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政教分離の歴史

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政教分離の歴史(せいきょうぶんりのれきし)では、歴史学的知見に基づき、政治社会と宗教の関係性の歴史、とりわけヨーロッパの国家とキリスト教の関係史を中心に概観する[* 1]。したがってここでは政教分離原則成立の社会的背景を、近代国家に先行する政治社会の宗教政策および政治思想史・宗教思想史との関連性に基づくものとして近代国家成立との関連性から統治機構と宗教組織の分離していく歴史を概観する。政教分離原則それ自体に関わる歴史的事象については政教分離原則#歴史を参照のこと。

バチカン市国
中世におけるカトリック教会は教会国家という世俗的な基盤を有しながらも、全ヨーロッパ規模での普遍的な権威を主張した。近代ヨーロッパ各地に国民国家が成立していくと、このような普遍性に支えられていた特権や管轄地は多く失われ、世俗の国家に回収された。現在カトリック教会はバチカン市国としてサン・ピエトロ大聖堂を中心とした世俗の一独立国家となっている

目次

政教分離における歴史学的視座[編集]

ここでは中世史における理解に大きな影響を与えた[1][2]山田欣吾の議論に基づきつつ、先行するベッケンフェルデの整理を参照しながら本記事の基本的な視座を提示する。

ベッケンフェルデによれば、国家の概念は学問的共有財産であるとともに、あらゆる社会に普遍的なものではない[3]。それは1213世紀から18世紀末・19世紀までの間に特殊ヨーロッパ社会に内在する動態のなかで形成された、固有な形態の政治秩序を言い表す概念である[4][3]。しかしながらその後の歴史的展開においてこの概念は文明化された全世界に普及するに至っている[3]。国家の体をなしていない中世ヨーロッパの支配構造と政治秩序からの国家の形成は国制史的理解において、支配・政治権力の集中とこうした支配・政治権力から解放された法的に平等な臣民や公民による社会の一方の成立という叙述がなされてきたが、その動態とは別に、世俗的な領域がキリスト教の倫理規範と支配から分離され解放されていくという重要な側面が看守される[5]。ベッケンフェルデの整理に拠れば、その過程は第一に政治秩序の宗教的目的と形態からの分離の進展、第二に宗教と政治が統一された世界から政治に固有な現世の目的設定と正当性を認める世界への移行、第三に政治秩序の基礎をなしていたキリスト教その他の宗教からの政治秩序の分離という形で進んだ[5]

こうした理解の中では、国家の成立との関連でいう世俗化とは、宗教上の真理の問題に対して中立を宣言することである[6]1617世紀のヨーロッパを席巻した宗教戦争で多くの政治家や政治思想家は、特定・不特定の宗教を超越して、宗教から独立したところに政治秩序の新しい根拠と普遍妥当性を発見する必要に迫られた[6]。しかしこの段階における政治と宗教の分離は、世俗化のそもそもの始まりではなく[* 2]、政治権力と宗教を分ける原則の起源は1057年から1122年の間中世ヨーロッパで特殊に展開された叙任権闘争にある[6]。そこではヨーロッパのキリスト教世界のあり方を巡って、神聖ローマ皇帝とローマ教皇は宗教・政治面で熾烈な戦いを展開し、そのなかでヨーロッパ史の基本テーマとなる宗教と世俗の区別と分離が生まれた[6]。叙任権闘争のこの歴史学的理解における意義は、それに先行するヨーロッパの「キリスト教国家(respublica christiania)」的あり方の統一性を破壊し解体したということにある[8]。この先行する「キリスト教国家」はただ単に政治秩序の正当性がキリスト教的土台に立っていたというだけではなく、政治秩序そのものも、その国家的内実も宗教的で神聖性を有していた[8]。神聖ローマ帝国は「ローマ」という名前で形容され、ローマ帝国の遺産を継承したものであったとしても、それはローマ帝国の遺産を土台として作られたものではなかった[8]。その土台はキリスト教歴史神学と終末論にあり、帝国はキリスト教徒の帝国で、この世に目に見える形となった「エクレシア ecclesia」[* 3]であったのである[8]。こうした「エクレシア」としての国家は国制的にはルーズで脆弱であったにもかかわらず、初期中世のヨーロッパにおいて安定的な統治を実現していた[10]

さらにいえば、このような社会では単に世界像がキリスト教的に統一されていただけでなく、具体的な制度・訴訟・日常生活・人間の行動さえもキリスト教世界に支配されていた[8]。キリスト教がローマ帝国の国教となって以来引き受けてきた祭政一致のポリス宗教的役割に加えて、ゲルマン人の自然崇拝的な呪術宗教の習俗も取り込み、信仰そのものも法的な誓約の形態で表現された[8]。要するにそこでは人間の全生活がキリスト教的であったのであり、近代的な信教の自由を許容するような、「内なる心」と「外なる世界」の区別は全く存在しなかった[11]。教会が叙任権闘争で勝ち取ったのは、こうした「エクレシア」の法的主体となり得る独自の聖職者の位階機関としての整備、古いキリスト教統一世界としての「エクレシア」からの分離である[11]。従来古い「エクレシア」全体の支配者であった皇帝権は、この新しい「エクレシア」から追い出され、宗教上の地位を失い、数ある俗人信徒の一人として、キリスト教徒としての義務の遂行という面で機関としての教会の決定に服するようになった[11]。宗教と信仰に関してローマ教皇が獲得した独占的なあり方こそが、教皇グレゴリウス7世が「ローマ教皇の専決事項 Dictatus Papae」という言葉で修飾した新しい秩序であった[11]。ここには古い「エクレシア」でのキリスト教信仰が持っていた互酬的宗教意識の残滓はなく、アミキチアと誓約による政治秩序はすでにない[12]。思想史的には、このグレゴリウス改革の提示した「教会の自由」こそは政治的な意味以上に大きな影響力を持ち、古い「エクレシア」は依然として政治秩序の外面を飾っていたが、その内実においては宗教と政治の分離は明確となっていく[13]

それが外面的な政治秩序に波及するのは宗教改革によって異なる宗教の共存を問題とせざるを得ない事態に直面したときであった[14]。この段階のヨーロッパは依然として信仰を法的性格の誓約とみなしていたし、ポリス的祭礼宗教の伝統も続いていたために、市民的寛容の道は閉ざされていた[14]。そこでは宗教的問題が政治的問題とならざるをえず、宗教的な対立が現実的な政治対立となって宗教戦争を現出した[14]。この宗教戦争は神聖ローマ帝国・フランス王国・スペイン王国(治下のネーデルラント地域)で典型的に展開したが、その過程も結果も異なっていた[14]。スペインの特殊な事例を除けば、世俗化の第二段階として、純粋に世俗的な政治を土台としてそれを正統性の根拠とする(近代)国家が登場した[14]。思想史的には、この近代国家を理論的に根拠づけた人物こそトマス・ホッブズであった[15]。ホッブズは主権を有する決定機構としての国家の根拠を外的な平和と安全の保障にあると規定し、最も基本的な問題は衣食住、人間生活に不可欠な必需品の取得と確保にあり、人間の宗教的使命などを問題としなかった[16]。ホッブズが国家の指導理念と考えた「国家理性 rectio retio」は信仰に規定されることはなく、国家そのものに固有な、国家そのものに由来する理性である[16]。しかしホッブズは決して無神論者ではなく、その国家権力の保持者がキリスト教徒であることを前提とし、「イエスは救い主である」というキリスト教の正統的な信仰箇条を国家論に組み込んでいる[16]。それでもホッブズの国家論の枠組みの全体は世俗的であり、国家建設の起源はもはやキリスト教信仰に遡ることはない[16]。こうした理性国家の支配者がキリスト教徒だからキリスト教国家であるというようにホッブズが言うとき、それは国家の根拠をキリスト教に求めているわけではないのである[17]

この過程の全体が西ヨーロッパで特殊に進展した事態であったということは、同じくローマ帝国とキリスト教という理念に支配されていたように見える東ローマ帝国のそれと比較するとき、より明確となる[18]。東ローマ帝国の国制の全体はローマ帝国との強い連続性の下にあり、国家の装置と運用の大部分はキリスト教以前に成立しており、キリスト教は政治神学において皇帝権力の崇高性を高めるという意味でイデオロギー的側面において大きな影響を及ぼしたけれども、社会全体としてのキリスト教統一世界を形成していたわけではなかった[19]。東ローマ帝国の教会法と世俗法はともに国家的業務と教会の運営を踏み越えてはならない別個の領域として峻別し、聖職者が国家業務に従事することを厳しく禁じていた[19]。宮廷における聖職者の役割は西ヨーロッパにおけるそれに比べて著しく小さく、むしろ修道士や聖職者になることによって官職上の栄達が制限され、とりわけ皇帝になる資格は失われたと観念された事実がある[20]。同時期の西ヨーロッパで聖職者が統治的活動に積極的に参加していったのに対し、東ローマ帝国では聖職者が統治機構から身を引いていたのである[21]

分野別概説[編集]

近代国家成立史として(国制史的側面)[編集]

カール大帝の戴冠(ジャン・フーケによる1460年ごろの作品)
カール大帝は800年教皇レオ3世によって加冠され、キリスト教西ローマ帝国の皇帝となった。ゲルマン的普遍世界の成立を告げる重要な画期であった[22]が、後代カール大帝はこのとき塗油によって聖別されたと信じられた[23][* 4]。厳密に言えばそれは後代のアナクロニズム(時代錯誤)であったが、のちに「国王が教皇によって聖別されること」が王権に対する教権の優位の有力な根拠となった一方、一度聖別された国王が聖性をもつことの根拠ともなり、のちには血統霊威の観念[* 5]などと結びついて王権神授説に発展し、絶対王権の根拠ともなった[23]

ヨーロッパ中世の国家は常識的には近代の主権国家ないし国民国家とは根本的に異なるものとして把握されている[25]。しかしながらヨーロッパ史学の諸研究に拠れば、「国民感情」の萌芽は1112世紀の北フランスですでに王権側のイデオロギーとして現れており、国王の有する最高崇主権に13世紀以降のローマ法の影響が加わって主権概念に変容したことが指摘されている[25]。中世国家と近代国家には一定の発展線が考えられるのであるが、これは近代国家が中世国家に起源を持つという意味ではなく、近代国家の指標といわれるものの中には中世的な要素が色濃く反映されているものがあるということである[26]

ダントレーヴの国家論の定義に従えば、国家は3つの意味で日常的に用いられている[27]

  1. 個人の意思に優越して命令を与えかつ執行せしめうる力
  2. 一定の手続きに従って行使される権力
  3. 権力の行使を合法化し正当化する権威

ダントレーヴは国家のそれぞれの意味に対応して、国家の問題への取り組み方が異なることを指摘した[28]。中世国家との関わりにおいては「力」としての国家観に関わる問題、「権力」に関わる主権概念の問題、「権威」に関わる国民と祖国の問題として立ち現れてくる[29]

古代中世の国家概念[編集]

まず国家の概念については古代中世におけるポリス(polis)とかレース・プーブリカ(res publica)、キーヴィタース(civitas)、レーグヌム(regnum)といった様々な術語を今日一般的に「国家」という近代語で置き換えている[30]。ダントレーヴはこうした議論に際してはまずこれらの古代中世の述語の共通する対象が存在するのかという問題をまず解決し、次に近代的術語である「国家」の意義と長所を検討する必要があると論じている[31]。それに即して検討すれば、まず古代と中世の著述家たちがこれらの語を使い分けていたのには2つの理由がある[30]。1つは彼らが当面していた状況がそれぞれ異なっていたことで、たとえば古典古代のギリシャでは政治経験は都市国家ポリスに要約されており、ポリスは公益の最高の表現・精神的価値の化身とされていたと同時に人間の一切の運命が動いている教会=国家でもあった[30]。続くローマ時代には政治社会の地平は狭い都市国家を越えて帝国という普遍的理想が拓かれたばかりでなく、国家観に法的要素が導入される[30]。レース・プーブリカの定義の力点は国家の目的から国家の構造そのものに移っていて、法が政治社会を他の一切の人間社会から識別する特性となる[30]。中世においてはレース・プーブリカ、キーヴィタース、レーグヌムといった術語が政治著作にしばしば散見されるが、アウグスティヌスを例外として、それぞれの適用状況や人間社会の多様な在り方に応じて異なった形で使い分けられている[30]。キーヴィタースは都市国家に関係し、レーグヌムは王国に対応し、レース・プーブリカは多くの場合王国よりも大きな共同体つまり「キリスト教世界 res publica christiana」を叙述するために使われている[30]。2つめの理由は単純に「国家」という語が中世には一定の正確な意味をまだ獲得していなかったという事実にある[30]。つまり近代的術語である「国家」という語が文献に見いだされるのは現代に比較的近い時期以降のことであり、その普及もいくつかの現実的な状況に結びついていたが、それはこの語が生まれた事態が古代や中世の政治著述家の理解や想像力の範囲をこえたものであったからである[31]。しかしながらそれは今日「国家」に結びつけられている特質が中世までは存在しなかったというわけではない[31]

ところで、「国家 state」という語は直接的には存在の様式ないし条件を意味する「スタトゥス status」に由来する[31]。ダントレーヴに拠ればこれらの語の最初の政治的意味での使用例は後期ラテン語と中世ラテン語の中に見いだされ、そこでは教会や帝国ないしは王国などの特殊な共同体の繁栄や安寧、良き秩序を意味している[31]。こうした曖昧な一般的用法の他に、より明確な特殊な用法があり、そのうちの1つはスタトゥスが社会的あるいは経済的条件のカテゴリーとして所属階層・身分を表現している場合で、これは現代フランス語にも「身分 Etat」として引き継がれている[31]。もう1つの特殊な用法はさらに重要で、おそらくローマ法の『学説彙纂 Digesta』から発想を得て「一定の共同体の法的構造」という意味での使用例がある[32]。今日近代的な意味での「国家」の普及の功績は通例マキャヴェッリに帰せられているが、実際はその著述の中で「国家 stato」は首尾一貫して使用されているとは言いがたい[32]。それでもマキャヴェッリが『君主論』冒頭などで示す、今日的な意味に近い政治上の集合体を表す使用法は近代的なものである[32]。しかしながら、「国家 State」の近代的用法の受容はとくにヨーロッパのイタリア以外の地域では遅れており、たとえばジャン・ボダンの『国家論』の原題は「De la Republique」であって、レース・プーブリカの系譜に属しており、そのなかでは「Etat」は条件や政体の意味を指している[33]トマス・ホッブズに至って初めて近代的な用法での「国家」が決定的に政治用語として定着するのである[33]

中世国家の特質[編集]

中世国家の特質として権力に関わる問題に目を移せば、そこでは「法の優位」という事態が見いだされる[34]。ダントレーヴに拠れば、中世の法解釈では、法はその起源のゆえに国家と同等の地位にあり、またその存在のゆえに国家に従属していないという考えられており、国家は前存する不変の法の理念を実現する使命を負っており、最高権力者でさえも乗り越えられない法律上の境界が存在したと考えられていた[34]。この点は古代ローマ人において法と国家が相対的な観念であって、両者を不可分としていたのに対し、中世では法と国家は緊密でありながらも厳然と分かたれ、法は国家に基礎を提供すると考えられたために、ときに国家に対して優先権を持つと考えられていた[34]。教会法の大成である『グラティアヌス教令集』を紐解けば、序論にてすでに人間が2つの法によって規律されていること、それは自然法と慣習であると述べられている[35]。これではまるで自然法に対置されるところの実定法がほとんど慣習法と同一視されているようであるが、『グラティアヌス教令集』は実定法(=人定法)を慣習だけでなく法律からも成ると別の箇所で認めつつ、しかしながら人定法は何よりもまず慣習であって、実定立法は慣習法を何か特別な目的で文章化する手段に過ぎないと論じるのである[35]。こうした法律観は法律を社会の改善のために人間に委ねられた手段としてよりは、神秘的かつ超越的な力によって人間に与えられた制限であると見なす傾向を伴った[35]

こうした「法の優位」は中世国家を理解する上での根本原理であるが、そこで中世政治理論に特有の法の非個人性と権力の個人性の結びつきという奇妙な結果が生じ、それが中世国家に3つの固有な特質を形成しているのである[36]。1つめは権力が制限されかつ責任あるものとしてのみ理解されたということである[36]。法は統治者と非統治者を結ぶ相互の義務を表していたがゆえに、権力は責任あるものとされ、中世の君主は「古き良き法」を尊重し、遵守し、執行することを義務とし、その履行を宣誓して約束したのである[36]。2つめの特質は権力の私的行使と公的行使の間に明確な区別が存在しなかったことである。通例こうした権力の公私混同は封建社会の結果であると結論づけられているが、それだけでなく慣習法に由来しない人定法の責任を負いうる主権概念が存在していなかったために、法の終極的な淵源は曖昧とされていたことに理由の一端がある[37]。そして最後に宗教問題と政治問題の混同が見られたことも、中世において公私の領域が区別されていなかったことに由来している[37]。「キリスト教世界 res publica christiana」は中世においてキリスト教世界の全体を意味しつつ、一方で現代の用語でいう「国家」や「教会」と呼ばれているものの特徴も併せ持っており、その内部では精神的ないし宗教的な事柄と世俗的な事柄は区別されていなかった。統治者が遵守し適用した法律は純粋な世俗法だけではなかったのであり、国家の固有の性格ははっきりと定義され完全に独立した諸関係の全体としてはまだ存在していなかったのである[37]。近代国家はまさに中世的な政治思想と国家の特質を克服して成立するのであるが、その過程の視座はしかし中世国家の特質から出発して初めて定まるのである[37]

キリスト教世界(res publica christiana)の歴史的展開[編集]
「エクレシア」(12世紀)
ランツベルクのヘルラート快楽の園』写本の彩色画

オットー・ブルンナーによれば、現実の様態としては中世初期において、教会と国家はたがいに緊密に絡み合いながら現れた[38]。君主は聖職者と見なされ、国王の聖別は「秘蹟」とされていた[38]。この社会では古典古代の教父哲学の遺産が息づいており、教会的および世俗的意味における「フィーデス fides」、すなわち「信仰」と「誠実」が統一原理として中世ヨーロッパの隅々まで支配していた[38]。「神授王権」についての神話は中世では現実であったのであり、エルンスト・カッシーラーら啓蒙主義者の定義でいうところの「シンボル」とは異なっていた[39]。教会による聖別としての戴冠式は、国王信仰を宗教的祭祀の中に組み入れたが、国王信仰はキリスト教信仰と同じ崇高性を獲得したわけではない[39]。こうした教会と国家の関係にひとたび変化が生じると、完結していたかに思えた構造は動揺し、教会と世俗、組織としての「教会」と「国家」機構の分離が生じた[38]。これは「フィーデス」の統一性も破壊することとなり、世俗と教会の双方で神話的=呪術的な要素と合理的な要素の葛藤が生起されることとなった[38]。古い国王信仰の宗教的=呪術的基礎はおそらくヨーロッパ以外の諸文明でも見られる宗教的に基礎づけられた専制主義やビザンツロシアに見られるようなキリスト教的皇帝主義と共通性があったが、西欧でそれが結局のところ実現しなかったのは、その基盤となりうる国家による教会支配、国家教会制が世俗権力と教皇庁の大きな闘争のなかで打撃を受け、1人の教皇が複数の世俗権力と対峙するという西欧固有の状況が現出し、教皇庁がその闘争の過程でさまざまな領域的権力や地方的権力にも支えられたことにある[38]。領域的権力や地方的権力が教皇に与して国王に反抗した場合、それは暴君に対する抵抗とみなされたからである[40]。その結果として教会の分野と世俗の分野が独特の形で分化することとなり、キリスト教世界は宗教的には教会として、世俗的には「キリスト教国家 res publica christiana」・「キリスト教共同体 corpus christianum」として西欧キリスト教国家の国際法社会としては存続したものの、現実の政治単位としての実体は失った[41]。そのため国家は教会とははっきり区別された世俗的分野として現れたが、ここに国家の世俗化過程の端緒があった[41]。こうした過程を準備したものは、教会も世俗権力もともに霊的な領域と世俗的な領域の双方を掌握しようと努力したことにあり、それが最終的には主権国家という独特の統治形態に至る変容の始まりであった[41]

ドイツ中世国制における聖俗分離の展開[編集]

ドイツ国制史においてはオットー朝の国家教会体制に対する叙任権闘争の過程とその後のヴォルムス協約という形で展開した[42]カロリング朝ルートヴィヒ敬虔帝以来、帝国教会は国王の保護とイムニテートが付与され、授与された王領と教会財産の区別が消失し、9世紀以来司教領全体が王の恩給地(ベネフィキウム)と見なされるようになった[42]。このような私有教会制は王領だけでなく諸侯領でも発展し、10世紀末には指輪と杖による高級聖職者の叙任が行われるようになり、帝国司教・修道院長は叙任に際して国王に誠実宣誓と託身を為す慣例が生じた[42]。こうして私有教会制に基づく国王の帝国教会政策は司教・修道院長を帝国行政の担い手として取り込み、帝国教会は帝国の業務や軍役に参加する見返りとして広汎な政治的諸権利を獲得した[42]。教会はイムニテート特許状授与に際して完全な裁判権を獲得し、刑事事件に際しても自身が任命するフォークトによる裁判権の代行が許可され、実質的に世俗諸侯領と同等の地位を得て国王の帝国統治の支柱となった[42]。この結果帝国教会は国家教会となったが、同時にローマ教皇庁を頂点とする普遍的な教会組織の構成部分でもあったために、皇帝がこの帝国教会制度を貫徹しようとすれば必然的にローマを介して帝国教会を精神的にも掌握する必要があった[42]。皇帝が注力したイタリア政策はこうしたドイツ国制固有の状況の直接的表現であり、オットー朝を通じて皇帝権が神権的性格を強めていったのもこの流れの中で理解できる[43]。オットー1世の帝権は当初は軍隊帝権の性格が濃厚であったが、ローマでの戴冠以後にキリスト教的ローマ帝権理念が結びつき、教会の保護者・異教徒に対する伝道者としての側面が強調されてくる[43]。皇帝は教会兼帝国の最高指導者としてローマ教皇さえ廃立し、教皇に服従宣誓を求め、教皇選挙に皇帝の同意権を留保するよう働きかけ、教皇領の世俗的統治には自らの代理者を任じて監督下に置こうとした[43]。こうした意識の変化はこの時期の各皇帝の称号の中に強いローマとの結びつきが見られることが象徴するのであるが、こうした文脈の中で着手されたハインリヒ3世の教会改革の中からしかし、世界像の転換が始まった[43]

初期中世の思想状況においては国王の中に不可侵の「王兼司祭 rex et sacerdos」が認められていた[44]。神の恩寵の下に皇帝は神と人間とを媒介するカリスマを有していた[44]。世界は1つの「エクレシア ecclesia」としてのみ理解されていたが、そこでは2つの権力が統治を担っていた[44]。すなわち王権は支配的任務を、聖職者は霊的任務を引き受けていた[44]。こうした秩序構造では一方の権力が一定の優越性を獲得しうるが、西欧ではコンスタンティヌス大帝以来、カール大帝オットー大帝を経て、オットー朝・ザーリアー朝の間に霊的権威を高めていった皇帝権が優位であった[44]。俗権と教権の名目上の共働の実態は、その起源が必ずしも純粋にキリスト教的とはいえない俗権による、教権に対する自由処分であった[44]。ところが俗権は一方で「エクレシア」の一部であり、神に責任を負うとされつつ、教会による塗油と戴冠に権力の淵源を求めていた[44]グレゴリウス7世は皇帝に対して破門を宣告し、塗油された王を「地上の王 rex terrenus」と格下げし、国王を還俗させ、救済者としての性格を剥奪した[44]。グレゴリウス7世は「エクレシア」における世界像を転換させ、重心を教権に置き、私有教会制を悪しき慣習として排することで、ドイツ王から国家教会制という人的基礎と教会という統治機関への統轄権を喪失せしめたのである[45]。皇帝権は数ある国王権と並列に置かれる可能性が生じ、いまや多数の王権と1つの教権が対峙する新しい現実が到来した[45]1122年のヴォルムス協約によって

  1. 高位聖職者の自由な教会法に則った選挙
  2. 国王が指輪と杖をもってする叙任権の放棄
  3. 司教・修道院長がおこなう、レガリア受領の反対給付としての、国王への誠実宣誓と臣従礼

が同意されたが、こうした叙任権の問題以上にドイツ国制に大きな影響を与えたのが帝国教会の財産・諸権利の問題である[46]。帝国と教会の関係にはすでにカロリング朝時代からレーエン制的形式が浸透していたが、叙任権闘争の過程で教会所有の狭義のレガリアを含む俗権の基本構造をレーエン制に即して把握する道が開け、ヴォルムス協約以後、教会レガリアは世俗レーエンと完全にアナロジー解釈されて、教会レガリアは「笏レーエン」、世俗レーエンは「旗レーエン」として授与される儀式形式に反映された[47]。こうしてヴォルムス協約を経て初めて帝国は、レーエン法を帝国教会の全財産・世俗的諸権利に対する諸高権行使の根拠とすることが可能となり、教会統治はレーエン制を媒介したものとなった[47]。叙任権闘争を通じて、教会世俗権は法理論・形式行為の両面で完全に教権と分かたれ、純粋世俗法によって把握される道が拓けた[48]。オットー朝・ザーリアー朝期の国王による教会直接支配=国家教会制に代えて、帝国は教会諸侯との関係をレーエン法的に解釈可能となったのである[48]

教皇権力論の深化(両剣論と教権支配論)[編集]

