ヨーロッパにおける政教分離の歴史

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「ミュンスター条約締結の図」(ヘラルト・テル・ボルフ画)
1648年ヴェストファーレン条約ミュンスターおよびオスナブリュック条約)ではカルヴァン派が新たに容認された。

ヨーロッパにおける政教分離の歴史(ヨーロッパにおけるせいきょうぶんりのれきし)では、ヨーロッパにおける政治社会と宗教の関係性の歴史、具体的にはヨーロッパの諸国家とキリスト教の関係史について叙述する。ヨーロッパにおいて、政教分離原則の成立は一回的な歴史事象としてあらわれたのではなく、長い歴史的過程のなかで徐々に進行した結果成し遂げられたものである[1]。したがってここでは、その成立史を、近代以前の政治社会にもさかのぼって、その国制や宗教政策を軸に、社会的背景や政治思想史・宗教思想史との関連も含めて記述し、ヨーロッパにおいて統治機構と宗教組織が分離していく過程として説明する。

なお、政教分離原則それ自体に関わる歴史事象については政教分離原則#歴史を参照のこと。

目次

概要[編集]

四福音書記者
新約聖書の中心部分をなすイエスの生涯を記録した文書が四福音書である。4人の福音書記者はそれぞれ象徴を持つ。天使で象徴されるマタイ(左上)。ライオンで象徴されるマルコ(左下)。で象徴されるヨハネ(右上)。雄牛で象徴されるルカ(右下)

冒頭に述べたように、政教分離は一回性をもって説明しうる歴史事象ではなく、78世紀地中海を中心とした統一的な世界が消滅し、コンスタンティノープルを中心とする東方の正教世界から離れて、西ヨーロッパローマを中心としたカトリック世界として成立して以来、長い歴史過程のなかで徐々に進行してきた歴史事象である[1]

国法学日比野勤は、政教分離を「国家の非宗教性、宗教的中立性の要請、ないしその制度的現実化」と規定しており、その制度的現実化によって「宗教は公権力の彼岸に位置づけられ、『私事』として主観的内面性を保障される」としている[1]。そして、そのうえで、

  1. 中世ヨーロッパにおける叙任権闘争
  2. 近世においては宗教改革に端を発して展開した宗教戦争
  3. 近代におけるフランス革命

の3つの事象を、政教分離を巨視的にみた際の重要な画期として指摘している[1]

国家の非宗教性(脱宗教性)については、しばしば「ライシテ」(フランス語: laïcité)の語も用いられる。ライシテは一般に、国家が国教を立てたり、特定の宗教を保護したりせずに、複数の宗教が国家ないし政治から自立しながら相互に平等な地位を保障され、また、そこにおける個人や集団も宗教の選択や信教の自由が保障される原理、またはその制度という理解が一般的である[2]。換言すれば、ライシテとは公的領域を脱宗教化することで私的領域における宗教の自由を保障しようとする公私二元論であり、これは、宗教的ないし民族的な出自を問わない普遍的市民権の土台をなすものである一方、決して、個人の社会的・文化的生活における宗教の役割が小さくなったり、後退したりするという意味(それをしばしば「世俗化」という)ではない[2]。このような原理や制度は、もとより一朝一夕で生まれたものではなく、何世紀にもおよぶゆっくりした歩みの結果、徐々に形成されてきたものである[3]

中世ヨーロッパにおいては、国家と教会、国権と教権とが分かちがたく結びついて、それが一体のものとなっていたために、信教の自由は認められず、国教ないし公認の宗教・宗派以外は「異端」として刑罰を受け、迫害されてきた(詳細は、異端審問を参照[4])。宗教戦争以降、ヨーロッパでは宗教的寛容と国家の宗教的中立の制度がしだいに広まり、現代においては世俗的な立憲国家の憲法原則として広く採用されるところとなっている[4]

本項では、ルネサンス・宗教改革および宗教戦争の時期から、絶対王政、フランス革命を経て国民国家が成立するまでの、16世紀初頭から19世紀前葉にかけてのヨーロッパにおける政教分離の歴史について説明する。

なお、叙任権闘争をはじめとする中世の政教関係史の詳細については中世ヨーロッパにおける教会と国家および叙任権闘争を参照のこと。

ルネサンス[編集]

14世紀イタリア半島では、船体の改良、新型帆船の登場、羅針盤の使用、海図の制作などが進み、地中海から大西洋沿岸をへて北方につらなる航路がひらかれ、さらに15世紀末にはイベリア半島から新大陸へと向かう航路がひらかれて、各地をむすぶ交易が活発化し、商工業がめざましく発展して、その富をもととする都市文化が発展した[5]。特に北部・中部のイタリア都市において市民によって発展させられた学問芸術は、15世紀にはフィレンツェの町を主な舞台として、その内容や様式をめざましく革新した[6]。この革新は、キリスト教成立以前の古典古代文明を意識的に規範としており、それゆえ、この文化ないし文化運動を「ルネサンス」(「再生」)と呼んでいる[6]

フィレンツェ生まれの詩人ダンテ・アリギエーリは、13世紀末葉から14世紀初頭にかけて都市国家相互および国家内部の峻烈な抗争を体験したところから、その激しい対立を調停するものとしての皇帝、また、平和を実現する基盤としての普遍的帝国を熱望した[6]。彼はフィレンツェ市執政官となりながらも亡命を余儀なくされ、その旅のなかで名作『神曲』を著したが、これは、当時、教会用語であったラテン語に対し、感情を直接に表現するものとして「俗語」すなわち彼らの日常語トスカーナ語を用いた点も大きな特徴であった[7]。ラテン語を必要とする職業の人々とりわけ都市国家の書記として外交文書などを作成する公証人は、修辞や語法を学ぶために古典作品を研究し、そのなかで、聖職者が説くような人間の悲惨さや罪深さ、あるいは人生のむなしさばかりではなく、市民として現世を生き、高貴さをも有する現実の人間そのものを肯定する古代の思想にふれ、そして、それに共鳴するようになっていった[8]。かくして、亡命フィレンツェ人公証人を父にもつペトラルカのように、市民のなかから、古典の修辞のみならず思想をも研究する「人文主義者」と呼ばれる一群の人びとが出現したのである[8]。ペトラルカも俗語で著作し、こうしてトスカーナ語は洗練され、やがてイタリア各地でラテン語にかわる標準的な文語の地位を獲得していった[8]。ペトラルカの若き友人ジョヴァンニ・ボッカッチョはその俗語作品『デカメロン(10日物語)』において、キリスト教の僧侶の実態を暴露しつつ、彼らを揶揄している[6]。全部で100話ある『デカメロン』収載の「3つの指輪」では、キリスト教、ユダヤ教イスラームのあいだでその優劣を語ることは無意味であるとしており、そこには他宗教に対する寛容の精神がみてとれる[6]

フィレンツェでは、1400年前後の国家存亡の危機を契機に、人文主義者レオナルド・ブルーニ英語版が、君主政治に対する共和政治の優越という政治宣伝をおこない、市民の政治への積極的な参加を促した[8]。この危機を脱出したのち、フィレンツェでは古代文化への嗜好が急速に普及し、美術においても古代ローマの様式や題材、すなわち非キリスト教的な題材を取り入れた作品が数多く制作されるようになった[8]。芸術家たちは個人の表情や性格、風景を正確にえがくために人体や自然をこまかく観察し、幾何学的遠近法や比例原理(黄金分割比)などをさかんに研究したが、ここでも古代ギリシャ・古代ローマの建築彫刻が参考にされた[8]1439年コンスタンティノープル東方教会とローマの西方教会の合同公会議がフィレンツェで開催された[8]。東方教会の一行には多数のギリシャ人古典学者がふくまれていたが、かれらの滞在を契機としてギリシャ語による古典研究がさかんとなった[8]。フィレンツェのコジモ・デ・メディチマルシリオ・フィチーノプラトンはじめギリシャ語文献の翻訳を命じ、その周囲に集まったプラトン・アカデミーのなかにはピーコ・デラ・ミランドラの姿もあった[8]。ピーコによれば、が創造した宇宙は人間の知性では理解しがたいもので満ちており、人間は信仰と知性とに分裂して不安のただなかにあるものの、しかし、その一方を選択する意志のなかにこそ人間の自由が存し、この自由によって人間は宇宙の中心におかれているのだと説き、師フィチーノの人間中心主義を自由意思の哲学へと発展させた[8][9]。プラトン哲学の神髄にふれて「人間の尊厳」というアイディアを引き出したピーコは、900におよぶ教説集を準備したが、そのなかにはキリスト教教義にまっこうから逆らうものが13もあるといわれている[9]

1513年、前年までフィレンツェ政府書記官であったニッコロ・マキャヴェッリは『君主論』の執筆に取りかかった[10]。かれは、イタリアの政治的安定を至上命題にかかげたうえで、理想的な君主とは「獅子」のごとき有無を言わせぬ実力と「」のごとき狡知を兼ね備えた人物であると説く[10]。そこでは、キリスト教的道徳から独立した現実主義的な政治論が語られているのである[10]。マキャヴェッリはまた、一方では古代の道徳とローマの宗教を復権させている[11]。マキャヴェッリによれば、市民宗教のおかげで、古代ローマの人びとは法にしたがう習慣を身につけたのであり、そこで肯定される宗教とは、のちにジャン=ジャック・ルソーが「市民宗教」と呼称したものに内容として近いものであった[11]。これに対し、ネーデルラントロッテルダム出身の人文主義者デジデリウス・エラスムスは寛容を称賛した[11]。エラスムスの代表作『痴愚神礼讃』は彼の名とその才智を全ヨーロッパに知らしめた[12]。そこでは、人びとの無知をよいことに偽善をはたらく聖職者の腐敗ぶりが徹底的にこきおろされている[12]

グーテンベルク印刷の『新約聖書』(1455年頃)

15世紀なかば、ドイツマインツで、ひとりの職人金属活字を開発し、ブドウ圧搾機械を転用して活版印刷の実用化に成功したといわれている[13]。これが、「ルネサンスの三大発明」のひとつとされる、世にいう「グーテンベルクの活版印刷」である[13]。活版印刷術はイタリアやフランスへと波及し、各地にいくつかの印刷センターが生まれたが、そのなかでヴェネツィアリヨンは重要な拠点であった[13]。印刷本は当初はキリスト教関係の書籍が大多数をしめているが、人文主義者による古典のテキストも少なくなかった[13]。いずれにしても、活版印刷の発明は、文献そのものがそれまでのせまいサークルや特権的なギルドのなかで専有されるのではなく、いわば「解釈の市場」が開発されるという意味できわめて大きな影響力をもつ、革命的な出来事だったのであり、それは宗教改革宗教戦争あるいは啓蒙主義市民革命など、時代がすすむにつれていっそう重大な社会的影響をヨーロッパ社会におよぼしていくこととなった[13]

宗教改革と宗教戦争[編集]

西ヨーロッパにおけるキリスト教は、教会の明確な多元性を創出したプロテスタント(「抗議する者」)の宗教改革とともに分解し、政治と宗教の関係はそこから大きく変化していった[11]

宗教改革は純粋に宗教内部の問題から出発したにもかかわらず、すぐに世俗的問題と結びついてヨーロッパ近代思想の成立にも影響を及ぼした。宗教改革が主権国家を単位として宗教生活を規定する方向に進んだことは、普遍的なキリスト教世界に立脚していた一つの教会という理念を崩壊させ、教権の基盤を脅かした。近代にはいると、すでに教権は各主権国家に対して優位性を主張することができなくなり、今日まで続く国民を単位とした政治社会が形成される端緒となった。一方、思想面においては内面の自由、良心の自由が確立され、近代政治思想における基本概念の一つとなっていった。

ドイツの宗教改革[編集]

マルティン・ルター(1483-1546)
「95カ条の論題」を発表して[* 1]、贖有がもたらす宗教的危機を指摘した。これは当初の予想をこえて教義論争に発展した。

1517年アウグスティノ修道会士であったルターが当時、サン・ピエトロ大聖堂改修資金として販売されていた贖宥状を批判した「95ヶ条の論題」を提示し、さらに行為義認でなく信仰によってのみ義とされると唱える信仰義認や、万人祭司を主張してカトリックの教階制(聖職位階制)を否定し、教会は全信徒によって構成されるものとする宗教改革がはじまった[14][15][16]

「95ヶ条の論題」は活字印刷されて反響を呼び、1518年8月、ルターは2か月以内にローマに出頭せよという命令を受けるが、これを拒否し、同年10月の教皇使節カエタヌス枢機卿の審問では自説の撤回を頑強に拒んだ[16]。翌年の[[ライプツィヒ討論]]ではさらに、公会議の無謬性を否定し、ローマ教会との断絶を宣告するにいたった[16]。1521年、教皇はルターを破門し、ルターと彼を支持する人びと(ルター派)はカトリックから分離した[16]。しかし、ザクセン選帝侯フリードリヒ3世(賢公)はルターを保護した[16]。「論題」発表当初は贖宥状をめぐる僧職どうしの内輪もめと世間に受け取られていたが、やがて教皇首位権が主要な争点になると、人文主義者も続々とこの論争に関与するようになった[15][16][17]

ルターの思想[編集]

ルターの思想は古代(初期キリスト教)のアウグスティヌスの思想から決定的な影響を受けている[16][* 2]。その要点を示すと、信仰における個人主義と内面の尊重、自由意志の否定、「二王国論英語版」である[18]

ルターはアウグスティヌスに従って人間の原罪を重視し、人間は本質的に罪人である上に神の絶対的支配の下にあるのだから、神の意志を超えた人間の意志による善行があるとすれば、それによって救われるのではないとして自由意志を否定し、ただ神の恩寵(恵み)によってのみ救われることが可能であるとした[16][19]。これは善行を積むことによって救われると説く当時のカトリック教会に異を唱えるものであった[19]。そして、この神の恩寵に預かるためにはひたすら神を信頼し、信仰を寄せることによって救いに至ることができるとした[18]。すなわち、これが、上述した「信仰義認」であり、ルターは「塔の体験」を通じて、神の義とは、神が罪人を罰する「能動的な義」ではなく、罪人が罪あるままで神から無償の賜物として与えられる義、すなわち「受動的な義」であることに目覚めたのである[19][* 3]。そして、この神と個人との間に介在するものはなく、ここから万人司祭主義、神の前での信仰における人間の平等、聖職者の特権の否定が説かれる[18]。従来、教義を含めた信仰の根拠は教会に求められていたのに対し、ルターはそれを聖書にあるとする。たとえ教会の教えであっても聖書に記載のないものは神の言葉ではないとルターは主張する[18]。「聖書のみ」の考え方がそれで、聖書に根拠のないマリア崇拝煉獄秘蹟を排除して、一方では聖書をドイツ語訳して一般信徒も読めるようにし、教会が独占していた聖書の解釈も万人が自由におこなってよいと述べた[16][19]。以上のように、ルターは聖書解釈や信仰における教権の優位性を否定した[11][18]。ただし、ルターは神の言葉への奉仕者としての牧師(教師)職は必要と考えた[19]

ルター像
ヴォルムスにある。中央のひときわ高い位置に立つのがルター像。チューリヒのツヴィングリ像が自ら剣を持ち武装していたのに対し、この像ではルター自身は剣を持たず、側に控えるフリードリヒ賢公が武装している。

政治社会との関係でいえば、重要なのは「二王国論」である[11]。ルターは神がこの世界に二種の支配(2つの王国)を作り出したといい、一つは霊的な教会で、目に見えないものでありかつキリスト教徒のみに許されているという。もう一つは世俗的な剣の支配で、これはキリスト教徒に限られず、世界のあらゆる民族を包含している。ルターはキリスト教に反しない限り世俗支配は積極的に受け入れるべきであると説くが、一方、教皇もしくは皇帝が違反した場合にはこれに抵抗することができるとしている[16]。すなわち、ルターは、キリスト教世界の問題としてこれを考えていたにもかかわらず、宗教権力の優越という考え方には異議を唱え、結果的に政治的なものを利することになったのであり、ある意味では、政教分離の強力な推進者であった[11]。とはいえ、ルターはあらゆるキリスト教徒が抵抗の主体となることを認めているわけではなかった。抵抗の主体となりえるのは自らの領民をキリスト教のもとに保護する責務がある諸侯のみである[16]。しかも世俗法においては皇帝と諸侯は契約によって関係を結んでいるのだから、同等であるとする。農民のような民衆は皇帝と対等ではないので、抵抗すれば反乱となる[18]。これは結果として信仰における諸侯の絶対的権限および領邦教会制度(後述)を理論的に認めるものであり、ルターの社会的・政治的見解は、このようにきわめて保守的なものであった。

福音主義運動としての宗教改革[編集]

ルターの宗教改革は、福音主義運動という性格を濃厚に有しており、その教義はルター個人の思想を超えてはるかに複雑な様相を呈した[16][20]。このことは、一つには、聖職者に対する失望と幻滅の長い歴史の産物でもある、一般信徒における根深い反聖職者主義が援用されたことにも由来している[20]。聖職者たちは、偽善暴君的行為、詐欺をはたらき、あるいは一般信徒の宗教心を食いものにし、不当な報酬請求や不必要な取り立てで人びとを困窮させているという理由で攻撃の対象となった[20]。かれらは、「福音の敵」すなわち悪魔の同盟者として描かれ、その最たるものがローマ教皇その人とされたのであった[20]。教皇は悪魔の目的のためにドイツの人びとを搾取するものであって、地理的にも、形而上学的にも「外部の人」とされたのである[20][21]。逆にいえば、俗人は救いのためにもはや聖職者を必要とせず、キリスト教徒は個人において聖書を通じて神と直接出会い、救いを自由に得られることでもあった[20]

1520年、ルターは宗教改革の三大文書、『教会のバビロン捕囚』『キリスト者の自由』『ドイツ国民のキリスト教貴族に与える書』によって改革の理論と実践を固めた[15]。とくに『ドイツ国民のキリスト教貴族に与える書』では、ドイツの諸侯に対し、その職務に基づいて改革運動に加わるよう呼びかけたため、結果的に政治への関与を促した[15]。ローマ教皇レオ10世は1520年6月、ルターの教説を批判する勅書を発布したが、ルターはこれを公然と火中に投じ[15][19]、1521年1月、上述したようにレオ10世はついにルターを破門した[15]。ルターをかくまったフリードリヒ賢公は、神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王としてはカルロス1世)と交渉して、皇帝の保障する安全通交証のもとにヴォルムス帝国議会でルターを査問させることとした[15]

1521年4月17日、ルターはヴォルムス帝国議会で査問を受けた[15]。彼がここで主張の撤回を拒否して「私はここに立つ」とその決意を述べたことはよく知られている[15][19]。皇帝カール5世は1521年5月26日、ヴォルムス勅令を発し、ルターとその教説にしたがうこと、その著作を印刷、頒布することを禁じ、ルターを異端者として処罰すること、ルター逮捕に協力した者に報酬をあたえることなどを伝えた[15]

ドイツ農民戦争を指揮したトマス・ミュンツァー(1489-1525)

宗教改革はしかし、決してルター個人によって担われたわけではなかった[22]。上述したエラスムスやジャック・ルフェーヴル・デタープルといった人文主義者はさかんに聖書の翻訳や解釈をおこない、宗教改革の温床となった[19]。宗教改革が「エラスムスが卵を産み、ルターがそれを孵化した」といわれる所以である[19]。すでに宗教改革を予告するような思想を表明していたエラスムスはローマ教会の外形的な儀式などはどうでもよいものとして退け、当初はルターに対しても好意を示していたが、「自由意思」の問題をめぐってルターと鋭く対立、ルターからの反論もあって1524年には決別した[16]。後述するフルドリッヒ・ツヴィングリ、一時期ルターを支持するがのちにツヴィングリのもとに逃れるウルリヒ・フォン・フッテン、ルターの思想の体系化に尽力したフィリップ・メランヒトン、また、ヨハン=エバーリン・フォン・ギュンツブルク英語版なども大きな役割を果たした[22]。ルターのもとに集まった人たちのなかで、メランヒトンはルターとほぼ同じ路線で改革を進めたが、聖職者の独身制を廃止し、より簡素なミサを始めたヴィッテンベルクの教授アンドレアス・カールシュタット英語版はルターと対立するまでとなり、さらに「すべての聖職者を殺せ」と主張するツヴィカウ急進派などもあらわれた[15]。「ツヴィカウ預言者」と呼ばれる一群のこうした過激な行動をルターは抑えようとしている[15]

