有賀喜左衛門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

有賀 喜左衛門(あるが きざえもん、 1897年1月20日 - 1979年12月20日 )は、日本社会学者。日本の農村社会を独自のイエ・ムラ理論によって考究し、農村社会学の理論的確立を行なった。

人物・来歴[編集]

1897年、長野県上伊那郡朝日村平出(現在の辰野町)に生まれる。朝日尋常高等小学校、長野県諏訪中学校に次いで、1918年に第二高等学校卒業[1]京都帝国大学に進学。

1919年、京都帝大を中退し、東京帝国大学文学部(美術史学専攻)に入学。当時の朝鮮に対する民族文化抑圧政策に強く抗議していた柳宗悦の影響を受け、卒論では朝鮮美術の研究に取り組み「新羅の仏教美術」としてまとめた。1922年に卒業[2]後、同大学院に進み、23年に修了。

その後、柳田國男門下となる。1925年には、岡正雄とともに柳田の『民族』創刊に協力した。1938年には、田邊壽利戸田貞三の勧めによって日本社会学会に入会し、次第に自らの研究基盤を社会学へとシフトさせていった。

1949年東京教育大学の教授に就任。1957年に定年退官後、慶應義塾大学文学部教授に就任。1965年からは、日本女子大学の学長を務めた。

研究歴[編集]

有賀の研究は、1938年の『農村社会の研究』に見られるように当初は柳田民俗学の影響下にあったが、その後マリノフスキーラドクリフ・ブラウン機能主義人類学エミール・デュルケームマルセル・モースの社会学の影響を受け、自身の知見を一社会学理論として鍛え上げる道を進み、日本の村落構造、とりわけ同族組織を村人の生活意識に即して把握する独自の方法論を展開するに至った。

評価[編集]

有賀の社会学は、「農民の創造性・積極的主体性」を強調したものとして今日なお高く評価されているが[3]、他方で、主に近代主義の立場に立つ同時代の社会学者からはさまざまな批判を受けもした。なかでも有名なのが、有賀・喜多野論争における喜多野清一からの批判であるが、ほかにも、たとえば、河村望は、「現実を理念の形象ないし形態としてとらえる『時代精神』を謳歌する観念論」と批判し[4]富永健一は、有賀の保守性を一貫して批判している[5]

著書[編集]

  • 1938, 『農村社会の研究――名子の賦役』 河出書房
  • 1939, 『南部二戸郡石神村に於ける大家族制度と名子制度』 アチック・ミューゼアム
  • 1943, 『日本家族制度と小作制度――「農村社会の研究」改訂版』 河出書房
  • 1948, 『安豆美野』 (謄写版印刷)
  • 1948, 『日本婚姻史論』 日光書院
  • 1948, 『村落生活――村の生活組織』 国立書院
  • 1949, 『封建遺制の分析』新日本史講座(資本主義時代) 中央公論社
  • 1965, 『日本の家族』 至文堂
  • 1965, 『日本女子大学の当面する課題』 日本女子大学
  • 1972, 『家(『日本の家族』改題)』 至文堂
  • 1976, 『一つの日本文化論――柳田国男と関連して』 未來社
  • 1980, 『文明・文化・文学』 御茶の水書房
  • 『有賀喜左衛門著作集〔全11巻〕』(未來社、1967-1971年)

脚注[編集]

  1. ^ 『第二高等学校一覧 自大正7年至大正8年』第二高等学校、1918年、p.267
  2. ^ 東京帝国大学要覧 従大正11年 至大正12年』 東京帝国大学、1923年、(14)頁。 
  3. ^ 竹中(1999: 97)
  4. ^ 河村(1973: 206)
  5. ^ たとえば、富永(1990)

参考文献[編集]

関連項目[編集]

(関連人物)