こうした状況の中で皇帝権と教皇権の関係性について、両剣論が盛んに論じられた[49]ペトルス・ダミアニはこの両剣の喩えをもって俗権と教権の共働を説いたが、クレルヴォーのベルナールは両剣を教権に帰属させ、教権支配論を支持した[49]。教権支配論は11世紀半ば以来両剣論抜きでも「エクレシア」概念を基盤とする全体教会思想からなる一元的教権支配論という形式でも展開され、フンベルトゥスが著名である[50]。彼によれば「エクレシア」には聖職者・世俗権力・民衆という三階層が存在し、聖職者は教会の頭であり、世俗権力は胸や腕で、民衆は教会や聖職者に従属する末端というふうに「エクレシア」を肉体の寓意をもって提示する[50]。そして教権は魂で、俗権は肉体であり、王権は肉体においては頭であってあらゆる構成体に対して優位に立つが、魂である教権には順うべきことを説く[50]。それに加えてフンベルトゥスは王権が教権に剣を与えられるという従来の両剣論の枠組みに接近し、「エクレシア」と両剣論を接続している[50]。こうした議論は従来帝国に包含されていた教会を、帝国を含み西欧諸国をも領域として含む1つの世界へと変換している[50]。帝権はこれに対してペトルス・ダミアニの議論を継承し、権力の両分とその相補性を強調して、こうした枠組みを破壊したグレゴリウス7世を批判する[51]。皇帝派は教皇が自身の権力に利するために両剣論の説くような二元体制を廃棄しようとしていると考えたのであり、グレゴリウス7世に与する枢機卿の主張の間にもこうした二元論は見て取れるのである[51]。グレゴリウス7世は教皇を「ペテロの代理 vicarius Petri」から「キリストの代理 vicarius Christi」に引き上げ、俗権の自立的役割を否定する[51]。還俗を強いられつつある帝権は二元的両剣論の立場を堅持することに徹し、歴史=慣習に権力の根拠を求めた[51]。皇帝派は第一にカール大帝とオットー大帝に立ち返り、さらに皇帝権力を含めた世俗権力が起源において教会よりも古いという先在性を主張した[51]。これに対しては12世紀になると神学側からも歴史的議論が展開されるようになり、サン・ヴィクトルのフーゴーは神がまず祭司権を任じ、そののち祭司権が王権を任じたという議論を展開し、オータンのホノリウス旧約聖書の中にキリスト教共同体統治の原型を求め、キリストがペテロを教会の首長に任じたとき、キリスト教帝国は存在していなかったという議論を展開して教権の先在性を主張した[52]。教会法学の体系の中ではルフィヌスが「権威 auctoritas」と「執行 administratio」を区別し、司牧的首位権だけでなく、裁治的首位権をも有する教皇の世俗への関与を説明し、「罪に関して ratione peccati」は直接介入でさえも肯定した[52]。教権支配論は以後、教皇庁主導で教会法学の発展の中で進展し、グレゴリウス7世の議論の非歴史的傾向を12世紀以降の歴史志向の議論によって補強して、『グラティアヌス教令集』に代表される教会法の連続性・伝統依拠性に基づき、「法に従いながらも法の主人としての教皇」像を確立した[53]。対して俗権の側では11世紀以来「王権 corona」観念が君主権の自立の象徴とされ、封建体制の進展という現実の状況に加えて人格的超越的国家理念に依拠し、フリードリヒ・バルバロッサによる「神聖帝権 sacrum imperium」概念が展開された[53]。しかしここでは従来の聖俗関係を乱す教権に対する優越は意図されず、教権とは別個の独立した救済機能を帝権に保持することだけが追求されていた[54]。神聖帝権概念はダヴィデ王の理念への復帰であり、中世的な主権として捉えられる[55]。こうした11・12世紀の政治権力論の到達点を教皇インノケンティウス3世に見いだすことが出来る[55]。インノケンティウス3世は教皇権の世俗への介入権を留保しつつ両剣の二元的構造を認め、フランス王権が要求する「同じ俗権の領域では誰にも凌駕されないところの自国における優越性(superioritas)」を承認し、こうした独立の君主国によって構成される体系を認めつつ、聖事においては教皇の優越性を確認している[55]。俗権が自らの価値を教権から受けているという命題を根拠としてドイツの国王選挙に介入した[56]。たとえドイツ国王が皇帝となる前に皇帝類似の権力を行使していようとも、教皇の聖別を受けない限りは正当な皇帝ではないとして、教皇による皇帝の法的な叙任権を要求したのである[56]。ここにおいてすでに11世紀以来の世界秩序は完全に逆転したといえるが、インノケンティウス3世の世界支配論には矛盾が含まれていた[57]。各国の王権に独立性と世俗での完全な優位性を認めたが、一方でドイツの皇帝に対しては徹底的に教権優位を論じたインノケンティウスは結局のところ王たちに教皇を世俗の上位権威として認めさせつつ、世俗権の独立性を認めていたからである[57]

教権側からの世俗的領域に対する権利要求はしかし、中世の王権や民衆に十分受け容れられることはなかった[58]。大学の知識人の間でも見解は分かれていて、教会法学者や神学者には熱烈な教権支配論者も、反対の立場の人物もいたのである[58]。こうした教権支配論の絶頂は1302年ボニファティウス8世が発布した教書「ウナム・サンクタム Unam Sanctam」であり、そこでは「全ての人間という被造物は、ローマ教皇に従属する必要がある」と説かれた[59]。しかし、ボニファティウスは結局のところこの教書の原因となっていた政治闘争においてフランス王権に屈服した[59]。中世社会の中では依然として二元主義が存続しており、政治的著述の中で合理化されて正当化されていた[59]。同じ1302年に神学者ジャン・ド・パリは「王と教皇の権力について De potestae regia et papali」を著し、二元論的枠組みを慎重に提示している[59]。そうした中でグレゴリウス改革時代の教皇支持者ラウテンバッハのマネゴルトが早くも原始的な社会契約論を展開していることは注目される[59]。彼は支配者が契約により人民と結びついており、迫害によってそれに違反した場合は人民は臣従の義務から解放されることを論じた[59]。ジャン・ド・パリは教会と国家双方で抵抗権により詳細な説明を加え、教権・王権・人民の関係性を明確にしようと努めた[59]。ジャンは国王がシモニアを行ったり、異端に身を染めるなど霊的な事柄において罪を犯した場合は、教皇は破門という手段をとることができるが、国王の罷免は貴族と人民によって行われるべきといい、同時に職務を怠る教皇を拘束するのは枢機卿や公会議の役割であるが、国王は必要な場合には物質的な力によってこれを助けることが出来ると論じた[59]

中世における教会と国家のこの闘争は、どちらかが一元的な神政政治を西欧に樹立することができなかったという点で自由の歴史に大きな影響を及ぼしている[60]。そのことは一方の領域でだけ自由が促進された以上に、教会の自由の要求が世俗社会の自由な制度の進展に寄与したという点で重要である[60]。改革派教皇たちが主張した、司教は王侯ではなく、自分の管轄都市の聖職者や市民によって選ばれるべきという考えは、この時期多くの都市共同体がヨーロッパ各地で形成され、市参事会の自分たちでの選出を要求し始めたという、その背景にあった事実とおそらく関連性がある[60]。叙任権闘争は聖なる生活領域と世俗の生活領域にある種の「分離」をもたらしたが、このことが世俗国家の概念を実現可能にした[60]。同時に叙任権闘争は伝統的な教会の諸制度の枠外にある世俗領域における多様な共同体的な生活を通して、キリスト教的な理想を新しく表現する方法をも促進した[59]。同業者組合や慈善のための兄弟団、都市共同体などの俗人の間での無数の仲間団体的な人的結合が成長したのである[60]。教会の自由と都市コミューンの自由は、団体の自己決定権を得るための同じ運動の中で相互に関係し合っていた[59]。そして教会が中世の王国内で独自の特権を獲得したことは、ほかの王国の諸身分も類似した権利を主張し、特権証書を要求していく先例となった[61]。「マグナ・カルタ」の第一条は「イギリスの教会は自由であるべきであり、それ固有の権利を全て完全に所有すべきである」という宣言に続けて、封建領主や自由人の諸権利に触れていくのである[61]。中世の聖と俗との二元主義は近代的な「政教分離の壁」とは異なっていて、教会権力と国家権力はたえず重なり合っていたが、そこでは教会は宗教の領域における国家権力の介入を制限することに努めており、この限りにおいて教会は人間の自由の領域を拡大した[61]

中世都市の進展とその限界[編集]

11世紀後半以降、ヨーロッパ最大の世俗権力であった神聖ローマ帝国の衰退とローマ教皇権の興隆という事態に並行して、ヨーロッパ各地に地方的権威の中心が現れた[62]。旧来の君主国の一部は勢力を維持し、神聖ローマ帝国以外の君主国は刷新されようとしていたが、どの地域においても有力君侯から地方君主の手に権力が委ねられ、地方君主も都市や地方の小さな領主権へと委譲されていった[62]。北フランスや低地地方、北イタリアでは大きな都市が周辺地域を支配しようと試みた[62]。北欧や南イタリア、イベリア半島では北イタリアとは対照的に、市民が都市共同体全体を支配することも、城壁を越えて周辺地域を支配しようとすることは無かった[62]。北イタリアでは貴族が都市に永住することを余儀なくされ、貴族の居館の高層建築が見られたが、北フランスやドイツではそのようなものは全く見られなかった[63]。これは北イタリアでは都市の歴史が長く、貴族と一般都市住民を結びつける中間的な社会層が存在していたのに対し、北ヨーロッパの都市の歴史は浅かった[63]。しかしそれ以上に重要なのは政治的状況の相違である[63]。中心的な国家が弱小あるいは不在の地域においてのみ、都市は自由を相当程度に獲得し、周辺地域を支配することができたのである[63]。神聖ローマ帝国の辺境にあったドイツの諸都市がハンザ同盟を結成したのは帝国が衰退していた14世紀のことであり、またフランスとドイツの国境地帯からフランドル地方にまでかなりの自由を享受した都市が存在したのも権力の境界にあったからである[63]。北イタリアの都市共和政の興隆はホーエンシュタウフェン家の断絶による神聖ローマ帝国の急速な衰退によるものだった[64]1300年頃のイタリア都市共和政の民主主義はその絶頂に達しており、それを代表するのがパドヴァのマルシリウスである[65]。だがこうした隆盛は14世紀以降の経済的困難、戦争、社会闘争、黒死病の蔓延によって衰退した[65]。この状況は内戦に満ちたグレゴリウス改革期に類似しているが、それが諸都市と領主権力に支援されて教会の自由を勝ち取り、人口増加ももたらしたのに対し、14・15世紀のそれは、教会・領主・都市いずれも衰退させ、人口を減少させた[65]。この時代都市は大砲によって城壁が突破されるようになり、地域社会に立脚した軍隊や市民兵に替わって傭兵団や職業軍人が登場した[65]。祖国を防衛する市民兵的意識の低下とともに経済的危機によって都市内の階級対立が激化した[65]。この状況で注目すべきことは13世紀以来見られたゲルフ党とギベリン党の党派制が衰退し、「人民」が興隆して社会が団体的な性格となり、どのギルドや団体、社会的地位に属する者が統治を担当すべきかを決定することが政治の機能とされた[66]。都市国家間の外交レベルでは党派制は外交関係を依然として拘束していた[67]。都市共同体はのいくつかはつかの間の自由と自治を享受した後、君主権に屈服し様々な特権を留保されながらもその臣下となった[68]。中世の都市は結局のところヨーロッパ近代統治の直接的な創始者ではなかった[69]。1300年頃中世の共同体で達成された共和的自由や民主主義はルネサンスになって大幅に弱体化したからである[69]。規模の大きい都市共和国のほとんどは君主を戴く公国となった[69]。結局のところ君主政のほうが都市国家よりも多様な意見対立のある領域の調停能力に優れていた[69]

中世後期近世ドイツにおける国家概念[編集]

ヴァイナハトドイツ語版によれば、13世紀・14世紀に使われ始めたドイツ語の「スタァト Staat」という言葉はラテン語の「スタトゥス Status」に対応する言葉であるが、16世紀に至るまでほぼラテン語の意味のまま通用していた[70]。その意味は「法的状態」とか「身分にふさわしい生活・支出」といったもので、この延長線上に15世紀末以来「王室財政 Hofstaat」といった言葉が成立した[70]。17世紀にはゼッケンドルフドイツ語版が用いたような「フュルステンスタァト Fürstenstaat」という用法も登場するが、ここでも「スタァト」は依然として「君主の状態」・「統治制度」・「国 Land の良き状態」・「皇帝と帝国の状態」の総称に過ぎなかった[70]。このゼッケンドルフの用法ではいまだ君主の「威厳」・「職務」・「宮廷」・「権力」・「統治」などと関連した意味をもちながらもいまだ身分制的な法共同体としての「ラント land」と関連づけられており、ラント法が君主の「スタァト」の一部とされていた[70]。しかし官房学においては「フュルステンスタァト」は一個の機構として捉えられるようになり、行政的な機構(ポリツァイ)、財政システムとしての「ラント」が「スタァト」と呼ばれるようになった[71]。この国家機構的な「スタァト」概念と法共同体的法秩序な「スタァト」概念は併用され、後者は18世紀末に至るまで使い続けられた[* 6][72]。この法秩序的な「スタァト」はヴァイナハトに拠れば、アリストテレス以来の伝統的な国家概念の系譜に連なり、「キーヴィタース civitas」ないし「レース・プーブリカ res publica」と同じ意味で用いられ、かかる用法は国法学の立場からも官房学の立場からも自然法論の社会契約説からも法共同体的に捉えられた[73]。これは当時の国家と社会の未分離な状態、さまざまなレベルの自立的権力の存在を前提とする政治社会構造、身分制的な構造が18世紀末から19世紀初頭の時期まで維持されてきたという国制史上の理解とも対応している[74]。一方で17世紀以来統治に関わる国家理性の意味合いでの「スタァト」概念も普及するが、そこでも伝統的な身分制的諸特権や道徳に反する「悪しき国家理性」と君主と諸身分に共通な「良き国家理性」という議論がついてまわっている[74]。こうした独特の国家概念の下に、近世ドイツでは帝国の存在が帝国レベルにおいてのみならず、領邦レベルにおいても身分制秩序の維持に大きく貢献し、領邦国家を主権国家として把握することを阻害し続けた[75]帝室裁判所帝国宮廷法院という2つの裁判所、とりわけ後者の活動によってドイツ領邦君主の絶対主義を確立しようとする企ては帝国宮廷法院が等族の側に立つことにより阻止されていた[76]。また帝室裁判所と帝国宮廷法院は領邦の市民や農民、領邦臣民にも広く法的保護を与えていた[77]ヴェストファーレン条約によって領邦君主が国際法上の権利能力(対外主権)を獲得しても、帝国に対抗する同盟を結成することが出来ないという一事において帝国によって制限されていたのであり、対内主権に関しても前述の裁判所がこれを制限し続けていた[78]。領邦君主がこのような制約を受け容れていた背景には、帝国が平和秩序の維持に大きな役割を果たしていたという事実があり、そのため帝国の終焉ののちにライン同盟という縮小された形でもその機能を受け継ぐ必要があった[79]。こうした状況をプーフェンドルフは「怪物」と呼び、神聖ローマ帝国は制限君主国であるように見えてそうでなく、国家の連合体とも言えず、領邦は完全な主権国家ではない実態を捉えている[80]。18世紀の帝国法論では、むしろ帝国の国家性を強調する議論が行われ、ピュッタードイツ語版は帝国を至高かつ独立の皇帝を元首とする連合的制限君主国家としてホッブズ的な意味での主権概念を用いて理解しようとした[81]。こうした概念史の理解を国制史のなかで整理すると、オットー・ブルンナーに拠れば「ライヒ Reich」は本来法共同体としての性格は持っておらず、支配者の権力領域を指すに過ぎず、13世紀に入るまでドイツ国王は法共同体としてのライヒを統治したわけではなく、諸地域の法共同体であったラントを巡幸して個別に統治していた[82]。13世紀以降はレーエン法共同体としてライヒが、ラント法共同体を構成部分とするようになり、近世に入るとラントは法共同体としての性格を希薄にして二元的な身分制国家から一元的な領邦国家へと移行していく傾向を示すが、レーエン法共同体としてのライヒがラント法共同体の消滅を防いでラントにおける一元支配の進行を食い止めていた[82]。ピュッターとほぼ同時代人のシュレーツァードイツ語版は帝国を一個の政治社会と見る伝統を受け継ぎながらも、政治社会と国家を概念的に区別し、帝国の国家性を否定した[83]。シュレーツァーの理解には一方で国家を政治社会としても見ていて、主権的権力の無制約な行使は認めず、帝国裁判所を高く評価し臣民の抵抗権などに言及するが、しかし従来の身分制的構造をそのまま引き受けることはせず、選挙された議会や、公衆という自発的議会(言論活動)が必要であると論じ、新聞・出版の自由の実現を力説している[84]。近世ドイツでは帝国と領邦はそれぞれ異なる原理に基づいて政治秩序の形成と維持に貢献していたのであり、領邦権力の形成が必ずしも帝国の弱体化に直接結びついたわけではなく、むしろ帝国とは別個の秩序維持を引き受けることで帝国の強化にも役立っていた[85]

近代国家形成への接続と断絶[編集]

近代国家の2つの基本構造要因の1つは専門官僚によって担われる行政機構であり、それはポリツァイという形で域内に平和の保護のための道具を作りだし、さらには常備軍を備えることとなった[86]。もう1つは身分制議会であり、これは地方的支配権の領主と裁判共同体の代表たちから構成された[86]絶対主義が進展した一部地域では身分制議会は背後に追いやられることとなったが、それでも廃止されることは無かった[86]。国王の行政国家とそれに対応する身分制国家の形成は制度化を進行させ、恒常的で即物的な諸制度を生み出し、そこで宣告され行使される法は、同時期に進展していた合理化の働きによって、古い法が備えていた宗教的=呪術的要素を取り除くこととなった[86]。それらは「悪しき」慣習として排除されたのである[86]。こうした社会では法(lex)と法律(jus)とは分離を始め、法が人々の確信の中心をなすという古い観念は生き続けて国王を拘束してはいても、法の定立における君主と人民の共働を媒介する「制度的保障」は存在していなかった[86]。立法が大きな意義を持ち始めたころから、法が君主と人民の両者の上にあるという古い観念は十分機能しなくなり、立法とその法的価値を保証しうる制度が必要とされた[86]。現実の様態としてはフランスの絶対王政でさえ、自らが法に拘束されていることを主張しており、たとえばオスマン帝国のような専制主義とは異なるということを繰り返し強調していた[87]。フランスでは高等法院が勅令の適法性を審査し、場合によって勅令に異議を述べる権利を主張したが、とくに全国三部会が召集されなかった期間は高等法院はその代理人であることを自覚していた[88]。絶対主義では国王の権力の完全性が主張される一方で、法を尊重するという原則は侵されなかった[88]ルイ14世は正義の理念に対して義務を負っていることを自認しており、「神と法」という古い考えは現実ではなく理論の上で推し進められることとなった[88]。こうした背景からフランスとイギリスで近世の王権神授説が展開されるが、そこには古い神授王権の持っていた抵抗権とのつながりは失われていたのである[89]。典型的な王権神授説を唱えたボシュエは国王は法を作り、その法は国王自身と同様に神に由来すると言うと同時に国王に課せられた道徳的要請を強調し、さらには国王の理念と一人の罪人に過ぎぬ国王個人を区別している[* 7][90]

近世自然法論の貢献とその中世的残滓[編集]

こうした状況において、君主権と法の間のゆるんだ関係を是正し「正当性」を基礎づけるものは新たな法体系の採用であった[90]。この役割を果たしたのが近世自然法思想である[90]。自然法論自体は古典古代の遺産であったが、長い間、人間生活全般の基本的な指針に過ぎなかった[91]。キリスト教が成立すると、自然法思想はその影響を受けるようになる。アウグスティヌスは従来の自然法と実定法という二元的理解に換えて、法を三分化して理解することを提唱した[92]。すなわち、「永遠法 lex aeterna」・「自然法 lex naturalis」・「現世法 lex temporalis」の区分である[92]。アウグスティヌスの区分では永遠法は「自然的な秩序の維持を命じ、混乱することを禁じる神の知性、あるいは神の意志」であり、神に関わるとされた[92]。自然法は人間の理性と心に刻まれている永遠法であり、良心を通して知られる[92]。自然法は永遠法、神の法と関連しており、神聖なものとされている[92]。現世法は人の定めた法であるが、永遠法と自然法に遵う場合のみ拘束力を持つと論じられた[92]。中世に至ると前述したように『グラティアヌス教令集』では「自然法 lex naturalis」と「人定法 lex humana」の区分が行われているのであるが、グラティアヌスによれば自然法は神の本性によって構成されているのに対し、人定法は慣習による[93]。『グラティアヌス教令集』ではほとんど「自然法=神法」という理解がなされていた[93]。しかしスコラ哲学の時代になると、教会と世俗の区別がはっきりしてきており、世俗の秩序の固有性も認識されたため、スコラ学的思考における自然法論には実定法と区別された普遍的に妥当する理性法としての自然法理解が内包されていた[91][94]。自然法論の世俗化の最終過程はまずスペインで進行した[91][95]。そして自然法論の世俗化はフーゴー・グロティウスによって決定的に進められ、プーフェンドルフトマジウスによって神学的=哲学的基礎からますます分離された[96]。しかし同時に近世自然法論が教会的=神学的領域に起源を持っていることは明らかに後世に影響を及ぼしている[96]。近代的市民の概念の傍らにはつねに普遍的な人間概念が維持されており、理性・精神・理念の独自の領域が現実から分離して存在しているということは、まさに教会の領域が世俗から分離されていたことにつながっているのである[96]。近世の世俗的自然法のなかには中世的法観念の残滓が見られるが、それはもはや全く変わった形で、すなわち主権的な国家権力にまで高められた神授王権に対する、理性から演繹された法の自律的領域として立ち現れた[96]。身分制社会の法として現れた近世自然法は18世紀には市民社会の自然法へと転化し、人間の共同生活の全複合体を包摂する自律的領域とみなされたのである[96]

良心・霊性史として(宗教・倫理思想史的側面)[編集]

ヨーロッパの文化は全体として、キリスト教とギリシャ文化との総合によって生まれてきており、それらを総合してきた主体はゲルマン民族であった[97]。ヨーロッパ文化がギリシャ的な理性とキリスト教的な霊性の総合から成り立っていることは重要である[97]。理性の働きは真・善・美といった精神的価値に向かい、霊性の作用は宗教心とも信仰とも言い換えられるが、聖なるものを把握する認識能力を指している[97]。この宗教的な霊性が哲学的な理性と展開されるところにヨーロッパ文化の特質が求められる[97]。この総合の試みは古代末期に始まり、中世を通して次第に実現され、近世初期の宗教改革期や対抗改革期には、キリスト教信仰の社会へのいっそうの浸透として現れた[97]。世俗に積極的に関わるという態度は実際はキリスト教信仰による所産であったが、世俗化はいつしか世俗主義と変貌し、世俗化そのものの特質を変質させてしまった[97]。「世俗化」という言葉は語源的にはラテン語の「世代・時代 saeculum」に由来し、中世においては在野の聖職者たちは「世俗に住む」と言われ、修道院の聖職者と区別されていた[98]。宗教改革期にルターが登場すると、その信仰によって歴史事実としては世俗化は進展した[98]。ルターに拠れば、人間は救済のために超世俗的功徳を積む必要は無く、したがって世俗を離れて修道院に行かずに、むしろ「世俗内敬虔」に生きて職業を天職とみなして、これに励むことによって神に喜ばれる存在となるべきと説かれた(職業召命説[98]。したがってこの意味において世俗化は「キリスト教信仰の合法的結果」ともいえた[98]。この世俗化のプロセスは1718世紀の近代啓蒙主義と同時に進行し、これと対立する形で敬虔主義運動が展開された[98]。この2つの思想運動は各国でそれぞれ独特に絡み合いながら進展するが、たとえば時代を代表する哲学者カントは敬虔主義の流れの下に信仰に余地を与えようと理性を批判的に検討した哲学を展開したが、実際は理性的な道徳信仰にゆきついた[99]。ドイツ観念論にも同様な傾向が認められ、神学研究から出発してキリスト教を世俗化する哲学を構築することとなった[99]。ヨーロッパ精神史のうえではこのような近代と中世までの状況とでは大きな断絶が認められる[99]

キリスト教の霊性と古代中世の政治秩序[編集]

「霊性」とは本来「洗礼の際、神によって注がれた霊に遵って生きること」、つまりキリスト教的倫理に遵った生活のことであった[100]。「霊性」という言葉は、使われはじめた当初から新プラトン主義的な、身体や物質と対立する意味での「魂(プシュケー)」に概念的な接近を見せており[* 8]1213世紀の文献においては、政治や経済といった人間の世俗的な概念に対する、人間の「超自然性」「非物質性」を意味している。さらには国家に対する教会法的意味での教会の聖職を指す用語となった[105]。中世の政治思想において国家は、「世俗的なるもの」に対する「霊的なるもの」の優位という階層秩序観に基づき、教会への奉仕を求められることになる[* 9]。これは国家が道徳倫理においても卓越性を持つと考えられていた古典古代の政治思想と著しい対照をなした[* 10]

初期キリスト教の霊性[編集]

イエスの霊性については、まず独特の「神の国」思想のなかに表れている[111]。イエスは「心の貧しい人は幸いである」[112]と言い、続けて「天の国はその人たちのものである」と神の国に関係づけている[111]。ここではイエスが神の約束を成就する者であり、彼とともに神の国が開始していることが前提されているが、この「幸いな貧しさ」とは「貧しさ」のゆえに受容せざるを得ないという霊性の受容機能からもたらされる「幸い」を意味している[111]。イエスの霊性はこうした神の愛を全面的に受容して生きる在り方であり、道徳や倫理をこえているところがある[113]。イエスによれば神の国の出現という出来事は、神の人間に対する関係の本質的な変化であり、この変化を受容する霊性の作用によって新生するよう訴えかけている[113]パウロはこうしたイエスを律法と福音という2つの時代の転換点と見、契約に始まり律法を経て福音へと至る聖書宗教の発展の最終段階だと見なしていた[113]。パウロに拠ればイエスによって人間の世界との関わり方は本質的に変化したのであり、それに伴って世界も新生したと考えられた[114]。こうした大変革はそれ自体人間的な知恵では理解できない「神秘としての神の知恵」[115]であり、「ギリシャ人の知恵」と対比させて「十字架につけられたキリスト」という世界観を提示し、神の霊による以外に神的な出来事は理解されない点を協調した[116]。こうした「ギリシャ人の知恵」から「十字架につけられたキリスト」への世界観の展開はパウロ自身が経験したような回心によってなされるが、それは恩恵の光によるキリスト認識の変化と聖霊によって注がれた神の愛によって生じると説かれた[117]。パウロは心身論においては古代ギリシャの魂と身体という二元主義を採らず、身体は霊と一体であると考えており、霊に備わる受容機能こそが「霊性」であると考えていた[118]共観福音書よりも成立年代が新しい「ヨハネによる福音書」ではさらに豊かな霊性思想が展開されている[118]。ヨハネはイエスを神の真理の体現者と見なし、その前に立つ者は真理の光によって隠された暗闇を照らし出されると説く[119]。そして心の深みには霊が存在し、特定の場所に限定された祭儀的儀礼を完全に超越し、そうした外面的祭儀を取り払った、霊と真理による終末論的な礼拝を行うべきことが説かれる[120]。さらに霊性と真理認識との関係性も明らかにされ、人は霊において礼拝すべきことが強調されるが、人の霊は神の霊とは質的に異なり、人の霊は悪しき霊の支配や汚染を受けてしまうため、自己認識と謙虚さによってそれを駆逐しなければならない[119]。元来聖書では人間の霊はほとんど心と同義であったが、「霊」という言葉が神と結びつけられることによって、「肉」と対立するものとされ、神の霊は神の活動と力として人間に作用するとされた[121]。このような聖書の「霊」は人間存在を新しい存在に移行させた[122]。神の「息」であり、人間の中の超自然的部分である「霊」(ルーアッハ=プネウマ)によって自然のままの人間には存在しない新しい次元が拓かれ、霊によって人は神を探求し発見する[122]。こうして人間は創造者の存在に参与させられ、啓示された超自然的秩序へ導かれるのである[122]。キリスト教の「霊」はギリシャの「精神」とは異なったもので、霊は神との関係に基づき肉との対立を秘めている。それは人間の可能性ともいうべきもので、自然に備わった超自然に参与する人間の基盤であった[123]アウグスティヌスは霊性を神への対向性としても理解した[124]。アウグスティヌスに拠れば人間は不安な状態から神への平安に向かう動態として、霊性はそれを方向付ける働きとして理解された[125]。アウグスティヌスに拠れば、人間の不安な状態は理性と感性の対立とそれによる内心の分裂であるが、これは同時代の多くのキリスト教徒が抱いていた神への愛と現世への愛の衝突の経験であった[126]。こうした文脈の中でアウグスティヌスの「回心」はパウロのそれとは異なって、自己の罪性の自覚から、その救いを求める生き方を探求するもので、情欲からの解放が中心的な問題となった[127]。『自由意志論 De libero arbitrio』では人間の不安な状態が心情の運動として把握されている[127]。アウグスティヌスは道徳的判断の下にある一切の行動が、自由意志に由来していると考え、「罪は無知である」というようなソクラテス的理解は捨てられ、「高慢 superbia」があらゆる罪の源泉であるとされた[127]。このような心の情念としての心情は、「精神の受動性」と同義であるが、精神と身体の二元性に基づくストア的理解とは異なった情意と愛の動態もしくは傾向性として理解された[127]。神の恩恵によって愛の方向転換がされ、神に向けて造られている存在者の「根源的対向性」として霊性的な自覚をもたらす[128]。この恩恵によって魂は新生し、霊的な人間に至ると説かれた[129]。これが霊性の超越作用であり、神の超越は神との交わりによって拓かれ、罪から信仰へと決断することによって神への対向性としての霊性が結実する[129]。この意味で霊性の超越作用が『真の宗教 De vera religione』においては「超越の命法」として語られた[129]。この命法は「内面の命法」として聖なる永遠者へ向かう超越を命じているが、その過程は「精神への超越」と「神への超越」という二重の運動から成り立つ[129]。アウグスティヌスによれば外的な世界は感覚を通して端的に知られるが、しかし感覚はしばしば人を欺くので、世界の認識は理性の作用に頼らざるをえない[129]。そのため真理の探究はつねに精神の領域に立ち返る必要がある[129]。ところが人間の精神は有限で誤謬を犯しがちなので、理性機能を超越して超自然的な永遠の理念のような対象に向かっていく必要が生じる[129]。このような霊性に固有な運動は「外から内へ、内から上へ」という言葉で端的に表現された[129]

正教会の事情(比較国制史的側面)[編集]

カトリックとは異なり、ビザンツ(東ローマ)皇帝の強い影響下にあった正教会においては、権威において教会の首長であるコンスタンティノープル総主教がビザンツ皇帝を上回ることはなく、公会議も皇帝によって招集された[* 11]。行政区分に基づいた主教管区をおく伝統によって、独立した国家ごとに主教管区が設けられ、ビザンツ帝国の後期には帝国の縮小に伴ってバルカン半島諸国で主教管区がコンスタンティノープル総主教の管轄を離れ、独立する傾向にあった。[独自研究?]