1522年、ルター支持の困窮する騎士階級・貴族階級の人びとがフッテンらの指導の下で蜂起した[16]。かれらはドイツの自由と真の信仰の実現を求めて各地で戦闘したが、1年後に鎮圧された[16]。これが「騎士戦争」である。また、「ツヴィカウの預言者」のひとりトマス・ミュンツァーは、大胆な社会変革なしに宗教上の改革は実現不可能だとして立ち上がり、これに共鳴した貧農が大規模な農民一揆を起こし、ミュンツァーがこれを指導してドイツ農民戦争(1524年-1525年)へと発展していった[15][16]。ここでは、農民たちによって牧師を自由に選択する権利、教会税の軽減、農奴制の廃止が要求事項として掲げられた[16]。ルターは当初農民に同情的だったが、現世の国のことは世俗権力に委ねるべきだとし、戦闘をやめない農民を「狂犬」と呼んでシュヴァーベン同盟軍による農民鎮圧に加勢した[15][16]。ミュンツァーとルターの対立は決定的となり、ルターはミュンツァーを「アルシュテットの悪魔」と呼び、ミュンツァー側は諸侯に対して妥協的なルターを「うそつき博士」と罵倒した[15][* 4]

シュマルカルデン戦争[編集]

神聖ローマ皇帝カール5世(1500-1558)
父方はハプスブルク家、母方はスペイン王家の出身で、フランドルヘント生まれ。スペイン王としてはカルロス1世、神聖ローマ皇帝としてはカール5世。ドイツにいることは少なく、ドイツ語を話せなかったといわれる。

1526年、ルターに対してそれまで敵対的であった皇帝カール5世は、スレイマン1世率いるオスマン帝国の脅威がせまるなか、諸侯の協力が不可欠とみて、シュパイアー帝国議会(第一次)をひらいてルター派諸侯の領内での宗教改革を許した[16]。ザクセン選帝侯はさっそく、ルターに領内の教会の組織化を命じ、1528年ザクセンの各教区を州知事が任命する牧師にまかせて、同時に教会巡察制度を設けた[16]。他の改革派諸侯もこれにならってルター派教会が各地に広がっていった[16]巡礼、贖宥状、聖人崇拝、聖遺物崇敬、兄弟会などの習俗は廃止されたが、実際に領邦教会制度が始動したのはこのときであった[16]

1529年、カール5世は再度シュパイアー帝国議会(第二次)を開催したが、ここではカトリック諸侯の巻き返しにより、宗教改革の自由は取り消され、ヴォルムス勅令が復活した[16]。この措置に対し、改革派の諸侯と帝国都市が抗議(プロテスト)した。これが、「プロテスタント」の名の起こりである[16]

1530年、カール5世はアウクスブルク(現、バイエルン州)に帝国議会を招集した。この議会では両派の歩み寄りの努力がされたが、結局決裂した。さらに同議会ではルター派の側から穏健ルター派メランヒトンの手になる「アウクスブルク信仰告白」が提出されたが、ツヴィングリやシュトラースブルク(ストラスブール)などの改革派4都市が独自の「信仰」を提出し、プロテスタント内部の宗派分裂も明らかとなった。議会ではカトリックが優勢を占め、最終的決定は翌年の議会に持ち越されたものの、カール5世は1521年のヴォルムス勅令を厳しく執行するよう命じた[23]

アウクスブルク帝国議会(1530年
この議会ではプロテスタントとカトリックの歩み寄りが期待されていたが、結局はカトリック側の主張がほぼ一方的に認められた形となった。

これに対してプロテスタントの帝国諸侯・諸都市はアウクスブルク帝国議会直後にシュマルカルデンドイツ語版(現、テューリンゲン州)に集まり、皇帝とカトリック諸侯に対抗するための軍事同盟結成を協議し、翌1531年2月にヘッセン方伯とザクセン選帝侯を盟主とするシュマルカルデン同盟が結成された[16]。宗教戦争が一触即発に迫ったが、カール5世は妥協し1532年にニュルンベルクの宗教平和によって暫定的にプロテスタントの宗教的立場が保障された。この宗教平和を境にプロテスタントは勢力を一気に拡大した。南ドイツのヴュルテンベルク公領では、プロテスタントであったために追放されていたヴュルテンベルク公ウルリヒが1534年に復位し、北ドイツでも同年ポメルン公、1539年にザクセン公とブランデンブルク選帝侯がプロテスタントに転じた。西南ドイツではルター派以外の改革派信仰が広がっていたが、教義上の問題で妥協しプロテスタントの政治勢力は統一性を持つようになった。カトリック諸侯の側もニュルンベルクで同盟を結成し、プロテスタントに対抗した[23]

カール5世は対外的な事情から情勢を静観していたが、フランスとの講和がなると一転ドイツ国内の問題に専心するようになった。1546年にはルターが死去し、同年ザクセン公が選帝侯の地位を条件に皇帝支持に転じた。それ以前にヘッセン方伯も重婚問題からカール5世につけこまれ、政治的に中立を守らざるをえなくなっていた。自身に有利な条件が整ったと感じたカール5世は同年シュマルカルデン戦争をおこし、シュマルカルデン同盟を壊滅させ、翌年のアウクスブルク帝国議会ではカトリックに有利な「仮信条協定」が帝国法として発布された[16]。皇帝は西南ドイツの帝国都市のツンフトが宗教改革の温床であると考えてこれを解散させるなど強硬な政策を実施した。カール5世の強硬な政策をみて、徐々にカトリック諸侯も反皇帝に転じ、息子フェリペ(のちのフェリペ2世)にドイツ・スペインの領土と帝位を継承させようとすると、ますます反発を招いてカール5世は孤立した[23]

諸侯戦争とアウクスブルクの宗教和議[編集]

アウクスブルク宗教平和令
1555年マインツで印刷された版本の表紙

このような情勢のなか、ザクセン公が再び反皇帝・プロテスタントの側に転じ、1552年におこった諸侯戦争ではカール5世の軍を破り、パッサウ条約を結んで「仮信条協定」を破棄した。この敗北からカール5世は弟のフェルディナントに宗教問題の解決を任せ、1555年にアウクスブルク帝国議会をひらいて、アウクスブルク宗教平和令を決議させた[16]

これにより諸侯は、カトリック教会かルター派教会のいずれかを選んでそれを領民に課す権利を得た[16]。同時に、カトリックとルター派は信仰を理由とした暴力の行使を禁止されたものの、カルヴァン派やツヴィングリ派は信仰の自由の対象から除外された[15]。また、この平和令により諸侯の信仰の自由が認められ、領民はそれに服するべきであるとされ、やがて「一つの支配あるところ、一つの宗教がある ("Cuius regio, eius religio")」の原則のもと、諸侯が自身の選んだ信仰を領内に強制することができる領邦教会制度が成立した[15][24][25]

領邦教会制度の確立とルター派教会の広がり[編集]

領邦教会制は宗教を政治に従属させるもので、領邦国家の自立を教皇も皇帝も認めざるをえなかったため、ドイツの宗教改革における真の勝利者は領邦君主であったともいわれる[15]。領邦君主はカロリング朝リウドルフィング家のオットー朝のように「キリストの代理人」として教会を支配したわけではなく、端的には世俗国家による宗教管理であり、その意味からは聖俗分離の帰結であり、信仰の個人化と政治の世俗化の進行を促すものであった[15]。アウクスブルクの宗教和議は、神聖ローマ帝国という1つの政治単位のなかに、従来のカトリック教会とはまた別に新しい教会としてルター派教会(ルーテル教会)を認め、2つの信仰共同体に対等な法的地位を認めたことに画期性が認められる[18]。ここでは、個人における信教の自由は保障されるべくもなかったが、にもかかわらず国制における宗教多元化の第一歩だったからである[18]。他方、カトリック教会も中世以来の世俗権力を有しており、トリアーケルンマインツ大司教神聖ローマ帝国選帝侯でもあった[26]。このようにドイツの領邦教会制では、中世の国家・教会関係が、大枠においては継承されたのであった[27]

ルター派教会はドイツからさらに北方の諸地域へと広がり、現在でもなおデンマークスウェーデンノルウェーフィンランドでは「国教会」としての地位を得ている[18]。これらの地域では、カトリックからルター派へと信仰が置き換わったものの、2つの教会のあいだに強い同延性がみとめられた[18]。これらの地域で教会堂の内部にルターの巨大な立像を見かけることが多いのも、そうした同延性の原則が保持されてきた現れとみなすことができる[18]

スイスの宗教改革[編集]

ドイツでルターによって宗教改革の火蓋が切られた頃、スイスでもほぼ同時にフルドリッヒ・ツヴィングリによって福音主義的改革が進行していた。ツヴィングリは改革の半ばで戦場に斃れ、その事業は頓挫したが、ジュネーヴカルヴァンが現れ、より厳格な改革を実行した。当初は非常に非寛容で妥協を許さなかったカルヴァン主義であるが、各国で政治権力により迫害を受けるようになると、「寛容」を主張して変貌し、やがて近代的な政教分離の主張を展開していくことになる[28]

ハプスブルク家との抗争とスイスの政治的独立[編集]

スイスの建国神話として今日一般にヴィルヘルム・テルの物語が知られるが、これはスイスの国民意識が高まった15世紀中ごろに世に広まりはじめたものであると考えられている[29]

「永久同盟」文書
1291年8月1日、ウーリ・シュヴィーツ・ニトヴァルデン三者がハプスブルク家を意識しつつ、相互援助を約した。現在のスイスでは、この同盟締結の年を建国の年とし、8月1日が建国記念日にあたる。

1200年ころ、ゴッタルド峠(ザンクト・ゴットハルト峠)が開削されると、多くの商人がこの新しい峠を好んで利用するようになり、それまで周囲から隔絶され、僻地とされてきたウーリ地方は、一転交通の要衝とみなされるようになった[30]ホーエンシュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、この地の支配権をハプスブルク家に担保として提供し、イタリア政策の遂行資金にあてようとしたが、峠の開通で比較的富裕になっていたウーリの住民は自力で抵当を解除した[30]1231年、フリードリヒ2世によってドイツ統治を任されていたハインリヒは証書を発給してウーリは「帝国自由」(帝国直属)の地位を獲得することができた[30]。これにより、ウーリは近隣領主の支配を受けず、「自由と自治」を享受することができるようになったのである[30]1239年には同じくシュヴィーツ地方も帝国直属の地位を獲得した[30]ニトヴァルデンオプヴァルデンの両渓谷地方(合わせてウンターヴァルデンという)も、ウーリやシュヴィーツと同等の地位を願ったがこれは簡単ではなく、1291年8月1日、ウーリ、シュヴィーツ、東部のニトヴァルデンが「永久同盟」を結び、同年12月には西部のオプヴァルデンも盟約に加わった[31]

モルガルテンの戦い(1315年)
1470年の『チャフラン年代記英語版』の挿絵

1314年冬、放牧地を巡る争いからシュヴィーツがアインジーデルン修道院を襲撃すると、これを口実にハプスブルク家のフリードリヒ3世(美王)は1315年11月15日大軍をもってスイスに侵攻したが、原初三邦(ウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンをスイス形成の核になった地域という意味でこう呼ぶ)の農民軍はモルガルテン山からの奇襲攻撃によってこれを壊滅した(モルガルテンの戦い[31]。こののち、12月9日には盟約が更新され、スイス盟約者団はさらに結束を強化した[31]14世紀には、ルツェルン1332年)、チューリヒ1351年)、グラールス1352年)、ツーク(1352年)、ベルン1353年)の各地域が原初三邦の盟約に加わり、八邦同盟の時代と呼ばれた[31]。ただし、八邦同盟は決して一枚岩ではなく、内容も質も異なる複数の盟約のゆるい結合であり、すべての同盟に加わっているのは原初三邦だけであった[31]。こののち14世紀から15世紀を通じて、スイス盟約者団とハプスブルク家との抗争は続き、15世紀に入るとその力関係は逆転、盟約者団はハプスブルク家の勢力をスイスから駆逐していった[31][32]

1499年、ハプスブルク家出身の皇帝マクシミリアン1世がスイス盟約者団によって古領を奪われたとして戦争を仕掛けたが(シュヴァーベン戦争ドイツ語版英語版)、盟約者団はこれを撃退し、この勝利により事実上神聖ローマ帝国からの独立を果たした[32][* 5]。そして盟約者団は、1513年アペンツェル同盟によって13の地域が結合する国家団体となり、今日のスイスの基本的な国家枠組みにつながる十三邦同盟体制が確立し、この体制は1798年まで維持されていった[32]

長期の軍事的緊張を乗り越えたスイスは、ヨーロッパ有数の軍事力を持つ国家となっていた[32]。強力な軍事力を頼んでスイスは当時のイタリア戦争に介入し、一時はミラノ公国を保護国化する勢威を示し、1513年ノヴァーラの戦いフランス語版ドイツ語版英語版では強大なフランス軍を大敗させ、ロンバルディア地方に覇権を確立した[32]。ところが、1515年ルイ12世が没し、名君として知られるフランソワ1世が登位すると、同年のマリニャーノの戦い英語版では盟約者団はこの若き王に大敗北を喫し、以後、スイスは南方へ向けての膨張政策を完全に断念した[32]。しかし、こののち、フランスは積極的にスイスの傭兵を軍事的に重視し、これを頼りにする策に転じていった[32]

ツヴィングリの宗教改革[編集]

スイスのバーゼルでは1431年以降、大規模な公会議(バーゼル公会議)が長期にわたって開催され、ヨーロッパ各地から学者・文人が集まり、1460年にはバーゼル大学も創設されて、盟約者団やアルザス地方から多くの学生を集めて人文主義運動の一大拠点となっていた[33]。『阿呆船』の大ベストセラーで知られるゼパスティアン・ブラント英語版もこの大学で学んだ[33]。画家では、若きアルブレヒト・デューラーハンス・ホルバインがこの地で活躍した[33]。ヨーロッパ中を放浪した人文主義者エラスムスも1514年以降はここに定住した[33]。詩人で音楽家のグラレアヌスザンクト・ガレンの宗教改革者ヨアヒム・ヴァディアン英語版、そしてフルドリッヒ・ツヴィングリもこの地で学んでいる[33]。ツヴィングリはウィーンに滞在して人文主義の影響を強く受けたのち、1502年にはバーゼルに戻って勉学に精励し、1506年には修士の学位を取得、その年から1516年まではグラールス司祭、1516年から1518年末にはアインジーデルン修道院の司教司祭を務めた[33]。エラスムスとは司祭時代の1514年に出会い、親交を結んだ[33]。このころにはツヴィングリもスイス人文主義の頂点に立つ存在となっていた[33]。1518年末、都市チューリヒはすでに高名な人文主義者となっていたツヴィングリを司祭として招いた[33]

ツヴィングリの思想[編集]
マールブルク会談英語版(1529年)
この会談でルターとツヴィングリは教義について多くの一致点を見いだしたものの、結局は両者の思想の相違が目立つ結果となった[34]

フルドリッヒ・ツヴィングリは後世に「ツヴィングリ派」ともいうべき固有の宗派を残さなかったために、その業績はややもすると限定的に捉えられがちだが、彼をルターやカルヴァンらと比べて二次的な地位に留めることは適切であるとはいえない[35][36][37]。ツヴィングリの思想は多くの点でルターとの一致を示すものの、ルターとは異なり、人文主義スコラ学の著しい影響が認められるのであり、彼をルターの亜流と見なす考えはこの点で明らかな誤解に基づいている[* 6]

ツウィングリは、聖書原理の実現をはかり、四旬節における肉食禁止の廃棄、聖書に根拠のない聖人崇拝の廃止、修道院制度の廃止、聖職者の独身制の解除などを主張し、生活全般が「聖書のみ」によって規定されるべきであると説いた[33]。そして、信仰義認をいっそう明確にして、宗教を含めた生活の監督は信徒の共同体(ゲマインデ)によって、つまり教会ではない住民の自治組織によって行われるべきだとした[33]。ツヴィングリはこのような自治組織の権威は神に由来し、聖書の解釈をする権威さえも保持していると唱えたのである[38]

チューリヒ改革[編集]
ツヴィングリ(1484-1531)像
チューリヒのリマト川の岸辺に立っている。右手には聖書、左手に大剣、兜を被り、説教服の下は鎧で武装している。

1518年12月の末からチューリヒの教区司祭・説教者となっていたツヴィングリは、1519年初頭から「マタイによる福音書」の説教を開始した[33]。これがスイスにおける福音主義的改革の幕開けとなる。ツヴィングリはエラスムスを通じて、キリスト教を原典から学ぶことの重要性を認識していた。そのためこのマタイ連続説教においてはヴルガタ(ヴルガータ訳ラテン語聖書)を使用せず、エラスムスの『校訂ギリシア語新約聖書』を使用した[39]。やがて彼の周囲に新しい福音理解に共鳴する信奉者が集まるようになり、旧来のカトリック的信仰理解を堅持する者たちとの間に徐々に疎隔が生じていった[39]。ドイツの広大な領邦に比べて狭小な地域共同体であるカントン(邦)の内部での対立は、たちまち先鋭化した[39][* 7]

1522年3月、受難節断食期間が訪れた際、ツヴィングリ支持者は集まって乾いたソーセージを切り分けて食し、「聖書のみ」の考えを実践した[40]。ツヴィングリは聖書に記載されていない事柄は聖書の教えに反しており、禁止されるべきという考えを持っていた[40]。さらにその10日後、ツヴィングリは「食物の選択と自由」という説教をおこない、これに対しチューリヒ市参事会は支持を表明した[40]。チューリヒはツヴィングリの福音主義運動の拠点となったのである[40]。そして、ツヴィングリは『最初にして最終的な弁明の書』をコンスタンツ司教に宛て、明確に「聖書のみ」を規範とすべきことを表明した[40]。ツヴィングリ派とカトリック派の対立は激化し、市内での武力衝突の危機も迫ったので、チューリヒ市参事会は最終的な決定を下すべく、1523年1月29日にカトリック側聖職者を迎えて公開討論を開催することとした[40]。チューリヒの市長および市参事会は都市と支配下の農村の全聖職者を参集させて、ツヴィングリの主張する教説に対しては、聖書のみにもとづいて、ドイツ語で討論するよう命じた[33]

ツヴィングリは公開討論のために自らの信仰を明らかにするため、『67カ条の提題』を公表した[33][40]。この文書の中でツヴィングリは「聖書のみ」の原則を表明し、聖書に根拠がない教皇制度や祝祭日・修道制・独身制・煉獄を批判した[33]。その一方、教会の監督は信徒の集まりが行うべきであるとし、市参事会による宗教の管理を暗に正当化していた。さらに社会倫理について『神の義と人間の義』の説教をおこない、これによりチューリヒにおける宗教改革の方向性が明確に定められた[33]。すなわちチューリヒでの宗教改革は都市共同体という政治秩序の積極的な関与の下におこなわれたのである[33]

