めているか」-討論・講演論文集-(第 2 版)、(産業フロンティア研究会・浦安市国際交流協会 2008 年 7 月)

関連項目[編集]