ビザンツ帝国が滅亡し、教会がオスマン帝国の支配下にはいると、コンスタンティノープル総主教は帝国の拡大に伴ってバルカン半島や西アジア・エジプトなどに管轄を広げ、アンティオキア・イェルサレム・アレクサンドリアの三総主教座も事実上その管轄下に収めることになった。しかし一方でオスマン皇帝の意向を重視した総主教が選出される傾向が増し、聖職売買が横行するようになった。またこの時代の東方教会においては聖職者・修道僧の識字率の低下も見られた。このような状況は東方における神学教育の低迷をもたらし、カトリックの神学校に留学する正教神学徒も増加した。西ヨーロッパで宗教改革が起こると、カトリック・プロテスタント両派ともバルカン半島を中心とする東欧国家での布教活動を重視するようになり、正教側も対抗改革派とくにイエズス会の神学校に影響されて、神学校を設立し、正教神学校はのちに近代国家の宗教政策において一定の関与をすることになる。[独自研究?]

18世紀以降オスマン帝国が縮小に向かうと、バルカン半島で民族独立運動が激化し、それに伴ってバルカンの民族教会は総主教から独立しようとするようになった。このような動きに対し、コンスタンティノープル総主教は概して否定的で、これら民族教会の正教徒よりはオスマン皇帝に近い立場にあった[* 12]。オスマン帝国の縮小とともにコンスタンティノープル総主教の管轄も狭まり、第一次世界大戦後にトルコ共和国が成立してオスマン帝国の本体が国民国家となると、総主教は形骸化して名目的な地位と化した[* 13]

歴史的展開[編集]

近代のキリスト教は東西いずれの教会においてもその影響力を低下させた。ここでは近代社会と宗教について、とくに近代国家とキリスト教の問題を焦点とすることとし、その際近代国家成立の前提としての近代以前のヨーロッパ史における世俗王権とカトリックの教権の関係をまず概観する。さらにその背景となる思想史についても適宜記述する。近代以降については正教世界にも視野を広げて記述するが、近代国家との関連性を重視するという観点から中世以前の正教世界についてはここでは詳しく触れない。[独自研究?]

概要[編集]

四福音書記者
新約聖書の中心部分をなすイエスの生涯を記録した文書が四福音書である。4人の福音書記者はそれぞれ象徴を持つ。天使で象徴されるマタイ(左上)。ライオンで象徴されるマルコ(左下)。で象徴されるヨハネ(右上)。雄牛で象徴されるルカ(右下)

「歴史的展開」節の記述は政治社会とキリスト教の関係について、政治史・国家史・教会史・思想史の多岐にわたって概説するため、ここでは便宜のために要約を示す。

古代のキリスト教[編集]

古代のキリスト教思想」では、キリスト教本来の思想傾向と古代に現れたキリスト教の思想を、政治思想史の観点から概説する。

  1. 初期キリスト教と国家」ではパウロの思想やアウグスティヌスに代表される教父哲学を概説する。イエスの思想は内面と政治社会を区別する特徴的な思想を形成し、パウロは神の恩寵という観点を持ち込むことでイエスの思想を一つの宗教にまで高めた。アウグスティヌスの政治思想はのちに中世の異端思想や宗教改革に影響を与えた。
  2. またとくに「両剣論」は教皇ゲラシウス1世が唱えた「教権と帝権がともに神に由来する」という考え方で、中世を通じて教権と王権の関係性についての有力な理論的根拠の一つであった。
  3. 加えて「初期キリスト教の典礼と皇帝礼拝」では、古代の典礼に見られるキリスト教に特徴的な内面性を概観し、皇帝礼拝とキリスト教迫害についての問題を取り上げる。

中世普遍世界[編集]

キリスト教普遍世界」では、一般に封建社会、あるいはヨーロッパ中世として知られる時代での、世俗国家と教権のありかたの推移を概説する。

  1. 教皇国家の成立」では、教皇権の経済的基盤ともいうべき教皇領の成立までを概観する。
  2. ゲルマン諸民族の世俗国家」では、西ローマ帝国滅亡後に西ヨーロッパに割拠したゲルマン人の諸国家における国家と宗教の関係を概観する。この時期のゲルマン人の王権は後世に比べると世俗的で、教会の宗教的権威に依存する面が少なく、領域内の教会については実質的な支配を及ぼしていた。ただ国家ごとに内実は多少異なり、地中海に面した西ゴート王国ヴァンダル王国と内陸部のメロヴィング朝は経済的条件も文化的条件もかなり異なっていた。
  3. 政治的宗教的統一体の自覚」では、6世紀における政治思想としてトゥールのグレゴリウスと教皇グレゴリウス1世を取り上げ、ビザンツ帝国による統一的支配という観念が西欧地域で薄れ、新たな領域国家意識が発生し始めている様子を概観する。
  4. ランゴバルド族と中世初期の南イタリア」では、東ゴート王国の時代から東ローマ帝国の支配を経て、分裂する南イタリアの情勢を概観し、12世紀シチリア王国の成立に至る。
  5. カロリング朝の帝権」では、メロヴィング朝の衰退からカロリング朝が成立し、やがて西ヨーロッパ世界で唯一の世俗的至上権、皇帝権を獲得するまでに至る過程を概観する。
  6. また初期の教権と帝権について、その理念的背景として「カロリング朝期の政治思想」を概観する。
  7. グレゴリウス改革と教権の絶頂」では、11世紀から始まる教会の改革運動と13世紀の教皇権の絶頂期を概観する。
  8. 周縁における権力と教会」では、西ヨーロッパのキリスト教世界の周縁に位置したイングランド王国イベリア諸国およびスカンディナヴィアにおける、中世前半期における教会と王権の関係を概観する。
  9. 等族国家と公会議主義」では、封建国家に身分制に立脚した議会主義が成立し、それにより国民単位の政治社会の基礎が築かれたことを概説する。さらに議会主義と国民単位の類似制度が教会においても成立し、公会議主義となった。
  10. 王権の超自然的権威の獲得過程」では、王権が教権に対抗するために一定の宗教的権威を獲得していった過程を概説する。共通にキリスト教思想に立脚しながらも、ローマ教皇や神聖ローマ皇帝の宗教的権威が「ローマ的」であったのに対して、イングランドのそれが「アングロ・サクソン的」、フランスのそれが「フランク的」であり、そこに王権が国民的な国家形成の核になる端緒があった。
  11. カトリック大国、スペイン」では、この時期あらたに大国としてヨーロッパ政治に主要な位置を占めることになったスペインの初期宗教政策について概説する。スペインがカトリック信仰に熱心であったのは事実とはいえ、その王権や文化が必ずしも教権に盲従していたわけではない。
  12. 教会の正統な信仰とは別次元で、中世の民間にはやや異なった信仰が存在した。「中世の民衆信仰」では、このような民間信仰を概観する。
  13. 宗教改革前思想史」では、中世後期の異端思想と人文主義について概観する。それらの思想の立つ政治的立場と背景にある政治状況についてもある程度言及する。また宗教改革との関連性も指摘する。

宗教改革以降[編集]

近代社会とキリスト教」では、宗教改革以降の近代社会における国家の宗教政策、および時代ごとのキリスト教に関する思想の変遷を概観する。

  1. 宗教改革(プロテスタント側から)」では、ルターの宗教改革がなぜ宗教問題にとどまらずに政治的な問題に転化したかということについて簡単に説明する。
  2. ドイツの領邦教会制度」では、ドイツにおける宗教改革の初期の帰結としての領邦教会制度が成立するまでを概観する。
  3. ドイツで宗教改革が始まった頃、スイスでも同様に福音主義的改革が始まっていた。「スイス盟約者団と福音主義」では、宗教改革の第2戦線ともいうべきスイスの宗教改革を概観する。
  4. 宗教改革派の諸思想」では、宗教改革派の諸思想を概説する。
  5. フランスのコンフェッショナリズムと主権理論」では、フランスの改革派ユグノーとフランス王権の宗教政策から絶対主義の形成過程を概観する。
  6. 低地地方と宗教改革」では、ネーデルラントにおける独立運動と、それによって成立した新教国オランダの初期の状況について概観する。

古代のキリスト教思想(〜500年)[編集]

十字架を担うキリスト
エル・グレコによる1580年の作。ゴルゴダの丘に向かうイエスの像である。イエスの死は彼が「神の国」をもたらすと信じていた信徒に失望を与えたが、やがて死に意味づけがされ、ひとつの宗教として確立された

具体的な世俗国家とキリスト教の関係性の歴史を、この記事では中世以降の政治史を中心に概観する。しかしながらそれに先だって、キリスト教本来の政治に対する思想傾向と以後のキリスト教と世俗国家の歴史に特徴的な影響を及ぼすいくつかの思想を概観する。

初期キリスト教と国家[編集]

ここではまずイエスの思想と考えられるものの中から、政治社会に関係すると思われるものについて概説し、次にパウロの思想について説明する。その後アウグスティヌスに代表される教父哲学の思想を概観する。とくにパウロの「ローマの信徒への手紙」とアウグスティヌスの思想は後世のキリスト教に決定的な影響力を及ぼしており、その歴史上で繰り返し回顧される重要な思想である。

イエスの思想の歴史像[編集]


ここでは新約聖書に現れるイエスの思想の中から、とくに政治社会に言及する限りにおいて重要なものを指摘する。イエス思想において根本をなすのは福音である。福音とは「良い知らせ」と言う意味で、具体的には「神の国」が近づいているという知らせである。

イエスによれば、「神の国」が来ると、既存の社会秩序とは全く異なった新しい秩序に基づく生活が始まる。新しい秩序はまず共同体であって、そこでは人々が神の愛を無条件に受け入れることで一切の対立が消滅する。この「神の国」に参加するために、人はを悔い改め、を捨てて神に従った生活態度を取らなければならない。基本的にはこれは世俗的秩序の否定であり、人間の内面の重視と政治社会の本来性の否定であった。イエスは「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」と述べて、世俗社会と精神世界を区別し、「神の国」の到来によってやがては内面的な精神世界が世俗社会にとってかわると述べた。しかしイエスによれば、現存する世俗秩序は決して無意味ではない。「神の国」にはいるためには現世でのおこないが決定的であると説く。イエスは現世でもっとも悪い状態にある者が来世においてもっとも良い状態になると述べる。

以上のイエスの思想に鑑みると、二つの特徴を指摘することができる。一つは政治社会と内面の区別、もう一つは政治社会の価値が「神の国」の価値とほとんど正反対であるということである。このようなイエスの課題はまったく政治社会を超越しており、その意味で非政治的であるが、現実の政治社会に批判の目を向け緊張をもたらすという意味で政治的であった。[独自研究?]後述するように、キリスト教の教会が中世において、世俗権力を超えた有力な政治社会となっている点が見られるのも、キリスト教が本来的に現世を超越している点に求めることができる[* 14]

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パウロ[編集]
パウロ
ヴァランタン・ド・ブーローニュもしくはニコラ・トゥルニエによる1620年ごろの作。パウロはキリスト教を言語化し、神学的説明を加えた。これは後代の信仰理解に決定的影響を与えるものであった

パウロはもともとイエスの信徒を迫害していたが、回心してキリスト教徒となった。彼はキリスト教思想において最も重要な人物の一人[* 15]で、その著作「ローマの信徒への手紙[* 16]は以降のキリスト教思想に繰り返し影響を与えた。

パウロにおいては罪の意識が非常に強いことがまず指摘できる。彼は心の欲するを行うことができずに、かえって心の欲せざるをなしてしまうことに悩んだ。そのため彼の思想では人間の無力さが強調される。このような人間は自力では救われることがないために、神の恩寵によってしか救われることがないのである。そしてパウロはイエスの死こそ神の自己犠牲であると考える。この神の自己犠牲によって人間は罪から解放されるのであり、これを信じ、イエスの教えを実践することで新しいを迎えることができるという[* 17]。このようにパウロにおいては内面と行為の分裂が説かれた。

政治思想としては、受動的服従が知られる[* 18]。パウロによれば、この世の権威は神に拠らないものはなく、したがってこれを受け入れなくてはならない[* 19][* 20]。だが、それは内面の良心の故であり、決してそれらの権力それ自体に価値があるからではない。その正統性はあくまで神によって認められている限りであるという。このようにパウロは「ローマ人の信徒への手紙」の中でキリスト教の将来はローマ帝国とともにあると考えており[* 21]、ローマ帝国の支配を無条件に肯定している[141]

また注目すべき思想としては、「自分の手で働くこと」を推奨している[* 22]ことで、これは明らかに古典古代の労働観に反する[143][* 23]

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教父哲学(アウグスティヌス)[編集]

アウグスティヌスはキリスト教がローマ帝国によって公認され国教とされた時期を中心に活躍し、正統信仰の確立に貢献した教父のなかで、とくに後世に大きな影響を残した人物である[* 24]

アウグスティヌス
ボッティチェリによる1480年ごろの作品。アウグスティヌスの思想はキリスト教的歴史意識を確立し、中世の異端運動や宗教改革にも大きな影響を与えた

神の国』には「二国史観」あるいは「二世界論」と呼ばれる思想が述べられている。「二国」あるいは「二世界」とは、「神の国」と「地の国」のことで、前者はイエスが唱えた愛の共同体のことであり、後者は世俗世界のことである。イエスが述べたように、「神の国」はやがて「地の国」にとってかわるものであると説かれている。しかしイエスが言うように、「神の国」は純粋に精神的な世界で、目で見ることはできない。アウグスティヌスによれば、「地の国」におけるキリスト教信者の共同体である教会でさえも、基本的には「地の国」のもので、したがって教会の中には本来のキリスト教とは異質なもの、世俗の要素が混入しているのである。だが「地の国」において信仰を代表しているのは教会であり、その点で教会は優位性を持っていることは間違いないという。またアウグスティヌスは、人間の自由意志について論じ[* 25]、古代以来の「自由」という言葉を「神との関係における人間そのもののあり方に関わる言葉」[151][* 26]として再定義し、のちの思想史に大きな影響を与えた。その一方で人間は本来的に堕落しており無力であるというパウロの思想が踏襲され、神の恩寵が絶対的であることも説かれた。

このようなアウグスティヌスの思想は、精神的なキリスト教共同体と世俗国家を弁別し、キリスト教の世俗国家に対する優位、普遍性の有力な根拠となった[* 27]。一方で『告白』に見られるような個人主義的に傾いた信仰と『神の国』で論じられた教会でさえも世俗的であるという思想は、中世を通じて教会批判の有力な根拠となり、宗教改革にも決定的な影響を与えるものであった。

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両剣論[編集]

両剣論 ("theory of two swords")」とは世俗的な政治権力と宗教的権威の関係性について述べたもので、もともとは「ルカによる福音書」のなかのイエスの言葉に由来する[* 28]。教皇ゲラシウス1世はこれを俗権と教権がともに神に由来することを述べたものであるとし、聖界の普遍的支配者としての教皇と俗界の普遍的支配者としての皇帝が並列的に存在していることを論じた[* 29]。この両剣論はその本来的な意図においては教権と帝権の相補的役割を期待したものであった。

中世になると、両剣論には二つの異なる立場から相反する解釈がおこなわれた[* 30]。ひとつは皇帝に有利な解釈で、帝権が直接神に由来することは世俗的世界での皇帝権の自立性の根拠となった。もうひとつは教権に有利な解釈で、教皇が両剣を持ち、一方の世俗的な剣を皇帝に委任して行使させるという解釈[* 31]で、教権の優位性の重要な根拠の一つとなった。

歴史的には、グレゴリウス改革以前、11世紀の頃には聖職叙任権も、ときには教皇の叙任権さえ神聖ローマ皇帝が「神の代理」として掌握しているというのが実情であった[157]

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初期キリスト教の典礼と皇帝礼拝[編集]

ステファノ
その名前が明らかにギリシャ風であることからも分かるように、初代教会において、彼はヘレニストの代表であった。彼はファリサイ派によって石打ちの刑にされるが、ジャン・ダニエルーはこの殉教の裏側にキリスト教内部のヘレニストとヘブライストの立場の違いを見ている[158]。図はイタリアバロックボローニャ派に属するジャコモ・カヴェドーネ (en:Giacomo Cavedone) の作品

キリスト教ユダヤ教とは明らかに異なった礼拝観を持っていた。イエス旧約的な神殿礼拝を拒否してはおらず、祝日には自ら神殿に赴いたが、一方でより内面を重視した新しい礼拝観を示した。「ヨハネによる福音書」のなかでイエスは

あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。[159]

と言っている。使徒時代のキリスト教徒であるステファノの次の言動には、このイエスの内面的な礼拝観がよく表れている。

神のために家を建てたのはソロモンでした。 けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っているとおりです。 『主は言われる。 「天はわたしの王座、/ 地はわたしの足台。お前たちは、わたしに/ どんな家を建ててくれると言うのか。わたしの憩う場所はどこにあるのか。 これらはすべて、/ わたしの手が造ったものではないか。」』[160]

彼はエルサレムの神殿に直結したユダヤ教の祭祀を否定し、イエスの述べた新しい礼拝を強く主張したために、殉教にいたることになった[161]

だからといって、初期のキリスト教会が外形的な表現を重視しなかったわけではない。集会堂としての教会典礼の中心となったし、洗礼はキリスト教共同体としての「教会」への加入を視覚的に表現した。しかし一方で2世紀後半から3世紀にかけてのキリスト教著述家ミヌキウス・フェリクスは「私たちには、神殿も祭壇もない」ということを異教徒に対して誇った。教会は集会する場所であり、祭儀は建物としての教会堂に帰するのではなく、信徒共同体としての教会それ自体に帰するのである。初期キリスト教ではイエスこそが「祭司」であり「大祭司」で、そのキリストに繋がれているという意味で、教会が「祭司」なのであった[162]

このような内面性の強いキリスト教の性格はローマ帝国で行われたいわゆる「皇帝礼拝」と相容れざるもので、帝国は公共祭祀である「皇帝礼拝」を受け入れないキリスト教徒を、公共の宗教からの逸脱者、国家離反者として迫害したという説が歴史学者の間で長く論じられてきた。とくに自らを「主にして神」と称したドミティアヌスがこのような皇帝礼拝の要求者とされ、彼の治下に激しいユダヤ教徒やキリスト教徒の迫害が起こったと考えられた[* 32]ことから、迫害と皇帝礼拝は因果づけて考えられてきた。間接的には古代教会が日曜日を「主の日」として制定したことも、皇帝礼拝に対抗するキリスト教徒の信仰告白であったという見方も提示されてきた[164]。また「ヨハネの黙示録」の「第二の獣は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものを言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。」[165]という記述も思い出されるであろう。

しかし、最近の研究によれば、そもそも「皇帝礼拝」という名で括られている祭儀は多様であり、内容においては極めて政治的な意味を持つものから宗教性の高いものまで、範囲においても都市国家規模から属州単位のもの、担い手も一様でなく、それらを統一的に「皇帝礼拝」という一語で把握することには飛躍が伴うことが示されている。黙示録の記述についても正確な史実を反映したものではなく、ドミティアヌス統治期に皇帝礼拝拒否が法廷での処刑につながったという見方は困難である[166]

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キリスト教普遍世界(500年〜1500年)[編集]

中世初期、56世紀の段階においては、ゲルマン人の侵入や西ローマ帝国の滅亡など歴史的な地殻変動を象徴する事件が起きた後であったにもかかわらず、なお地中海をとりまくローマ世界はビザンツの帝権の下に存続していたと見ることができる[* 33]6世紀のユスティニアヌス帝は一時的にあるにせよ、地中海の大部分を制圧し、かつてのローマ帝国を再現することも出来た。[要出典]


しかしながら、78世紀になると、地中海を中心とした統一的な世界はもはや完全に消滅し、西ヨーロッパはローマを中心としたカトリック世界として、コンスタンティノープルを中心とする正教世界とは分離する傾向が決定的となる。その要因としては以下の3つを挙げることが出来る。

  1. イスラーム教徒の侵入
  2. ビザンツ帝権の弱体化
  3. ローマの自立

まず、イスラーム教徒が急速に勢力を拡大し、北アフリカイベリア半島を制圧するに及んで、従来これらの地で高度に発達していたキリスト教の文化は衰退した。今日に至るまでイベリア半島を除くこれらの大部分の地域はイスラーム圈にとどまっている。とくに教会会議が頻繁に開かれ、中世初期において西方のキリスト教世界の一つの中心であったイベリア半島陥落の影響は大きい[要出典][* 34]


次にビザンツ帝国は一時的に地中海を回復したものの、イスラーム教徒の東地中海地域での拡大とランゴバルト族のイタリア半島侵入によって支配領域を縮小させ、西地中海での覇権を維持することが困難となった。これ以後ビザンツの帝権は南イタリアの支配地域を通じて間接的にしか西方世界に影響を及ぼせなくなる。

第三にローマ司教である教皇は上記のようなビザンツ帝権の影響力低下に伴って、西方世界において強力な庇護者を別に求めねばならなくなった。と同時に、東方から自立して西方世界の宗教指導者たらんと積極的な布教活動に乗り出す。8世紀ビザンツで起こった聖像破壊運動に対する教皇の対応の仕方はこの表れで、教皇は西方教会をして、この運動の蚊帳の外におくことに尽力した。[要出典]

こうして東ヨーロッパと西ヨーロッパは、ローマ帝国とキリスト教という共通の根を持ちながらも、それぞれ独自の発展をしていくことになる。この節で中心的に述べるキリスト教普遍世界とはこのうち西ヨーロッパを中心としたカトリック世界のことである[* 35]

教皇国家の成立[編集]

天国への鍵を授けられるペテロ
イエスはペテロに天国の鍵を預けたとされ、彼が最初のローマ司教となったことで、彼の後継者であるローマ司教にその権威が受け継がれているという観念が広まった。ローマ教皇はこの鍵を自身のシンボルとして用いている

ここではやや時代を遡って教皇国家あるいは教皇領と呼ばれる教皇の世俗支配の形成過程を概観する。

西ローマ帝国の滅亡と西地中海世界[編集]

西ローマ帝国の領域にゲルマン人が多数の国家を形成し、西ローマの皇帝権が没落して古代的な帝国支配が弛緩すると、古都ローマはほとんどゲルマン人の支配の間に孤立した形となり、東ローマ帝国とのつながりは徐々に薄れて西ローマ帝国の領域は独自の発展をしていくようになる。しかしながらゲルマン人たちが西ヨーロッパで優勢を占めているように見えても、かつてのローマ帝国の西側と東側は地中海によって繋がれており、文化的経済的な繋がりは維持されていたのであって、突然にローマ的な文明がゲルマン的な文明になってしまったわけではない。地中海世界での東ローマ皇帝の優位性はいまだ揺らいではいなかったし、ゲルマン人たちは皇帝の支配を名目上は受け入れて、彼ら自身が皇帝になりかわろうという意図を持つことはほとんどなかった。ただ一方でこのような状況がローマ教皇に一定の自立性の根拠を与えたのであり、東方の正教会とは独自のカトリック教会が生まれる素地がここにあったことは間違いない。[独自研究?]