1523年10月には第二回の公開討論会が開かれ、聖画像やミサの廃止が現実の議論の対象となった[33]。その結果、これらカトリック儀式の廃止が原則として廃止が決定されたが、その廃止時期をめぐっては激しい対立が生じた[33]。ツヴィングリにしたがっていたコンラート・グレーベルドイツ語版英語版らのちに再洗礼派を形成する過激派は。ミサや聖画像が非聖書的とされた以上はただちに廃止すべきと主張したのに対し、ツヴィングリは急激な廃止による騒擾の発生を懸念していた[33]。結局、1524年6月には市内全域から聖像画聖遺物ステンドグラスが取り除かれ、12月には修道院がすべて閉鎖されてその資産はカントンに接収された[33]。そして1525年3月の復活節を境に、ミサは完全に廃絶され、替わって福音主義の聖晩餐が導入された。また同年6月には福音主義の司祭養成のため「カロリーヌム」が開設された[* 8]。こうしてスイスにおける福音主義運動は着々と橋頭保を築きつつあったが、この時点では、スイス内における福音主義の孤立は明らかであった[33][41]。ウーリ・シュヴィーツ・ウンターヴァルデンなどの保守的なカントンではカトリック信仰に揺らぎはなく、福音主義に染まったチューリヒに対して旧来の信仰への復帰を求め、チューリヒを異端と断じて盟約からの追放を宣言した[33][41]

カッペル戦争とカッペル和議[編集]

1528年1月、盟約者団中でも有力なカントンであるベルンが福音主義に転じ、1529年2月にはバーゼルで民衆蜂起が起こり、こちらも福音主義に転じた[41][42]。さらに盟約者団の外部であるが、近隣のザンクト・ガレンコンスタンツでも福音主義が影響力を増し、福音主義のカントンと軍事同盟を結んだ[41]。一方、インターラーケン修道院廃止後の修道院の継承者はベルンからの自立をはかろうとしていたが、修道院長が支配権を都市に引き渡して修道院内の財宝・銀器がベルンに持ち去られたことを契機に、憤激した農民がカトリックに再びもどり、それをカトリック諸邦が支援するという事態も生じた[42]。カトリック派のカントンは宿敵であったはずのハプスブルク家も巻き込んで軍事同盟を結成し、両者は同年6月、カッペルの野で対峙した(第一次カッペル戦争[41]。一触即発の危機が迫ったが、ここで両者は歩み寄り、グラールスの調停もあって「現状維持」を約束して和睦した(第一次カッペル和議[41][42]。すなわち、福音主義に転向したカントンはその信仰を認められるが、カトリックのカントンへの布教を許されず、その逆も然りとされたのである[41][42]。ここに信仰の「属地主義」、すなわち「一つの支配あるところ、一つの宗教がある ("Cujus regio, ejus religio")」が認められ、スイスは他のヨーロッパ諸国に先駆けて改革派とカトリックの共存する地域となった[41]。上述したアウクスブルク和議より二十数年前のことであり、スイスはヨーロッパにおける宗教多元化の最初の例となったのである[41]

第二次カッペル戦争(1531年)
ツヴィングリ率いるチューリヒ市民軍は圧倒的な人数のカトリック軍を迎え撃った。この乱戦の中ツヴィングリは戦死した。1548年に描かれた図版

第一次カッペル和議はスイスに平和と安定をもたらしたかに見えたが、ツヴィングリは現状維持に不満で、福音主義の宣教を軍事的拡張によってでも実現すべきと考えるようになっていた[42]。一方ドイツではルター派は皇帝の圧迫を受けて存亡の危機が迫っていたため、同盟者を必要としていた[34]。ここにルターとツヴィングリの利害の一致点があり、1529年10月、ヘッセン方伯フィリップの斡旋により、マールブルク城で会談が開かれ、ルターとツヴィングリの間で軍事同盟と教義の一致が検討された[34]。この会談において、両者の教義の多くの点で一致を見たものの、最終的には聖餐理解を巡って鋭く対立した(聖餐論[34]。カトリックでは、パン葡萄酒聖別されると、実体的にキリストのからだと血に変化するという「化体説」を公認していたが、ルターはキリストのからだと血は、聖体拝領のパンと葡萄酒の中に、その下にそれとともに実在するという「両体共存説」をとってカトリック的痕跡をとどめた[19]。それに対し、ツヴィングリは「象徴説」を採用し、パンと葡萄酒にはいかなる意味においてもキリストのからだと血は実在せず、キリストの死を象徴する記号であるにすぎないとしており、ただこの1点について折り合いがつかなかったため、結局のところ、物別れに終わったのである[19][43]。これは、プロテスタント内部の分裂の一因となった[19]

ツヴィングリはその後も強硬にカトリック諸州の軍事的制圧を主張したが、ベルンをはじめとする同盟諸邦の賛同を得られず、ベルンの提案にしたがってカトリック諸州に対し経済封鎖が実施されるにとどまった[44]。この経済封鎖によりカトリック諸州はたちまち困窮したため、軍事力に訴えざるをえなくなり、1531年10月4日カトリック諸州はカッペルに再度進軍し(第二次カッペル戦争ドイツ語版英語版)、これに対してツヴィングリは自らチューリヒ市民軍を率いて邀撃した[42][44]。このときカトリック側の兵8,000に対し、チューリヒの市民軍は数百に過ぎず、乱戦のさなかツヴィングリは戦死した[42][44]。これは、スイスの傭兵制に対し、ツヴィングリがかつて厳しい批判をおこない、そのためチューリヒが傭兵を充分に用いえなかったことにもよっていた[42][44]

しかしその後ベルンを核とする福音主義派は反撃し、第一次カッペル和議をほぼ踏襲した第二次カッペル和議が締結され、スイスにおける宗教の属地主義が再確認された[44]。ツヴィングリの死によって、福音主義運動は後継者ハインリヒ・ブリンガーに受け継がれ、その頃にはツヴィングリの信仰告白を受け入れる都市はスイスにとどまらずドイツ南部にまで広がっていた[44][* 9]。これらはやがてカルヴィニズムのなかに解消されていくこととなった。

カルヴァンの宗教改革[編集]

フランス北東部のノワイヨンの町に生まれたジャン・カルヴァンは、1523年パリに上り、パリ大学で、近代的教育法の祖といわれるマチュラン・コルディエのもとでラテン語の教育を受け、人文学スコラ哲学を学び、さらにフランス・カトリックの一大根拠地であり、反福音主義の牙城ともいうべきモンテーギュ学寮で5年にわたって哲学文法弁論術などを学んで、次いでオルレアンブールジュの大学で法学を修め、合わせてギリシャ語ヘブライ語も学んだ[45][46][47]1533年11月1日、パリ大学の新しい総長ニコラ・コップ福音主義者で、信仰義認をテーマとした総長就任演説をおこなったが、そこにルターの表現が含まれていたため、その演説後ただちに異端の申し立てがなされ、コップはフランス国内を転々とした[45][46]。この演説の草稿づくりにカルヴァンも関与したことで、彼自身もパリを脱出せざるを得なくなり、1534年には檄文事件で激化した弾圧を避けるためコップとともにスイスのバーゼルに亡命した[45][46][47]。こうしてジャン・カルヴァンは改革者への道を歩み出すこととなった[45]。カルヴァンはバーゼルの地で主著『キリスト教綱要』を1536年に刊行している[45][46][48]

カルヴァンの思想[編集]
ジャン・カルヴァン(1509-1564)
その非妥協で厳格な性格からか、生前から毀誉褒貶が定まらない[47]

カルヴァンの神学は信仰義認聖書中心主義をはじめルターやツヴィングリのそれから受け継いだ部分が多い[46]。そうしたなかで、カルヴァンの思想を特徴づけるのは、徹底した神中心主義と救霊予定説である[45][46]。カルヴァンの教理においては、神の栄光、神への祈りと服従がつねに強調される[46]。ルターにおいては力点が人間の苦悩に置かれるのに対し、カルヴァンではあくまでも神自身に置かれるのである[46]。カルヴァンによれば、神を認識することこそが人生の主要目的なのであり、それによって自己を認識するのである[45]。神の像に似せて創造された人間は、本来的には神の栄光の輝きを受けている[45]。自由意志をもった人間は、それによって永遠の生命を得ることも可能であったはずなのに、アダム原罪を犯して以来、その自由意志によって神に反逆し、罪に陥って人間のあり方は堕落した[45][46]。この堕落から救済されるためには、人はイエス・キリストにおいて再創造されなくてはならない[45]。人間の罪の身代わりとして地上に送られた神の子イエスにつらなることによって、われわれは値なくして救われることができるのである[45][46]

神は憐れみによりイエスを世に送ったが、これはすべての人間を赦すためではなく、恩恵に浴することができるのはその一部だけである[46]。人は神の意志によって、ある者は永遠の救いに、ある者は永遠の滅びに定められる[45]。これはもっぱら神が自由に決定する領域に属し、しかも神はあらかじめこれを定めていると説く[46]。これが、カルヴァンの唱える予定説である[45][46]。では、こうした神の選びの絶対的自由を前にして、人はただ絶望するしかないのか。カルヴァンは決してそうではないと説く[46]。なぜなら、神の憐れみは無限であり、それは人びとにとっては無限の恵み(恩寵)であって、神を信じ、われわれに説かれている神の教えを受け入れ、こうしてキリストと一体となった信徒は自らが選ばれていることをもはや疑わないからである(信仰義認)[45][46]。そして、神は救われるはずのない者まで選びだして救おうとするのである[45]。人間の善き行いも、神の憐れみを強く信じるときにこそ、選びのしるしとなる[46]。そうして、人間の日々の生活の営みは信仰を介して聖化されていく[46]。人生の目的は神は知り、神に栄光を帰し、神にしたいがい、祈りを捧げることにある[45][46]。それぞれの各個人が営む職業もまた神が定めたところなのであり、あらゆる職業が「天職」である[46]。それが「召命」である以上、これに精励しなければならないものであり(職業召命観)、一方でこの考えは、職業における聖俗の区別の否定につながるのである[46]

カルヴァンは、再洗礼派との論争のなかで、「神のことばが述べ伝えられて、聖礼典が執行されるところに教会が存在する、それ以外に何が必要なのか」と述べている[47]。この世に完全無欠な教会などないと考えるカルヴァンは、ルターとは異なり、最初から目に見える制度的な教会の必要性を認めた[46][47]。そして、ルターが教会というものの中味を、カトリックと同様、洗礼を受けたすべての者の集まりであるとしたのに対し、カルヴァンはそうではなく、「信仰を告白し、善き生活を営む信徒の集まり」と考え、より狭いものとしてこれをとらえた[46]。そこで、教会の構成員は、真の信仰と善き道徳との厳しい実践者たることが義務づけられる[46]牧師は神の言葉を説き、公教要理を教え、聖礼典をおこなう存在であり、聖礼典は洗礼と聖餐式の2つで、信徒が信仰をより強固にすることを助ける[46]。聖餐式に関しては、カルヴァンは、ルターの共在説ともツヴィングリの象徴説とも異なり、いわば、その中間的な立場をとっていた[46]。つまり、イエスはパンと葡萄酒のなかに実在するが、ただしそれは「霊的に」実在するという理解である[46]

信徒の日常生活を監視し、これを正しく導き、信徒相互の紛争を調停するのは聖職者ではなく「長老」と称される俗人であり、貧者の救済もまた俗人の「執事」にまかされる(長老教会制)[46]。道徳的に瑕疵のある信徒は聖餐式への参加を、行いが改められるまで禁止され、行状のとくに悪い者に対しては破門もある[46]。それのみならず、世俗の権力者からの処罰も甘受しなければならない[46]。カルヴァンの思想は、社会生活全般を宗教一色で染め上げようという指向をもち、その意図は彼の国家観にもあらわれている[46]。カルヴァンは、アウグスティヌスの「神の国」「地の国」の考え方に影響を受け、教会と国家の権力の差異と非類似性からいって、「霊的王国」と「政治的王国」は常に区別しなければならないとした[49]

カルヴァンの政治思想には2つのきわだった特徴がある。1つは教会を世俗権力から独立させること、もう1つは世俗権力に教会の目的への奉仕をさせることである。彼は教権と俗権という「二本の剣」は分離不可の関係ではあるが、明確に弁別されるべきであると述べた[47]。カルヴァンはアウグスティヌスに従って、教会を、神によって定められた独自の権威を持つものと考える。彼はこの世には「見える教会」と「見えない教会」があるという。見えない教会は正しい信徒の作る精神的な共同体で、時間と空間の制約を受けない。見える教会は信徒が集まって、儀礼や礼拝、説教が行われる場所で、この見える教会においては成員すべてが必ずしも完全な信仰を有しているわけではない。そのため見える教会は成員すべてを完全な信仰に導くために、規律を必要とし、内部に政治が必要とされる。そのため教会の幹部は道徳を含む世俗の問題に対しても判決を出すことができる。

一方、世俗権力の担い手である国家は、神の地上の代理人であり、下僕であるとカルヴァンは考える[46]。為政者は、信仰の正しい実践を保ち、人民の安全と財産を守り、正義を行わなければならない[46]。そして、このような為政者に対し、人民は絶対的に服従しなければならない[46]。服従を免除されるのは、為政者が神の命令にそむいた場合に限られる[46]。国家とは真の宗教、正しい信仰を広めるためのものだとカルヴァンは考えたのである。カルヴァンの思想のうち、無抵抗については彼の死後現実のユグノー弾圧への対応として、理不尽な支配に対しては抵抗してもよいというモナルコマキの政治理論が登場した。同様に彼の思想にある非寛容で妥協を許さない部分も、カルヴァン主義が深刻なコンフェッショナリズム(後述)に直面するうちに動揺し、そのなかから寛容論が起こってくる。

カルヴァンと彼の一派は、新旧両方から異端とされたミカエル・セルヴェトゥス(ミシェル・セルヴェ)をジュネーヴ市当局が火刑に処したことに公然と賛意を表している[46][50][51]。カルヴァンは、国家による異端者弾圧を容認し、場合によっては支持さえしたのである[46]

ジュネーヴ改革[編集]
ジュネーヴのサン・ピエール教会
ここでカルヴァンは幾度となく説教を行った。

1536年7月から8月にかけてのころ、ジュネーヴに滞在していたカルヴァンは同地で福音主義的改革を導入しようとしていたギヨーム・ファレルフランス語版に援助を懇請された[45]。当時のジュネーヴは、少し前まで事実上ベルンの保護領であり、この年の5月、ベルンの援助を受けて福音主義に転じたが、いまだ改革の緒についたばかりで方針も定まっておらず、ファレルは当時匿名で出されていた『キリスト教綱要』の著者がカルヴァンであることを知って、彼を強引に引き止めたのである[45]。カルヴァンはこのときストラスブールへ向かう途中であったが、これに協力することを決意した[45]1537年1月16日にはカルヴァンら牧師団によって市参事会に対して、教会改革の具体案が提出され、ここにジュネーヴはツヴィングリ派とは異なった、新たな改革の方針に従うこととなった。ただちに新しい「信仰告白」を含む要理書(カテキズム)が刊行され、市民はこの「信仰告白」に対して宣誓を求められた。こうして改革が本格的に開始されたが、カルヴァンらはこの「信仰告白」が守られているか厳しく監督したために、市民の間に改革に対する抵抗感が芽生えた。また当初から市参事会は、カルヴァンらの主張の中に教会を世俗の権力から独立させ、むしろ世俗権力を教会に従属させようとする意図があることに気づいていた[47]。カルヴァンは教会を国家から切り離して新しい教会制度をつくろうとしたが、市民側の反対にあって頓挫したのである[45]

1538年4月23日、新しいジュネーヴ市参事会が発足すると、カルヴァンとファレルはこの参事会により追放され、カルヴァンはマルティン・ブツァーの勧めにより、ストラスブールのフランス人難民教会の説教師を務めることとした[45][46]。ストラスブールでの聖書講義は3年におよんだが、この間、1539年にカルヴァンはビューレンのイデレッテと結婚している[45]

やがてジュネーヴでは再びファレル派(福音主義派)が勢いを盛り返し、彼らによって再び招聘されたカルヴァンは1541年9月13日、自身もう二度と戻ることはないと思っていたジュネーヴに帰還した[45][48]。帰任早々の9月20日カルヴァンは早速「ジュネーヴ教会規則」を立法化し、牧師・教師・長老・執事という4職を定めた[48]。牧師と教師は説教などを通じて司牧の役割を担い、聖書解釈の問題などについて定期的に審議した。長老は、牧師・教師とともに監督院を形成して、市内のどの家でも自由に立ち入ることができる権利を有し、市民生活を監督した[48]。執事は教会施設の管理と救貧を担った[46]。カルヴァンは教育においては政教分離を実践し、公教育と教会教育を区別して、後者のために「ジュネーヴ教会教理問答」を作成した[45]

カルヴァンの改革政治は「神権政治」とも称されている[45]。「神権政治」開始後の最初の5年間に、56件の死刑判決と78件の追放がおこなわれ、反対派はことごとく弾圧された。1553年には高名な人文学者であったミカエル・セルヴェトゥスが三位一体説を批判した嫌疑で火刑に処せられている。1559年には神学大学が設立され、プロテスタント系の神学大学としては、すぐにヴィッテンベルク大学に勝るほどの勢いとなり、ヨーロッパ各地に改革派の説教師や教師を送り出すまでになった。1564年の死にいたるまでカルヴァンはカトリックとの戦いに明け暮れたが、さらに死後の1566年にはツヴィングリ派との間で合同がなり、スイスの改革派は改革派教会として統一され勢力を強めた[48]

改革派教会の広がり[編集]

カルヴァンは上記のように1540年代にジュネーヴで独自の宗教改革を実現し、「改革派教会」発展の基礎をつくり、以後それは「ルター派教会」とならんで、プロテスタントにおける二大教派となった[45]。ルター派教会が「アウクスブルク信仰告白」とルターの「教理問答書」を信仰の規範とし、教会政治においては「監督制」を保持したのに対し、改革派教会では監督制を廃して、牧師と、教会員から選ばれた長老たちとで「長老会」を組織し、それによって信徒の指導監督にあたる「長老制」を採用し、各個別教会における信仰告白を重視する点が両者の大きな相違である[45]

カルヴァンの思想は、彼の生前からスイスにとどまらず近隣の諸国に広まっていたが、その伝播の過程でニュアンスを失い、特定の要素が誇張されたり、薄められたリした[52]。ルター派の強いドイツではカルヴァン派はほとんど浸透しなかった[52]。スイスにおいてはカトリック信仰にとどまる地域も多く、ドイツ同様、教会分裂がみられたが、ツヴィングリとカルヴァンによって宗教改革が主導された経緯によりルター派は浸透しなかった。宗教上の不和は厳然と存在する一方、スイスではヴィルヘルム・テルや聖ニコラウス(ニコラウス・フォン・フリューエ)は相変わらず「古き良き盟約者団」の象徴であり、国民的英雄として崇敬された[53]

スイスとそれに隣接する南西ドイツでは、きわだった対照性を示していた。スイスでは、ツンフト(商人ギルド)に代表される中下層の市民が、都市における門閥支配を打破するとともに周囲の諸侯・修道院領を領域支配に組み込む契機として宗教改革が期待されたという側面があり、ここで重視されたのはカルヴィニズムであった。ツヴィングリ派から分離発展した再洗礼派はその信仰を守る信者のみで共同体を構成しようとし、農村部では自治運動と結びつくこともあった[54]。それに対し、南西ドイツでは、シュマルカルデン戦争の結果、カール5世によって徹底的にツンフトが解体され、門閥支配がかえって強化され、ここで公認されていたのはルター派であった。

フランスに対しては、生前のカルヴァンはジュネーヴから伝道者を派遣して、祖国フランスの宗教改革を組織化しようと努め、彼の勧告にしたがってパリに改革教会が設立され、1561年末には670以上の改革教会がフランス国内で組織された[45]1559年には、フランス改革教会の最初の国民会議がパリで開催されている[45]。フランスのカルヴァン派プロテスタントは「ユグノー」といわれた[45]。しかし、ユグノーの広がりと同時に迫害も始まり、1562年には北東部のヴァシーでカトリック教徒による新教徒虐殺(ヴァシーの虐殺)が起こっている(詳細後述)[45]

スコットランド宗教改革の指導者ジョン・ノックス(1514-1572)