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ペテロの後継者[編集]

ローマ司教が教会において優位性を立証できるとすれば、それはまずイエスの言葉に求められるべきであったし、事実そこに根拠が見つけられた。イエスはペテロに向かって、「汝はペテロである。私はこの岩(ペテロ)の上に私の教会を建てよう」と言ったという。ペテロが最初のローマ司教であったことは、ローマ司教こそが教会の本体であるということを指していると受け取ることもできる[独自研究?]。 ペテロはイエスから「天国の鍵」を預けられたとされた[* 36][要高次出典]

ただ初期の教会において、このことがあまり重視されていたわけではなかった。4世紀にはローマ司教は有力なイタリア大教区を管轄しており、「西ローマ総大司教」とも見なされていたが、一方で一般信徒の面前で司教の選挙によって選ばれた、小さなローマの聖堂聖区の司教でしかなかった。ローマ司教の特別な地位が認められたのは343年サルディカ宗教会議であって、それ以前は公式なものではなかった。この時期の教権の上昇に最も貢献したのはレオ1世で、455年ヴァンダル族がローマを攻撃したときに、その王ゲイセリクスと交渉してローマの略奪を防いだ。このころから「教皇(パパ)」という称号はローマ司教だけに特別に認められるものであるという観念がヨーロッパ世界に定着していった。4世紀の教皇シリキウステサロニカ主教を教皇代理に任命して、ダキアマケドニアへの指導権を獲得し、ボニファティウス1世は改めてこれを皇帝ホノリウスに認めさせている。5世紀前半には教皇の権威はイタリア・ガリア・ヒスパニア・アフリカ・イリュリクムに及ぶようになった[173]

しかしこのことでただちにローマ教皇の地位が、後世のように独自の権威性をもって普遍的な優位を確立したわけではない。東ローマ皇帝ユスティニアヌスイタリア半島をローマ皇帝の支配の下に回復すると、彼はローマの司教も皇帝の統制に服するべきであると考えた。教皇の側もそれを受け入れ、帝国の支配に復帰することをむしろ歓迎していた。[独自研究?]

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教権の自立化への動き[編集]
カール大帝
デューラーによる1510年の作。教会側が教皇の手による戴冠に皇帝の根拠を求めたのに対し、カール大帝自身はあくまでその神授性を強調した。彼の名乗った称号は「神によって戴冠され、ローマ帝国を統治し、平和をもたらす、最も至高なる偉大な皇帝にして、神の慈悲によってフランク人およびランゴバルド人の王であるカール」であった。

ところが東ローマ帝国に結びついたことは教皇にとって必ずしも良い結果をもたらしたのではないことは次第に明らかとなった。東方でさかんにおこなわれていた神学論争が西方に持ち込まれる結果となり、しかも神学論争にしばしば政治的に介入する皇帝の姿勢は不満の種となった。北イタリアの大主教が教皇の影響から離脱する動きを示したし、ガリアイベリア半島でも分離傾向が見られた。関係が変化するのは「大教皇」グレゴリウス1世の時代である。彼の時代にはイタリア半島にランゴバルド族が侵入し、再びローマは危機的な状況を迎えていた。グレゴリウス1世はフランク王国を重視して、これと友好的な関係を結んだ。もともと行政官として経験を積み、ローマ総督の地位についたこともあったグレゴリウス1世は、おそらく都市ローマの行政上における教皇の影響力を増大させた。ランゴバルト族に連れ去られた捕虜の買い戻し、ローマの破壊を防ぐ代償としてのランゴバルド族への貢納の支払いに教皇は積極的に関与している。このころから教皇は都市ローマの公共事業を担うようになったと考えられている[要出典]

分離傾向を示す西方諸地域の司教たちに対して、グレゴリウス1世は教皇がそれらの上位にあることを繰り返し強調した。司教は当時すでに有力な世俗領主となりつつあり、司教座を熱望する動きが上層階級に見られるようになっていた[174][175]。その結果、明らかにふさわしくない候補者や若すぎる候補者が司教選挙に立つようになった[174]。しかしグレゴリウス1世は司教座に対する支配を徹底して、ナポリの司教を解任し、メリタの司教を降格し、タレントゥムカリャリサロナの高位聖職者たちを厳しい口調で批判した[176]ブルンヒルドによるテウデリク2世テウデベルト2世の摂政期に起こった数々のガリア教会の醜聞に、グレゴリウスは諫言を書き送った[* 37]が、実を結ぶことはなかった[178]。この当時のガリア教会は完全にメロヴィング朝の「領邦教会」と化していたからである[179]。ビザンツ帝国に対しては一定程度の影響力を行使したが、従来教皇の指導権が及んでいたイリュリクムでは教義に関する問題においてさえ、無力であった[178][* 38]グレゴリウス1世は正統信仰の拡大に熱心で、ブリテン島への伝道を組織し、このアングロ・サクソン人への布教は順調な成果を上げ、カンタベリー大司教区が設けられ布教の拠点となった。ブリテン島はこののち北ヨーロッパにおける有力な布教拠点となり、たとえばカール大帝の時代にはアングロ・サクソン人の伝道者たちが、大帝のガリアの宮廷で、キリスト教文化の興隆に多大な貢献をするまでになっていた。またアリウス派の牙城であった西ゴート王国のカトリックへの改宗に成功した。[要出典]

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ピピンの寄進、教皇領の成立とフランク人の帝国[編集]

フランク王国メロヴィング朝の君主に替わってカロリング家が実権を握るようになると、教皇とカロリング家は接近し非常に親密な関係を結ぶようになった。教皇ザカリアスはカロリング家のピピン3世の王位簒奪を支持し、つづく教皇ステファヌス3世[* 39]はガリアのピピン3世の宮廷に自ら赴き、フランク王国がイタリアの政治状況へ介入するという約束と引き替えに、ピピン3世の息カールカールマンに塗油の秘蹟を施した。

この時期ラヴェンナ大司教は東ローマ皇帝の利益を代弁し、ローマ教皇と北イタリアの教会の管轄権を争っていた。ピピン3世はランゴバルド族を討伐すると、ラヴェンナを征服し、ローマ教皇に献じた。これを「ピピンの寄進」といい、ここに教皇の世俗的領土として教皇領が形成された。ピピン3世の跡を継いだカール大帝も774年にイタリア半島へ遠征し、教皇ハドリアヌス1世にローマを中心とした中部イタリアを献じた[* 40]。つづく教皇レオ3世800年、カール大帝をローマに招いてローマの帝冠を授け、彼に西ローマ皇帝の地位を与えた[* 41]

かくして西ローマ帝国が事実上復活し、フランク国王である西ローマ皇帝は西地中海においてキリスト教世俗国家を代表することとなった[* 42]。教皇は教皇国家といえるような世俗的な領土を持っていたとはいえ、基本的には教皇領も帝国の一部で皇帝から独立していたわけではない。しかし、教皇は東ローマ帝国のコンスタンティノープル総主教とは異なり、皇帝の官僚であることはなく、教皇選挙によって皇帝の承認を必要とせずに選ばれたのであって、教皇選任に対する皇帝の統制は制度としては介在することはなかった。またカール大帝が帝冠を教皇から与えられたことは、のちに世俗君主が皇帝を名乗るのに教皇の承認を必要とするという観念につながり、教皇に優位性を与える根拠となった [* 43]

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ゲルマン諸民族の世俗国家[編集]

西ヨーロッパでは、西ローマ帝国が滅亡してもローマ世界は確かに存続していた。一見西ヨーロッパはゲルマン人の諸王によって分割され、モザイク模様を形成しているかのように見える。しかし彼らは「皇帝の名によって」統治したのであり、実際には東ローマ皇帝の超越的な主権に服していたと見るべきである。これらゲルマン族の国王は宗教的権威において支配したのではなく、純粋に世俗的なものであって、教会はこれらの国家にとって本質的な構成要素ではなかった。国王の即位に際して何らかの宗教的儀式がおこなわれていたわけではない[* 44]。ゲルマン人の王国では国王が教会の首長であり、司教を任命し、宗教会議を開催した。後世の国家とは異なり、これらの王国では世俗的支配者の同意なくして聖職者になることができなかった。ここでは西ゴート王国[* 45]ヴァンダル王国メロヴィング朝フランク王国を特筆し、それぞれの国家と教会との関係を記述する[* 46]

西ゴート王国[編集]

西ゴート族クローヴィスによって南フランスから追い出されると、イベリア半島トレドに宮廷を定めた。このころの西ゴート王国ではゲルマン人とローマ人の通婚は禁止されており[* 47]、このような分離の背景には信仰の相違があったと考えられている。大部分のローマ人がカトリックであったのに対し、西ゴート族はアリウス派を信仰していたからである[* 48]。西ゴート族は征服した土地のカトリック司教を追い出すことがあったが、これを信仰の違いに帰することはおそらく適切ではない。司教たちの追放の理由は彼らが国王の支配に抵抗したことに由来すると考えられており[* 49]、大部分の西ゴート王はカトリック信仰に寛容であった。

レオヴィギルド[* 50]の時代にカトリックに改宗した王子ヘルメネギルドによる反乱があり[* 51]、つづくレカレド王の時代には王自身がカトリックに改宗した。こうして西ゴート王国はカトリック信仰を奉じるようになり、徐々に首都トレドはキリスト教西ヨーロッパ世界の宗教的政治的首都と見なされるようになった。589年から701年の間に18回もの宗教会議がトレドで開かれ、いずれも王が召集をおこなっている。これらの宗教会議は、後世のように狭い教義上の問題だけが取り上げられたのではなくて、世俗的な問題も議題とされた[* 52][* 53]。したがって出席者は聖職者ばかりに限られず、世俗の高官も臨席した。

とくに618年ないし619年第2回セビリャ教会会議および633年第4回トレド公会議ではセビリャのイシドールスの活躍により、西ゴート王国の教会は独立と自由を維持しながらも国王に忠誠を誓うという形で、ローマ教皇の管轄権を排除した[* 54]。トレド大司教を頂点とする自律的な教会組織が整えられ、国王は「王にして祭司」として君臨し、西ゴート教会はローマ教皇からの自立性を高めた。のちには国王の即位に塗油の儀式も付け加えられるようになった。確実に知られるのは672年のワムバ王の即位時であるが、おそらくレカレド王時代からおこなわれていたと考えられている。西ゴート王国では、国王は宗教上の問題に関しても法令を出した。

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ヴァンダル王国[編集]

アフリカ北岸に王国を築いたヴァンダル族の場合は西ゴート族とはかなり異なる。この王国は東ローマ帝国と敵対的な関係にあり、その宗教政策は政治的対立に基づいていた。ヴァンダル族はアリウス派を信じており、カトリック司教がローマを通じて東ローマ帝国に通じているのではないかと疑っていた。

ゲイセリクス王はカルタゴを占領すると、同地のカトリック司教クオドウルトデウスを追放した。以後24年間カルタゴには司教が置かれなかった。ゲイセリクスの後継者フネリクス王は晩年の484年に、かつてホノリウス帝がドナティスト[* 55]に出した告示を踏襲して、カトリック教徒を法の保護外とする告示を出した。要するに、ヴァンダル王国ではほぼその全時代を通じて、カトリックと王権の間に軋轢が絶えなかった。

カトリック聖職者は王権とそれに結びついたアリウス派に対する抵抗運動を指導した[* 56]ので、王権は弾圧を加え根絶しようとしたが、すでにアウグスティヌスの伝統が深く根を下ろしていた北アフリカの教会はこの弾圧に耐えた[* 57]。ただこのような混乱と迫害は、カトリック聖職者の離散をもたらし、彼らはプロヴァンス地方やカンパーニア地方、イベリア半島へ集団逃亡(「エクソダス」)した。

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メロヴィング朝フランク王国[編集]

メロヴィング家のフランク族支配を確立したのは、キルデリクスとその子クローヴィスである。キルデリクスの時代には異教的な習俗が強かったが、クローヴィスは496年カトリックの洗礼を受け改宗し、同時に主な従士も改宗した[* 58]。したがってフランク王国はゲルマン諸部族のなかでは比較的早く正統信仰を受け入れた国であった。クローヴィス即位当時北ガリアでは、ローマ人のガリア軍司令官シアグリウスがほとんど独立した政権を維持しており、だいたいのちのネウストリアのあたりを支配していた(ソワソン管区)。486年にクローヴィスはシアグリウスとソワソン付近で戦って勝利し、その支配地域を併合した。クローヴィスは491年テューリンゲン人を服属させ、496年アレマン族と戦い、ブルグント王の姪でカトリック教徒であったクロティルドと結婚した。507年には当時強勢を誇っていた西ゴート族を破り、アキテーヌを支配下に収めた。クローヴィスは晩年に有力なフランク人貴族を抹殺し、メロヴィング王権を確立した。511年の死の直前にはオルレアン公会議を開き、メロヴィング朝の教会制度が組織され、アリウス派異端への対処が話し合われた[197]

クローヴィスの死後王国は4人の息子たちによって分割され、息子たちはさらに領土を拡大した。息子たちのうち一人が死ぬと、その領土は生き残った国王の支配に服した[* 59]ので、クローヴィスの息子のうちで最後まで生き残ったクロタールが死ぬ頃(561年)には再び王国は統一されており、しかも地中海沿岸を支配していた有力なゲルマン民族国家は、ユスティニアヌス1世により滅ぼされるか打撃を受けていたため、フランク王国はゲルマン民族の間で最も有力な王国となっていた。

クロタールの王国は再びその4人の息子たちによって分割され、長男シギベルト1世には王国東部が与えられ、彼の分王国は「アウストラシア」と呼ばれた。アウストラシアの王は飛び地としてプロヴァンスを支配した。次男グントラムにはブルグントの支配が任され、三男カリベルトには王国西部を、末子キルペリク1世には王国北西部のベルギー地方が与えられた。567年にカリベルトがなくなると、その支配地は3分王国の間で分配され、キルペリク1世の分王国はノルマンディー地方にまで拡大されて「ネウストリア」と呼ばれるようになった。

613年、王国はクロタール2世により再び統一されたが、各分王国の自立性は強まっており、各分王国の貴族たちは各分国王のもとで形成されてきた政治的伝統を維持したいと考えていた。614年パリでおこなわれた教会会議の直後、クロタール2世は「パリ勅令」を公布した。この勅令は各分王国の貴族たちの要求を受け入れる形で、アウストラシアとブルグントでは宮宰を国王の代理人とするものであった[* 60]。こうして各分王国で宮宰が特別な地位を認められるようになった。

聖コルンバヌス
聖コルンバの弟子であった聖コルンバヌスは、倫理的で厳格な修道制をガリア地域にもたらしてたちまち熱狂を巻き起こし、6世紀後半、一大修道院設立運動が起こった。図はブルニャートの聖コルンバヌス修道院にあるフレスコ画

クロタール2世の時代はメロヴィング朝の教会政策においても転換期となっている。クロタール2世は、ガロ・ローマン的セナトール貴族を支持基盤としていた王妃ブルンヒルドに反発したアウストラシアのゲルマン貴族に支持されており[200]、従来のセナトール貴族と結びついた司教制度は衰退に向かい、アイルランド修道制を導入した修道院運動が活発化した[200] [201]。これはメロヴィング朝フランク王国内の南北での教会会議の開催数の差によって確認することができ、アイルランド修道制が流布したロワール川以北のフランキア地方では、640年までに5回を数えるのみなのに対し、ロワール川以南では同時期40回を数えた[200]。ロワール川以北では司教活動は明らかに衰退したのである。司教の出自も7世紀を境に、セナトール貴族中心であったものが、ゲルマン貴族が目立つようになってくる[* 61]。このようにゲルマン貴族が司教職に進出したことの背景の一つは、590年聖コルンバヌスによって設立されたリュクスイユ修道院がフランク貴族子弟の教育機関となって、多くのゲルマン人司教を養成することに成功したことである[203]。クロタール2世は前述の614年「パリ勅令」において聖職叙任規定に言及し、パリ教会会議の決定に基づいて首都司教に司教の叙階権のみを認め、選出権は当該教区の聖職者と信徒の共同体に限定した。しかし、選出と叙階の間に王権による審査を経ての叙任令に基づく叙任が必要とされている[202]

のちのカロリング朝と違って、メロヴィング朝では多数の教養ある俗人が政府内に存在した[* 62]。7世紀のクロタール2世の時代までは社会全体の識字率はカロリング朝のころよりも高く、したがってメロヴィング朝の宮廷文化はカール大帝の時代とは異なって世俗的な教養に支えられていた。フランク王国がゲルマン人の王国の中で比較的早期に正統信仰を受け入れたとはいえ、ローマを中心とする西方の教会の影響を強く受けたというわけではない。このころのローマ教皇はガリアにまで強い影響力を行使できるほど卓越していたわけではなかった。クローヴィスはローマ教皇とではなく東ローマ皇帝と直接外交した。クローヴィスの時代にはローマよりはコンスタンティノープルの宮廷が大きな影響を及ぼしていたと見るべきである。

上述のように、メロヴィング朝の宮廷は全く世俗的であったが、その地方行政においては司教が中心的な役割を担っていた。メロヴィング朝の宮廷は地方支配の組織を欠いており、司教が実質的に地方統治を担当していた。宮廷で官僚として出世した者たちは地方に転出するときに司教職を望んだ。カロリング家の権力掌握過程でもこの事実は確認できる。アウストラシアの宮宰であるカロリング家はネウストリア、ブルグント、プロヴァンス各地の司教職に一門を送り込むことで地方支配に影響を及ぼした。やがて8世紀半ばにイングランドからの影響でフランク王国に大司教制が導入されると、ゲルマニア・ルーアン・ランス・サンスの大司教をカロリング家が占めた。カロリング朝の時代には司教職と地方支配に対する王権の影響力は増加した。

王国の経済に注目すれば、東ローマ帝国の地中海再征服以降ガリアは地中海の経済圏から分離される傾向が強くなり、ブリタニアとの強い結びつきが認められる。6世紀からはこのような経済圏の形成と歩調を合わせるかのようにメロヴィング王朝の北方化・内陸化が進展し、東ローマ帝国の影響は希薄となった。しかしこの経済圏はアイルランドまでは含んでおらず、アイルランドはイベリア半島を通じて伝統的な地中海経済圏とつながっていた[* 63]

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政治的宗教的統一体の自覚[編集]

最後に、この時代の代表的歴史叙述家であるトゥールのグレゴリウスと教皇グレゴリウス1世の叙述を主に取り上げ、6世紀の思想状況において、部族国家が、また国家と宗教の関係がどのように捉えられていたかを概観する。

トゥールのグレゴリウス[編集]
歴史十巻』扉

メロヴィング朝治下アウストラシアトゥールの司教であったグレゴリウスは、彼が著したフランク王国についての基本史料『歴史十巻』によって知られる。彼のクローヴィスをめぐる歴史叙述には、「コンスル」や「プラエフェクトゥス」といったローマ帝国の官職名や、ビザンツ帝国の「パトリキウス」などの用語が使われている。このことが従来歴史家の一部で、特にビザンツ帝国の政治秩序にメロヴィング王権が組み込まれたという認識につながる根拠とされてきた。[要出典]

しかし最近の研究では、それらの用語はビザンツの帝国法にのっとったものではなく、おそらく聖書の叙述に範をとったもので、グレゴリウスは皇帝とクローヴィスとの間に厳密に法的な関係を想定していたわけではないという見方が示されている[204]。さらに、従来部族の王を指す「rex」には部族名が付されるのが一般的であった。しかるに、グレゴリウスは西ゴート王を記述するのに「レックス・ヒスパノールム」 (rex Hispanorum) あるいは「レックス・ヒスパニアエ」 (rex Hispaniae) という称号を用い、その支配権を領土的観念で捉え始めている。同様に自らの属するアウストラシアの王を「われわれの王」と呼び、その王国を「レグヌム・フランキアエ」 (regnum Franciae) と呼ぶ。彼は自らの歴史叙述の中で、フランクの使者にビザンツ皇帝を「あなたがたの皇帝」と呼ばせている。彼の歴史叙述には皇帝によるフランク王へのガリア統治権委託の観念はなく、クローヴィス以来、フランク王はその征服活動によって自らガリアの支配権を打ち立てているという見方が示されているのである。彼が基本的にビザンツ皇帝にのみ「インペラートル」や「インペリウム」を使用していることは、ビザンツ帝国の優位性を認めている証左であるが、そこから自立した独自の西欧世界の萌芽が見られること、またそこに領土意識とおぼろげながらも一定の民族意識を見ることができる[204]

グレゴリウスはまた、フランク王に司教を指導する力を認めている。549年オルレアン公会議は司教の叙任にあたって、王権による事実上の司教任命権を承認したうえで、その介入に歯止めをかけようとしたものであるが、グレゴリウスはこのような王権による教会側への介入を批判するどころか疑問さえ呈していない[204]


以上のようなグレゴリウスの歴史叙述の性格に基づけば、ビザンツ帝国によるヨーロッパの統一的支配という観念は6世紀には後退し、そこでは各部族王権が部族という枠組みを越えて領域支配を確立しつつあり、一定の領土意識の形成が見られるとともに、そこへの帰属意識を見て取ることができる。同時に王権に教会への介入を認めていることは、中世の特徴である教皇の普遍的教会統治が、この時代のフランク王国には全く存在していなかったことが明らかであろう。[独自研究?]

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グレゴリウス1世[編集]

トゥールのグレゴリウスがかつての西ローマ帝国の領域の部族国家に生きた知識人を代表する存在であるとすれば、同時代の偉大な教皇グレゴリウス1世は、同じ西方世界に生きながらも、より東帝国に近い知識人の代表であった。彼はユスティニアヌスによる再征服後の、まだ帝国の支配が実効性を持っているローマに生き、部族国家の定住によって西欧に生じた現実を見据えつつも、それら部族国家の外側に生きたのである。グレゴリウスは部族国家という政治単位に分断されつつある西欧世界の現実の中で、教会の統一を守ろうとした。したがって、彼にとって教皇の優位性は何にもまして必要なものであった。教皇という核がなければ、西欧世界での教会の統一はたちまち失われ、部族国家ごとに教会は分断されかねない。現に一部の部族国家は正統なカトリック信仰を選ばずに、アリウス派の異端に堕していた。グレゴリウスの言うとおり、教会の統一において教皇の首位性は欠くべからずものであったろうが、一方で彼は教皇と教会を同一視するという観念に先鞭をつけてしまったという見方もできる[205]

またグレゴリウスは教皇ゲラシウス1世両剣論を根拠に、俗権の及ばない宗教的裁治に関する管轄権が教皇にあると主張した。しかし彼は、俗権である皇帝権力が霊的使命を放棄し、宗教領域への介入を捨て、世俗的職務に専念せよと述べているのではない。国家はむしろ教会と協働して霊的使命を果たすのであり、その霊的使命を放棄しては国家の存在価値自体が失われるのである。グレゴリウスが教皇に選出されたとき、マウリキウス帝はそれを追認したが、彼は皇帝がローマ司教かつ教皇に対して任命権を行使したことに何ら疑問を抱かなかった。彼は皇帝の権威が神に由来するものであることを認め、その権威を尊重しており、両権の協働を唱えた[206]

グレゴリウスは部族国家に対しては、その権力を認める代わりにキリスト教秩序への参画を求めた。グレゴリウスは部族の君主たちに助言を与え指導することで、間接的に道徳的権威を行使した。キリスト教精神は国家理念の欠如していたこれら部族国家の目標となり、教会は国家に活力を与える存在となり、教皇座の霊的権能を高めた。それまで各部族国家の王は法律を作る権威を持たず慣習に従属していたが、キリスト教はこの慣習を変えるものであった[207]

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西ゴート王国のカトリック改宗をめぐって[編集]

この時代の宗教意識と国家意識の問題の上で、興味深いのが西ゴート王国で起こったヘルメネギルドの反乱事件を巡る当時の歴史叙述における相違である。前述したように、レオヴィギルド王の治世下に王の第一子ヘルメネギルドカトリックに改宗し、アリウス派であった父に対し陰謀を企てた。

これについて、トゥールのグレゴリウスや教皇グレゴリウス1世は仔細に記述し、この事件をのちのレカレド王の改宗に至る前史的な出来事として特筆した。これに対し、セビリャのイシドールスの『ゴート史』やゴート人ヨハンネスによる『年代記』など、西ゴート王国で書かれた史料はこの事件にほとんど注目していない。ここに西ゴート王国の内部と外部で明確な意識の違いを見ることができる。さらにレオヴィギルドについて、後者ヒスパニアの史料はこの君主を政治的軍事的統一を西ゴート王国にもたらした英主として描くのに対し、教皇グレゴリウス1世は「異端者、子殺し」と呼んでおり、相違が見られる。グレゴリウス1世はレオヴィギルドが臨終に際してカトリックに改宗したことを記して、彼に好意を示すもののその叙述は護教的である。一方トゥールのグレゴリウスはグレゴリウス1世とは異なり、レオヴィギルドの政治的手腕を高く評価し、その視点はヒスパニアの史家に近い。

レカレド王の改宗

この違いはレカレド王の改宗を巡る記述にも見られ、このことは同じ西ゴート王国の外部者という立場に立つ両者であるが、部族国家内部に生きるトゥールのグレゴリウスと、ローマでビザンツ帝国の影響下に生きる教皇グレゴリウス1世の思想状況の違いを示している[208]

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ゲルマン人の集団改宗[編集]

メロヴィング朝と西ゴート王国のカトリックへの改宗を見ると、それは決して個人的な理由のみで行われたのではなく、集団改宗という形式で一般に行われたと見る方が適切であろう[209]。少なくともクローヴィスの改宗は明確に集団改宗である。レカレド王の改宗は587年にまずなされているが、この改宗が個人的なものか集団的なものかは明らかでない[* 64]が、589年のトレド公会議は西ゴート王国を公式にカトリック改宗へと導いた[210][208]。このような集団改宗は近代的な個人の信仰心のあり方と同列に論じることはできないであろう[209][* 65]。ゲルマンの王は集団の支持を必要としており、彼らの改宗は、個人的な内面性より集団に重点が置かれていた[209]。改宗が直接的に国王個人や住民の生活習慣を変えるようなものではなかったことからも明白である。たとえばクローヴィスは洗礼を受けたにも関わらず、その後の有様は蛮族の王そのままであった[209]し、そもそもメロヴィング王国住民も表面的にしかキリスト教化されていなかった[212]

このような改宗は何をもたらしたのであろうか。一般的な説明では、改宗によって支配者と被支配民の宗教が一致し、統治に安定をもたらしたことが述べられる一方、改宗の政治的意義を小さく、あるいは全く評価しない論者もいる。たとえばコリンズ (en:Roger Collins) によれば、西ゴート王国は改宗以前、被支配民であるローマ系住民はカトリック、支配者であるゴート族はアリウス派からカトリックへの改宗が進んでおり、両者のアイデンティティーの統合は進みつつあった[213]。レカレド王は改宗後に徹底的なアリウス派根絶に努めており、それにより王を中心とする政治的宗教的統一体形成の基盤をなしたという見方も可能である[208]。メロヴィング朝では7世紀クロタール2世の統治期に王の権威の上昇が見られるが、これはキリスト教が王権に王国を守るという崇高な任務を与え、聖性を付与し、その意義を高めたからである[214]

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ランゴバルド族と中世初期の南イタリア[編集]

西ローマ帝国滅亡後のイタリア半島は、東ゴート族の支配を受けたのち、東ローマ帝国の支配に復帰したのであるが、やがてランゴバルド族の侵入によって、北イタリアから中部イタリアにかけての大部分はランゴバルド族の支配に帰した。ランゴバルド王国はしかし、イタリア半島全体を支配することはついにかなわず、ローマラヴェンナの間と南部イタリアは東ローマ帝国の支配下に止まった。やがてカロリング朝ローマ教皇の要請を受けて北イタリアに侵入し、774年にはカール大帝により北イタリアのランゴバルド王国はフランク王国併合された。