カルヴァン派はまた、ネーデルラント(低地地方)とくにオランダでは著しい影響を及ぼし、それは外国支配からの解放運動の大きな原動力となった(詳細後述)[52]スコットランドにおいては、1540年代にこの国で最初にカルヴァン主義を奉じた聖職者が火刑に処せられ、カルヴァン派貴族が蜂起したものの、それも制圧された[52]。一時ジュネーヴに亡命し、カルヴァンの影響を強く受けたジョン・ノックス1559年に帰国、プロテスタントのスコットランド貴族を動かしてスコットランド教会スコットランド長老派教会)を設立し、1560年にはノックスらの信仰告白(スコットランド信条)がスコットランド議会に承認されて「国教」の地位を獲得した[45][52]。のちにそのなかでイギリス国教会を批判する勢力がピューリタン(清教徒)を形成した[45]。ジョン・ノックスの改革派教会では信仰上の原理が政治上の規律とされるなどジュネーヴ的な改革がなされ、神政政治が一時実現した[52][27]。スコットランド各地ではこのとき多くの聖堂が破壊され、偶像崇拝は徹底的に否定されている。信徒が牧師を選出している点では、この国の教会制度はむしろジュネーヴのそれよりも民主的であった[52]

イングランドでは、ロラード派の異端思想、ルター主義、反聖職者主義、反教皇主義などが混合して宗教改革の気運が非常に高まったが、結局のところ、国家主導で改革がなされた(詳細後述)。

低地地方の宗教改革[編集]

メルセン条約によって東フランク西フランクに分属することとなった低地地方は[* 10]、中世後期に至るまで政治的統一とは無縁であったが、14世紀ヴァロワ=ブルゴーニュ家の支配下にはいると、地域の政治的統一が促進されることとなった。その後、同家は断絶してハプスブルク家がこの地を相続し、中央集権的な支配を及ぼそうとしたが、これに対して低地地方の貴族は不満を募らせ1568年に反乱を起こし、やがて北部はオランダ共和国として独立した。オランダ共和国は改革派が多数であったわけではないが[* 11]、独立の過程においては改革派が主導的な影響を及ぼし、やがて改革派の中心国家として台頭することになった。

中世の低地地方[編集]

ディジョンにあるブルゴーニュ公の宮殿

12世紀までに、低地地方にはホラント伯やゲルデルン公、ブラバント公エノー伯ルクセンブルク伯フランドル伯などの世俗領主、ユトレヒト司教やリエージュ司教といった教会領主が分立割拠し、あたかも寄木細工の様相を呈していた[55]。大枠ではフランドル地方のみが西フランクすなわちフランスの領域に属し、のこる大部分は神聖ローマ帝国の領域に属していたが、11世紀後半ごろからこの地域に対する神聖ローマ皇帝の勢威が減退していき、低地地方は徐々に英仏両国の影響を受けるようになっていった[55]

低地地方南部のフランドル伯は、フランスと神聖ローマ帝国にまたがる広大な領域を支配してフランス王との緊張を強め、とくに支配下の諸都市はイングランドとの交易上の結びつきも強く、歴代のフランドル伯も婚姻関係などを通じてイングランド王に接近した[55]。フランドル伯ボードゥアン9世の時代には、ノルマンディをイングランド王ジョンから取り上げたフィリップ2世がフランドルをうかがう情勢となった[55]。つづくボードゥアンの娘ジャンヌ・ド・コンスタンティノープルの時代にイングランド王および神聖ローマ皇帝(オットー4世)と同盟してフランス王権に挑戦したが、1214年ブーヴィーヌの戦いで敗北し、以後はしばらくフランスへの服属を余儀なくされた[55]

14世紀中葉、低地地方は相続と婚姻を通じてブルゴーニュ家のフィリップ2世(豪胆公)の支配下に入り、この公国のもとで政治的統一が進められた[56]。ブルゴーニュ公国は、その収入の大部分が臨時収入であり、低地地方からの収入割合はそのうちの約75パーセントを占め、経常収入においてもブルゴーニュ本領から収入はおよそ5パーセントに過ぎなかった[57]。このように、公国は財政的に低地地方に大きく依存しており、自然と政治の重心も低地地方へと移動せざるを得なくなった。ジャン1世(無畏公)は上訴権を強化して都市裁判を公の裁判へ従属させるなどしたが、百年戦争のさなかのフランス宮廷の政争にかかわってアルマニャック派により暗殺された[56]。次のフィリップ3世(善良公)の治世は長きにわたったが、このころすでに聖職者、貴族、有力都市民からなる身分制議会が低地地方でも開かれており、善良公はこれを存続させてあらたに課税賛否権と請願権を与え、1464年、ブルッヘに低地地方の代表を集めて公位継承を審議させた[56]。この議会は「全国議会(エタ・ジェネロー)」の始まりとされている[56][* 12]

1477年シャルル突進公がロレーヌ・アルザス・スイス軍との戦いで戦死すると、フランス国内のブルゴーニュ公領はたちまちフランス王権に回収され、相続者マリー・ド・ブルゴーニュに残されたのは低地地方とフランシュ=コンテのみであった[58]。マリーは同年ハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と結婚し、これらの地域もまた一円的にハプスブルク家の支配に収まった[58]

なお、この地方ではデフェンテル(現、オランダ中部)で、1370年代ヘールト・フローテフローレント・ラーデベインスらによって共同生活兄弟会英語版が創設されている[52][59][60]。これは、ローマ教会を頂点とする信仰の組織化に対立した共同体的結社であり、神秘主義者ヤン・ファン・リュースブルクの影響を受けて本源的キリスト教の生活を実践しようとするもので、そこでは司祭も一般信者もともに隣人愛的共同生活のなかで、観想、祈り、清貧を実践していくことが目的とされた[59][60]。『キリストのまねび』の著者トマス・ア・ケンピスはその推進者であったが、人文主義者として著名なエラスムスもまた、デフェンテルの共同生活兄弟会附属の寄宿学校生であった[60]

ハプスブルク家支配[編集]

カール5世の「帝国」(1547年)

1506年、マクシミリアンとマリーの子でフランドルで育ったフィリップ端麗公が急死すると、その長子でわずか6歳のシャルル(のちのカール5世)が低地地方を相続し、1515年1月に全国議会で即位した[61]。さらにシャルルは1516年にはカスティリャ・アラゴン両王国の君主となり、新世界に勢力を拡大し続けるスペインの国王カルロス1世となった[52][61]。これにより、低地地方はスペイン領となった[52]1519年、祖父マクシミリアン1世が死去すると、シャルルはフッガー家の財力を背景に対抗馬のフランス王フランソワ1世を破って皇帝選挙に勝利し、ドイツ皇帝として登位した(神聖ローマ皇帝カール5世)[52]。こうして東はトランシルヴァニアから西はスペインにいたる、ヨーロッパ全体を包含するかのような「帝国」が形成された[61]。しかし、この「ハプスブルク帝国」には一体的な国家組織がなく、個別の国家がただ単にカール5世個人のもとに集約されているに過ぎなかった[61]。カールは対フランスとの緊張関係を通じてこれをまとめようとし、低地地方は「帝国」にとって辺境の位置にあるにもかかわらず、対フランスの軍事的・政治的拠点であり、さらにアントウェルペンの金融は「帝国」の重要な財源であった[61]。カールは低地地方の行政的中心をブリュッセルにおき、中央集権化を進めて低地地方の政治的統一を促進させる一方、周辺地域の武力的制圧をすすめ、メルセン条約以来分断されていたこの地を初めて統一した[61]。低地地方が17州[* 13]と呼ばれるのは、このカール5世が帯びた、低地地方の17の称号に由来し、1548年のアウクスブルク帝国議会で正式に承認された[61]1549年には低地地方が「永久に不可分」な形でハプスブルク家に継承されることを定めた国事詔書(プラグマティック・サンクシオン)が発布され、全国議会で承認された[61]

低地地方は、共同生活兄弟会(上述)発祥地だけあって、宗教改革の気運も高く、ルター派が活動し、急進的な再洗礼派の運動も広がりをみせていた[52]。カールはこれに激しい弾圧を加えた[52]。1540年以降、再洗礼派の活動が沈静化すると、代わって人びとの心をとらえたのはカルヴァン派であった[52][62]。特にフランス国境に近いエノートゥールネリルなどの各地に流入し、当初は再洗礼派と混同されていたが、他宗派にはみられない強固な教会組織、また、職業への精勤を奨励し、蓄財を認める教義は16世紀における商工業の発展と調和的であり、都市の手工業者に広がってアントワープはその最大の拠点となった[62]

アウクスブルクの和議の翌年(1556年)、カール5世は退位して神聖ローマ皇帝位を弟のフェルナンド(フェルディナント1世)、スペイン王位を長子のフェリペ(フェリペ2世)に譲って、ハプスブルク家はスペイン・ハプスブルク家オーストリア・ハプスブルク家に分かれた[63]。カール5世に続いて低地地方を支配したのはフェリペであった[63]。フェリペもカール5世の基本路線を継承し、法典や裁判制度の統一をはかり、低地地方を中央集権化しようと試みた[63]。低地地方の政治の実権はグランヴェルなどの寵臣が握っており、オラニエ家などの大貴族と対立した[63]。フェリペは低地地方での支配権を強化するため、低地地方での教区再編を計画し、1559年7月教皇パウルス4世から許可を得た[63]。これにより低地地方にはカンブレメヘレンユトレヒトの3大司教区が新設され、これらの司教区の司教には従来王権の下で異端審問に関与していた神学者が多数登用された[63]。低地地方のプロテスタント弾圧で有名なアントワーヌ・ド・グランヴェルもメヘレン大司教となっている[63]。このころ、フランスからは多数の改革派が流入しつづけており、宗教的緊張が高まり、低地地方に不穏な空気が流れ始めた。

アルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレド(1507-1582)
「鉄の公爵」と呼ばれた。彼の設けた「騒擾評議会」は別名「血の裁判所」と呼ばれるほど苛烈で、低地地方を苦しめた。

1565年フェリペが改めて低地地方での異端審問の強化を命令すると、下級貴族は反発を強め、1566年には異端審問の中止を求める訴状を執政(全州総督)に任じた異母姉マルハレータに提出した[63][* 14]。執政マルハレータは異端審問の一時緩和を発表したが、これにより改革派が公然と低地地方で活動を開始するに至った[63]

1566年、フランドルでカトリック教会や修道院を狙った暴動が発生し、その反乱は低地地方各地へと広まった[63]。フェリペが重税などの圧政を行っていたため、まだプロテスタントが浸透していない北部にまで暴動は拡大した[63]。この暴動は一見宗教的動機に隠されてはいたが、実は、そのうちに深刻な経済的理由が存在していた[63]。これは改革派がそれほど浸透していない低地地方北部でも暴動が起こっていることからも明らかである[63]。この年は北欧での大規模な戦争(北方七年戦争)によってバルト海方面からの穀物流入が激減し、食糧難と経済危機によって低地地方の人々は苦しんでいたのである[63]1567年8月、フェリペは事態の収拾を図るため、アルバ公に指揮権を与え軍隊による介入を指示し、1万ほどの軍勢とともに派遣した[63]。アルバ公は「騒擾評議会」なる特別法廷を設置し、暴動の参加者を徹底的に弾圧した[63]。さらに12月にはマルハレータに替わって執政になり、ネーデルラント貴族にこの暴動の責任を問うた[63]

八十年戦争のはじまりとオランダ共和国[編集]

1568年6月5日、異端撲滅の名の下に、エフモント伯ラモラール、ホールン伯フィリップを含む大貴族20人余りがブリュッセルで処刑された[63]。この際、大貴族の一人であったオラニエ公ウィレム1世1567年4月すでにドイツに逃れており無事だったが、彼ら亡命貴族の財産・領地の多くが没収された[63]1569年には十分の一税を導入して、スペインの財政改善のために低地地方に経済的圧迫をもたらした[63]

ドイツに逃れていたオラニエ公ウィレムは1568年4月に軍を率いてオランダ北部と中部から一斉に進攻し、この抵抗運動は、ネーデルラント独立戦争に発展した[64][65]。しかし、5月23日ハイリハレーの戦いに勝利したものの、結局は失敗に終わっている[64]。ウィレムはフランスのユグノーに合流し、「海乞食(ワーテルヘーゼン)」を組織して低地地方の沿岸を無差別に略奪した[64]1572年4月1日海乞食はブリーレの占拠に偶然にも成功し、やがて港湾都市を少しずつ制圧していった[64]。同年7月ホラント州は反乱側に転じ、ウィレムを州総督に迎えることとした[64]。ホラント・ゼーラント2州に海乞食が足場を整えると、改革派が続々と流入し、徐々に主導権を握るようになった。1573年2月にはホラント州でカトリックの礼拝が禁じられた[64]

1576年には給料の未払いから低地地方に駐留していたスペイン軍が略奪に走ると、スペインに協力的であった南部州も反乱州との提携に転じ、ヘントの和約が結ばれた[64]。和約は全部で25か条あるが、最初の3か条はとくにこの条約の基本性格を表していると考えられている。第1条ではスペイン王による無条件大赦を要求し、第2条では諸州の連帯と低地地方の平和維持を規定、第3条では宗教問題など諸州の問題を解決するために全国議会を開くことを決めていた[64]。しかしながら、この和約は全く効果的な裏付けを欠いていた。そもそも約束された諸問題の解決のための全国議会は結局開かれなかったし、条約は北部と南部が互いに都合良く解釈する余地を残していた[64]。たとえばフェリペ2世の意向を気にする高級官僚は早くも1576年11月9日づけの国王宛書簡で「和約」を容認したやむべき経緯を釈明した上で、和約の実施にあたっては修正を加えることを示唆している[64]。同様にオラニエ公ウィレムの側でも、側近がイングランド宛の書簡で宗教問題について、ホラント・ゼーラント両州では全く妥協する気がないことを述べている。このようにヘントの和約は全くその場限りの一時的な妥協に過ぎず、永続性を欠いており、状況の推移によって簡単に崩れる脆い地盤の上にあった[64]

しかし、低地地方におけるカルヴァン派教会の創設はその後進展し、カルヴァン主義の「ベルギー信仰告白」が第一回改革派全国大会で確認された[65]。1581年、北部7州はユトレヒト同盟を結び、フェリペ2世の統治権を否認した[64][65]。これはしばしばオランダ独立宣言として扱われるが、あくまでもフェリペへの抵抗姿勢の表明であった[65]。ただ、それこそがのちのネーデルラント連邦共和国の成立を準備したことは確かである[64]

イギリス国教会の成立[編集]

ヘンリー8世(1491-1547)

テューダー朝第2代のヘンリー8世は1509年にイングランド王となり、当初は一方で修道院改革や聖職者教育の改善につとめ、他方ではルター派を弾圧して、聖餐における化体説をあらためて支持して聖職者の結婚を禁ずるなど、カトリシズム強化策をとっていたが、1530年、スペイン王家出身の王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの離婚の許可をローマ教皇庁に訴えでた[52][66]。しかし、ローマ教皇クレメンス7世はこれを受理せず、1533年にはヘンリー8世を破門に処した[52][66]。ヘンリー8世は同年、上訴禁止法を定めて国王が聖俗を一元的に支配することを決定した[52][66]。翌1534年国王至上法(首長令)によってイングランド国教会が成立し、イングランド議会は国王を国教会の首長の座にすえ、ローマ教会から離脱した[52][66]。こうして、イギリスでは国王の離婚という私事を契機として、いわば「ローマ教会なきカトリシズム」というかたちでの宗教改革(あるいは「旧教離脱」)を実現した[66]。イングランド国教会の内部では一時、ルター主義的諸改革がなされたものの、ヘンリー8世統治下ではやがてほぼカトリックの教理と教会規則に立ち戻る逆行現象が起こり、マリア崇敬、聖人崇敬が奨励され、聖書を私的に読むことが禁じられた[52]。後述のとおり、イングランド国教会は以後、何度かの内部改革運動を経ながら、基本的に政教未分離のまま現代にいたっており、国教会の長であるカンタベリー大主教は「全イングランドの首位聖職」として国政上も絶大な発言権を有している[66]

1547年、ヘンリー8世とジェーン・シーモアの子エドワードは9歳でイングランド王エドワード6世として即位した[66]。プロテスタントとして育てられた彼は、宗教改革の推進者となり、ラテン語に代わって英語による聖書朗読をおこない、聖餐式を改め、教会内陣に聖画像を置くことを禁止し、司祭の結婚も認めた[66]。1840年代のジュネーヴで発展したカルヴァン主義はイングランドにも波及して、イングランド国教会の教理と典礼に採用された[52]。1552年、カルヴァン神学が『一般祈祷書』に取り込まれた[66]。大主教トマス・クランマーによってプロテスタント的な信仰箇条『42箇条』が答申され、王はこれに許可をあたえたのである[52]

エドワードが若くして死没すると、ヘンリー8世とキャサリンの子メアリー1世がイングランド女王として即位し、1555年、ローマ教会との和解が成立してカトリックに復帰し、没収した教会財産も返還されて、異母弟エドワードの定めた諸法を廃止、さらにヘンリーの反教皇的諸法も廃止された[66]。福音主義的な傾向のある司教たちは次々に処刑され、迫害は一般人にもおよび、その犠牲者は273名と数えられている[52][66]。大主教クランマーもメアリー統治下で殉教した。

エリザベス1世(1533-1603)

メアリーが病死して後継者として異母妹エリザベス1世(ヘンリー8世とアン・ブーリンの子)が即位すると事態は再び逆転した[52]。女王は1559年に再び国王至上法を復活させてイングランド国教会を再建し、国教会を総攬する至上の統括者となった[52]。また、1563年に定められた39箇条(聖公会大綱)の教義は主としてカルヴァン主義を土台としたものであった[52]。しかし、一方で長老制を退けて主教制を保持した[52]。エリザベスは「よき女王ベス」と称されて、多くの国民の支持を得、かくしてイングランド国教会はカトリックとプロテスタントの折衷的ないし中間的な性格を有し、イギリスの場合は国家と宗教は緊密に結びついて今日に至るが、ただ、ヨーロッパ全体でみた場合、16世紀の初頭には普遍的なカトリック教会しかなかった西ヨーロッパの教会が、この世紀の中葉にはローマ教会、ルター派教会、カルヴァン派(改革派教会)、イギリス国教会の4つに分裂し、後葉にはそれがほぼ固定したともいえるわけである[52][66]

対抗宗教改革とコンフェッショナリズム[編集]

対抗宗教改革(カトリック改革)[編集]

宗教改革がヨーロッパじゅうで猛威をふるうと、カトリック教会も積極的に自己改革にのりだしたが、その動きを「対抗宗教改革」ないし「反宗教改革」と呼んでいる[67]。カトリック教会の内部でしきりに発生する「異端」は、一種の内部改革であるという見方も可能である[67]。その一例として15世紀末のフィレンツェにおける修道士ジロラモ・サヴォナローラの改革が挙げられる[67]。彼は、その神権政治のなかで贅沢品や華美な美術品をシニョリーア広場に集めて焼却する「虚栄の焼却」をおこない、一時はサンドロ・ボッティチェッリでさえ絵を描くのをやめてしまったほどであった。16世紀前半には、新しい修道院が多数設立され、聖職者自身の生活改革運動もさかんであった[67]

しかしもっとも本格的なカトリック改革は、イグナチオ・デ・ロヨラによって設立された修道会「イエズス会」によって推し進められた[67]バスク人貴族で武人でもあったロヨラは戦傷の療養生活のなかで回心し、民衆救霊運動をはじめたが、異端の嫌疑をかけられ、パリ大学で神学を学んだ[67]1534年ピエール・ファーヴルフランシスコ・ザビエルら、自身も含めて7人でモンマルトルの丘で誓願を立て、1537年にイエズス会を創設した[67]。ロヨラは神秘的な恍惚によらなくても人間の自然的能力の訓練によって神との合一が可能であるとし、会士たちに軍隊式の苛酷な規律と訓練を課し、「清貧」「貞潔」「服従」をモットーとした[67][68]。。教皇への絶対服従を説くとともに、ギリシャ・ローマの古典教育を重んじ、学院経営にも積極的であった[68]。フランスの出版印刷業も、典礼書、公教要理、教父著作集などを大量に刊行してカトリック改革に貢献した。