しかし、中部イタリアのランゴバルド系公国であるベネヴェント公国は存続し、分裂しながらも独立した政体を維持した。またビザンツ支配下の南イタリア都市も徐々に独立し、シチリア島ムスリムの支配下となる。こうして中世初期のイタリア半島南部は分裂状態におかれるのであるが、やがて傭兵として雇われたノルマン人の集団がシチリア王国を建国し、地域の統合をもたらすこととなり、新局面が訪れた。

東ゴート王国とビザンツ帝国のイタリア再征服[編集]
ボエティウス
テオドリックに投獄された際に執筆された主著『哲学の慰め』は中世西欧で広く読まれた

西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスオドアケルによって476年に廃位されると、西ローマ皇帝は存在しなくなった。しかし、ローマ帝国の支配体制自体が変化を蒙ったわけではない。オドアケルは東ローマ帝国の宗主権を認めており、そのオドアケルの政権を打倒した東ゴート王テオドリックも東ローマ帝国の宗主権を認め、この間西帝国の元老院も存続していた。しかしながら、東ゴート族はアリウス派を信仰しており、このことが東ローマ帝国との政治的対立に結びつくこととなった。また王国の統治はローマ人官僚の貢献によって支えられていたが、彼らは正統信仰を維持しており、信仰上の対立がゴート人とローマ人の不和の原因となって王国の統治を攪乱することとなった。テオドリックは寛容な宗教政策を展開して王国内の平和を保っていたが、晩年には宗教問題が政治問題化した。たとえば、ボエティウスの事例が典型的である。ローマの有力貴族アルビヌスが王位継承問題に絡んで東ローマ帝国と通じた問題で、ボエティウスはアルビヌスを弁護して投獄され、524年に処刑された。東ローマ帝国はこれをカトリック教会に対する迫害と捉え、当時アリウス派に一時的な寛容政策をとっていたユスティヌス1世の態度を硬化させた。ユスティヌスは527年に異端に対する勅令を出してアリウス派を弾圧[* 66]し、以前からカルケドン信条を守っていたブルグントジギスムントやカトリック信仰に転じたヴァンダルヒルデリック[* 67]と同盟してテオドリックを牽制した。

ユスティヌス1世を継承したユスティニアヌス1世532年ササン朝ホスロー1世と永久平和条約を結んで帝国東部辺境を安定させると、西方の旧西ローマ帝国領の再征服に乗り出した。まずヴァンダル王国に矛先を向け、533年カルタゴを占領し、534年にはヴァンダル王国を完全に滅ぼした。さらに535年テオダハドが東ローマ帝国と友好的な東ゴート女王アマラスンタを殺害すると、これを口実としてイタリア半島に遠征軍を派遣した。東ローマ帝国軍は当初有利に事を進めたが、最高司令官ベリサリウスと将軍ナルセスの間に不和が生じるなど指揮系統に混乱が生じた。ナルセスが本国に召還されると、539年にはベリサリウスは東ゴート族を懐柔することに成功した[* 68]が、ベリサリウスはササン朝の侵入に対抗するため540年に本国に召還されてしまい、失望した東ゴート族は再び反乱を起こした。東ゴート族はやがてトーティラを王に推戴して勢力を盛り返した。544年にベリサリウスはイタリアに戻るが、兵力不足から有効な反撃が出来ず、549年には再び本国へ召還された。550年になると、トーティラ率いる東ゴート軍はローマを占領し、イタリア半島をほとんど支配する状態となって、シチリア島に侵入するまでになった。552年ナルセスが大軍をもって派遣されると、ようやく東ローマ帝国軍は反撃に転じ、ブスタ・ガロールムの戦いギリシャ語版イタリア語版英語版ギリシア語: Μάχη των Βουσταγαλλώρων Battle of Busta Gallorum)で東ゴート族を大いに破った。トーティラは殺され、東ゴート族はなおも各地に拠って抵抗したが、554年にはほぼイタリアに平和が戻り、561年には抵抗は完全に収まった。

しかしこの戦乱によってイタリア半島の荒廃は進み、かつての繁栄を失った。東ゴート王国下においては、古典古代の文化を保存する活動は維持されており、前述したボエティウスが『哲学の慰め』を著述してプラトンやアリストテレスの哲学概念を用いてキリスト教教義を論じたり、カッシオドルスが『ゴート人の歴史』を書いてローマ人とゴート人の調和を説いたりといった文化活動が見られた。カッシオドルスは修道院教育に自由七科を導入するなど修道院文化の育成にも関わるが、この伝統は戦乱とともに一時廃れた。

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ランゴバルド王国[編集]

ユスティニアヌス帝による再征服活動によって、イタリア半島は再びローマ皇帝支配に服すこととなったが、その統一は長く続かなかった。ランゴバルド族が侵入し、彼らがイタリア半島に王国を築いたからである。彼らの文化水準は低く、したがってその支配による影響は文化的には大したことはなかったが、政治的には以後長く続くイタリアの分裂の端緒となった[217][218]

ランゴバルド族は1世紀までにエルベ川下流域に定住し、その後547年にビザンツ帝国によって、パンノニアとノリクムの境界地域に定住を許された[219]。パンノニアはゴート戦争開始によって生じた防備の弱体化をついてゲピド族によって占領されており、彼らはシルミウムを首都として王国を築いた。そのため、ビザンツ帝国はゲピド族と東ゴート王国への対抗の意味で領内にランゴバルド族を招き入れたのであった[180][220][* 69]。ランゴバルド族はゲピド族を抗争を繰り返し、566年になってビザンツ帝国がゲピド族と同盟を結ぶと、ランゴバルド族はその東方にいたアヴァール人と結んでこれに対抗、結果としてゲピド族は567年に滅亡した[222]。しかし強大なアヴァール人に圧迫を受けるようになったランゴバルド族は568年になると、王アルボインに率いられてイタリア半島に侵入し、その年のうちにヴェネト地方の大半を占領した[215]569年にはメディオラヌムを、572年にはティーキヌムを占領し[* 70]、後者を首都としてランゴバルド王国が成立した[215][223][224]

572年にアルボインが暗殺され、王位を継いだクレフ574年に暗殺されると、ランゴバルド王国は30人以上の諸公が支配する連合政体へと変化した[225][226]。しかしその勢いは衰えず、諸公の一人ファロアルド1世イタリア語版英語版スポレートを支配下においてスポレート公国を築き、他の諸公ゾットーネイタリア語版英語版はさらに南下してベネヴェントを占領、ベネヴェント公国を打ち立てた[225][226]。ランゴバルド諸公に対して、ビザンツ帝国は金銭による懐柔外交を展開するとともに、フランク王国と同盟してこれを打倒しようとした[225][227]。フランク王国はすでに574年ランゴバルド王国を征討し、これを打ち負かして貢納と領土の割譲を条件に講和しており、イタリア半島情勢への介入には消極的な姿勢を保っていたのである[228]が、ビザンツの勧誘を受けて585年588年にイタリアへ侵入し、クレフの子である王アウタリウスは貢納を条件に589年これと講和した。590年にもフランク族は大軍をもってランゴバルド王国を攻撃したが、これは掠奪をおこなうに止まった[229]。フランクによる対外危機は分裂する傾向にあったランゴバルド族に結束の必要を認識させた。既述のように、574年以来ランゴバルド族は王を戴かずに諸公の合議によって統治されていたのであるが、584年になると、アウタリウスが選出されて王となった。アウタリウスの死後跡を継いだアギルルフス591年、毎年の貢納を条件にフランク王国と和解し、ビザンツ領を侵し始め、593年にはローマを包囲してグレゴリウス1世と交渉し、598年には教皇と講和した[230]。アウタリウスの治世に首都パヴィアを中心として王国としてのまとまりが現れ始め、次代のアギルルフスの治世下には統治制度が整備されて国家としての体裁をとるようになった[231]パウルス・ディアコヌスは『ランゴバルド史』の中で、このアギルルフスの治世に実現された平和を賞賛している。

616年のアギフルススの死後はアダロアルドゥスが継いだが、妃であったテオデリンダが権力を握った。テオデリンダはカトリック信仰に熱心で、教皇グレゴリウス1世とも親しく、聖コルンバヌスによる修道院設立を支援した。アギフルススがアリウス派を捨て、カトリックに改宗したのも彼女の影響である。また彼女以後歴代の国王は、三章書論争[* 71]三章書を支持して分離したミラノアクィレイアの教会とローマ教会との調停に尽力した。しかし626年アダロアルドゥスは義兄アリオアルドゥスによって弑され、アリオアルドゥスは王位に就いた。この簒奪の背景にはビザンツ帝国との融和政策に対するランゴバルド武人の不満があったと考えられる。アリオアルドゥスはアリウス派であった。636年にアリオアルドゥスが死ぬと、その妃グンディベルガを娶ったロターリが王に選出された。ロターリは東方でイスラーム教徒と争っているビザンツ帝国の支配のゆるみをついて領土を積極的に拡大し、リグーリアコルシカ・ヴェネツィア周辺部などを奪取した[233]。またロターリは643年に「ロターリ王の告示」、いわゆるロターリ法典を編纂したが、これはランゴバルド人の法慣習を採録したものである[234]。ロターリはランゴバルド王国の最盛期を現出したが、652年のその死後、王国は急速に分裂、弱体化した。彼の息子ロドアルドゥスは短命で、653年アギロルフィング家アリペルトゥス1世に王位が移った。アリペルトゥス1世の死(661年)に際して2人の息子に王国が分割されたが、これが内紛を生じ、662年ベネヴェント公グリモアルドゥス1世が王位を手に入れることとなった[235]

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ベネヴェント公国と南イタリアのランゴバルド三侯国[編集]

前節で述べたように、クレフ王の死後の10年間、ランゴバルド諸公は一種の合議政体をもって王国を運営し、この間に地方に割拠する諸公の力は強まった。特にイタリア中部のスポレート公国と南イタリアのベネヴェント公国はラヴェンナとローマの枢軸を維持するビザンツ帝国によって、北イタリアのランゴバルド王国の中央から隔てられているために、自立性が高かった。初代ベネヴェント公ゾットーの跡を継いだアリキス1世はビザンツ帝国カラブリアと沿岸都市以外の南イタリアをほぼ制圧し、広大な領土を支配するようになった[235]。第5代のグリモアルドゥス1世はランゴバルド王国で起きた王位継承を巡る争いに乗じて、ランゴバルド王位を獲得し、ランゴバルド王とベネヴェント公をかねてランゴバルド人を統一した[235]。しかし彼の死後は2人の息子がランゴバルド王位とベネヴェント公位を分割して保持することになり、再び両国は分かたれた。ベネヴェント公位を継いだロムアルドゥスは弟のガリバルドゥスにランゴバルド王位を譲ったのである[236]。まだ幼かったガリバルドゥスは即位後1年で王位をペルクタリトゥスに奪われ、ランゴバルド人の統一は失われた。

リウトプランドの肖像が描かれたトリミセス貨幣(1トリミセス=1/3ソリドゥス

その後北のランゴバルド王国では短期間での王位の変転が続くが、712年リウトプランドが王位につくと、ビザンツ帝国側の内紛を利用して領土を拡大した。ビザンツ皇帝レオン3世イコノクラスムを開始すると、教皇グレゴリウス2世はこれに反発して皇帝と対立し、折しも対イスラーム教徒戦争の重税に苦しんでいた多数のイタリア都市も帝国の支配に反抗した。この防備の弱体化をついてリウトプランドはビザンツ領へ侵攻し、730年ごろにはラヴェンナを奪取した[237][* 72]。ビザンツ帝国は教皇グレゴリウス3世の登位後、ヴェネツィアの協力を得て、734年にこれを奪還した[237][* 73]。リウトプランドはカール・マルテルと同盟してムスリムとも戦い、725年ごろにはムスリム支配下のコルシカ島を従属させた。710年から730年の間にはサルディニア島にあったアウグスティヌスの遺骸がパヴィアに運ばれ、サン・ピエトロ大聖堂 (en:San Pietro in Ciel d'Oro) に納められた[237][240]。またリウトプランドの治世に、ロターリ法典は新たに153章の法文を付けくわえられたが、これらの中には女性や貧者に抑圧に抗する一定の権利を認めるものが含まれている[237]。リウトプランドの後はまた短命な王が続くが、749年に即位したアイストゥルフは精力的で、751年にラヴェンナを制圧してイタリア半島をほぼ統一した。しかし754年757年の2度、教皇ステファヌス3世の懇請を受けてピピン3世がイタリアに侵入すると、これらの征服地は奪回された[241]。アイストゥルフの次代の王デシデリウスカール大帝の弟カールマンと結んでフランク王国の政治に介入しようとし、また教皇領を攻撃して領土拡大を目指したが、逆に773年カール大帝のイタリア遠征を招き、翌774年には首都パヴィアが陥落してデシデリウスは廃され、カール大帝が自らランゴバルド王を兼ねるに至って、ランゴバルド王国は実質的に滅亡した[242][243][244]

他方、ロムアルドゥスの後継者たちが支配した南のベネヴェント公国は、774年のランゴバルド王国滅亡を傍観しながら生き残り、8世紀後半にはランゴバルド王国の正統を自認してベネヴェント侯国を名乗るようになる[245]。侯国の地方統治はガスタルディウス (gastaldius) という地方役人が担っていたが、彼らは徐々に侯から独立するようになり、ベネヴェント侯国は分権化し始めた[246]839年に第5代のベネヴェント侯シカルドゥスが暗殺された後、侯位を巡って争いが起こり、849年にはサレルノ侯国イタリア語版英語版が分かれた[247]。このサレルノ侯国の有力者カープア伯は861年に自立してカープア伯領を形成するが、900年にカープア伯アテヌルフス1世イタリア語版英語版がベネヴェント侯に即位してカープア・ベネヴェント侯国イタリア語版英語版が成立した[247]。この統一侯国は982年まで続くが、その後はベネヴェント侯国とカープア侯国イタリア語版英語版に分かれた[248]。こうしてランゴバルド三侯国が成立した。

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カロリング朝の帝権[編集]

フランク王国では7世紀半ばになると、各分王国で豪族が台頭し、メロヴィング家の王権は著しく衰退した。このような中、アウストラシアの宮宰を世襲していたカロリング家はピピン2世の時代に全分王国の宮宰を占め、王家を超える権力を持つようになった。ピピン2世の子カール・マルテルはイベリア半島から侵入してきたイスラム教徒を撃退し、カロリング家の声望を高めた。つづくピピン3世はすでに述べたように、ローマ教皇の承認のもとで王位を簒奪し、カロリング朝を開いた。カール大帝の時代にはその版図はイベリア半島ブリテン島を除く今日の西ヨーロッパのほぼ全体を占めるに至った。ローマ教皇はカール大帝に帝冠を授け、西ヨーロッパに東ローマ帝国から独立した、新しいカトリックの帝国を築いた。カール大帝の帝国は現実的には、後継者ルートヴィヒ1世の死後3つに分割され、今日のイタリアフランスドイツのもととなったが、理念上は中世を通じて西ヨーロッパ世界全体を覆っているものと観念されていた。

メロヴィング王権の衰退[編集]

パリ勅令で各分王国での宮宰の影響力が増大したことは、ただちにメロヴィング王権の衰退に結びついたわけではなかった。宮宰は一面では豪族支配を統制し、王権の擁護者として振る舞った。ネウストリアでは特にそうであった。それに対してアウストラシアでは7世紀半ばにカロリング家による宮宰職の世襲がほぼ確立し、王権の影響の排除が進んだ。659年にアウストラシアの宮宰でカロリング家のグリモアルド1世は王位簒奪を謀ったが、失敗し処刑された。673年ネウストリアでクロタール3世が没した際に宮宰エブロインは王権を擁護する立場から、テウデリク3世を擁立しようとしたが、豪族たちは自らが国王選挙に参加する権利があるとして、この決定を覆し、新たにキルデリク2世を擁立した。680年ないし683年にはエブロインは暗殺され、王権に対する豪族の優位が確立された[* 74]。このころアキテーヌはほとんど独立した状態となり、王権の支配を離れた。ブルグントでは宮宰職は空位同然であり、エブロイン死後のネウストリアの宮宰職も混乱し影響力を低下させた[* 75]。ネウストリアで国王と宮宰に対する豪族の反乱が起こると、ピピン2世はこれに介入し、687年テルトリーの戦いでネウストリア軍を破って、688年全王国の宮宰職を認められた。

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カール・マルテルとイスラム勢力の西漸[編集]

714年12月ピピン2世が死ぬと、カロリング家の支配に対する反動が起こり[* 76]危機を迎えたが、ピピン2世の庶子カール・マルテルによって717年にはクロタール4世[* 77]が擁立され、カール・マルテルはアウストラシアの支配を確立した。724年ごろにはおそらくネウストリアを平定し、アキテーヌを支配していたユードと和平を結んだ。ユードは719年からネウストリアの豪族と結んでカール・マルテルと敵対していたが、これ以降ユードの生きている間はカール・マルテルの有力な同盟者となった。カール・マルテルは730年アレマン人を、734年フリース人を征服し領土を拡大した。また733年にはブルグントを制圧した。

このころイスラム教徒北アフリカからジブラルタル海峡を越えてヨーロッパに侵入し、711年には西ゴート王国を滅ぼし、イベリア半島を支配するようになった。720年にはイスラム教徒の軍がピレネー山脈を越えてナルボンヌを略奪しトゥールーズを包囲した。ユードはイスラムの総督に自分の娘を嫁がせるなど融和を図る一方、732年にイスラム教徒が大規模な北上を企てた際にはカール・マルテルに援軍を求め、これを撃退した(トゥール・ポワティエ間の戦い)。

735年にユードが死ぬと、カール・マルテルはただちにアキテーヌを攻撃したが、征服には失敗し、ユードの息子クノルトに臣従の誓いを立てさせることで満足するにとどまった。軍を転じたカール・マルテルは南フランスに影響を拡大しようとし、マルセイユを占領した。このことが南フランスの豪族に危機感を抱かせ、おそらく彼らの示唆によって、737年にはアヴィニョンがイスラム教徒に占領された。カール・マルテルはすかさずこれを取り返し、ナルボンヌを攻撃したが奪回はできなかった。カール・マルテルはこのような軍事的成功によってカロリング家の覇権を確立した。737年にテウデリク4世が死んでから、カール・マルテルは国王を立てず実質的に王国を統治していた。

トゥール・ポワティエ間の戦い
アキテーヌを支配していたユードはイスラム教徒の国境司令官オスマーンに娘を嫁がせたが、イベリア総督アブドゥル・ラフマーンはこれを殺害した。732年、アブドゥル・ラフマーンはピレネー山脈を越え南フランスに侵攻し、ユードの軍を破った。カール・マルテルはアウストラシアの軍勢を率いてユードの援軍に駆けつけ、トゥールとポワティエの間の平原でこれを撃退した。この勝利でカール・マルテルの声望は大いに高まった

カール・マルテルはフリースラントへのカトリック布教で活躍していたボニファティウスによる、テューリンゲンヘッセンなど王国の北・東部地域での教会組織整備を積極的に支援した。722年教皇グレゴリウス2世により司教に叙任されたボニファティウスは723年にカール・マルテルの保護状を得て、当時ほとんど豪族の私有となっていたこの地域の教会を教皇の下に再構成しようと試みた。ボニファティウスの努力によって、747年にカロリング家のカールマンが引退する頃にはこの地域の教区編成と司教座創設はほぼ完成された。またこれらの地域でローマ式典礼が積極的に取り入れられた。

一方でカール・マルテルはイスラム勢力に対抗するため軍事力の増強を図り[* 78]、自らの臣下に封土を与えるためネウストリアの教会財産を封臣に貸与した(「教会領の還俗」)。これにより鉄甲で武装した騎兵軍を養うことが可能となった。カール・マルテルの後継者カールマンはアウストラシアの教会財産においても「還俗」をおこなった。封臣は貸与された教会領の収入の一部を地代として教会に支払ったが、地代の支払いはしばしば滞った。この教会財産の「還俗」を容易にするため、修道院長や司教にカロリング家配下の俗人が多く任命された。

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ピピン3世の国王即位、カロリング朝の成立[編集]

741年のカール・マルテルの死後、王国の実権は2人の嫡出子カールマンとピピン3世、庶子グリフォによって分割されることとなっていたが、カールマンとピピン3世はグリフォを幽閉して、王国を二分した。743年、2人は空位であった王位にキルデリク3世を推戴した。747年カールマンはモンテ・カッシーノ修道院に引退し、ピピン3世が単独で王国の実権を握った。750年頃にはアキテーヌを除く王国全土がピピンの支配に服していた。

カロリング家の君主たちが進めた教会領の「還俗」はカロリング家とローマ教皇との間に疎隔をもたらしていたが、ボニファティウスを仲立ちとして両者は徐々に歩み寄った。739年頃からボニファティウスを通じてカール・マルテルと教皇は親密にやりとりしていた[* 79]742年カールマンはアウストラシアで数十年間途絶えていた教会会議を召集した。745年にはボニファティウスを議長としてフランク王国全土を対象とする教会会議がローマ教皇の召集で開かれた。

751年ピピンはあらかじめ教皇ザカリアスの意向を伺い、その支持を取り付けた上でソワソンに貴族会議を召集し、豪族たちから国王に選出された。さらに司教たちからも国王として推戴され、ボニファティウスによって塗油の儀式[* 80]を受けた。754年には教皇ステファヌス3世によって息子カールカールマンも塗油を授けられ、王位の世襲を根拠づけた。この時イタリア情勢への積極的な関与を求められ、756年にはランゴバルド王国を討伐して、ラヴェンナからローマに至る土地を教皇に献上した(「ピピンの寄進」)。

ピピン3世の時代には、キリスト教と王国組織の結びつきが強まった。おそらく763年ないし764年に改訂された「100章版」サリカ法典の序文では、キリスト教倫理を王国の法意識の中心に据え、フランク人を選ばれた民、フランク王国を「神の国」とするような観念が見られる[249][250]。またピピン3世は王国集会に司教や修道院長を参加させることとし、さらにこれらの聖界領主に一定の裁判権を認めた。一方でこれらの司教や修道院長の任命権はカロリング朝君主が掌握していた。

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カール大帝の時代、キリスト教帝国の成立[編集]
ハールーン・アッラシード(左側)とカール大帝(右側)
カール大帝はイタリア支配を巡って対立していた東ローマ帝国を牽制するため、時のアッバース朝カリフ、ハールーン・アッラシードに使者を派遣した

768年にピピン3世が没すると、王国はカール大帝とカールマンによって分割された[* 81]。その後771年にカールマンが早逝したので、以降カール大帝が単独で王国を支配した。773年にランゴバルド王デシデリウスがローマ占領を企てると、教皇ハドリアヌス1世はカール大帝に救援を求め、774年これに応じてデシデリウスを討伐し、支配地を併合して「ランゴバルドの国王」を称した[* 82]781年にはランゴバルド王の娘を娶ってフランク王国から離反的な態度を取っていたバイエルン大公タシロ3世に改めて臣従の宣誓をさせたが、788年にはバイエルン大公を廃して王国に併合した。また772年から王国北方のザクセン人に対して征服を開始し、30年以上の断続的な戦争の末に、804年併合した。イスラム教徒に対しては778年ピレネー山脈を越えてイベリア半島へ親征したが、撤退を余儀なくされた。801年にはアキテーヌで副王とされていた嫡子ルートヴィヒによってピレネーの南側にスペイン辺境伯領が成立し、イスラム教徒への防波堤となった。このようにカール大帝の支配領域はイベリア半島とブリテン島を除いて、今日の西ヨーロッパをほぼ包含する広大なものとなった。

教皇レオ3世800年のクリスマスにカール大帝に帝冠を授け、西ローマ帝国が復活した[* 43]。ローマ教皇との結びつきが強くになるにつれ、帝権は神の恩寵によるものという観念が強まり、宗教的権威を持つようになった[* 83]。教皇レオ3世のカール大帝への外交文書は東ローマ皇帝への書式に従い、教皇文書はカールの帝位在位年を紀年とするようになった。カール大帝は教会や修道院を厚く保護する一方、このような聖界領主から軍事力を供出させた[* 84]。世俗の領主と違って、聖界領主は世襲される心配がなかったからである。またカール大帝は伯の地方行政を監察し、中央の権力を地方に浸透させるために国王巡察使を設けたが、これは一つの巡察管区に聖俗各1名の巡察使を置くものであった。カール大帝の「帝国」は、さまざまな民族を包含し、さらにそれらの民族それぞれが独自の部族法を持っている多元的な世界であったが、キリスト教信仰とその教会組織をよりどころとして、カロリング家の帝権がそれらを覆い、緩やかな統合を実現していた。君主のキリスト教化と教会組織の国家的役割の増大は、カロリング朝の帝国を一つの普遍的な「教会」、「神の国」としているかのようであった。

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キリスト教帝国の解体[編集]

広大な帝国はカール大帝自身の個人的な資質に支えられるところも大きく、またフランク人の伝統に従って分割される危険をはらんでいた。すなわちフランク王国では兄弟間による分割相続が慣習となり強固な法意識となっていたので、806年カール大帝は「王国分割令」を発布し、長子カールにアーヘンなど帝国中枢であるフランキアの、ピピンにイタリアの、ルートヴィヒにアキテーヌの支配権を確認し、帝権と王権をカール大帝が掌握するという形式をとった。その後ピピンとカールマンは早逝し、813年東ローマ皇帝がカールの帝権に承認を与えてのち、ルートヴィヒを共治帝とした。

814年カール大帝が亡くなると、ルートヴィヒは帝位と王権を継承した。ルートヴィヒ1世は817年「帝国整序令」を出して長子ロタール1世を共治帝とし、次子ピピンにアキテーヌの、末子ルートヴィヒにバイエルンの支配権を確認した。この時点ではロタール1世にイタリアの支配権も認められており、彼は後継者として尊重されていた。しかしシャルルが生まれると、ルートヴィヒ1世はこの末子のために829年フリースラント・ブルグント・エルザス・アレマニアに及ぶ広大な領土を与えることとし、ロタール1世もこれを承認した。内心これを不満に思っていたロタール1世は830年反乱し、ルートヴィヒ1世を退位させて単独帝となったが、ピピンとルートヴィヒがこれに対抗してルートヴィヒ1世を復位させた。その後840年のルートヴィヒ1世の死後も兄弟たちは激しい抗争を繰り広げた。

841年ロタール1世とシャルル、ルートヴィヒはオーセール近郊で戦い(フォントノワの戦い)、ロタール1世は敗北し、842年兄弟は平和協定を結び、帝国分割で合意することとなった。843年ヴェルダンで最終的な分割が決定され、帝国はほぼ均等に三分されることとなった(ヴェルダン条約)。帝権はロタール1世が保持し、さらに850年ロタール1世は子息ルートヴィヒ2世にローマで戴冠させることに成功した。ロタール1世は855年、帝位とイタリア王国をルートヴィヒ2世に、次子ロタール2世にロートリンゲン、三男のシャルルにブルグントの南部とプロヴァンスの支配を認めた。863年にシャルルが死ぬと、遺領はルートヴィヒ2世とロタール2世の間で分割され、帝国はイタリア・東フランク・西フランク・ロートリンゲンの4王国で構成されることとなった。

869年にロタール2世も没すると、西フランク王シャルルがロートリンゲンを継承したが、翌870年東フランク王ルートヴィヒがこれに異を唱え、両者はメルセンで条約を結び、ロートリンゲンを分割した(メルセン条約[* 85]。西フランク王シャルルは875年のルートヴィヒ2世の死後はイタリア王国と帝位を確保した。876年の東フランク王ルートヴィヒの死に際して、シャルルは東フランクにも支配権を及ぼそうとしたが、アンデルナハ近郊でルートヴィヒの息子たちと戦って敗れ、翌877年失意のうちに没した。[要出典]

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分裂後のカロリング朝後継国家[編集]

結局カール大帝の帝国は社会的・制度的に永続性を欠いており、王家の分割相続により瓦解することとなった。 885年にはカール3世によって帝国が再統一されるが、一時的なことに過ぎず、887年にはアルヌルフによって廃位に追い込まれた。翌888年には西フランク王位がパリ伯ウードに移り、一時的にではあるがカロリング家の血統から外れた。ウードは支配の正統性を維持するためにアルヌルフの宗主権を認め、のちにはカロリング家のシャルル3世を後継者として認めざるをえなかったが、ウードの即位は明らかにフランク王国史の新展開を告げるものであった。西フランク王位はこれ以後、カロリング家とロベール家の間を行き来し、やがて987年にはユーグ・カペーの登位とともにカペー朝が創始され、のちのフランス王国へと変貌を遂げ始めた。

この時代は北からノルマン人・南からムスリム・東からマジャール人が侵入し、これにカロリング家の君主はうまく対応することが出来ず、逆に辺境防衛を担った貴族が軍事力を高めるとともに影響力も強めた。前述のパリ伯ウードも対ノルマン防衛で声望を集めた人物であり、東フランクでもフランケンバイエルンザクセンなどの大公・辺境貴族が台頭し、東フランク王国の統合の維持に努めながらも、自らの支配領域を拡大していった。彼らは地域における主導権争いに勝利して地域内において国王類似の権力を有するようになり、やがてカロリング家が東フランクで断絶すると、これら有力貴族が玉座に登ることとなり、のちのドイツ王国の枠組みが形成されていく。この過程で王国の統一維持の観点から、王国の分割相続が徐々に排除されるようになり、10世紀にはカロリング朝後継国家のいずれにおいても単独相続の原則が確立された。

北イタリアでは、888年以降カロリング家の影響が弱まると、異民族の侵入と諸侯による王位争奪の激化から都市が防衛拠点として成長し始めた。ブルグント王国も888年に独立し、1032年神聖ローマ帝国に併合されるまで独立を維持した。[要出典]

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カロリング・ルネサンス、中世文化の始まり[編集]

カール大帝の宮廷は文化運動の中心となり、そこに集まる教養人の集団は「宮廷学校」と呼ばれた。この文化運動の担い手たちは、西ゴート人・ランゴバルド人・イングランド人などフランク王国外出身者が多かった。9世紀以降、文化運動の中心は修道院へと移り、書物製作や所蔵に大きな役割を担った。このような例としてはトゥールサン・マルタン修道院などが有名である。

この、カール大帝のいわゆるカロリング・ルネサンスは神政的な統治政策に対応した文化運動であり、正しい信仰生活の確立を目指すものであった。聖書理解の向上、典礼書使用の普及、教会暦の実行において正統信仰に基づくことが目指され、すでに地域差が著しくなっていた俗ラテン語から古典ラテン語へと教会用語の統一が図られた。これによりラテン語が中世西欧世界の共通語となる。一方で、典礼形式の確立と聖職者改革によって、カロリング・ルネサンスは文化の担い手を俗人から聖職者へと転回させ、俗人と聖職者の間の文化的隔たりを広げる結果ももたらした。

カロリング・ルネサンスの意義については、文献についての基本的な2つの要素、書記法と記憶媒体の変質が特に中世文化の成立に大きな意義を持った。カール大帝は従来の大文字によるラテン書記法を改革して、カロリング小字体を新たに定めた。この統一された字体を用いて、さまざまな文献を新たにコデックス[* 86]に書き直され、著述と筆写が活発になされた。書物の形態の変化とともに、書写材料はパピルスから羊皮紙に変化した。[要出典]

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カロリング朝期の政治思想[編集]

ここではカロリング朝が帝権を手に入れた9世紀初頭ごろの政治思想を概観する。まずカール大帝のキリスト教帝国の政治思想として アルクインの思想を、次に教権の側の政治思想として作者不明の『コンスタンティヌス帝の寄進状』を特筆する。

アルクイン[編集]
教皇シルウェステル1世コンスタンティヌス大帝
コンスタンティヌス大帝はシルウェステル1世にローマ全土を教会領として寄進する約束をしたという説話が8世紀ごろに作られた。この『コンスタンティヌス帝の寄進状』は中世を通じて教権の重要な根拠の一つとなっていたが、のちにヴァラなどによって偽作されたものであることが明らかにされた

アルクインはブリテン島出身の神学者で、カール大帝の宗教政策を中心とした問題についての、最も有力な助言者の一人であった。カール大帝時代のいわゆる「カロリング・ルネサンス」においても指導的役割を演じたと考えられている。アルクインはカトリック信仰が地上に平和をもたらすものであると信じ、その実現者をカール大帝に見た[251]

カール大帝が795年教皇レオ3世が選出された際に送った外交書簡はアルクインの手になるものと考えられている[252]。この書簡は、キリスト教のための戦争、信仰の擁護などをフランク国王の職務と述べ、ローマ教皇の職務は祈りを通じて国王を補佐することであると述べている。799年にアルクインがカール大帝にあてた有名な書簡では、教皇・ビザンツ皇帝がいずれも堕落している[* 87]のに対し、カール大帝のフランク王国のみが正しいキリスト教君主であるとした。そのすぐあとに出された書簡では、アルクインはカールのフランク王国を「キリスト教帝国 ("Imperium Christianum")」と呼び、カールの王権を全キリスト教共同体を覆うものとしている。このアルクインのいう「キリスト教帝国」は800年のカール大帝の戴冠で劇的に現実化した。

アルクインはまた両剣論を取り上げ、カール大帝が世俗の剣も霊的な剣もともに神から授かったとして教権に対する帝権の優位を説いた[* 88]

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コンスタンティヌス帝の寄進状[編集]

『コンスタンティヌス帝の寄進状』は、『偽イシドールス教令集』に記載されていたもので、作者は不明である。このイシドールスとは7世紀イベリア半島のセビリャ大司教のことである。イシドールスは従来の教令集[* 89]にスペインでの教会会議の決定を増補し、『ヒスパナ』という教令集を編纂した。のちにこれが『イシドールス集録』と呼ばれ、カノン法の法源とされた。『偽イシドールス教令集』はこれとは別の物で、8世紀9世紀にイシドールスに仮託して作成された偽文書である[* 90]

この文書は書簡形式であり、その日付は315年3月30日に書かれたことになっている[253]。まずコンスタンティヌス1世癩病を患い、時の教皇シルウェステル1世の祈りによって救われたとする。コンスタンティヌスはシルウェステル1世を皇帝にしようとしたが、シルヴェステル1世は帝冠を一度受け取ったが被らず、帝冠を改めてコンスタンティヌス1世に被せたという。次にこの文書は聖ペテロに向ける形でコンスタンティヌスによる以下の寄進の記録を記す。すなわちアンティオキアアレクサンドリアエルサレムコンスタンティノポリスと、他の全ての教会に対する優越権、皇帝の紋章とラテラノ宮殿の下賜、西部属州における皇帝権を教皇に委譲した。この架空の歴史的事実によって教皇は「普遍的司教」であり、皇帝任命権を保持していると主張した。カール大帝の戴冠もこの理念に則った形で行われ、これを先例としてのちに教皇は皇帝よりも優越的な地位にあることの根拠とした。

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グレゴリウス改革と教権の絶頂[編集]

これまで述べたように、中世ヨーロッパという固有の文明社会の成立には、皇帝権と教皇権という2つの普遍的権力・権威が相補的役割を果たしていた。11世紀に入ると、この皇帝権と教皇権の関係が本質的な対立に向かい、中世ヨーロッパ社会の秩序が根本的な変革に直面することとなった。一般にグレゴリウス改革[* 91]として把握される一連の教会改革運動である。結果的には教皇権は、皇帝権に対して一定の自立を勝ち得、その完結性を実現することになり、日常生活に関わる秘蹟への関与を強めることにより、民衆の精神支配において圧倒的な影響力を持つようになる。さらにシュタウフェン朝の断絶後に皇帝権が著しく影響力を弱めると、教権は全盛の時代を迎える。

一方で教会改革を通じて高められたキリスト教倫理は、1213世紀になると、民衆の側から使徒的生活の実践要求[* 92]という形で教会に跳ね返り、さらには異端運動を生み出す元ともなった。また14世紀に入ると、教皇権は国家単位での充実を果たした俗権の挑戦を受けることになった[* 93]

修道院改革運動と教会改革の始まり[編集]
クリュニー修道院
フランス革命によって破壊される以前は、偉容を誇った壮大な修道院であった。アキテーヌ公ギヨームにより設立された。12世紀にいたるまで西ヨーロッパで絶大な影響力を持った

グレゴリウス改革の前史としての修道院改革運動は、11世紀初頭のロートリンゲンで広がりを見せた。このロートリンゲンの修道院改革に影響を与えたのがクリュニー修道院である。クリュニー修道院は909年ないし910年に教皇以外の一切の権力の影響を受けない自由修道院として設立され、ベネディクトゥスの修道精神に厳格に従うことで、西ヨーロッパに広く影響を与えた。ザリエル朝の皇帝ハインリヒ3世は、このクリュニーの修道精神に深く共感し、聖職売買(シモニア)を強く批判し、教会改革を求めた。しかし、後に息子のハインリヒ4世と改革の主導者であったグレゴリウス7世は問題となっていた聖職者の任免権を巡って叙任権闘争で争うことになる。

一方でクリュニー精神の影響を受けたロートリンゲンの修道院は、徐々に修道士団の自立性を唱えるようになり、皇帝権からの自立を目指すようになった。そしてクリュニー精神に基づき、修道院活動を純化し汚れない本来の姿に戻ろうとする動きは、シモニアやニコライティズム(聖職者の妻帯)に対する批判と軸を同じくした[要出典]。改革に熱心な教皇レオ9世が登位すると、教皇権がこの教会改革の主導権を握るようになった。レオ9世は聖職者の倫理改革を目指してシモニアに対して厳しく対処することを表明し[* 94]改革遂行のため、当時の改革的聖職者を教皇庁の下に結集して、教会改革に合致する教会法の集成に着手させ、さらに教皇首位権を現実化しようとした。レオ9世時代の改革はこのようにグレゴリウス改革に直結するものであるが、その対象はほぼ教会内部に限られており、教権と俗権の関係には及んでいない[要出典]。その後ニコラウス2世1059年ラテラノの教会会議で下級聖職者に限って俗人叙任を明確に禁止した[* 95]つづくアレクサンデル2世も聖職者の倫理改革に着手し、教皇特使を活用してキリスト教社会に影響を及ぼそうとし、シモニアやニコライティズムを強く批判した。こうしてグレゴリウス7世の登極までに改革は着実に進展していた。[要出典]


このように、クリュニー修道院に影響を受けた修道院改革の基本精神は教会改革に継承されたのであるが、これはクリュニーの精神とグレゴリウス改革が全ての面において、一致していたということを必ずしも意味しない[* 96]。教皇主導の教会改革が徐々に急進化するに及び、当初は協力的であったクリュニーは教皇庁と距離を置くようになっていった。たとえば改革派が唱える、明らかにドナトゥス派に通じる叙品論[* 55]に対しては、クリュニーはペトルス・ダミアニとともにこれに反対した。またイスパニアでもカスティーリャ王国に影響を及ぼそうとする教皇の政策に対し、クリュニーはむしろアルフォンソ6世と結びつくことで、これに対抗した[要出典][* 97]

しかしクリュニー精神もグレゴリウス改革も、キリスト教が「危機」に直面しているという認識では一致していたのであり、この時代の大きな雰囲気の中から生まれたものであることは共通していた。クリュニーは世俗権からの「教会の自由」を主張し、この考えがロートリンゲンの修道院運動でシモニア批判に結びつき、グレゴリウス改革で本格的にそれが主張されるという、発展の傾向は認められる[256]。だが、クリュニーはシモニアに対しては妥協的であったし、その運動の進展はグレゴリウス改革と並行していた。したがって、両者の関係はクリュニーがグレゴリウス改革を生み出したというよりは、両者が間接的に影響し合っていたと見るべきである[257]

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聖職叙任権の問題[編集]

グレゴリウス改革の最も重要な課題は、叙任権闘争についてであった[* 98]。当時聖職叙任権については法的に明確な問題が存在していた。原始教会制では司教は信徒によって選ばれており、それは3世紀キプリアヌスの『カトリック教会統一論(De catholicae ecclesiae unitate)』に明らかである。こうして信徒に選ばれた司教はほかの司教から聖別されて初めて職務につくことができた。教皇レオ1世445年の書簡でも司教は信徒の選挙によるべきという原則が述べられている。535年クレルモン公会議は司教は首都大司教の同意の下に聖職者と信徒の選挙によって選ばれると規定した。この教会法上の規定はグレゴリウス7世の時代まで存続していた。 しかし実際上は世俗の権力者による司教選挙への介入が公然と行われていた。すでにメロヴィング朝時代、クロタール2世治下のパリ公会議では司教の職務につくには王の承認が必要だという文言が加えられた。カロリング朝時代に入ると王が事実上の司教の選出者となり、民衆は歓呼によってこれを承認するという形態に変わった。10世紀にはドイツでもイタリアでも司教の選任は王によって行われるのが常態化したが、フランスでは王の権力が衰えたために、王に加えて諸侯が司教の選任を行うことも増えたせいで、王が選任する司教座と諸侯が選任する司教座の区別が生まれた。

結果として司教は世俗権力者に忠誠宣誓を行い、また王はあたかも司教に宗教的権力を与えているような状況となり、教会法上問題であるばかりでなく、信仰上の宗教的権威にも影響力を行使していることは道徳的にも問題とされた。司教は信徒の魂の死後の救済のため[* 99]に信徒の日常生活を教え導く者であったからである。

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周縁における権力と教会[編集]

中世ヨーロッパにおいて周縁に位置するイングランドイベリア諸国、スカンディナヴィアでは、そこがキリスト教世界にとって前線であるがゆえに、西ヨーロッパの中央とは異なったあり方でキリスト教が存在していた。これらの地域ではカトリックとは異なる典礼を発達・維持させていた教会が存在していたのである。しかしグレゴリウス改革の影響はこれらの地域にも波及し、新たな展開を見せた。

イングランド教会の伝統[編集]

ブリテン島のキリスト教の歴史は、ローマ帝国時代にまで遡ることができる。古代末期にはペラギウス聖パトリックが知られており、後者によってアイルランド伝道が開始された。アイルランドが急速にキリスト教化するのと対照的に、ブリテン島はアングロ・サクソン人の侵入を受け、一時的にキリスト教布教が停滞した。しかしながら563年以降、アイルランドから渡った聖コルンバアイオナ島を拠点にスコットランド改宗に着手し、597年6月9日の死にいたるまで熱心な布教活動を続けた。ちょうど同じ年の6月2日に教皇グレゴリウス1世の命を受けた聖オーガスティンケント王国に上陸し、イングランド布教も開始された。

アンセルムス
師であるランフランクの跡を継いでカンタベリー大司教となる。イングランド王国での聖職叙任権改革を進め、王権と対立。17年にわたる在位期間中、2度も追放される憂き目にあった

こうしてアイルランド人のケルト教会とカトリック教会が同じ島で同時期に別々に布教を開始したが、両者は様々な面で相違していたために[* 100]、布教をめぐって摩擦や対立が生じることとなった。両者は664年ホイットビー教会会議[* 101]で信仰について話し合い、結局この会議ではカトリック側が勝利した。以後イングランドの地域ではカトリック教会が優勢になった。8世紀末のデーン人の侵入によって、イングランドの教会は再び停滞の時期を迎えた[263]が、10世紀にはアルフレッド大王の下で復興がなされた[264]。その後デーン人侵入の第二波がイングランドを襲うが、その王クヌートはキリスト教徒であり、キリスト教を厚く保護した[265]

エドワード懺悔王の死後、1066年ヘイスティングズの戦いに勝利したウィリアム1世がイングランド王に即位してノルマン朝を開始した。ウィリアムは自身の王権を強化しようとして、イングランドに強力な支配権を打ち立てようと試み、イングランド国内の司教や大修道院長を自ら指名し、指輪と司教杖を与えて叙任した。このことは当時の教皇庁が進めていた、俗人による聖職叙任を排除しようという改革運動と真っ向から対立するものであった[* 102]1073年グレゴリウス7世が登極すると、グレゴリウスはウィリアムを説得して俗人叙任を止めさせようとしたが、徒労に終わった[267]。ウィリアムは勅令を出して、イングランドの臣下が国王が同意しない破門宣告に同意することや、司教が国王に無断で出国すること、国内の聖職者が国王の認めない教皇書簡を受け取ることを一切禁じた[267]。ウィリアムの宗教政策はカンタベリー大司教ランフランクの協力によって推進された。ランフランクはまず、カンタベリー大司教のイングランドにおける首位性を確立するため、ヨーク大司教トマスに服従誓願を迫り、それを取り付けることでイングランドにおけるカンタベリー大司教の首位権確立に大きな前進をもたらした[* 103]。ローマ教皇庁は地域的な首位教会という考えには反対であったので、これを支持しなかったが、ウィリアムとランフランクは伝統的な政教協力の思想の下に、イングランドに強力な政府を樹立し、イングランド教会の独立を守り抜いた[271][272][* 104]

ランフランクの後継者であるアンセルムスは前任者とは対照的に、ローマ教皇に忠実な人物であった[* 105]。アンセルムスは明確に教皇首位権を認めていた[275][276][277][278]ので、1095年2月ロッキンガム教会会議では、教会に対する国王の干渉を強く非難した。これに対し、国王ウィリアム2世に忠実なイングランドの司教たちは、逆にアンセルムスに教皇への服従を放棄するよう忠告した[279][280]。つづくヘンリー1世は聖職叙任に関して教皇とアンセルムスに歩み寄り、1107年ロンドン協約を結んだ[* 106]。そこでは国王や俗人から聖職者が叙任されることは原則的に禁じられた一方、国王に対する臣従宣誓を理由として司教叙任を拒んではならないという規則が設けられた。これによってイングランド国王は教会に対する実質的な影響力を維持した。しかしながら、1114年のカンタベリー大司教選挙において、国王が推薦する候補が落選するなど、国王の教会政策に一定の疑問が投げかけられる結果をもたらした[282]。ヘンリー1世の跡を継いだスティーブン王の時代は混乱を極め、王は自らの権力を維持するために教会にあらゆる譲歩をしたが、その約束は果たされず、逆に国王と教会の対立は深まった。1139年に国王がソールズベリー司教ロジャーを逮捕投獄する事件が起こり、これを機にスティーブンは聖界の支持を決定的に失った。1141年ウィンチェスター教会会議で司教たちは、司教には国王を聖別する権利があると主張し、マティルダを「女支配者」 ("Domina Anglorum") として認めた[283][284]。スティーブン王の治世の間、イングランドは実質的な内乱状態にあったが、教会はその混乱の中で影響力を強め、王権からの相対的な自由を獲得した。

スティーブン王の死後、生前の約束通りヘンリー2世が即位してプランタジネット朝を開いた。新国王はイングランドの無秩序状態を収拾するため、法律を整備する必要性を感じ、裁判制度の改革に乗り出した。イングランドでは、ウィリアム1世時代に世俗の裁判所と教会裁判所が分離されており、聖職者は教会裁判所で裁くこととされていた。これは聖職者の特権と見なされていたが、国王裁判所では死罪に当たるような罪でも、教会裁判所では軽い罰で済んだために、獄吏を買収して剃髪して詐って聖職者を名乗り、刑を軽くするような法の抜け道が存在していた。ヘンリーは法の公正な執行のために、聖俗で刑罰が異なるこの法制度を改革することを意図し、クラレンドン法[* 107]を制定した。これに対しカンタベリー大司教トマス・ベケットは一度は不承不承認めたものの、のちに教会の権利を擁護して国王に反対した。長く追放された後、ベケットはイングランドに帰国するが、カンタベリー大聖堂で4人の騎士に殺害された。しかしこのことでベケットは殉教者として崇敬されるようになり、国王は逆に譲歩せざるを得なくなった。結局大逆罪に関する条項を除いてクラレンドン法のほとんどは破棄された。

中世の初期においては国王の強力な掣肘化にあったイングランド教会であったが、プランタジネット朝の開始時には大陸での教会改革の成果も取り入れ、王権に対して一定の独立を守ることが可能となっていた。しかし、一方でこの時代にカンタベリー大司教の首位権が徐々に確立され、イングランドにおぼろげながらも一つの信仰共同体が形成され始めたことは、後の国教会体制を準備するものであった[* 108]

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西ゴートの伝統、イベリア半島諸国[編集]

711年西ゴート王国が滅亡して後、イベリア半島はそのほとんどがイスラム教徒によって支配された。イスラム教徒の支配下では税を支払う代わりに西ゴート式の独自の典礼を維持したキリスト教徒たちがおり、彼らは「モサラベ」と呼ばれた。一方北部を中心にキリスト教国が残存していたが、その中でも山岳地帯に位置したアストゥリアス王国は最も積極的にイスラーム諸国に対抗した[286][287][288][289][* 109]アルフォンソ2世の治世後半にはアル・アンダルスから移住してきたモサラベの建言を容れて、西ゴート方式の宗教儀式を部分的に採用し、西ゴート王に連なる家系図を作らせ、アストゥリアスが西ゴート王国の継承者であるという「新ゴート主義[* 110]が成立した[294][295][* 111]アルフォンソ3世の時代になると、植民活動を活発化させ、教会堂の建設事業を積極的に行うなどキリスト教布教にも力を注いでいる[294][299][* 112]。つづくガルシア1世の時代に王国は首都をレオンへ移し、王国はレオン王国と呼ばれるようになった。レオン・ガリシア・アストゥリアスはそれぞれ別の王を戴きつつ、レオンのガルシア1世がそれらをまとめて緩やかな連合を形成した[* 113]。一方同時期のイスパニア辺境は弱小国家の集まりであり、イスラム教国に対抗することなど不可能で、アル・アンダルスとは友好的あるいは従属的な関係を結んでいた[304]ナバラ王国もその点は全く同様で、イスラム教国に対し友好的・従属的地位にとどまっていた[305]アラゴン伯領もいまだレコンキスタ精神からはほど遠い状態にあった[306]。一方のアル・アンダルスでは、後ウマイヤ朝アブド・アッラフマーン3世ハカム2世の宮廷は北部キリスト教国のみならず遠くビザンツ帝国神聖ローマ帝国からも使節を迎え[307]、ナバラ王国やレオン王国に遠征してこれを屈伏させた[308]

11世紀にはいると、サンチョ3世の下でナバラ王国が台頭した。王は巧みな婚姻政策でカスティーリャ伯領・レオン王国などの周辺キリスト教国を併合し、「イスパニア皇帝」を自称した[309][* 114]。その息子でカスティーリャ王国を相続したフェルナンド1世はレオン王国を併合(カスティーリャ=レオン王国)すると、南へ遠征し、後ウマイヤ朝滅亡後にアル・アンダルスに割拠したタイファ諸国を攻撃してによる貢納(パリア)を求めた [* 115]。しかし貢納金を支払わせるということは、逆にフェルナンドをしてこれらタイファ国を保護する義務を生じさせるものでもあった。フェルナンドとその息子のサンチョ2世はタイファ国の救援要請を受けて、これを攻めたキリスト教国と干戈を交えている[311][312][313]。フェルナンドの晩年にはいくつかのアル・アンダルスの都市を征服するなど「レコンキスタ」[* 116]的な行動が見られたが、同じキリスト教を奉ずる国々との戦争も頻繁に行われており、このころの軍事行動が宗教的動機を離れて行われていたことは注目に値する[314][* 117]

11世紀にはサンティアゴ・デ・コンポステーラが巡礼地として知られるようになり、フランス人の巡礼者を引き付けるようになった[* 118]。フランス人はクリュニー修道院の改革精神をスペインにもたらした。クリュニーは王権から寄進を受けてスペイン各地に修道院を獲得し、さらに新たな征服地の司牧を任せられるようになった。例えばアルフォンソ6世トレドを攻略すると、トレド大司教をクリュニー派のベルナール (en:Bernard de Sedirac) に任せた[317][* 119]。一方で改革派教皇はその首位権をイベリア半島に及ぼそうとし、「コンスタンティヌスの寄進状」を持ち出して西ローマ帝国の故地は教皇に捧げられていると主張した。これはカスティーリャ王国の「新ゴート主義」とは基本的に相容れないものであった。グレゴリウス7世がイベリア半島に首位権を主張した時、アルフォンソは「イスパニア皇帝」あるいは「トレド皇帝」を自称して牽制した[320][318][321]。アルフォンソはクリュニーに多大な寄進をすることで教皇権に対する防壁としてクリュニーを利用しようとした[322]。アルフォンソは他方、教皇やクリュニーの要求していた、モサラベ式典礼からローマ式典礼への移行には応え、イスパニアの教会改革を実施した。これによってイスパニア教会が独自の典礼を捨てローマへ一致する道は確定され、イスパニア教会史に一つの画期が訪れた。だが、1090年レオン教会会議西ゴート書体の使用が禁止され、カロリング書体が義務づけられたにもかかわらず、アルフォンソは西ゴート書体を使い続けた[323]

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スカンディナヴィアの改宗[編集]

9世紀まで、スカンディナヴィアにおいてキリスト教が大きな影響力を持つことはなかったが、キリスト教の信仰と典礼はこの地域にかなり早く波及していた[324]。その信仰は西ローマ帝国の滅亡以前に遡るものもあるが、8世紀に形成された北欧フランク王国などのキリスト教諸国との間の交易路が大きな影響を及ぼしたと考えられている[324]。8世紀の初頭にはイングランド修道士であったウィリブロード (Willibrord) によるフリジア地方への布教が知られており、彼はデンマーク南部のリベRibe)まで足を運んで、その地から30人の少年を連れ帰って教育し、彼らに現地語で布教させようとした[* 120][324]。また近隣のフランク王国は北方地域への布教を継続的に支援していた[324]