1542年からのトリエント公会議では教会での最高権力は教皇にあるとされた[15][68]。聖書と、伝承にもとづく信仰上の真理と制度の総体とが信仰のよりどころであり、人間には「自由意志」があること、救いにおいては神の恩恵と人間の行いが等しく重要であること、7つの秘蹟と化体説とを維持することなどが決定された[68]。また、司教の権限を強化し、聖職者の質の向上と監督とを司教に課した[68]。これら一連の決定事項には、プロテスタンティズムに対する非妥協的な方向性がみてとれる[68]。フランスの王権はガリカニスム(フランス教会自立主義)のために公会議の決定を王国の法として受容することは拒否したが、にもかかわらず、公会議の精神にもとづく改革が主として聖職者の手で推し進められていった[68]。公会議の決定やイエズス会の熱心な活動によって、16世紀末までにはバイエルン、フランス、オーストリア、ポーランドチェコがカトリックの勢力圏に入った[15]

コンフェッショナリズムの展開[編集]

コンフェッショナリズム」とは、もともとはキリスト教のプロテスタント諸会派において、信仰無差別論に対し、自身の信仰や教義の防衛義務を主張する立場をさしていたが、やがて「宗教上の信条的対立が政治闘争の形をとる状態」を指し示す用語となった[69][70]。特に中世における普遍宗教(ローマカトリック教会)が、宗教改革によって教会分裂を惹起した16世紀から17世紀にかけてのヨーロッパの状況をさしている[70]

アンリ4世(1553-1610)
ナヴァル王(アンリ・ド・ナヴァル)にしてブルボン朝初代のフランス王。カルヴァン主義を奉じ、ユグノーからは信仰の保護者として期待された。「三アンリの戦い」を生き抜き、フランス王位継承後、カトリックに改宗する一方、1598年に「ナントの勅令」を発布してカルヴァン派も含めた信教の自由を認め、ユグノー戦争を終結させた。

上述したように、ドイツやスイスでは宗教改革の帰結として宗教戦争が起こり、16世紀のドイツでは騎士戦争(1522年-1523年)、ドイツ農民戦争(1524年-1525年)、ミュンスターの反乱(1534年)、シュマルカルデン戦争(1546年-1547年)、第二次辺境伯戦争(1552年-1555年)など一連の宗教戦争の結果、各領邦で国教制度をとる領邦教会制度が成立したが、17世紀の大規模な宗教戦争となった三十年戦争(詳細後述)はヨーロッパ各国をまきこんで長期化し、ここでは再びドイツが主戦場となって大きな損害を被った[69]。宗教改革にともなう教会分裂によって神聖ローマ帝国はしだいに衰退し、主権的国家が登場して、これにより政治の世俗化が方向づけられた[15]。イギリスでは16世紀にイングランド国教会が成立し、17世紀には清教徒革命(1641年-1649年)が起こった。イスパニア対抗宗教改革の拠点となって、そこではウルトラモンタニズム(教皇中心主義)が採られた[69]。そのイスパニアの支配から逃れようとしたのがネーデルラント(オランダ)である[69]。ネーデルラントではカルヴィニズムが社会をリードし、イスパニアへの抵抗は経済的要因も含んで長期化した。これが八十年戦争(1568年-1648年)である[70]

宗教改革の影響は東方にもおよび、1568年トランシルヴァニア公国ではトゥルダ勅令が、1573年にはポーランド・リトアニア共和国で宗派間の寛容が保障されたワルシャワ連盟協約などが締結され、これらは政教分離の先駆とされる[24]。しかし、16世紀末にはポーランド・リトアニア共和国でのカトリック政策によってこうした動きも退潮していった[71]

こうしたなか、フランスはコンフェッショナリズムの激突が最も典型的におこった国である[70][72]。フランスはカトリック信仰の強い国であったが、カルヴァンの祖国でもあり、宗教改革においてはカルヴァン派が主流であった[73]。彼らは「ユグノー」と呼ばれ、カトリック教会から弾圧を受けた[* 15]。16世紀後葉のフランスではユグノー戦争(1562年-1598年)という内戦が起こり、そのなかからカトリックに対抗するカルヴァン派の抵抗権理論が発展して「モナルコマキ」を主張する暴君放伐論者が現れ、一方では主として知識人のなかから宗教的寛容を説く思潮が生まれた[70]

歴史的には、ユグノー、フランス王権、カトリック勢力の三者間の政治闘争を通じ、フランス絶対王政が形成されていった[74]

フランスの宗教戦争[編集]

ユグノー戦争[編集]

カトリーヌ・ド・メディシス
アンリ2世の妃で、メディチ家出身。夫の死後は相次いで息子を即位させ、実権を握った

フランスにおいても宗教改革と通じる福音主義的思想が現れた。その最初期のものは、ジャック・ルフェーブル・デタープルによるパウロの書簡の注解(1512年)やフランス語訳新約聖書(1523年)があげられる。しかしパリ大学の神学者やパリ高等法院から弾圧され、デタープルはストラスブールへ亡命するなど、改革運動に迫害が加えられた[75]。だが改革派は急速に影響力を増大させ[* 16]、1550年代にはカルヴァンの指導の下で組織化が図られるようになった[76]

フランス国王フランソワ1世は姉のマルグリットが人文主義や改革運動に好意的であったためか、当初改革派に理解を示していたが、檄文事件を境に弾圧に回り、パリ高等法院に異端審問委員会を設置した。さらに後継者アンリ2世1547年特設異端審問法廷を設け、弾圧を強化した。

これに対し改革派は1559年に第1回全国改革派教会会議を開催し、信仰箇条や教会の規則を定めて一応の組織化を果たした。このころからブルボン家やコンデ親王家をはじめとする貴族が改革派へ参加した。とくにブルボン家などの大貴族層は、政敵であるカトリックの大貴族ギーズ家への対抗という政治的意図から改宗を選んだと考えられる。

アンリ2世の死後は、その妃で息子たちの後見として実権を握ったカトリーヌ・ド・メディシスが政治的駆け引きに改革派とカトリック派を利用しようとし、王家と改革派・カトリック派の三分構造が際だつようになった。[要出典]

こうした状況のなか、1560年の改革派によるギーズ家の影響排除を狙った「アンボワーズの陰謀」事件や、1562年に起こったカトリック派によるヴァシーでのユグノー虐殺など不穏な事件が相次ぎ、ヴァシーの虐殺を契機として最初の武力衝突が起こった(第一次宗教戦争)。以後1598年ナントの勅令公布までの間フランスは断続的な内戦状態に陥った(ユグノー戦争)。1571年には改革派のコリニー提督が宮廷で影響力を増大させ、新教国と連携してフランスを八十年戦争に介入させようとしたが、1572年ユグノーに対する虐殺事件(サン・バルテルミの虐殺)に巻き込まれて殺された。[要出典] これに対し改革派は1574年に第1回改革派政治会議を開き、改革派の優勢な地域での徴税とそれを財源とした常備軍設立を決定し、オランダの改革派と結びついて、ほとんど独立した状態となった。また1581年にブルボン家のアンリ・ド・ナヴァルを「保護者 ("Protecteur")」として推戴した[要出典]。アンリは改革派の軍事指揮権と改革派支配地での司法官や財務官の任命権を得たが、一方でユグノーの顧問会議によってその権力は制限されていた。これは後述するユグノーの共和政的政治思想の影響も無視できない[77][78]

サン・バルテルミの虐殺
ブルボン家のナヴァル王アンリと王妹マルグリットの結婚式に参列するため、パリに集まった改革派貴族を、1572年のサン・バルテルミの祝日(8月24日)にカトリック派が襲った。この事件の影響はたちまち全フランスに広がり、各地で改革派に対する襲撃が相次いだ

カトリック貴族もギーズ公アンリを中心に「カトリック同盟(ラ・リーグ、"la Ligue")」を結成し、独自の軍事組織を持った。こうして王権・改革派・カトリック派の政治闘争はいよいよ本格的な武力闘争に発展した。ユグノーの背後にはオランダとイングランドが、カトリック同盟の背後にはスペインと教皇庁が存在し、内乱は国際的な宗派対立と密接に連動していた。一方でこの時期フランス王権は対ハプスブルク外交としてオスマン帝国に接近した。

この内乱に教皇は積極的にカトリック支援を意図して介入し、とくにグレゴリウス13世はサン・バルテルミの虐殺においてカトリック同盟を支持した。またグレゴリウス14世は同盟支援のために軍隊を派遣した。

ハプスブルク家のフェリペ2世1580年ころからカトリック同盟を露骨に援助するようになると、いわゆる「3アンリの戦い」が生じ、国王アンリ3世はユグノーに接近し、国王は刺客を放って1588年ギーズ公アンリを暗殺した。しかし翌年には国王も同盟側によって暗殺され、ナヴァル王アンリが王位継承者(アンリ4世)となるが、カトリック勢力は根強く反抗した。[要出典]

ところで、マックス・ウェーバーが指摘するように、ユグノー1617世紀フランス経済に大きな影響を及ぼした[* 17]。ここではユグノーのフランス経済に及ぼした影響、とくにコルベール主義との関連を概観し、ナントの勅令廃止(1685年)の経済史的意義についても言及する[* 18]

ナントの勅令
ナントの勅令は信仰の自由を与えるものとはいえず、カトリックとプロテスタントに対する扱いも平等ではない。あくまでプロテスタントへの寛容を表明するにとどまっている

フランスのプロテスタンティズムはその最盛期で人口200万人、当時の人口の10%ほどを占めたが、ユグノー戦争によって5%程度まで減少した[79]。その内訳は貴族農民手工業者商人金融業者など多様な社会階層に及んだ[80]。そのうち貴族層は前述したように政治的意図が濃厚であったので、その目的が達成されたユグノー戦争 後には、そのほとんどが早期に信仰を離れた。ユグノーが大きな勢力を持った南部では、農民層にもプロテスタンティズムが浸透し、彼らの貢献により、この地域は内乱の被害が著しかったにもかかわらず早期に復興を成し遂げた。しかしとりわけブルジョア層においてプロテスタンティズムは広く浸透した。

ユグノーはとくに集中マニュファクチュアの担い手として重要であり、金融・商業においても支配的であった。コルベールは重商主義政策の柱に国内の金融業・商業・工業の発展を据えていたので、当然その担い手であるユグノーを保護し、これと提携する道を選んだ。[要出典]

毛織物工業では、ラングドックプロヴァンスドフィネレヴァント地方への輸出用ラシャが大量に生産されていた。シャンパーニュ地方のスダンも北ドイツへの輸出用ラシャを生産し、毛織物工業の中核でもあったが、ここではユグノーの製造業者が織機の半数を所有していた[81]絹織物工業においては、17世紀中葉トゥールリヨンにおける顕著な発展が知られるが、それはユグノーの貢献に拠るところが大きい。リンネル工業をフランスに導入したのもユグノーであり、リンネルはイギリスへの輸出用商品として貴重なものであった[82]オーヴェルニュアングモアでは製紙業が発達していたが、その主な担い手もユグノーであった。ここで製造された紙はフランス国内のみならず、イギリスやオランダでも消費された。とくにオーヴェルニュのアンベールの紙は当時ヨーロッパで最良のものとされていた。これらの工業は一般的にナントの勅令廃止後に衰退した[* 19]

ラ・ロシェルボルドーにおける海上交易の発展にもユグノーは多大な寄与を為していた。ボルドーにおいては主にイギリス・オランダとの交易を担い、ラ・ロシェルにおいてはナントの勅令直前まで貿易は彼らの独占状態にあるという有様であった[83]。ユグノーの銀行家としては、17世紀初めにはリシュリューの財源となったタルマン家やラムブイエ家が知られる。またユグタン家も有名である。もともとリヨンの出版業者であったが、1685年にアムステルダムに移住し、そこで17世紀最大の銀行家にまで成長した[84]。フランス革命後には多くのユグノー銀行家がフランス金融界で活躍し、現在でもユダヤ系以外はプロテスタント系によってフランス銀行業は担われている[85]

ナントの勅令廃止によりユグノーの工業技術・資本はイギリス・オランダ・スイス・ドイツに流出し、それらの国々の工業的発展に寄与した結果、対フランス貿易における各国製品の競争力を高めた。[要出典]

ナントの勅令[編集]

1593年にナヴァル王アンリはカトリックに改宗して翌年パリに入城することができた。

アンリ4世の改宗に改革派は危機を覚え、改革派政治会議を全国組織にし、会議は1595年から1597年の間、王権と並ぶ統治機関として機能した。この会議はオランダの改革派との合同も模索したが、これに対しアンリ4世は改革派に宗教上の保証を与えるナントの勅令1598年に発布した。改革派はこれに満足し、王権への忠誠を誓った。[要出典]

ナントの勅令の実施状況の監督に当たっては、各州改革派とカトリックから選ばれた国王親任官が各教区を巡回した。しかしパリ高等法院やカトリックの聖職者たちはともすればこの勅令を非寛容な方向に厳密に解釈して適用しようとし、種々の訴訟を起こして改革派を陰に陽に弾圧しようとした。改革派にとって最大の後ろ盾であったアンリ4世の暗殺後には、改革派内部に明確な亀裂が生じ、北部のパリノルマンディーの改革派は王権への服従とカトリックとの妥協を目指す「穏健派」を形成し、南部のギュイエンヌラングドックの改革派は「強硬派」を形成した。「穏健派」は徐々に王権神授説に傾いた。[要出典]

アンリ4世の死後摂政となった妃のマリー・ド・メディシスは改革派に配慮を示していたが、成人したルイ13世は改革派に威圧的な態度を取った。

宗教戦争時代の政治思想(モナルコマキ、リーグ、ポリティーク)[編集]

カルヴァンは信徒に反乱や抵抗を認めなかったが、カルヴァン死後のカルヴァン派は国家からの弾圧に抵抗し、1572年のサン・バルテルミの虐殺事件が発生した[86]。その翌年、ジュネーブのテオドール・ド・ベーズが『臣民に対する為政者の権利について』において、人民の同意しない僭主や、また正当な君主であっても権力を濫用する場合の抵抗権を主張した[86]。ただし、ベーズは、抵抗する資格のない個人の権利については制限しており、抵抗する資格があるのは次位の為政者、具体的には大貴族や三身分会であるとする[87]

また、同年にはフランソワ・オーマンの『フランコガリア』が出され、ゲルマン人の伝統である等族国家の「祖先の良き法」によって絶対主義に対抗した[88]。ローマ人が専制政治を持ち込み、ゲルマン人には本当の自由があるという観念は、モンテスキューの「自由はゲルマンの森より」という文句にもあり、こうしたゲルマン的自由を制度にしたものが選挙王政や等族国家での立憲主義であった[88]

暴君への抵抗理論の絶頂とされるのが、ユニウス・ブルートゥスというペンネームの著者が著した『暴君に対する自由の擁護』である[89]。このパンフレットでは、君主は神の代理人として神の法を行う義務を負うと述べ、旧約聖書を引用して神と、君主、人民の間に契約があるという[90]。したがって、君主が神の法を侵した場合には服従しなくてよいとされる[90]。そしてベーズ同様に、王に抵抗できるのは次位の為政者である貴族だけであるとされ、ここでも等族国家をモデルとしたものであった[91]。また、近隣の暴君の支配に苦しむ国に干渉戦争をおこなうことは、真の宗教を擁護することであるとして肯定される[92]

このような暴君放伐論者にはモナルコマキ(Monarchomachs)とあだながつけられた[92]

カトリック側でも虐殺は行き過ぎだとする意見が出てくるとこれに反発したイエズス会などカトリック強硬派が、ユグノーをもっと弾圧すべきであると主張し、リーグとよばれた[93]。1584年に王弟が死ぬと、王位継承者がナヴァル家のアンリになると、ユグノーの王が出現することになるので、これに反発するためにユグノーのモナルコマキを借用して、権力は人民から来ており、契約違反があれば抵抗権が認められると主張した[93]。イエズス会のロベルト・ベラルミーノは『至高の権力について』で、教皇の権威を強調し、ジャン・ブーシェが国王アンリ3世暗殺後に『アンリ3世の正統な退位について』でアンリは契約違反であったと論じた[94]。このほか、イスパニアのマリアナとかフランシスコ・スアレスがおり、スアレスは国法と自然法を区別したことによってグロチウスの先駆者とされる[95]。しかし、リーグの教皇至上主義(ウルトラモンタニズム)は、フランスの利益という観点から支持されなくなり、また暗殺のような手段をとったことで勢力を失った[95]

一方で、国家を重視し、宗教よりも世俗の秩序を優先させる、いいかえれば宗教上の寛容によって内戦を終結させるポリティークと呼ぶ勢力が出た[96]。ポリティークの支持者はブルジョワジーであり、宗派の争いによる政治の混乱を避けた[97]。ポリティークの代表的論者はジャン・ボダンである。ボダンは国家を「多くの家族とそれらの間で共通の事柄との主権的権力を伴った正しい統治」と定義する[98]。家族は家父長のもとに統治され、さらに家族と家族の武力抗争の結果、勝ったものが主権者となり、勝った主権者に従っていたものは国民になり、負けた者は奴隷になるとした[99]。ここでの国民(citoyen)とは、他人の主権に依存する自由な臣民(sujet)である[99]。ボダンは中世的な国王大権を発展させて、主権概念をつくった。この主権とは、国家を支配-被支配の関係で捉えた際に支配者側が持つ絶対的な権限のことで、国王にのみ固有のものである。彼によれば、「国家の絶対的な権力が主権」であり、「主権による統治が国家」である。つまり主権は国家そのものと不可分である。要するに、伝統的な封建制や従来の身分制社会では、国王と末端の被支配者である人民との間に、大貴族や群小の領主のように中間権力が存在したが、ボダンは主権を設定することによって、中間権力を排除して、支配者と被支配者の二者関係で国家を定義した[100]これによりモナルコマキたちが主張した、貴族などが支配権の一部を分担しているという観点から抵抗権を認める暴君放伐論を否定した。この主権概念と対立するのは伝統的な普遍支配権を主張する皇帝と教皇である。まずボダンは皇帝を選挙によって選ばれるのであるから、選挙を行なう支配者たちの主権を譲渡された受益者に過ぎないとこれを主権から外す。また教皇の至上権に対しては、国家の自律性・自然性を強調し、領域国家内の政治から宗教上の争いが排除されなければいけないとして政教分離を主張した。[要出典]

フランス絶対王政の確立[編集]

1620年ルイ13世が、改革派が多数を占めるベアルヌ地方でカトリックを支持する裁定を下すと、改革派は反発し、その年の12月に開かれた全国会議で「強硬派」が優勢となって武装蜂起を決定した。ユグノー側の軍事的指導者となったのはロアン公アンリである。1621年から1622年にわたっておこなわれた戦いは、ほぼ王側の優勢のうちに決着したが、和平においてはルイ13世が譲歩する形でナントの勅令が再確認された(モンプリエ条約[101]

ユグノーの多く居住する地域(17世紀

しかしルイ13世はモンプリエ条約の遵守に熱心でなく、改革派は不満を隠しきれなかった。1625年に再び戦闘が開始されると、宰相リシュリューは改革派の拠点ラ・ロシェルを包囲し、ロアン公アンリ率いる改革派をうち破ったが、このときリシュリューは外交方針を変更して三十年戦争でプロテスタント側を援助することも考慮していたため、1626年には講和してモンプリエ条約を再確認した(パリ条約)。だが平和は短かった。1627年にリシュリューは再びラ・ロシェルを包囲し、改革派はイングランドの援助を受けたが、イングランド艦隊は有効な支援ができず、1628年10月ラ・ロシェルは陥落した。1629年には王軍がラングドックにも侵攻して決定的な勝利を得、またロアン公アンリを国外へ追放した。6月和平がなりアラスの勅令が出され、ここでナントの勅令が再び確認されたものの、改革派は武装解除された[102]これは「恩恵の勅令」と言われるように、王権が改革派を決定的に従属させるものであった。

1630年から1660年にかけての30年間は、王権への臣従姿勢によって改革派が比較的安定した時期を迎えた。[要出典]

三十年戦争とヴェストファーレン条約、清教徒革命[編集]

三十年戦争1618年1648年)でもカトリック勢力とプロテスタント勢力が衝突した[103]。要因は宗派対立だけでなく、皇帝と帝国等族の対立、領邦君主と領邦等族の対立などもあったが、引き金は宗派対立であり、ヨーロッパ最後の大規模な宗教戦争となった[104]。大きくはボヘミア・プファルツ戦争(1618年 - 1623年)、デンマーク戦争(1625年 - 1629年)、スウェーデン戦争(1630年 - 1635年)、フランス・スウェーデン戦争(1635年 - 1648年)の戦争がある。

プロテスタント諸侯とカトリックの対立は1570年代以降に深刻化し、ケルン大司教職を巡る紛争ではカトリックが勝利した[104]1608年、カルヴァン派のプファルツ選帝侯によってプロテスタント同盟(ウニオン)が結成されるとオランダが協力し、対抗してバイエルン選帝侯によってカトリック連盟(リガ)が結成されるとスペインが後押しをした[104]。さらにクレーヴェ大公没後の継承問題でブランデンブルクとフランスが前者に、プファルツ・ノイブルクと皇帝が後者の陣営についた[104]

1617年ボヘミア王となった反宗教改革の強硬派ハプスブルク家フェルディナントがプロテスタント弾圧を開始すると、領邦等族が対抗してフェルディナントを罷免し、新教同盟のプファルツ選帝侯フリードリヒ5世を新国王にした[104]。フランクフルトでフェルディナントが皇帝に選出されると、スペインと旧教連盟と組み鎮圧に向かい、ボヘミアの反乱勢力は処刑されフリードリヒ5世はボヘミアを追われた[104]。以後ボヘミアはカトリック化政策が断行された[104]

1621年には旧教軍がプファルツに侵攻し占領すると、脅威を感じたフランスはオランダ、イギリス、デンマークに働きかけハーグ同盟を結び戦争となった[104]。皇帝・旧教軍が優勢となり、皇帝は1629年の復旧勅令で1552年以降没収された教会領地をカトリック側に返還することを命じた[104]。これは皇帝権のピークであり、皇帝絶対主義を意味した[104]

西ヨーロッパの主要国が参戦した三十年戦争は、ヨーロッパ全域に多大な影響を与えることとなった。講和条約のヴェストファーレン条約によって、フランスとスウェーデンがドイツの保証国となり、帝国等族の自立が強化され、神聖ローマ帝国ハプスブルク家は弱体化した[104][105]。ドイツの経済や都市も破滅的な損害をうけ、ドイツの後進性が決定づけられた[104]。他方、領邦的分裂は文化や教育の普及をもたらした[104]

また、条約でフランスの優位が規定されヴェストファーレン体制が形成され、国際法勢力均衡の視点が芽生えたといわれる[106][107]が、近年はヴェストファーレン条約によって国際法が開始したというのは19世紀の神話であると指摘されている[108]

絶対王政と啓蒙主義[編集]

概要[編集]

宗教改革によってヨーロッパにおける宗教が多元化し、宗教戦争への反省のなかから、寛容の思想が勢力を増した[109]

フランス王国ではガリカン教会(フランス教会)の教皇権からの独立を求めるガリカニスムによって[51]ルイ14世1685年フォンテーヌブローの勅令でナント勅令を廃止すると、50万人のカルヴァン派ユグノーが国外へ逃れ、宗教的寛容や宗教的自由をめぐる議論が活発化し、ピエール・ベールクリスティアン・トマジウスなどが著作を執筆した[110]。カルヴァン派のピエール・ベールは「迷える良心」は人間の自由の表現であるとして、信仰の強制や、宗教的迫害を正当化するガリカニスムを批判した[111][51]。しかし、ベールはカトリック教徒を装って偽名で小冊子『亡命者への忠告』を発表して、論敵であったプロテスタントのピエール・ジュリューを批判した[112][51]。ベールは、ジュリューの千年王国説的な予言は当たらなかったし、無政府状態や共和主義は深刻な災いをもたらすと批判して、ユグノーは自分たちのために寛容を要求するが、カトリックに信仰の自由を認めるのかと改革派へ反省を促した[51]

1761年、宗教対立の続いていたトゥールーズにおいて、新教徒のジャン・カラスがカトリックに改宗した息子を殺害したとして死刑判決を受けたカラス事件が発生した[113][51]ヴォルテールは1763年に『寛容論』を書くなど再審運動を起こし、1765年国王諮問会議は判決無効を宣告し、カラスは無罪で名誉回復となり、この事件はカトリック側の不寛容を象徴する事件となった[114]

1762年の『社会契約論』においてルソーは宗教を3つに分けて、「聖職者の宗教」(カトリック)は「ひとびとに二つの法体系、二人の首長、二つの祖国 を与えて、人々を矛盾した義務に従わせ、人々が信者と市民の役割を使い分けるように仕向ける」として否定し、ギリシアとローマなどの「市民の宗教」は神への礼拝と法への愛とを結びつけ、祖国を熱愛の対象とするよい宗教だが、自国民以外に対して排他的で不寛容なこともあるとし、さらに純粋な福音の宗教としての「人間の宗教」において人間はすべて互いに兄弟となるが市民たちの心を国家からも引き離してしまうので、社会的精神に反するとして批判した[115]

寛容思想は各地で実現へと向かい、オランダが最初に宗教的寛容を実現し、イギリスでも国王への忠誠を誓い法王を否定するかぎりで非国教徒も寛容の対象となった[110]。その後は、アメリカ憲法修正条項からフランス革命でも受け継がれた[110]

ブランデンブルク=プロイセンでは1671年ブランデンブルク選帝侯プロイセンフリードリッヒ・ヴィルヘルムがオーストリアから追放された富裕なユダヤ人家族に定住許可を与え、保護状が与えられた[110]プロイセン王国では。1730年フリードリヒ・ヴィルヘルム1世プロイセン国王がユダヤ人基本法でユダヤ人の権利を制限し、1750年に啓蒙専制君主として知られたフリードリヒ2世が改定特権規則基本法で、ユダヤ人の権利と資格を六級に区分して、一級は一般的特権、二級は正規保護、三級は臨時保護、四級はコロニー公務員、五級は恩情による居住許可、六級は保護状を持ユダヤ人の使用人とされ[110]ハプスブルク帝国ではヨーゼフ2世1781年にユダヤ人に対して寛容令を発布したが、目的は同化政策であった[110]

ナントの勅令の廃止[編集]

1630年から1660年にかけての30年間は、王権への臣従姿勢によって改革派が比較的安定した時期を迎えていた。

例えばリシュリューの庇護のもとアカデミー・フランセーズを設立したヴァランタン・コンラールも改革派の文筆家であった。とはいえ、この時期改革派に圧迫が加えられてもいる。リシュリュー死後、実権を握ったマザランは改革派全国教会会議の開催を禁止した。

ルイ14世が親政を開始すると、改革派の権利が徐々に剥奪されていった。まず1661年にフランス全土に官吏が派遣され、改革派の礼拝について調査が行われた。そしてさまざまな条例を発布して公職から徐々に改革派を閉め出した。1679年ドラゴナードという制度が定められ、これは竜騎兵を改革派の家に宿泊させ、暴力的威嚇によって改宗を強制するものであった}}[* 20]。これに対して1683年に改革派の多い南部で散発的な抵抗運動が起こったが、すぐに鎮圧された。1685年にはついにナントの勅令廃止が宣言(フォンテーヌブローの勅令)され、改革派牧師の追放、改革派教会堂の破壊が命じられた[116]

アメリカとフランスの革命を契機として寛容思想が普及し、19世紀のヨーロッパで制度的再編に乗り出した[24]

フランス革命と政教分離[編集]

アンシャンレジーム(「旧体制」)におけるカトリック教会は、国教としてフランスの王権と一体化しており、文化の面でも行政の面でもブルボン朝による絶対王政を支えていた[117]。フランス全土に網の目のように張り巡らされた教区教会は、1667年民事王令以降、教区司祭のもと洗礼証書・婚姻証書・埋葬証書の認証というかたちで戸籍業務を一手に担い、教区内住民の生誕、結婚葬送に関する一切の記録を納めていた[117][118][119]。王から発せられる命令もミサ祭壇から教区の人びとに告知された[119]。教会組織はまた、民衆向けの医療福祉教育などの機能もはたしており、人びとの日常生活に深く入り込んで王政による臣民統合を基礎づけるものとなっていた[117][119][* 21]。一方、カトリック教会は、教区民の助言者であり、告解やミサを通じて信者の生活規範を点検する道徳統制者でもあり、また、常に信者本人や家族に対して日々の信仰生活のありようを問い、その冠婚葬祭に際して宗教的な証しを求めた[118][119]プロテスタントの信徒はといえば、カトリック教会の台帳には登録されなかったため、たとえば結婚については正式なものとは認められず、したがって、正式な夫婦でない男女から生まれた子どもたちもまた社会的には私生児として扱われた[118]。そして、洗礼証書(現代でいう出生証書)のない死者の埋葬には、しばしば大きな困難がともなったのである[118]。プロテスタントやユダヤ教徒は「不法に」ではなく、いわば「合法的に」差別されていた[118]。その状態に変化の兆しがみられたのは、国王ルイ16世の名においてプロテスタント諸派に信仰の自由と戸籍が与えられた1787年のことであり、ここにみられる「宗教の相対化」はしたがって後述するフランス革命の所産ではなく、「啓蒙の世紀」が培ったものであったといえる[118]

憲法制定国民議会と1791年憲法体制[編集]

「バスティーユ襲撃」(ジャン=ピエール・ウーエル英語版画)

一方、1780年代のフランスの国家財政は疲弊の極に達していた[120][121]テュルゴーネッケルによって試みられた財政改革は停滞し、後を引き継いだカロンヌブリエンヌらの改革も不調に終わって再びジャック・ネッケルが財務総監に任命された[120]1789年5月、国王ルイ16世は財政問題の抜本的な立て直しのために3身分(聖職者326人、貴族330人、平民661人)の代表計1,318人による全国三部会ヴェルサイユに召集し、事態の改善をめざした[121][122][* 22]。しかし貴族たちは新しい租税制度に反対し、一般総会の開催を国王に求めた[121]アベ・シェイエスをはじめとする第三身分(平民)は自分たちこそがフランス国民の代表者であると主張し、みずからの会議を国民議会と称し、憲法が制定されるまではどんな圧力があっても議会を解散させないと誓い合って立憲王政をめざした[121][123]。これに第一身分(聖職者)議員の大部分と自由主義を支持する第二身分(貴族)の議員が合流し、1789年7月9日憲法制定国民議会が発足した[121][123]。事態が急展開をみせたのは7月14日のことである。政府が外国人傭兵をかき集めてパリ駐屯隊を強化する方針を定めたという噂が流れ、また、7月11日に財政問題を唯一解決できるとみなされていた穏健改革派のネッケルが罷免されたという情報に接したパリの群衆が激怒し、この日、バスティーユ牢獄を襲撃して、武器を奪い、ここを占拠した[121][123]。まもなく騒動はフランス全土におよび、後世「大恐怖」と称されるパニック状態が農村各地に広がった[123]。貴族の邸宅は農民たちによって襲われ、土地台帳は奪われて焼き捨てられた[121][123]。国民議会は、オノーレ・ミラボーらの主導のもと、大恐怖に対応するため改革を急ぎ、8月4日、封建的特権の廃止(有償)を宣言した[124]。議会はまた、8月26日十分の一教会税の廃止を決議し、憲法前文として、ラファイエットらの起草による「人間と市民の権利の宣言」が採択され、自由平等国民主権言論の自由私有財産の不可侵などの諸原則がここに示された[121][124]。いわゆる「フランス人権宣言」である。

1789年8月26日「人間と市民の権利の宣言」
モーセの十戒」の図像学的な伝統にならい2枚の石版に記されていることが注目される[118]

フランス人権宣言では、国家は「人の消滅することのない自然権を保全する」という世俗的目的のための「政治的団結」であるとされ、フランス国家はここにおいて、真理への奉仕や神の喜捨にではなく、自由で平等な「個人」の意思のうえに基礎づけられた[1]。ここにおける「個人」とは、信教の自由という権利を有し、宗派にかかわりなく平等であることを保障された、世俗的な存在として想定された自律的な個人であった[1]。ここに、国家と宗教の関係について「中立化」という方向づけが明確になったのである[1]。とはいえ、この段階では、フランスの国会と教会はまだ必ずしも分離されていなかった[121]

十分の一教会税の廃止は、これまで自弁で維持してきた聖堂学校神学校施療院捨て子養育院、貧民救済などの諸事業にかかわる財産の一切を放棄し、国庫に全面的に依存することを意味しており、教会はまた、9月末には教会が所有する金銀製の聖器や装飾品などの類も礼拝儀式に必要なものを除いてすべて国庫に供出することに同意した[125]。国民議会は、1789年10月より教会の組織再編を審議しはじめ、これはカトリック聖職者の自治およびその排他的権利にとっては脅威となった[126]

1789年11月2日フリーメイソン会員で啓蒙思想の影響を強く受けたオータン司教のタレーラン・ペリゴールが憲法制定国民議会に対し、修道院を含む全教会財産の没収と国有化を提案した[121][125][126]。議会はこれを採択し、国家が祭式費用と聖職者の給与を負担することを決めた[121]。教会所有地は、フランス王国の2割に達していただろうと考えられ、その資産総額は約30億フランに達した[125][127]。接収した土地の一部は1890年5月と7月に出された政令にもとづいて売却された[127]。教会財産の国有化は、かつてプロテスタントの君主が自領でおこなった改革であったが、革命前後の混乱と税金不払いの拡大のため、財政状況のさらなる深刻化から非常措置もやむをえないとされたからであった[126][128]。これによりフランス国内の司教と司祭は、神聖で特別な立場から国家公務員という立場となり、すべて一定額以上の租税負担を負うことのできる有権者(「能動市民」)によって選ばれる身分となった[121][128]1790年3月には財政悪化がさらに進行したため、見積もられた国有資産となった教会領を担保とする5パーセントの利子付き債券「アッシニア」の発行が決定された[126][127]。教会に関する国民議会の当初方針は、道徳的基盤としての教会の存続を脅かすことではなく、聖書者および聖職者による教育・慈善事業の国家管理であった[126]。しかし、かねてより無益で費用がかかりすぎるとして多方面より批判があった観想修道会などについては廃止が決定された(1790年2月13日1792年8月18日の法令)[126]。これにより実体のともなわない男子修道会の統廃合が進んだが、教育や医療にかかわるものについては除外された[125]。修道僧の強制的な還俗も含むこの措置は世俗権力による宗教そのものへの侵害を意味したが、ほとんど抵抗なく実施された[125]

1790年2月13日の聖職者の終身誓約と修道会の廃止をうけて自由を喜ぶ修道士[* 23]

2月13日の法令では、行政は教区聖職者の組織体系にまでは干渉していなかった[125]。しかし、1790年7月12日、行政権力の力で教会の粛正と再編を図る聖職者民事基本法(聖職者市民法)が議会を通過した[121][129]。従来135あった司教区は新たに導入された県にあわせて83に削減され、18名いた大司教も10名までとされた[129]。市町村の小教区も人口にあわせて再編された[129]。聖職者の位階も単純化され、すでに有名無実化していた役職・聖職禄は全廃された[129]。また、修道誓願の禁止、観想修道会の禁止、聖職服の禁止などが定められた[121]。教区司祭と司教は、適性や資格が審査されたのち、行政単位ごとに選挙集会の選挙において俗人によって選ばれることとなった[126][129]。つまり、これは行政改革の原則が教会組織にまで拡大されたことを意味している[126][129]。聖職者民事基本法の本質は、教会は国家と市民社会に従属しなければならないとするものであり、一面ではガリカニスムの論理的帰結でもあったが、これは、ローマ教会としては到底受け入れがたいものであった[126][129][130][131]。当初ローマ教皇ピウス6世は態度を保留していたものの、すべてのフランスの聖職者が公務員として革命政府に忠誠の誓いをたてなければならない(1790年11月17日の法令)と定められるや、1791年3月から4月にかけてこの法令の内容を公然と非難しつづけた[121][126]。多くのフランスの聖職者たちは当初、教会の民主化を喜んで受け入れたものの、135名の司教のうち宣誓に応じたのはタレーラン含めて7名のみであり、教区で直接信徒に接する司祭や助祭は約半数近くに相当する2万4,000名あまりが宣誓を拒否した[129]。全体の5割強が国家への忠誠を誓ったものの、ローマ教皇がこのような態度を鮮明にすると、宣誓を撤回した聖職者も少なくなかった[126]。また、教皇がどのような意見がわからないまま不本意ながら聖職者民事基本法に署名したルイ16世は、のちに教皇の見解に接したとき暗澹たる表情を示していたという[128]

議会の命令で聖職者に宣誓を強制しようとする様子を描いた風刺画(1791年)

フランスの教会はタレーランに指導された「憲法派教会」と宣誓を拒否した正統教会に分裂した[121]。信仰心の篤い地域では、宣誓僧は無資格僧とみなされ、「ユダ、裏切り者」と罵倒され、宣誓拒否僧は聖人扱いされることも多く、しばしば宣誓拒否僧自身が反革命を煽動したこともあったのに対し、革命派の勢力が盛んだった都市部などでは宣誓を渋る僧に対して民衆が圧力をかけ決断を強制するようなこと少なくなかった[129]。「宣誓か縛り首か」を迫られた聖職者もあれば、宣誓拒否をしたために、槍や鎌をもった群衆によって「異端」宣言され、追放された聖職者もいた[129]。こうしたフランス全土におよぶ深刻な教会分裂は1801年ナポレオン・ボナパルトによるカトリック教会の復興まで続いた[121]。ピウス6世にしたがって宣誓を拒否した聖職者に対する弾圧は伝統的な宗教生活にとっては致命的なものであったが、一方ではヴァンデの反乱(後述)をはじめとする反革命に大きな力をあたえる契機ともなった[121][129]。国家が反聖職者的、反宗教的な諸法を次々に制定すると、カトリックの伝統を支持する地域住民の多くは、神と彼らを仲介する存在として長らく機能してきた教区司祭を守ろうとし、アンシャンレジームの復興を強く希求するようになった[121][126]。こうして教会内部での抗争は激化したが、過激派が勢いを得た革命政府は1791年にローマ教皇庁と断交し、当時教皇領だったアヴィニョンコンタ・ヴネサンフランス語版を占領した[121]

憲法制定国民議会は、1791年 9月3日、フランス初の憲法(1791年憲法)を可決し、これはまもなく国王ルイ16世によって承認された[132]。この憲法は、教会を国家権力のもとにおき、権力の世俗化を図ることを一つの特徴としていた[133]。これに先立つ新しい地方行政制度やギルドの廃止を定めたル・シャプリエ法、上述したアッシニアの発行、聖職者民事基本法、あるいは、そのほか行政や財産に関する法令が次々と成立したが、1791年憲法とこれら一連の法令にもとづく体制を1791年憲法体制という[130][131][133]。ここでは、権力の世俗化とともにギルドなどの社団的な中間権力をなくして権力の一元化が推し進められた[133]。1791年憲法では、税の支払能力によって能動市民と受動市民とに分け、能動市民による制限選挙によって選ばれた議員による、一院制の新しい議会をひらくことが定められた[130][131][132][* 24]。こうした自由主義的な立憲君主制が軟着陸するためには、国王側の協力が条件となっていたが、革命側からすれば、これは不確実なものと理解されていた[131]。議会が二院制論をしりぞけ、立法機関の行政機関に対する優位を強調して国王拒否権に難色を示したのも、宮廷に対する疑念からであった[131]。国王一家がパリを脱出し、その日のうちにヴァレンヌで捕捉された1791年6月20日の事件(ヴァレンヌ事件)は、国民を見捨てようとした国王夫妻に対するこうした疑念を押しひろげ、それはときに激しい嫌悪をともなうものだったのである[134]