9世紀初頭にフランク王国はザクセン戦争の結果エルベ川以南のサクソン人を服従させ、改宗を強制した[324]。このことはサクソン人と境を接していたデーン人に脅威を抱かせ、デーン人を率いていたゴッドフリード (Gudfred) はフランク王国に抵抗するが、810年に政敵によって暗殺された[324]。彼の死後は息子たちが抵抗を続けたが、フランク王国との宥和政策を主張するハラルド (Harald Klak) が台頭して内戦となった[324]819年にフランク王国の支援を受けてハラルドが権力を回復すると、彼の支配領域で、ランス司教エボ (Ebbo) の主導によってキリスト教布教が開始された[325]。ハラルドの権力はつねに脅かされていたために、彼はフランク王国の支援を必要としており、826年、彼はマインツルイ敬虔帝の見守る中キリスト教へ改宗した[326]。彼はアンスカル (Ansgar) という修道士を伴ってデンマークへと帰還したが、1年後には追放された[326]。一方、829年にはスウェーデン東方にあったスウェーデン人 (svear) の王の要請でビルカにアンスカルが派遣された[326]。18年の歳月を要した彼の伝道活動は成功裏に終わり、ビルカの総督であったヘリガル (Herigar) を改宗させ、彼によって教会堂が建てられた[326]

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等族国家と公会議主義[編集]

アヴィニョン教皇庁
ゴシック建築を代表する。1316年にまず最初の建築がおこなわれ、クレメンス6世時代に増築された

グレゴリウス改革以後、西ヨーロッパ教会における教皇首位権は確立された。教権の伸長はこの時期さまざまな局面での教権の世俗の領域への介入につながったが、封建君主たちの激しい抵抗に遭い、一連の政治闘争によって教皇権の根拠に対して厳しい批判の目が向けられるようになった。

この時期封建制国家は、特にイギリスドイツで典型的に身分制秩序が発展し、身分制議会(これを等族議会という)が形成されるようになった。これは一方で貴族による王権の制限という形式を取ったが、同時に王権を中心とした王国単位での共同体を創設することにもなり、普遍的な世界の解体につながるものであった。このような身分制に基づく議会主義をとる国家を等族国家といい、ヨーロッパ中世後期に特徴的な国家様式であると考えられている。等族国家は西はブリテン島から東はポーランド、さらには聖地に作られた十字軍国家も同様の形態を取るが、その内実は地域によりかなり異なる。たとえばドイツでは大空位時代から諸侯の自立化が進み、カール4世の時代に金印勅書の制定によって国王の選挙制が確立された。重要な帝国法は帝国議会で決定されるのが常となり、典型的な等族国家を形成した。一方でフランスではカペー朝による王領拡大が諸侯領を破壊する形でおこなわれ、王国に対する国王の支配がより強力であったために、等族議会である三部会では当初から国王が主導的な役割を担い、国王の政策の道具として扱われる側面が強かった。

ともかくこのような等族国家は、各王国規模での政治社会を定着させることにつながり、中世的な普遍世界から絶対王政への橋渡しをする役割を担ったといえる。これは普遍的にキリスト教世界に影響を及ぼす教権の側から見れば、王国ごとに教会を分断しようとする動きとなり、危険なものであった。なぜなら皇帝権との対立が同じ普遍性の土台の上で戦ったものであったために教権の普遍性自体を疑うものではなかったのに対し、等族国家はまさに普遍性そのものを問題としたからである。ところでこのような代議制的統治の構造は、実に教会においてまず発展したものであった。そして教会においては教皇首位権に対する公会議主義の思想が展開されていくのである[* 121]

フランス王権との対立、「アヴィニョン捕囚」とガリカニスム[編集]
寡婦なるローマ
教皇不在のローマを象徴的にあらわした図。アヴィニョン捕囚は教皇に対する不満を増大させ、また「捕囚」されている事実それ自体が教皇権威の失墜を意識させるものであった

この時代、ドイツの皇帝にかわってフランス王権が台頭し、イタリアにも進出するようになり様々な局面で教権と対立するようになってきた。13世紀後半にフィリップ4世が即位すると、この国王と教皇の間で聖職者への課税権を巡って対立がおこった。教皇の側ではアエギディウス・コロンナが論陣を張り、一方のフランス王権を支持したのがパリのヨアンネスであった。ヨアンネスは聖職者は単なる精神的権威であるから世俗のことに関わるべきでないとして教皇の世俗への介入を批判し、一方で世俗国家を自然的社会の最高形態であるからその君主は教会による聖別を必要としないと論じた。

1302年にフィリップ4世は三部会を開いて等族諸身分の支持をとりつけ[* 122]、教皇ボニファティウス8世を捕らえてこれを憤死させた(アナーニ事件[* 123])。フィリップ4世はフランス人であるクレメンス5世を擁立すると、教皇庁をアヴィニョンに移転させた。以後70年間にわたり教皇庁はアヴィニョンにあってフランス王権の影響をうけることになり、この時代を教皇の「アヴィニョン捕囚」という。クレメンス5世の時代にはテンプル騎士団がフィリップ4世によって異端として告発され、クレメンス5世はこの異端裁判において教皇側のイニシアティヴを維持しようとした[* 124]が、結局はフランス王権に屈服し、ヴィエンヌ公会議ではっきりとした理由も示さずにテンプル騎士団の解散を宣言した。

このようにクレメンス5世はフランス王権の影響を強く受けており、グレゴリウス11世までの「アヴィニョン捕囚」期の教皇の立場は総じてクレメンス5世とあまり変わらなかった。カペー朝の断絶後、1337年百年戦争が始まるとフランスは徐々に戦争により疲弊し、相対的に教皇庁は自立性を強めた。「アヴィニョン捕囚」期は続く教会大分裂時代とともに概して教権の没落期・低迷期と考えられる時期であるが、一方で教会の司法制度[* 125]が整えられ、教権の教会法上における権限の上昇が見られた。

この時代にガリカニスムという主張があらわれた。ガリカニスムとは「ガリア主義」という意味で、ガリアとはフランスのことである。この主張はフランス教会の教権からの独立を説くもので、その契機と考えられるのは前述したパリのヨアンネスである。このガリカニスムはとくに16世紀以降法学者たちの間でさかんに論じられるようになり、やがてイエズス会などの教皇至上主義と激しく対立して民族主義に近づいていった。

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皇帝との対立、そして「金印勅書」[編集]
14世紀神聖ローマ帝国
この時代は代表的な家門の間で皇帝権の争奪がおこなわれていた。図中紫がルクセンブルク家の家領。図中オレンジがハプスブルク家の家領。図中緑はヴィッテルスバハ家の所領。このような家門どうしの皇帝権争奪に対して、教皇権はいずれかの候補を支持することで介入した

神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世はイタリア政策を積極的に進めようと皇帝代理をイタリアに派遣したが、このことがアヴィニョンヨハネス22世を刺激し、教皇はイタリアにおける自身の権益が脅かされているものと認識した。ヨハネス22世はルートヴィヒ4世が教皇による国王としての、あるいは皇帝としての承認を受けていないにもかかわらず、国王として、また皇帝として振る舞っているとして批判した。ヨハネス22世は以上の論法からルートヴィヒ4世が教皇に服従することを求めたが、ルートヴィヒ4世が応じようとしないので、これを破門した。これに対しルートヴィヒ4世は選挙に基づく王権の独立性を訴えた。彼に理論的根拠を与えたのはパドヴァのマルシリウスで、『平和の擁護者』を著して法の権威を人民に求め、教会の介入に対して政治社会の自律性を主張した。教皇首位権に対しても聖職者の平等を訴えてこれに挑戦する内容であった。

ルートヴィヒ4世は1327年にイタリア遠征に出発し、ローマに入城して1328年にはローマ人民によって戴冠された。カール大帝以来、帝冠は教皇によって戴冠されるものと考えられていたのに対し、この新式の戴冠は明らかに同行していたマルシリウスの示唆によるものだった。ルートヴィヒ4世はヨハネス22世の廃位を宣言し、ニコラウス5世を擁立した。しかしニコラウス5世は皇帝がイタリアを去ると、1330年にはヨハネス22世に屈服した。その後もルートヴィヒ4世はオッカムのウィリアムなどの有力な理論的神学者を用い、ヨハネス22世とその跡を継いだベネディクトゥス12世クレメンス6世との間で長い論争が続いたが、決着はつかなかった。

論争が続けられる一方、1338年に帝国法「リケット・ユーリス」が決議され、皇帝選挙の根拠が定められた。これは皇帝の位と権力が神に由来することを示し、選挙侯による選挙によって選ばれた者がただちに国王であり、皇帝であることを定めたもので、ドイツの国王位と神聖ローマ皇帝位に対する教皇の介入を徹底的に排したものであった。ルートヴィヒ4世の死後、ルクセンブルク家のベーメン王カールがカール4世として即位すると、金印勅書を制定して国王選挙権を7人の選帝侯に限り、さらにその選帝侯の権利はそれぞれの領国に結びつけられ、長子相続によることが定められた。これによりドイツ国王は教皇の承認を経なくても皇帝権の行使をおこなうことが可能となり、皇帝位がドイツ国王位と永久的に結びつけられたが、一方で選帝侯は領国内での無制限裁判高権、至高権、関税徴収権、貨幣鋳造権などの諸特権を獲得し、国王からの自立性を強めた。

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イングランド王権との対立[編集]

イングランド王権と教権はジョン王の時代にカンタベリー大司教の選任問題をめぐって対立した。カンタベリー大司教ウォルター1205年に死ぬと、その後継を巡って王とイングランド教会は別々の人物を後任としようとし、ジョン王は教皇インノケンティウス3世に仲裁を求めた。インノケンティウス3世はこの訴えに対し、王と教会両方を批判した上でスティーブン・ラングトンを大司教にするよう命じた。ところがこの決定にジョンは不満をあらわにした。というのもたとえば前任のウォルターの例をあげれば、彼はカンタベリー大司教であるとともに政治家でもあって、先代の国王リチャード1世が十字軍遠征に参加して不在の間、国内の政治をとって安定を守った。このようにカンタベリー大司教はイングランド国内にあって単なる宗教的権威にとどまらず、国王の重要な高級官僚としての役割も担っていたのであった。当時のイングランドにはカンタベリー大司教の選任には王の同意が必要であるという慣例[* 126]があった上、ラングトンはパリ大学出身の高名な神学者であったが、伝統的にイングランドのプランタジネット王家とフランスのカペー王家は対立関係にあり、フランスの大学出であることもジョン王には気に入らなかった。教皇はイングランドにおける全教会の聖務停止を科し、ジョン王は報復として教会財産の没収を命じた。この争いは1214年まで続けられ、結果イングランド王権は大司教選挙施行の許可権と選挙結果への同意権を確保したものの、ラングトンを大司教とすることを受け入れ、イングランド王が教皇の封臣となることを認めさせられ、さらに多額の賠償金を払うこととなった[* 127]

エドワード1世
ウェールズを征服し、スコットランドにも遠征してブリテン島におけるイングランドの優位を確立させた。積極的な外征とその成功によって支持を集める一方、内政においても「模範議会」に代表される議会制度の整備や立法制度、司法制度などにも進歩をもたらした。しかし晩年には課税を巡って教会や諸侯と対立するなど政治的には危機的状況を迎えた

このときジョン王の王権に対するイングランド諸侯の反発は最高潮に達し、マグナカルタを起草して王に承認を求めた。後述するマグナカルタの「保証条項」が王権の制限をもたらすことを危惧した王は直ちに拒否した。1215年5月5日諸侯は臣従誓約を破棄して反乱し、ジョン王は反乱諸侯の所領の没収を命じた。しかしロンドン市民が反乱に荷担し、彼らがここを拠点とするようになると、ジョン王は妥協を余儀なくされ、6月19日にマグナカルタが承認された。ところがマグナカルタは王権にとって不利であるだけでなく、教権にとってもあまり好ましいものでないことは明らかとなった。マグナカルタは伝統的に「保証条項」と呼ばれる箇所で、25人の諸侯が王国内の平和と諸自由に対して権利を持ち、責任を担うことを規定していたからである。このことはイングランド王が教皇の封臣となっていた当時、教皇権の裁治権を狭めるものであると考えられたからである[* 128]。教皇はマグナカルタを批判し、これに力を得たジョン王はマグナカルタを守らなかった。反乱諸侯はフランス王権に介入を依頼し、カンタベリー大司教など幾ばくかの聖職者もこれに荷担する様子を見せたので、いよいよ混乱が避けられぬかと思われた矢先に、1216年10月18日突然にジョン王は逝去した。息ヘンリー3世の即位にあたって、マグナカルタから「保証条項」が削除され、さらにこの修正版には摂政ウィリアム・マーシャルの印章と共に、教皇特使の印章が付与された。

一方でこの時期イングランド国内では議会制度が形成された。13世紀にはすでに大会議(グレート・カウンシル、"Great council")と小会議(スモール・カウンシル、"Small council")に分けられる封建的集会が存在し、裁判所としての役割をしていたことが知られるが、ヘンリー3世がわずか9歳で即位すると、小会議の役割が増大した。ヘンリー3世は成人して親政を開始すると、小会議に行政官やプランタジネット家の故郷である南フランス系の親族を参加させ、彼らを重用した。このことは諸侯との対立を招き、課税を巡って彼らと対立したためにヘンリー3世は一時的に妥協したが、税金が徴収されると結局は約束を破った。しかしヘンリー3世は一連の諸侯との交渉において何人かの固定した成員によって形成される常設の国王評議会(キングズ・カウンシル、"King's council")を認め、のちにこれが議会(パーラメント、"parliament")と呼ばれるようになった[* 129]。ヘンリー3世に不満を持つ諸侯がシモン・ド・モンフォールを中心に反乱すると、モンフォールは従来の成員のほかに各州より2名の自由民と各都市から2名の代表を集めて議会を開いた。結局乱は鎮圧され、これは定例とはならなかったのであるが、エドワード1世の時代、1295年の「模範議会 ("Model Parliament")」からは平民の代表が呼ばれることが規則となった。エドワード1世はこの模範議会で聖職者と平民に課税同意を求めたが、聖職者は教権に訴え、教皇ボニファティウス8世教皇勅書「俗人は聖職者に(クレリキス・ライコス、"Clericis laicos")」を発し、俗権の教会課税にはそのつど教皇の認可が必要であり、違反に対しては破門を持って応じるとしたので、エドワード1世の意図はくじかれた。

14世紀半ばのエドワード3世の時代になると、イングランド教会に対する教権の支配に対して国内の聖職者からの反発が強くなってきた。というのも前述したように、この時期教皇庁はアヴィニョンに遷移させられてイタリア半島にある教皇領は周辺勢力に浸食されて慢性的な資金難にあえいでおり、収入の一環として聖職売買をさかんにおこなっていた。とくにジョン王以来教皇の教会支配が強まったイングランドでは聖職売買によって地位を得た外人聖職者を受け入れざるをえない状況が続いていた。国王と議会は1351年に聖職者任命無効令を、1353年に上訴禁令を出してイングランド国内における教権と教会法の影響を排除しようとした。これは教権との政治上の駆け引きにおいて有効な武器として使われることもあったが、実際に行使されたことはなかった。

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教会大分裂と公会議主義[編集]
教会大分裂
青がローマ教皇庁支持。赤がアヴィニョン教皇庁支持。緑のポルトガルは当初アヴィニョン支持だったが、ローマ支持に転じた

教皇グレゴリウス11世は教皇庁をローマへ戻し、アヴィニョンの時代は終わったかに見えた。グレゴリウス11世の死後、教皇選挙でウルバヌス6世が即位することとなった[* 130]。ウルバヌス6世は当初官僚的で温厚な人物だと考えられていたが、即位すると枢機卿に対し強圧的になった。その結果フランス人枢機卿がまずローマを去り、イタリア人の枢機卿たちも結局はこれに従った。彼らはしばらく教皇と交渉と試みたが、埒があかないことを悟ると、一転してフランス王の甥にあたるクレメンス7世を選出し、アヴィニョンに拠った。ここにローマとアヴィニョンに2人の教皇、2組の枢機卿団が並立する長い教会大分裂[* 131]が始まった(1378年1417年[* 132]

ヨーロッパの主要国は一方の教皇を支持して分裂した[* 133]が、このことは民族を中心にまとまり始めた各国家の利害が教会の内部の問題にも介在するようになったことを示していた。事実両教皇の死後も教権の分立状態は解消されず、主にフランス王権と神聖ローマ皇帝権の意を受けたそれぞれの教皇が並び立つこととなった。ローマではウルバヌス6世が死ぬと、ボニファティウス9世が跡を継ぎ、アヴィニョンではクレメンス7世の死後にはベネディクトゥス13世が即位した。このベネディクトゥス13世はフランス教会への支配を徹底しようとして、パリ大学を中心とするフランス人聖職者の反発を招き、フランス教会のガリカニスムの傾向をますます強めることとなった。

このような混乱のなか、譲歩しようとしない両教皇の態度に業を煮やした両教皇庁の枢機卿団は、公会議を開いて新しい教皇を選任し、この分裂を解消しようという動きを取り始め、公会議派が形成された。公会議派は1409年ピサ公会議を開き、両教皇の参加を求めたが受け入れられなかった。この公会議で公会議派は両教皇の廃位を宣言し、新たにアレクサンデル5世を選出した。これに対し、ベネディクトゥス13世はペルピニャンで、グレゴリウス12世はチヴィタレでそれぞれ自派の公会議を開き、ピサ公会議の決定を受け入れなかったので、ここに3人の教皇が鼎立することとなった。アレクサンデル5世は1年後に亡くなり、そのあとはヨハネス23世が継いだが、この教皇の評判は芳しくなかった。

皇帝ジギスムント
教会大分裂の解消に熱心であった。図中右の鷲の紋章はドイツ王権を、左の双頭の鷲の紋章は皇帝権を象徴する。彼はローマ王として単頭の鷲を、皇帝として双頭の鷲を印璽で用いた最初の君主であり、以後慣習として定着した。また図中の双頭の鷲の頭には光輪が見えるが、これもジギスムントによって帝国の神聖さの象徴として書き加えられることが定められた

このときにあたって、ルクセンブルク家の皇帝ジギスムントは、教会の再統一に積極的な姿勢を見せ、ヨハネス23世を説得し、グレゴリウス12世の同意もとりつけて1415年コンスタンツ公会議を開いた。このコンスタンツ公会議ではイングランドとフランスが百年戦争中で長い対立の中にあったこともあって、国民的な単位に基づく異例の投票形式が採用された。すなわち公会議での決定は個人単位ではなく、イングランド・フランス・ドイツ・イタリアの4つの出身団(ナツィオ、"natio")によりおこなわれ、1417年からはスペインの出身団と枢機卿団[* 134]が加えられて投票権を持つ集団は6つとなった。公会議の途中で教皇ヨハネス23世は出奔し、公会議は召集権を持つ教皇を失って一時危機を迎えたが、公会議派が中心となって公会議の決定が教権に優越することが主張され、公会議は教令「サクロサンクタ ("Sacrosancta")」を発してその正当性を保持することに成功した[* 135]

しかし会議は難航した。フスなどの異端運動に対する問題や、教会改革を声高に主張する急進者と反発する保守派、そして国民間の対立や神学者同士の理論上の対立[* 136]が持ち込まれることもしばしばであった。さらに公会議に教皇の選任権があるのかという問題も紛糾した。とにかくこの公会議はさまざまな論争と政治的駆け引きに翻弄され、長引いたものの、鼎立した3人の教皇を廃位し、あらたにマルティヌス5世が選任されることで一致した。こうして教会大分裂は終わったが、一連の過程のなかでもはや普遍的であると信じられていた教会のなかでさえ、国民性が影響力を増していることが明らかとなった。教会大分裂の時代にもカトリック教会の統一が維持されたことは、普遍的な教会が未だ求心力を失っていなかったことを示しているが、国民的な単位を通して世俗の権力が教会に対する支配を強めたことは確かであった[* 137]

教会大分裂
主な教会会議 ローマ教皇庁 アヴィニョン教皇庁 公会議派
ウルバヌス6世 (1378-1389) クレメンス7世 (1378-1394)
ボニファティウス9世 (1389-1404)
ベネディクトゥス13世 (1394-1417)
インノケンティウス7世 (1404-1406)
ピサ教会会議 (1409年) グレゴリウス12世 (1406-1415) アレクサンデル5世 (1409-1410)
コンスタンツ公会議 (1414-1418) ヨハネス23世 (1410-1415)
マルティヌス5世 (1417-1431)
現在の教会史では、ローマ教皇庁の教皇(図の黄色)を正統として数え、それ以外の教皇は対立教皇としている。(M・D・ノウルズほか著、上智大学中世思想研究所編訳『キリスト教史4 中世キリスト教の発展』講談社、1991年などを参考に作成)

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王権の超自然的権威の獲得過程[編集]

中世を通じて王権キリスト教的な至上権から普遍的な支配権を主張する皇帝権・教権に対抗しうる神聖性、霊性を民衆の心性のうちに獲得しようとし、実際に王権はある種の霊威、あるいは超自然的権威を位置づけることに成功した。このような霊威は当初、偉大な王の個性に基づいて「一代限り」のものであると考えられていたが、徐々に世襲されるようになり、儀礼も備えて王権とそれを世襲する王家に一種のカリスマを付与することになった[* 138]。宗教的儀式によって、王は半聖職者的性格や奇跡的治癒能力を付与されると解釈され、王は聖職者に対しては優位性を主張しえたからである[327]。霊威は、王権が教権に対して一定の自立性を示す根拠となった[* 139]

イングランド、エドワード懺悔王の霊威[編集]

イングランドにおける国王の霊威をあらわす初期の例は、ノルマン朝ヘンリー1世によるもので、王はおそらく瘰癧患者にその手で触れることにより治療をおこなっている。この王権による瘰癧治癒能力は、おそらく後述するカペー朝がすでにおこなっていた瘰癧治療に対抗するためにエドワード懺悔王の説話を用いて設定されたもので、カペー朝の王権に対抗するためのものであったと考えられている。つづくプランタジネット朝の時代にはヘンリー2世がすでに瘰癧治療を「御手によって」おこなっているのはほぼ確かで、エドワード1世時代には治療を受けた者に王が施しをするのが明らかになっているので、会計記録からその集計を知ることができる。この瘰癧治癒の霊威の根源は国王が塗油され聖別されたことに由来するとされた。

エドワード2世のころから別種の奇跡、指輪の奇跡がイングランド王権の儀式にあらわれる。これは毎年復活祭直前の金曜日に、王がまず一定の金銀を寄進した上で、それを買い戻し、買い戻した元の寄進の金銀で指輪を作るという儀式で、こうして作られた指輪は痙攣やてんかんの病人の指にはめられると、病をいやすと考えられていた。この儀式では当初、寄進された金銀が聖性を帯びると考えられ、王権は直接に霊威の由来とはされなかったのであるが、テューダー朝ヘンリー8世のころには塗油された王権に由来するものと考えられるようになり、この時期にはすでに儀式において「買い戻し」の行為が省かれていた。指輪の奇跡は宗教改革の時代に批判に晒されるようになり、エリザベス1世によって廃止された。

一方で瘰癧さわりのほうはしばらく存続した。ステュアート朝初期には熱心に瘰癧さわりがおこなわれたが、オランダ人であったウィリアム3世はこの儀式に否定的で患者に触ろうとはしなかった。つづくアン女王は瘰癧さわりをおこなったが、ハノーヴァー朝以降全くおこなわれなくなった。

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フランス、聖マルクールの霊威[編集]
百合紋
フランス王家の紋章。14世紀半ば頃に百合紋を巡って一つの説話が作られた。"ある日、クローヴィスがコンフラとの決闘の準備をしている時に従者に甲冑を取りに行かせると、甲冑に普段の三日月紋にかわって、青地に百合が3輪描かれている。4度別の甲冑に取り替えさせるが、いずれも同様の百合紋がついている。そこでしかたなくこれを着て決闘するとクローヴィスは勝利を収めることができた。じつはこれはキリスト教徒であった妃クロティルドの計らいで、妃は百合紋を用いて決闘に向かえば勝利するであろうとの啓示を受けていたのだった"

フランスではカペー朝の初期、フィリップ1世がおそらく瘰癧さわりをおこなったと考えられている。フィリップ4世の時代にはフランス全土ばかりか、全西ヨーロッパ規模でこの「瘰癧さわり」は評判となっており、教皇領であるウルビーノペルージャからも治癒を求める民衆がやって来ていることが確認されている。また中世を通じて医学書に瘰癧の治療法としてこの「瘰癧さわり」が記述されていた[* 140]。一方でルイ6世の時代には王旗や王冠がカール大帝の伝承にむすびつけられ、カロリング朝とフランス王権の間に観念的な連続性を生じさせた。

フィリップ4世のころには、この瘰癧さわりがクローヴィスの洗礼に由来する[* 141]塗油された王の霊威によるものという観念があらわれている。そしてこの伝説はランス大聖堂にクローヴィス以来の聖香油が聖瓶(サント・アンブール)に保管されており、王の即位式で王は聖香油を塗油され聖別されるという観念につながった。

中世末期になると、この瘰癧さわりに別個の聖マルクールの瘰癧治療信仰が混入し、区別がつかなくなった[* 142]ヴァロワ朝フランソワ1世の時代には、王の瘰癧治癒能力がこの聖者に由来するという観念が一般化していた。フランス王はコルブニーにある聖マルクールの遺骨の前でミサをおこなう際に瘰癧さわりも施すようになり、それを目的として参集する病人が年々増大した。

フランスの「瘰癧さわり」はブルボン朝ルイ16世の時代まで熱心に続けられていたが、フランス革命が起こると王は神授権説とともにこの慣習も捨てることとなった。これ以降はシャルル10世の時代に「瘰癧さわり」の復活が試みられているが、王自身も否定的であったので1825年に一回おこなわれたのみでこれが最後の事例となった。

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教権の宗教的権威への挑戦[編集]

このような王権の超自然的権威はローマ教皇の宗教的権威、具体的には教皇勅書「唯一の、聖なる(ウナム・サンクタム、"Unam sanctam")」への挑戦であった。この教皇勅書はボニファティウス8世により出されたもので、教皇は世俗的領域と宗教的領域の両方で、至上権を有していることを述べていた。以後歴代教皇はこの勅書を基本的に踏襲し、教皇首位権を擁護する聖職者・神学者たちはこれをしばしば引用したばかりか、ややもすれば拡大解釈して教皇の特権を強調した。

王権の「瘰癧さわり」に関してはしばしば異端の疑いを受け、また宗教的権威において、教権に対しての王権の優位性を根拠づけることに成功したとは言い難いものの、中世の後期には民衆の間でこの慣習が広く受け入れられていたことは事実である。またこのような王権の超自然的権威が、一方で近代的な意味での国民的な感情に結びついていたことを見逃してはならない。[要出典]

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王の二つの身体(霊的王権から政治的王権へ)[編集]