共和政フランスと反キリスト教運動[編集]

国民議会は制限選挙が実施されたことでその目的を終え、1791年9月30日立法議会(立法国民議会)に引き継がれた[132]。この議員の選挙では、国民議会議員の再選が禁じられていたので、新人ばかりの顔ぶれとなった[132]。議会では、立憲君主政の定着をはかるフイヤン派といっそうの民主化を求めるジロンド派が対立した。立法議会は、フランス国内の反革命運動を支援する外国との開戦を主張するジロンド派、また、それとは逆に敗戦によって革命の終結をもくろむ国王周辺の双方の意向におされ、1992年4月20日、国境地帯の亡命者とこれを支持する外国の軍勢に対し軍事行動をとることを可決した[132]。これは事実上、オーストリアに対する宣戦布告となった(フランス革命戦争[132]。これを受けてオーストリアと同盟したプロイセン軍がフランスに侵入、将校の大半が亡命していたフランス軍は弱体化しており、戦況は初めフランス不利であったが、危機を感じたパリの民衆と全国から駆け付けた義勇軍テュイルリー宮殿を襲撃して国王を監禁、立法議会に対して、普通選挙制によって選ばれた議員から成る新しい国会(国民公会)の開設と新憲法の制定を約束させた(8月10日事件[132]。パリではこののち、9月2日より「九月虐殺」と呼ばれる大量殺戮が起こり、それは全国化して3名の司教と200名以上の司祭が憤激する暴徒によって殺害される惨事となった[135]

コンコルド広場でのルイ16世の処刑」(作者不詳、18世紀)

保守派が逃亡してジロンド派が多数派となった立法議会は、さらに領主貢租の無償廃止や宣誓拒否聖職者の国外追放などを決めたが、過激化したパリの民衆はジロンド派への圧力を強めた[136]。立法議会解散直前の9月20日、議会は住民の民事的身分を認証する役務を教区教会から地方自治体に移した[118][135]。結婚は役所に届け出ることが正規の手続きとされ、離婚の可能性が認められた[118][135]。これにより、離婚を認める世俗の法とそれを認めないカトリック教会の法は、婚姻に関する限り相容れないものとなった[118][135]。なお、この日はヴァルミーの戦いで国民を主体とするフランス軍が革命後、初めて勝利した日でもあった[136][* 25]

国王の逃亡や対外戦争の開始など緊張のつづく政治局面において、人びとの聖職者に対する視線もまた厳しいものになっていったが、戸籍の世俗化と離婚に関する法令は「憲法派教会」の存立基盤を揺り動かす意味合いさえ有していた[135]。教区簿冊すなわち戸籍簿の管理によってかろうじて自身の立場を維持していた憲法派・宣誓派の僧たちはもはや公務員的な役割さえ失うこととなった[135]。また、離婚法の制定は、カトリックで禁じられていた離婚・再婚を可能にしたばかりではなく、僧侶の結婚さえ合法化するものであり、教会法はもはや打ち捨てられたに等しかった[135]

1792年9月21日、男子普通選挙にもとづく国民公会がひらかれ、9月22日、王政の廃止が宣言されてフランス共和国が成立した[136]。ローマ教皇によって聖別されてきた王政は否定された[118]1793年1月21日、祖国に対する裏切りの罪で裁判にかけられた国王ルイ16世はシャルル=アンリ・サンソンの手によって、ついに断頭台の露と消えた[136]。これは、アンシャン・レジームとの決別を示す最後の象徴であったのと同時に、ヨーロッパの君主たちに対する挑戦でもあった[136]。フランス軍のオーストリア領ネーデルラント(いまのベルギー)占領に対し、英蘭両国がこれを脅威とみなしたところから、1793年2月、国民公会はオランダとイギリスに対しても宣戦布告した[136][137]2月24日には独身者に対する一般兵役義務が課せられ、フランス国民軍が成立した[137]。30万規模の新規徴兵は、しかし、一方では農民の武装反乱を引き起こした[137]。こののち、マクシミリアン・ロベスピエールを中心とするジャコバン派独裁がはじまり、サン・キュロットたちの意向に配慮した国民公会によって「国民の敵」に対する恐怖政治が展開された[136]。欧州で孤立無援の情勢となったフランスでは、国内にいる共和国の敵をどうしても殲滅しなければならないと考えられたのであり、一方で食糧危機がきわめて深刻化していた経済事情もこれに拍車をかけた[138][* 26]

「恐怖政治」の時期には、多くの聖職者が処刑され、追放された[121][138]。教会は閉鎖され、多くの建造物は破壊されて美術品も売りに出された[121][138]。こうした「非キリスト教化運動」(反キリスト教運動、キリスト教否定運動)が特に激しかったのは1793年秋から1794年春にかけてであった[138]。この運動は、知識人の反宗教感情と国民一般の反教権主義とが結びついたもので、宣誓を拒否する聖職者は「反革命的狂信者」と断罪された[138]。一方で、市民道徳と人間性回復の一環として「理性」と「最高存在(至高存在)」の崇拝が導入された[26][121][138]。これらは「革命的宗教」ないし「革命的諸宗教」とも称される[139][* 27]。1793年11月10日エベール派の主導によってノートルダム聖堂で「哲学」の名において「理性の祭典」がとりおこなわれた[138][139][140]。この祭典は以後、数か月にわたってパリの各教会はじめ諸県の主要都市においてくりひろげられ、無神論的でアナーキーな性格をもつものであった[140]。これに対し、1794年5月7日法令に基づいて6月8日テュイルリー宮殿シャン・ド・マルス公園を中心に「最高存在の祭典」が挙行された[118][138][140]。その中心となったのはロベスピエール派であり、理神論的性格をもつものであった[139][140]。しかし、これらは宗教を否定していながらも実際には完璧な宗教儀式の外観を呈していたとも評される[118]。1793年11月、国民公会によって定められた共和暦(フランス革命暦)は、イエス・キリストの降誕を紀元とする従来のグレゴリウス暦に代わって採用された[118][138][141]。革命前から暦の改変を提案していたのはシルヴァン・マレシャルただひとりだったが、共和暦は1806年まで公式に使用された[118][141][* 28]。各月を等しく30日に、1日を等しく10時間にすることもおこなわれた[141]。地名もまた、サンテチエンヌがアルムヴィル(武装せる都市)に、サントロペがエラクレス(ヘラクレス)に改称されるなど、宗教色の強い地名は改名させられた[142]。これらはいずれも、日常生活から宗教を取り除く試みであった[138]

1793年11月、コミューンの活動家たちに連行されたパリ大司教英語版ジャン=バティスト=ジョゼフ・ゴベル英語版国民公会の演壇に立って僧職の離脱を宣言し、彼のミトラ(司教冠)は赤い「自由の帽子」に取り換えられた[135]。彼は、みずからの叙任状と十字架、司教用の指輪を壇上に置いて「革命が成った以上は自由と平等の宗教以外に国民的な宗教はもはや不要である」と述べた[135]。聖職者議員たちは次々とこれにしたがった[135]。僧職離脱を拒否してキリスト教の信仰告白をおこなった勇気ある議員はアンリ・グレゴワール英語版司教だけであった[135]。これ以降、聖職放棄は地方へも急速に波及し、憲法派僧すなわち教区僧2万6,542人のうち半数強にあたる1万3,000人ないし1万5,000人が聖職放棄の強制に応じた[135]。非教区僧を加えた聖職者全体は1万6,000人から2万人におよぶと考えられており、教区聖職者はアンシャンレジーム期の4分の1に落ち込んで、立憲教会体制はこうして内側から切り崩された[135]。聖職放棄には妻帯の強制をともなうことも少なくなかった[135]。僧侶の独身は「カトリック的偏見の産物」とみなされ、聖職者と市民を隔てる障壁と考えられた[135]。およそ6,000名の僧が教会法では許されない妻帯に手を染めた[135]。こうした聖職放棄や妻帯は国家への忠誠宣誓以上に人びとのあいだに聖職者への抜きがたい不信感を植え付けることとなった[135]

ジョゼフ・フーシェによって1793年10月に発せられた墓地令では、共同墓地から十字架さえ撤去されて、死者を見守るのはただ「死は永遠の眠りである」と記された墓碑銘だけとなった[142]死生観さえも世俗化され、以後、死と葬送は私事の領域へと移っていくこととなる[142]。共同墓地や教会から刈りだされた十字架は火刑の薪となり、告解の場もまた焼却されるか、哨舎に転用された[142]

革命初期におこなわれた教会の銀器や装飾品・祭具の没収が没収され、由緒ある教会・修道院も破壊されて蔵書などが失われた。鐘楼の鐘も没収され、祖国フランスの防衛のための砲弾として改鋳された[142]。聖人像はいたるところで首を刈られたり、引きずりおろされていた[142]イコノクラスム(聖像破壊)やヴァンダリズム(文化破壊)と称される「民衆的暴力」が顕現した[142]。神を冒涜するかのような火刑マスカラード(仮装行列)がしばしば民衆の熱狂を誘い、聖人像やローマ教皇をかたどった人形が火あぶりにされ、聖書やミサ典書、祭壇布といった従来神聖視されてきた諸物が焼かれ、聖職放棄僧の叙任状と一緒に火にくべられた[142]

「ヴァンデの反乱:ショレの民衆蜂起」(Paul-Émile Boutigny画)

こうした運動は、国民公会が派遣した議員が主導して行われたため、その徹底の度合いは派遣議員の熱意や地域性によるところがきわめて大きかった[138]。すでに教会の権威が低下していた中部の諸地域やパリ周辺、ノルマンディローヌ川沿岸地域などでは宗教的習慣がいっそう弱まったものの、一方では、伝統の無視とそれに対する攻撃に反発をつのらせ、聖職者が以前もまして崇敬されるようになった地域も少なくなかった[138]。民衆運動やジャコバン派は革命を反革命勢力から守りぬく決意を固めていたが、一方では、反革命の動きも顕著となった[143]。当初は亡命貴族、そして民衆の側からも反革命運動が激化・拡大していった[143]。公的役割をになうプロテスタントが増加したことに対する反発や怖れ、極端なキリスト教否定運動に対する反発、重税や徴兵、食糧やの徴用、革命政府の土地政策に対する不満などがその要因であった[143]。1793年3月に起こったヴァンデの反乱では大多数の市民が教会の祭壇を守るために立ち上がった[121][143]ヴァンデ地方の民衆反乱は当初3万人規模を擁する大規模なもので、93年末にはほぼ鎮圧されたが、ヴァンデ、ブルターニュ、ノルマンディなどの西部地方では、その後も1795年ころまで「シュアヌリ英語版(フクロウ党)」と呼ばれるゲリラ組織がつくられ、地域住民からの支持を受けて政府軍への抵抗をつづけた[143]

1794年7月のテルミドールのクーデターによってジャコバン派の独裁は倒れ、1795年11月に国民公会が解散、同月、ポール・バラスジョゼフ・フーシェラザール・カルノーらによる総裁政府が発足した[144]。1795年10月4日にパリの王党派が武装蜂起した際、砲兵隊を率いて注目された若き将校がナポレオン・ボナパルトであった[145]。ナポレオンは、鎮圧後、国内軍司令官に大抜擢され、以後、バラスの配下として活躍した[145]。1796年3月、総裁政府はナポレオンをイタリア方面軍司令官に任命し、第一次イタリア戦役が開始された[146]。ナポレオンの軍はイタリア北部を席巻し、1796年5月10日ロディの戦いでオーストリア軍を破り、15日にはミラノに入城して旧ミラノ公国の領域を制圧した[146]。ミラノにはロンバルディア行政府が設置され、北イタリアでのパトリオット(愛国派)やジャコビーノ(イタリア・ジャコバン派)の活動の中心となった[146]。6月、ナポレオンは教皇国家北部のレガツィオーネイタリア語版に侵入してボローニャフェラーラを占領、モデナ公国から分離したレッジョモデーナも支配して、そこに「チスパダーナ連合」を結成させ、のちにチスパダーナ共和国を建国させた[146]。連戦連勝のナポレオンは総裁政府からの自立を強め、みずからの手でイタリア政策を推し進めて自身の政治的立場を強化した[146]1797年6月にはロンバルディアにチザルピーナ共和国を樹立してチスパダーナ共和国をこれに併合している[121]。ときのローマ教皇ピウス6世はナポレオンに対し強く抵抗したが、ナポレオンは1798年、教皇領全体を占領してローマ共和国を発足させた[121][147]。ナポレオン軍はさらにヴァチカンを占領して、ピウス6世はトスカーナに亡命したため、ここにローマにおける教皇の世俗支配は崩壊した[147]

コンコルダ体制とナポレオンの帝国[編集]

革命政府は上述のように組織的にフランスの世俗化を推し進め、非キリスト教化運動においては革命的信仰創設の最後の試みであった敬神博愛教も不調に終わって[139]1799年ころまでに国民の多数はカトリックの復興を望むことが明らかになった[121][143]。教皇ピウス6世は、1799年8月、フランスでの幽閉中にヴァランスで没し、1800年3月、ピウス6世の友人であったジョルジョ・キアラモンティ枢機卿ピウス7世として新教皇に選出された。フランスでは1799年11月9日から10日にかけて、総裁政府は打倒され、将軍ナポレオン・ボナパルトが権力を掌握した(ブリュメールのクーデター[148]12月22日には新しい憲法(共和暦8年憲法)が発布され、ナポレオンが第一統領として強力な執政権をにぎる統領政府が成立した[148]。執政官ナポレオンはオーストリアやイギリスとの戦争状態を終結させ、フランスに10年ぶりの平和をもたらす一方、亡命者の帰国を促し、全般的な恩赦を布告するなど国民の和解に務めた。

「コンコルダの署名」(フランソワ・ジェラール英語版画)

ナポレオンはまた、フランス革命によって生じた宗教的分裂を解決するため、カトリック教会との和解を試みた[121][148]第二次イタリア戦役によって得た北イタリアでの軍事的優勢を背景として、1801年7月15日、ナポレオンはローマ教皇ピウス7世とのあいだにコンコルダ(政教協約)を結んだ[121][148]。政教協約を結んだナポレオン側の目的としては、宗教に社会の管理の一端を担わせること、カトリック教徒に新政体を容認させること、王党派から統領政府に反対する根拠を奪うことなどがあげられる[149]。政教協約はカトリックを国家の宗教(国教)としては承認せず、「フランス国民の多数の宗教」であるとし、司教はフランス政府が指名し、教皇によって教会法上任命されるように規定し、教会は広い分野で国家の統制に服すべきこととされた[26][121][148][149]。在俗聖職者は国家からの俸給を受けることになり、代わりに教皇は革命によって没収された教会財産の返還を求めないことに同意した[121][148]。ただし、国家が聖職者の損害を弁償することは約束された[121]。政教協約によって教会は「良心の自由」を保障し、カトリックとプロテスタントの2宗派(カルヴァン派とルター派)を公認宗教とすること、各宗派間で法的平等を共有することを認めさせられた[121][148]。1806年にはユダヤ教も公認宗教と認められ、ユダヤ教徒はこれによりキリスト教徒と同一の権利をもつこととなった[148]。コンコルダの締結は、啓蒙思想の流れを汲む学者や政治家から批判されたが、実際には、帝政期を含めてフランス政府はあらゆる宗教権力から自立しており、その意味では非宗派的であり、少なくとも革命期の宗教政策を否定するものではなかった[148]。カトリック教徒も多くはこれを歓迎した[149]。これが、宗教基盤そのものを脅かす国家と教会の対立を終わらせることができるだろうと期待されたからであった[149]。革命期に廃止された修道会については、1800年末以降、個別に認可をあたえるかたちでの復活を認めたが、実際に認可されたのは教育や看護にあたる女子修道会が中心であり、イエズス会は復活が許されなかった[148]。以上、政教協約のこのような内容は、1814年憲章1830年憲章1848年憲法のいずれにおいても維持され、1905年政教分離法までローマとフランス国家との関係を基本的に規定することとなった[26][121]

なお、ナポレオンは政教協約締結直後「基本条項」を付加し、国家が教会に与えることを約束した譲歩のいくつか(国家による聖職者の損害弁償など)について、これを撤回した[121]。この経過をとおしてフランス教会の当事者は、世俗主義的かつ反カトリック的となったフランス政府を信用しなくなり、ローマ教皇庁への傾斜を強めるようになった[121]。こうしてフランスのカトリック教会には、従来のガリカニスムに対抗してユルトラモンタニスム(ウルトラモンタニズム、教皇至上主義)を主張する聖職者たちもしだいに増えていった[121]

1810年のイタリア
フランス直轄領、イタリア王国、ナポリ王国はいずれもナポレオンの統制下にあったが、シチリア王国とサルディーニャ王国では英国の影響が強かった。

イタリアでは1802年1月、チザルビーナ共和国がイタリア共和国に改組された[147]。大統領にはフランスの第一統領ナポレオン・ボナパルトが就任し、副大統領にはミラノ貴族のフランチェスコ・メルツィ・デリル英語版が任命された[150]。大統領府はミラノに置かれた。1803年9月、イタリア共和国はカトリックを国教としたうえで信教の自由を認め、司教の任命権を国家が有するという内容の政教協約をローマ教皇と結んだ[150]。イタリア共和国は、1805年3月、ナポレオンを王とするイタリア王国に移行した[147]。一方、イタリア半島北西部では、フランス共和国(のち帝国)が1802同年9月にはトリノピエモンテ、1805年3月リーグレ共和国、1807年以降はエトルリア王国パルマ公国教皇国家を次々と併合してフランス直轄領とし、南イタリアでは1806年、ブルボン王家がナポリを去ってシチリア島に逃れ、ナポレオン一族を君主とする新生ナポリ王国が成立した[147]。こうしてイタリア半島は、フランス帝国領、イタリア王国、ナポリ王国にほぼ三分割され、それぞれフランスの強い影響を受けることとなった[147]

こうしたフランスのヨーロッパにおける軍事的優勢は1793年にしかれた一般兵役義務によって国民軍が成立したことによっていた[151]。徴兵制は、兵力のいわば無尽蔵な供給を可能とし、傭兵よりも費用が安く、脱走の心配も少なく、食糧の現地補給方針とあいまって高い機動力を可能とした[151]。フランス国民軍を率いたナポレオンは、第一次イタリア戦役ののちアルプス山脈越えをおこない、オーストリアと抗争した[151]

1803年2月25日の帝国代表者主要決議

神聖ローマ帝国(ドイツ)の帝国クライス軍は撃破され、結局オーストリアは1797年のカンポ・フォルミオ条約および1801年のリュネヴィル条約によってフランスのライン川左岸地域(ラインラント)の領有を認めることとなった[151]。ライン左岸が神聖ローマ帝国から離脱することにより多くのドイツ諸侯が領土を失うこととなり、その補償を帝国内で行うことが決められた[151]。補償内容を決定するにあたり、ドイツ皇帝が独断でそれを行う権利はないものの、帝国議会で審議するにはあまりに時間がかかりすぎると予想されたところから、1801年11月7日レーゲンスブルク帝国議会に代表者会議が設置された。ナポレオンのラインラント支配はルイ14世以来の「再統合政策」の継続と完成を意味しており、明白にフランスの領土拡張の意図の賜物であったが、こうした国家利害の考え方は領土の取引というかたちでドイツの全諸領邦に強い影響をあたえた[151]。神聖ローマ帝国全体としてみた場合、帝国議会と帝国最高法院は、国内的ないし国際的な圧力への反応を調整する働きが評価されて1790年代には再び活性化したものの、結局のところ、有力諸侯とくにプロイセン王国とオーストリアの二大国には帝国をどうしても維持していこうという熱意に欠けていた[152]。近隣の弱小領邦を維持しようというよりはむしろそれを犠牲にしてフランスやロシアと和解する道を選んだ[152]。1802年から1803年にかけての帝国代表者会議では、そのことがいっそう鮮明になったのである[152]

1803年2月25日帝国代表者会議主要決議が成立した[151]。その結果、ドイツではマインツ以外の全教会領が接収され、領邦司教の領土が世俗権力の下に置かれる世俗化が進んだ[151]。また、帝国騎士は全てが地位を失い、帝国都市や小侯国など112におよぶ帝国等族の所領がとりつぶされ、帝国都市は6つに減少、すべては大中の諸領邦に併合されて陪臣化の傾向が顕著になった[151]。ドイツの領域は大幅に再編成され、神聖ローマ帝国は約40の中規模の邦国の集合体となったが、世俗化と陪臣化は帝国を切り崩すのに大きな影響力をもっており、実際、帝国はほとんど有名無実化した[151]。ここに「ドイツの自由」というヴェストファーレン条約以来のドイツの国制の原則は完全に破綻した[151]

フランスでは1802年8月のナポレオンの終身統領就任ののち、1804年5月には元老院決議によって帝政(フランス第一帝政)が成立した[153]世襲制を含めた帝政移行は人民投票にかけられ、99パーセントの賛成で批准された[153][154]。同年12月2日、パリのノートルダム大聖堂で、ローマ教皇ピウス7世を招いての聖別式が挙行された[153][154]。法的には元老院決議と人民投票による批准があれば帝政そのものの実現は可能であったが、ナポレオンはみずからをカール大帝(シャルルマーニュ)になぞらえ、フランス君主政の伝統にもとづいた壮大な儀式をおこなうことによって帝政に威厳をあたえようとしたのであり、ピウス7世は、ナポレオンに皇帝冠を授けるためにパリに赴いたのであった[121][153]。しかし、ナポレオンは教皇の目の前で、自ら皇帝冠をかぶり、皇后となるジョゼフィーヌにはナポレオンが冠を授け、これを画家ダヴィドに描かせた[154]。これは、教会を政治の支配下におく意志のあらわれとされる。第一帝政期の政教関係を特徴づけたのは、ここに象徴的にみられるナポレオン1世とピウス7世のあいだの葛藤であり、フランスは近代における国家と教会の対立の典型例となった[121]

1804年3月、のちに「ナポレオン法典」とよばれる民法典が発布された[154]。ここでは法の前での平等、信仰や労働の自由、私的所有権の絶対と契約の自由が規定された[154]。1806年5月1日、皇帝となったナポレオンは「皇帝要理書」と通称されるカトリック要理書を発布した[121]。その起草はダストロとジョフレの両師が中心になっておこなわれ、皇帝とその後継者への忠誠義務を付加した[121]。ナポレオンはこうして秩序回復のために教会を復活させ、国内の教区を再編成し、政府中央の官吏・統率が宗教分野におよぶよう努めたが、ピウス7世は皇帝要理書(ナポレオン1世の要理書)の公認を拒んだ[121]。なお、1806年、フランスでは共和暦が正式に廃されグレゴリウス暦が完全なかたちで復活しており、「共和国」の呼称も1807年まで公文書に使用された[153]

Franz I (II) half-length portrait in Austrian uniform.jpg Niederlegung Reichskrone Seite 1.jpg
最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世(左)と退位宣言書(右)

帝国代表者会議主要決議で特に領土を多く獲得したドイツの領邦にはプロイセン、バーデンバイエルンヴュルテンベルクがあったが、西南ドイツの中規模国家となったバーデン、バイエルン、ヴュルテンベルクほか計16邦は、1806年7月、ナポレオン1世を保護者とし、マインツ大司教カール・テオドール・フォン・ダールベルクを総裁とするライン同盟を結成し、帝国議会に対して正式にドイツ帝国からの離脱を表明した[151]。ドイツの弱小領邦にとっては、フランスに編入されるかドイツの周辺の大領邦に併合されるかしか道が残されておらず、今や選択肢は連邦主義しかのこっていなかったのである[152]。1804年以来「オーストリア皇帝」の称号を用いていた神聖ローマ皇帝フランツ2世(オーストリア皇帝としてはフランツ1世)は、ライン同盟の帝国離脱を受けて1806年8月6日、ドイツ皇帝の退位と神聖ローマ帝国の解散を宣言した[151]。これは、ナポレオンが神聖ローマ帝国の解体に乗り出した結果ともいえるが、一方でナポレオンが神聖ローマ皇帝となってヨーロッパに君臨しようとする野心を棄てていないことに対し、フランツ側が機先を制した結果とも考えられる[151][155]。いずれにせよ、ここに10世紀後半以来850年有余つづいてきた神聖ローマ帝国はその長い歴史を閉じた[151]

これに前後して、オーストリアは1805年12月のアウステルリッツの戦い(三帝会戦)、プロイセンは1806年10月のイエナ・アウエルシュタットの戦いでそれぞれフランス帝国軍に敗れた[156][157]。反撃の機会をうかがっていたオーストリアはスペインの反ナポレオン蜂起を契機に、1809年フランスに宣戦布告したが、1809年7月のヴァグラムの戦いで大敗した[156][157]。これによってドイツの勢力図は、(1)フランスに併合された地域(ラインラント、北ドイツ)、(2)ライン同盟、(3)ナポレオンの従属国(ヴェストファーレン王国ベルク大公国)、(4)ナポレオンと同盟関係にあるプロイセン・オーストリアに塗り替えられ、ここにナポレオンのドイツ支配が決定的なものとなった[156]

ラインラントでは、かつてこの地に独立していた97の聖俗諸侯領が一挙に取り壊され、フランス的な地方自治制度がもたらされ、身分制の廃止、法の下の平等、領主制の廃止、ナポレオン法典の適用などフランス革命のすべての成果が直接もちこまれた[158]。ヴェストファーレン王国やベルク大公国でもナポレオン法典が適用され、1807年制定のヴェストファーレン憲法はドイツ最初の憲法となった[158]。プロイセンの場合は、1807年に不名誉なティルジットの和約を強いられ、国民の総力を国家に結集する体制をつくることが国内的に求められたため、ハインリヒ・フリードリヒ・フォン・シュタインカール・アウグスト・フォン・ハルデンベルクらを中心とする抜本的な自由主義諸改革(プロイセン改革)の進展がみられた[158]。ライン同盟の加盟国であるバーデン、バイエルン、ヴュルテンベルクの場合は、歴史的伝統も信仰する宗教も異なる多くの多様な旧領邦国家を併合し、支配領域を数倍に増やしたため、国家と社会の体制をまったく新しく、しかも独力で整えていかなければならなかった[158]バイエルン王国では1808年に憲法が制定され、身分制の廃止、法の下の平等、財産権の保護、信仰と出版の自由などが規定された[158]。これは、ヴェストファーレン憲法を除けばドイツ人による初めての憲法であった[158]。バーデンとヴュルテンベルクでは、内閣制度の導入や領主裁判権の破棄、身分制の廃止、思想や信仰の自由が保障された[158]。プロイセン改革とライン同盟諸国の改革はその後のドイツ史に与えた影響が大きく、いずれの地域でも政教分離の進展がみられた[158]

ナポレオンと教皇ピウス7世の関係は、ナポレオンの離婚問題と大陸封鎖令に関連して再び悪化した。1808年、フランスは再度教皇領を占領して帝国直轄地とし、1809年、ティブル県とトラジメーヌ県を置いたのに対し、同年、教皇はナポレオンを破門に処した[149]。それに対し、ナポレオンは教皇逮捕で応じ、1809年から1814年まで中部イタリアのサヴォーナに幽閉、のちフランス国内に移し、新しい政教協約に署名するよう圧力をかけた。1813年、ピウス7世は、いわゆる「フォンテーヌブローの政教協約」に署名した[121]。しかし同年、ライプツィヒの戦いでプロイセン・オーストリア・ロシアを中心とする同盟軍がナポレオンを破り、1814年にはパリ入城を果たした[157]。これにより、教皇はローマに帰還し、ただちに「フォンテーヌブローの政教協約」の無効を宣言した[121]。第一帝政と教皇庁との争いはナポレオンの失脚によって終焉をむかえたのである[121]

ライシテへ[編集]

第三共和制のもとで国家の非宗教化・中立化(ライシテ)が進んで、1905年の教会国家分離法が施行された[26]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 従来説のようにヴィッテンベルク城の聖堂の扉に掲載されたという説は現在疑問視されている。
  2. ^ ただし、ルターはアウグスティヌスの教会論を意図的に斥けているようにみえる。アウグスティヌスはドナティストとの論争において、彼らが教会に分裂をもたらしかねないことが問題であるとした。教会は唯一であるべきというのが彼の考えであった。マクグラス(2008)pp.103-112
  3. ^ 信仰義認説それ自体は、決して反カトリック的というわけではなかった。1511年に枢機卿コンタリーニがルターとは無関係にこの結論に達しており、同時代ではイングランドメアリー女王のもとでカンタベリー大司教であった枢機卿ポール、人文主義者でケルン司教区の改革に従事していたグロッパーなどが個別に信仰義認説に到達している。コンタリーニ、グロッパーなどカトリック穏健派は、論争に際してはルターとの和解を模索している。
  4. ^ ルターはそれまで懐疑的にみていた国家を、今度は神の作ったものとみなして君主の絶対的な権力を正当化し、最悪な君主にも従わなければならないとした。このような国家観・君主観の激変は、ルターの激情家ぶりを物語っており、かれは結婚の意志を直前まで再三否定していたにもかかわらず、1525年に突如、若い元修道女と結婚して世間を驚かせている。長谷川(1997)p.32
  5. ^ しかし、この戦争をマクシミリアン1世は皇帝としてではなく、ハプスブルク家の当主として戦っているのであり、したがってこの戦争は地方的な紛争に過ぎないとする異説がある。この異説は1947年、H・ジークリストによって提唱され、1958年の著書において、K・モムゼンもこの見方を継承する。柳澤(2006)pp.31-39
  6. ^ アウグスト・フランツェンによれば、ツヴィングリがルター思想の影響を受けるようになるのは、1519年のライプツィヒ討論以後のことでしかも非常に限定的であり、1522年まではエラスムスの影響が顕著であるという。フランツェン(1994)p.244。また、A・E・マクグラスは、北ドイツの宗教改革に対し、スイスの宗教改革には人文主義の著しい影響が認められると指摘している。マクグラス(2000)pp.85-92
  7. ^ スイスでは自治権を持つ州のことをカントンをいうが、これはスイス革命により成立したヘルヴェティア共和国の時期に一般化したフランス語由来の用語である。それ以前は「邦」と呼ばれていた。
  8. ^ カロリーヌムの名はカール大帝にちなむ。現在のチューリヒ大学の基となった。
  9. ^ 一方、エラスムスに傾倒し、ルターの感化を受けたマルティン・ブツァーアルザスの中心都市シュトラスブルク(ストラスブール)市に招かれ、市当局の依頼により、1530年より同市の教会改革にあたった。ブツァーは教会参事会を中立化し、修道院を閉鎖して、その財産を公共教育と貧民の救済の費用にあてた。すべての小教区に小学校を開設し、1538年には同地に高等学院を設立して神学の教授などを行っている。久米(1993)p.210
  10. ^ 「低地」をあらわすNederlanden(複数形)の発音は「ネーデルラント」よりも「ネーデルランド」に近い(厳密には「ネーデルランデン」)。Nederland(単数形)の発音は「ネーデルラント」であるが、これは今日オランダを指す。今日のオランダ・ベルギーを含む低地地方を「ネーデルラント」と日本語で表記することが多いが、これは適切とはいえない(川口博 1995, pp. 12-15)。したがって、この記事内ではオランダとベルギーを含む地域を「低地地方」と表記する。
  11. ^ 少なくとも「カルヴィニズム的北部」と「カトリック的南部」の分離が宗教的理由によるという見解はオランダ独立の歴史的な経過に即しているとはいえない。そもそもカルヴァン派の人口に占める割合は、北部よりも南部の方が当初は多かったのであるから、北部と南部の宗教事情の相違は分離の原因ではなく結果であると見るべきである(川口博 1995, pp. 19-27)。
  12. ^ エタ・ジェネロー(:États Généraux:Staten-Generaal)は、慣例で「全国議会」と訳されるが、この会議は低地地方全体の身分制議会ではなく、州ごとの身分制議会の派遣する使節団の会議というほうが実情に近い。川口博(1995)pp.10-11
  13. ^ ところで、この17州というのが具体的にどの州を数え上げたものかについては数説あり、一致した見解が得られているとはいえず、不明確である。あるいは中世ヨーロッパにおいて17という数字は「不特定多数」の寓意でもあったので、それに由来するのではないかという示唆もヨハン・ホイジンガから出されている。詳細は川口博(1995)「「十七州」考」
  14. ^ このとき下級貴族を「乞食(ヘーゼン)」と蔑称したことから、彼らは自ら「乞食党(ヘーゼン)」を名乗るようになったという。なおよくある表記「ゴイセン」は現地語に即して正しい表記とはいえない(おそらく「ゴイセン」はドイツ語のGeusen(発音はゴイゼン)に由来すると思われる)。ヘーゼンのオランダ語における綴りは「Geuzen」であるが、この語頭の「g」は有声軟口蓋摩擦音であり、有声軟口蓋破裂音であることが多い英語の「g」や日本語ガ行とは異なる音であるため、最近ではハ行で転写されることが増えつつある。また「オランダのカルヴァン派をゴイセンと呼んだ」という誤解があるが、これはずっと後になってから特殊に改革派をヘーゼンと蔑称する用例ができたに過ぎない。川口博(1995)pp.15-16
  15. ^ 「ユグノー」という用語は当初は蔑称であり、プロテスタント側はこの語を使っていなかった。語源的にはスイスにおいてサヴォワ公に反対した「連合派 (Eidgenossen)」に由来するといわれ、民間信仰における「ユゴン王」に結びつけられていた。この「ユゴン王」は一種の化け物である。木崎(1997)pp.20-21金哲雄 2003, p. 2
  16. ^ 1533年にはパリ大学総長がルターに依拠して演説し、1534年にはカトリックのミサ聖祭の中止を訴える檄文事件が起こっている[要出典]
  17. ^ マックス・ウェーバーは、フランスの改革派が「フランス工業の資本主義的発展の最も重要な担い手の一つだった」(マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』p.28)と述べている。またウォーラーステイン は『近代世界システム 1600-1750』において、ナント勅令廃止がフランス産業革命の立ち後れをもたらしたと指摘する(金哲雄 2003, p. 14)。一方でウェーバーの研究に影響を受けた日本の大塚史学においては、ユグノーの経済史的役割は概して冷淡に扱われた(金哲雄 2003, pp. 5,20-28)。
  18. ^ この節は全般的に金哲雄 2003に依拠する。
  19. ^ この衰退に宗教迫害がどれだけ影響を及ぼしたかについては主要な研究において見解が相違している。W・C・スコヴィルは『ユグノーの発展とフランスの経済的発展 1680~1720』(1960年)において、宗教的迫害の激しくなる時期と経済的衰退の時期が一致しないことを挙げ、むしろルイ14世の対外戦争に対抗した諸外国による高額の関税、インド産綿布の普及、国家による経済統制や国産品税の導入などがその原因であるとする(金哲雄 2003, pp. 83-91)。それに対し、C・ヴァイスの先駆的研究「17世紀におけるフランス・プロテスタントに関する研究報告書」はナントの勅令を経済的衰退の原因と見ている(金哲雄 2003, pp. 106-113)。金哲雄も同様である(金哲雄 2003, pp. 113-151)。
  20. ^ 1685年の事例によれば、竜騎兵たちは疲労しないよう交替しながら、改革派信徒を眠らせないよう太鼓を鳴らし、罵倒し、体を揺さぶり、針を突き刺し、命に別状ないやり方で苦痛を与えた[要出典]
  21. ^ アンシャンレジーム期のフランスの教会は、施療院や捨て子養育院を経営し、貧民救済事業をおこなったほか、教区ごとに小さな学校(プチト・ゼコール)を設け、民衆の子弟に読み・書き・計算を教え、よきカトリック信者となるべき作法を伝授した。谷川(2006)pp.65-66
  22. ^ 教会内部の分裂を反映して、第一身分(聖職者)議員326人のうち220人は下位の聖職者すなわち教区司祭であった。貴族出身の司教修道院長、上位聖職者、修道士など教会組織の支配層は少数であった。プライス(2008)p.138
  23. ^ この当時の修道院生活は極めて厳しいものであったので、多くの者が解放を喜んだ。
  24. ^ 能動市民は25歳以上のフランス人男性で、1年以上同一地に居住し、3日分の労賃にあたる直接税を支払う能力のある市民であり、受動市民には民事上の諸権利はあたえられたものの参政権は付与されなかった。女性や奉公人、使用人、植民地奴隷は能動市民に含まれなかった。谷川(2006)pp.53-54
  25. ^ 義勇兵を主体とするフランス軍が初めてプロイセンに勝利した戦いで、プロイセン側でこの戦闘を目撃したゲーテが「ここから、そしてこの日から世界史の新しい時代が始まる」と述べたことで知られる。
  26. ^ 食糧危機の原因は、増強されたフランス軍兵士の糧食が増えて従来の食糧供給のシステムが破綻したことに加え、民衆騒擾、紙幣と化したアッシニア濫発にともなうインフレーション、さらに不作が重なったことなどである。戦争によって海外市場が失われて国民の購買力が低下し、失業率が高まったことがこれに拍車をかけた。プライス(2008)p.170
  27. ^ 「革命的諸宗教」はアルフォンス・オラールの用語である。オラールによれば、革命的な諸信仰はジャコバン独裁期の相次ぐ政治的必要に応え、競合する政治集団によって執り行われた国防目的の方便にすぎなかったし、政治対立の目的でもあり手段でもあるところの人為的創設物でしかなかったので、複数形でしか語りえないものであった。それに対し、アルベール・マチエの考える「革命的宗教」では自然発生的な創設が想定され、いわば、18世紀の哲学のうえに咲いた遅咲きの花であるとする。宗教に関しても、マチエはエミール・デュルケームの思想から発想を得て「個人を社会に統合する規範の総体としての宗教」という考え方を提示した。オズーフ「革命的宗教」(1999)pp.43-62
  28. ^ 当初は1789年7月14日を記念日として「自由元年」とする発想が生まれるが、1792年の8月10日事件後はこれに「平等元年」という考えが付け加わる。ここでさまざまな論争が起こるが、結局、1792年9月22日の共和政宣言の日がたまたま秋分の日にあたっていたところから、自然と歴史の両方に依拠してその日が新しい暦の開始点となった。オズーフ「共和暦」(1999)pp.78-95

出典[編集]

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参考文献[編集]

書籍[編集]

事典・辞書[編集]

論文[編集]

  • 倉塚平「ミカエル・セルヴェトゥスの思想形成」、『政經論叢』35巻1号、1966年
  • 初宿正典「現代ドイツにおける宗教と法」、『法哲学年報』、2002年
  • 福島清紀「「寛容」概念に関する試論」、『富山国際大学国際教養学部紀要』5号、富山国際大学2009年
  • 柳澤伸一「スイス誓約同盟とシュヴァーベン同盟」、『西南女学院大学紀要』10号、西南女学院大学2006年2月28日NAID 110004866386

文献案内[編集]

関連項目[編集]

帝権と教権[編集]

各国史[編集]

教会[編集]

ヨーロッパ外の祭祀王権との比較[編集]