中世前期、皇帝派の著述家たちはしばしば王が霊的な権能を有していることを主張した[* 143]。それに対し、教皇派の著述家たちは王権の聖職者としての性格を拒否した。王は純粋に世俗的で肉体的な自然的身体を持つ一方で、王として塗油された瞬間から他の世俗的権力者を超越する霊的身体を持つと考えられ、皇帝派によって大いに喧伝された[* 144]。教皇派は「王に対する塗油が、司教に対するものと違って、魂に何の影響も与えない」[* 145]として、前者の考えを否定した。

中世後期にいたると、王の霊的権能のほとんどは名目的な称号や役職へと退化していたが、それでも著述家たちは王が単に世俗的な支配者であるに留まるわけではないことを強調した。これには中世に発達した法学の影響があり[* 146]、王はあらゆる法的義務から超越し、正義の源泉であると考えられた。その過程において、王権は王個人と区別して観念されるようになった。法学者たちは、王には自然的身体と政治的身体の二つの身体があり、自然的身体は可死的な王の生まれながらの身体であるが、政治的身体は不可死かつ不可視で、政治組織や政治機構からなり、公共の福利をはかるために存在していると考えた[* 147]

清教徒革命時には王個人の行動が政治的身体である王権に反するものであるとして、議会の王への反抗が正当化された。彼らは「王 (King) を擁護するために王 (king) に対して闘え」と叫び、さらにチャールズ1世を「大逆罪」で処刑することもできたのである。

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カトリック大国、スペイン[編集]

16世紀に新しい大国が西ヨーロッパの政治舞台に登場した。イベリア半島スペインポルトガルである。両国とも盛んに海洋進出をはかり、新大陸・アジアなどへの航路を確保しながら広大な植民地を獲得していった。またこれらの地域への布教活動においても重要な役割を担った。ヨーロッパにおける教権との関係でいえば、スペインはとくに重要な個性としてヨーロッパ政治史に固有の位置を占めることになる。

王権によるスペイン教会の掌握[編集]
異端審問
ゴヤによる1815年ごろの作。異端を疑われた者は図のような高い帽子を被らされた

カスティリャ王国アラゴン王国の合同によって成立したスペインは、レコンキスタを完成してイベリア半島からイスラームの勢力を駆逐すると、国内の宗教的統一をはかるようになった。当初は征服地のイスラム教徒であるムーア人に信仰の自由を許していたが、彼らが反乱したのを理由に1501年、ムーア人に信仰を守って移住するか信仰を捨てて洗礼を受けるかの二者択一を迫った。またユダヤ教徒を国内から追放し、キリスト教に改宗したユダヤ人(コンベルソ)についても密かにユダヤ信仰を守っているのではないかという疑いをかけていた。

イサベル1世フェルナンド2世は、王国の安定のためには国内の宗教的統一が不可欠であると考え、教皇に要請して1478年スペイン異端審問所を設けた[* 148]。この異端審問所では当初から国王が全権を握り、スペイン教会における王権の影響力を高めて事実上教権からの自立を勝ち取ったばかりか、王権による国家政策の一環として政治目的にも利用されるようになった。さらに支配下のナポリ王国に教皇が領主権を主張すると、これに激しく反発して一時は教皇と断交寸前にいたった。つづくカルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)の時代にはサンティアゴ騎士団長の位が王家によって世襲されることを定め、国王は国内の宗教的権威と権限を掌握した。

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イベリア半島におけるキリスト教文化の興隆[編集]

この時代スペインではキリスト教文化においても大きな前進が見られた。具体的にはルネサンスの人文主義の成果が取り入れられ、先進的な神学校や大学などの教育機関がスペイン各地に設けられた。この時代のスペインのキリスト教アカデミズムを代表するのがメンドサシスネーロスである。

メンドサは1492年グラナダ攻略の際にスペインの首座大司教であり枢機卿であった人物で、宗教教育推進のためにキリスト教教育書を書いた。シスネーロスはアルカラ・デ・エナーレス大学を創設し、ここには当時の主要な神学、トマス派、スコトゥス派、唯名論などの講座が設けられ、ギリシア語ヘブライ語も学ぶことができた。さらにここでは聖書原典の編纂事業が行われ、『コンプルトゥム多国語対訳聖書』が著された。これらスペインでのキリスト教文化の発展は、人文主義に対する一定の寛容をもたらし、とくにエラスムスの著作はこの地域で大変な人気を博し、よく読まれた。このことはのちの宗教改革において、この地域での宗教改革派の影響が軽微に止まる原因の一つともなった。

ポルトガルでは、1554年イエズス会の手によって、エヴォラ大学が創設された。エヴォラ大学は、中世以来のコインブラ大学に対抗し、近代的な大学であったが、一方で科学の自由な知的探究を排し、講義はラテン語でおこなうなど現地語主義を抑圧した。

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中世の民衆信仰[編集]

中世を通じて、支配者や聖職者の知的な宗教世界とは別の次元で、民衆の間にも独自の信仰が展開されていた。このような民間信仰は民衆の日常生活や伝統的な世界観と結びつき、ときには集団的な様相を取って大きな宗教的運動に結びついた。ここではキリスト教がいかに中世のヨーロッパの一般民衆の生活に根付いていったかを概観する。[要出典]

魔術的な神から摂理的な神へ[編集]
王としての「キリスト」
フェルナンド・ガレゴによる15世紀の作品。紀元1000年ごろから、威厳を持った王の姿で表されるキリスト像が現れる

ゲルマン人の間にキリスト教が受容された当初、「神の全能」は多分に魔術的に解釈されていた。たとえばクローヴィスは妻クロティルドにキリスト教への改宗を薦められると、キリスト教の神が彼の戦勝に貢献するなら、信仰を受け入れようと約し、勝利を得た後に改宗した。これはゲルマン神話の戦争の神オーディンルーンを習得して魔法を使う魔術の神であったことを考えれば、魔術的な神への信仰としてキリスト教を見ていたことになる[* 149]中世初期には、聖職者はしばしば魔術的な力を持つと信じられた。聖職者は民衆から尊敬の眼差しで見られる一方、魔術師として恐れられ嫌われた。11世紀のデンマークでは、聖職者は天候に対して魔術的な力を持つと信じられ、天候不順であった際には迫害を受けた。13世紀フランスでは、ある村で疫病がはやった際に、司祭を犠牲にすることで村を救おうとした事例がある。11世紀のグレゴリウス改革において教会が排除しようとしたのは、王権の奇跡能力と、聖職者に対するこのような魔術的迷信であった。グレゴリウス7世は王や聖人の奇跡を否定する一方、デンマークで天候不順の際におこなわれた聖職者への迫害を非難している。

しかしながら中世を通じて、神の起こす奇跡は自然法則を超えることができると信じた民衆の心性は、ほとんど変わることがなかった。例えば王権の超自然的な奇跡能力への信仰は、中世後期にむしろ強められさえし、聖人への信仰は特定の奇跡と聖人を結びつけ特殊化する方向に進んだ[要出典][* 150]一方で民間信仰とは別個の次元で、教会は奇跡を神学的に論じ、神の摂理の合理的な体系の中に位置づけた。すなわち教会はある人物を列聖する際には、その人の起こした奇跡をその生涯と奇跡のあらわれ方から吟味して、聖人とするかどうかを決定するようになった。[要出典]

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新しい信仰形式、清貧、巡礼、神の平和[編集]

10世紀末ごろから、従来の信仰形式とは異なった、いくつかの大衆的な宗教運動が現れた。このころ従来の修道院とは異なった形で、よりイエスのあり方に近い修道生活を目指す運動がおこった。この運動の淵源は東ローマ帝国に近い、南イタリアのカラブリア地方のギリシア系修道士たちの生活に端を発し、南イタリアにイスラム教徒が攻撃を加えるようになると、彼らは難を避けて北上した。11世紀になると全ヨーロッパ規模で、この新しい運動に基づいた修道院設立が活発化した。とくに影響が大きかったのは13世紀に現れたアッシジのフランチェスコで、彼の清貧運動には在俗の多くの信者が共感し、ともに貧しい生活を営んだ。同時期に同様に清貧を唱えた異端のワルドー派も多くの在俗信者を獲得した。このように聖職者の貴族的な共同生活であった修道生活が、イエスの清貧という理想を通じて、民衆の間に広く受け入れられた。[要出典]

信徒たちの母として描かれた聖母マリア1445年ごろ)
12世紀西欧では、聖母信仰が流行した。聖母マリアのイエスを失うという悲劇的な体験が、イエスと贖いの苦しみを共有するものと観念されたからである。聖母マリアは普遍化され、「神の母」としてキリスト教社会のすべての信徒を包み込む存在とされ、厚く尊崇されるようになった[要出典]

またこのころ、聖遺物や聖人に対する信仰が高まり、各地に収められた聖遺物や聖人の故地への巡礼がさかんとなった。サンティアゴ・デ・コンポステーラや聖地エルサレムへの巡礼は大衆運動となった。のちには十字軍運動と結びついて、多数の信者が十字軍に参加したり、特に少年十字軍に代表されるように、自発的に大衆の十字軍が組織されたりもした。西ヨーロッパの交通網は11世紀までにまず聖地のネットワークとして形成され、徐々に定期市や港湾にネットワークを広げ、その拠点には金融市場が形成されるようになった。こうして成立した中世の交通網は古代のローマ帝国の街道網とはかなり異なったものであった[328]


10世紀末の南フランスでは、フェーデに代表される封建的な私闘を、破門を威嚇に用いることで抑制しようという「神の平和」運動が起こった。これは封建的私闘の悪弊から、農民の財産や労働、商人の活動を保護しようという意図をもち、平和攪乱者に対して破門を下すとともに、農民が武器を持って戦うことも正当化するものであった。この「神の平和」運動は11世紀前半には全フランスに広がり、やがてドイツにも伝播した。ドイツではこの平和運動に王権が積極的な役割を演じ、時期を限ってフェーデを禁ずるラント平和令を出した。このラント平和令はのちには永久化されて、中世的な自力救済に基づいた私刑主義を非合法化し、公権力を創出するものとなった。[要出典]

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キリスト像の変容と聖母信仰[編集]

キリスト教が西ヨーロッパ社会で広がっていく過程において、イエス・キリストとその母マリアのイメージも大きく変容した。[要出典]

まず紀元1000年ごろから「子なる神」イエスに対する関心が非常に高まり、とくに厳しい審判者として、あるいは威厳ある王としてのキリスト像が頻繁につくられるようになった。ところが12世紀ころから、今一度キリスト像に大きな変化が見られ、貧しく苦しみに満ち、貧者の味方である人間性豊かなイエスの像も数多く見られるようになった。このキリスト像を、その清貧の姿勢と聖痕の奇跡によって体現したのが、アッシジのフランチェスコであったといえる[329]

最近のカトリック教会による教義の明確化[* 151]にいたるまで、教義上は確固とした位置を占めなかった聖母についての数々の信仰もこの時代に成立した。まず12世紀ごろに聖母マリアも死後昇天したという「聖母の被昇天」信仰があらわれ、14世紀にはキリストを宿したマリアが原罪を背負っているはずはないとする「無原罪の御宿り」信仰があらわれ、激しい論争の種となった。聖母は「子なる神」イエス・キリストの母として、信者とイエス・キリストの間をとりなす特別の存在として尊崇を集めた。12世紀には祈祷文「アヴェ・マリア」が成立している。このような聖母マリアへの特別の尊崇は、ときに彼女をキリストの贖罪になくてはならず、贖いの補足者と見なす見解にもつながったが、教会は一貫してこの見解を斥けている[* 152]この聖母信仰は、のちに宗教改革派によって攻撃の的とされた。[要出典]

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宗教改革前思想史[編集]

宗教改革思想史的に言えば、突然に起こったものではなく、宗教改革諸派の思想は基本的に前代のさまざまな異端思想や人文主義思想と共通する点が多い。したがって宗教改革は思想面での革新性を示したというよりは、むしろ中世を通して堆積してきた政治状況に注意すべき点があるといえる。国家宗教の関係についていえば、これらの思想はこの問題を直接的に扱い、論じているものが多い。宗教改革を巡る政治状況については後述するが、ここでは思想史的背景から宗教改革の前思想ともいうべき様々な思想傾向を概観する。

近代思想の先駆(1):パドヴァのマルシリウス[編集]
イングランドの異端思想、ウィクリフロラード派
思想上の接点は必ずしも明確ではないが、ロラード派はイングランドの宗教改革運動にある程度の影響を及ぼしている

パドヴァのマルシリウスの『平和の擁護者』(1324年)は、しばしば近代的な人民主権理論の先駆として言及される。この著作においてマルシリウスは世俗社会に対する教会の介入を批判し、当時の皇帝ルートヴィヒ4世と教皇ヨハネス22世の間の論争において皇帝側を擁護する論陣を張った。

さて、マルシリウスが人民主権理論の先駆とされる理由は、法の強制力は公民の同意に基づくと述べたためである。つまり『平和の擁護者』において、強制力を持つ実定法こそが真の意味のであり、翻って実定法がなぜ強制力によってでも守らなければならないものであるかといえば、実定法がある時点で人為的に、公民の意志に基づいて制定されているからであるという論が示されている。支配者はこうして強制的に法を執行することが可能であるが、一方で人民に対して責任を持つ。

マルシリウスによれば、実定法である法には、次のような性格が明瞭である。

  1. 法の対象は外的な行為に対してであって、信仰などの内面に関わらない
  2. 神の法は窮極的な原因であるが、世俗の法には直接的に関わらない
  3. 国家における正義および利益の実現を目的とする
  4. 支配者の安全、統治の継続に資する

とくに 1. 2. については明瞭に政教分離の考えを述べている。

マルシリウスは教皇権の批判にも筆を進め、教会がキリスト教徒全体の共同体であるとし、そうであるならば、教皇権はキリスト教自体に全く根拠を持たない歴史的な産物であるとし、本来聖職者は平等であるべきで、教義の問題は教皇ではなく公会議によって決めるべきだとした。このマルシリウスの主張は公会議主義の有力な根拠となった。

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近代思想の先駆(2):ブリテン島の科学主義、唯名論の系譜[編集]

12世紀から13世紀にかけてスコラ哲学は完成に向かい、それはトマス・アクィナスによって一応なされたのであるが、そのトマスと同時代のイングランドでは、オックスフォード大学を中心として、すでにスコラ哲学の解体へと向かう運動が始められつつあった。14世紀に入ってからの後期スコラ学の時代には、パリ大学ではアヴェロエス主義[* 153]的な傾向が強まったのに対し、オックスフォード大学では、すでにアリストテレスに基づいた論理や概念は必ずしも尊重されず、より正確な論理的方法や概念が探究されるようになり、経験主義的な傾向が強まった[要出典]

オッカムのウィリアム
唯名論に基づいた著作が異端とされ、1328年破門されると、ルートヴィヒ4世のもとへ逃亡し、『教皇権に関する八つの提題』を著して教権を攻撃した。このなかで注目されるのは聖書の啓示を万民に許されているという思想で、のちの宗教改革を先取りしている

オックスフォード大学における経験主義の先駆としてはロジャー・ベーコンがまず挙げられる。彼はトマス・アクィナスの同時代人であるが、アリストテレスを信じず、それに依拠しないで自ら実験して数学的な知識に基づいて研究し、錬金術も行った。ベーコンによればトマス・アクィナスのような神学は、経験的でないから学問に値しないものであった。

ベーコンの半世紀後に登場したドゥンス・スコトゥスは、ベーコンとは逆に、トマス・アクィナスが演繹的でないという批判を行った。スコトゥスによれば学問とは必然的で論理的な内容を持つものであるべきで、神の問題は厳密に言えばこのような論理的な積み上げによって得られる知識ではないから、神学が学問の中心的分野になることはおかしいとして、トマスの「神学は哲学の婢」という考え方を批判した[要出典][* 154]

オッカムのウィリアムはドゥンス・スコトゥスの考えを発展させ、普遍的なもの(抽象)は名辞によってしか知られず、事物の本質はそれぞれの個体(具体)に存するという考えを唱えた(「唯名論」)。これはつまり「人間という観念がまずあって、それを基に個々の人間が存在する」のではなく、「無数の人間がまずあって、それらの共通点を抽象化したのが人間という観念である」という考え方である。この考えを拡張すると、この世界が合理的な秩序に基づいているという神の摂理を主張する立場が否定され、神の秩序なるものは、所詮神が個々に命じた個別的な意志の集積に過ぎないとする考え方に到達する。これはジャン・カルヴァンの「神中心主義」に近い考えである。[要出典]

さらにオッカムのウィリアムは前述のパドヴァのマルシリウスと同じくルートヴィヒ4世に仕えて、反教権論を展開したのであるが、その思想はより原理主義的で、のちの社会契約説を先取りしている面がある。パドヴァのマルシリウスがアリストテレスに基づいて、国家を家族から発展した自然の共同体と見ているのに対し、オッカムのウィリアムは国家以前の自然状態を論じ、公共の福祉、共通善の実現のために契約によって国家が成立したのだと論じた。オッカムのウィリアムはさらに、マルシリウスにおいては不徹底であった人民主権的な考え方をより鮮明に打ち出し、国家が契約に基づくのであるから、立法には公民全体が参加すべきであるという考えを説いた。そして、オッカムのウィリアムは自身の理想とする政治社会のアンチテーゼとして現実の教会を批判した。教会においては教皇が異教的なローマ皇帝の制度に依拠して、本来は万民に開かれているべき権限を独占し簒奪している。神の啓示は本来聖書の中に記されているはずなのに、教会や教皇はそれらをみだりに読むことを禁じ、信徒から遠ざけている。本来であれば聖書を読める者なら誰でも、神の啓示に参加できるはずである。オッカムのウィリアムの考えは宗教においてもマルシリウスよりラディカルであり、公会議主義にも否定的である。彼によれば公会議もやはり教会という限られた共同体の聖職者に限られ、信徒全体に依拠するものではないから不完全である。[要出典]

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改革運動の先駆(1):ウィクリフ[編集]

しばしば宗教改革の先駆として引用されるウィクリフは、オックスフォード大学に学んだイングランド神学者で、1374年ころからイングランド王権と教皇庁の課税権を巡る論争に現れ、イングランド王権を擁護する主張を繰り返すようになった。ウィクリフの主張は課税権にとどまらず、やがて教皇の聖職叙任権にも向けられ、さらには教会は布教に必要最低限の財産しかいらないと述べて、教会財産の没収にまで言及するようになった。教会はウィクリフを異端審問にかけたが、王権や民衆の側から圧力が加えられ、ウィクリフは解放された。

こののちウィクリフは教義の批判に進み、アウグスティヌスに基づいて予定説を唱えた。彼は真の教会が目に見えないもので、あらかじめ救済が予定されている者によって構成されているのに対し、可視的な教会はすでに堕落しており、聖書のみに基づいたキリスト教の原始的な信仰に戻るべきだと説いた。

1384年にウィクリフは死ぬが、そののちコンスタンツ公会議1415年異端とされ、死体が掘り起こされて焼かれた。ウィクリフの教えに従って聖書を尊重するロラード派(あるいはロラーズ、"Lollards")という一派を生み、一時はオックスフォード大学などを中心に広まったが、のちに徹底的に弾圧された[* 155]。彼の思想は直接的には次のフスにつながり、宗教改革やイングランドのキリスト教解釈にも影響を及ぼした。[要出典]

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改革運動の先駆(2):フス[編集]
エラスムス
16世紀前半にヨーロッパで広汎な影響力を持った人文主義者。中世を通じて教会が聖書解釈を独占していたが、エラスムスは独自のギリシャ語新約聖書を出版し、大変な人気を博した。ルターによって宗教改革が始まると、予定説と領邦教会制を批判し、人間の自由意志と全ヨーロッパ的なキリスト教共同体を擁護した。彼は領邦教会制がキリスト教の世俗権力への従属に他ならないことを批判し、ヨーロッパに平和がもたらされるためには全ヨーロッパ的なキリスト教共同体が不可欠なことを主張した。彼は信仰の自由、聖書解釈の自由、キリスト教徒の平和共存を説いたが、宗教改革が激化するとプロテスタント・カトリック双方から槍玉に挙げられるようになった[要出典]

フスは貧しい農民の出身で、オックスフォード大学で勉強し、のちにプラハ大学の教授となった。フスはウィクリフの思想に影響されて個人の信仰を重視して教会を否定的に考えるようになった。

神聖ローマ皇帝カール4世の時代にボヘミアは文化的な隆盛を迎えた。この統治者のもとでプラハは独立の大司教区となり、プラハ大学を創設した。プラハ大司教や高位聖職者はカール4世の後ろ盾になり、宮廷で行政に携わったが、のちにこのような一部の聖職者に富が蓄積される傾向が、世俗貴族や下級聖職者の批判するところとなった。このころのボヘミアでは少数でありながら影響力の大きいドイツ人移民と土着のチェック人の間で対立がおきており、その構造はプラハ大学でも同様で、ドイツ人の同郷団[* 156]は3つあったのに対し、チェック人のは1つしかなかった。またチェック人の同郷団はウィクリフ派であったが、残りの同郷団は反ウィクリフ派であった。このことがしばしばプラハ大学でも大きな分裂を引き起こしたが、1409年に皇帝ヴェンツェルはドイツ人の同郷団が皇帝の意向に背いたために、勅令を出してチェック人の同郷団を優遇すること[* 157]とし、これを不満に思ったドイツ人学生はライプツィヒに移住し、ライプツィヒ大学が分離した。そしてライプツィヒのドイツ人はフスを異端だとして突き上げた[要出典]

フスは破門を宣告されるが、ボヘミア王の支持のもとで反教権的な言説を説き、贖有状を批判し、聖書だけを信仰の根拠とした。またウィクリフに従って予定説を論じたが、ウィクリフとは異なって聖職位階制に対しては否定しなかった。ヴェンツェルの弟で、皇帝であったジギスムントはこの宗教問題を平和的に解決しようとコンスタンツ公会議に出席するようフスを説得し、教皇も破門を一時的に留保したのでフスは公会議に参加した。しかしこの公会議でフスは異端と宣告され、火刑に処された。フスが死んだとはいえ、ボヘミアではフスの人気は根強く、貴族たちの間では反カトリックの同盟が結成された。

ヴェンツェル死後にジギスムントがボヘミアを相続することになると、ボヘミアのフス派はいよいよ反抗的になり、皇帝はボヘミア征服のために十字軍を結成しフス戦争がおこった。フス派はヤン・ジシュカ率いる急進的なターボル派英語版を中心としてジギスムントの十字軍を何度も撃退し、一時は一方的に国王の廃位を宣言してフス派のボヘミア国家を事実上実現させるなど大いに盛んとなった[* 158]が、やがてフス派の穏健派が中心となって皇帝と和解し、皇帝を国王として認め、バーゼル公会議でカトリック教会に復帰した。しかしボヘミアは以後もカトリック教会においてほとんど独立した状態を維持していた。[要出典] 戦争の影響で教会や修道院が大きく衰退し、聖職者は議会において影響力を失い、ボヘミアの議会は貴族と都市市民が参加する世俗的な身分制議会を形成することとなった。またドイツ人が多く域外へ脱出し、チェック人の勢力が強まり、チェコ語の礼拝が重視されるようになった。[要出典]

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人文主義の宗教観:エラスムス[編集]

エラスムス15世紀末から16世紀前半にかけて、ヨーロッパに最も影響を及ぼした人文主義者の一人であった。エラスムスはパウロの「ローマの信徒への手紙」に影響を受け、聖書を自ら再検討しようと考え、ギリシア語を学んで『校訂ギリシア語新約聖書』を著した[* 159]。これは印刷術の進歩による後押しもあって当時広汎な地域に流通し読まれた[* 160]

エラスムスは教会の腐敗と信仰における聖書の重視を訴え、教会が聖書解釈を独占しようとして一般信徒に聖書を調べることをしばしば禁じていることを批判し、一般信徒が理解しやすい自国語で聖書に書かれた福音を聞くことがキリストの御心に沿うものであることを主張した。この面でエラスムスはのちの宗教改革者と同じ平面に立っていたが、彼は教皇首位権の普遍性を疑っておらず、また宗教改革派が世俗権力と結びつく傾向を見て、これを公然と批判するようになった。またエラスムスとルターの教義解釈において、決定的な相違点としては自由意志の問題がある。ルターは「ローマ信徒への手紙」とアウグスティヌスに影響されて予定説に基づいた信仰義認説にいたったが、そこではただ「信仰のみ」が救いに至る道であるとされたのに対し、エラスムスは大部分の人文主義者と同じように信仰における自由意志を信じていた。ともかく両者はこのように、教会の腐敗への批判と聖書の重視という点では一致していたが、その教義上の立場も政治上の立場も全く異なるものであった。

エラスムス自身は教会の普遍性を信じ、カトリックプロテスタントの統一に尽力したが、エラスムスの死後に宗教改革がますます激しさを増すと、当初は広汎に聖職者の支持を集めていたかに思えた[* 161]彼の著作が宗教改革派との共通点を指摘されて、1546年トリエント公会議で禁書処分にされた。[要出典]

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近代社会とキリスト教(1500年〜1800年)[編集]

ルター
「95カ条の論題」を発表[* 162]して贖有がもたらす宗教的危機を指摘した。これは当初の予想をこえて教義論争に発展し、1520年にルターは三大文書、『教会のバビロン捕囚』『キリスト者の自由』『ドイツ国民のキリスト教貴族に与える書』によって改革の理論と実践を固めた。とくに『ドイツ国民のキリスト教貴族に与える書』で諸侯に、その職務に基づいて改革運動に加わるよう呼びかけたことは、ドイツ国内の政治問題への宗教改革の関与を規定することになった

宗教改革は純粋に宗教内での問題から出発したにもかかわらず、すぐに世俗的問題と結びついて近代国家の成立を基礎づけたばかりか、近代思想にも影響を及ぼした。宗教改革が主権国家を単位として宗教生活を規定する方向に進んだことは、普遍的なキリスト教世界に立脚していた一つの教会という理念を破壊し、教権の基盤を脅かした。近代にはいると、すでに教権は各主権国家に対して優位性を主張することができなくなり、今日まで続く国民を単位とした政治社会が形成される。一方、思想面においては内面の自由、良心の自由が確立され、近代政治思想における基本概念の一つとなっていった[要出典]

宗教改革(プロテスタント側から)[編集]

1517年アウグスティノ修道会士であったルターによって「95カ条の論題」が発表され、宗教改革が開始された。発表当初は贖有状を巡る僧職どうしの内輪もめと世間に受け取られていたが、やがて教皇首位権が主要な争点になると、人文主義者も続々この論争に関与するようになった。[要出典] 神聖ローマ皇帝カール5世エラスムス派の人文主義者、穏健的なカトリック聖職者の姿勢はこの論争に際して宗教の統一を重視し、プロテスタントカトリックの歩み寄りを期待した。実際両陣営において当初から妥協と和解が不可能ではないことが認識されており、教義においてはルターの思想がカトリック的であることは当時も後にも様々な局面で指摘された[* 163]。一方教皇クレメンス7世とその後継者パウルス3世はプロテスタント側への歩み寄りが教皇首位権の破壊につながることを警戒して和解を拒否し、カール5世を警戒してドイツの分断を狙うフランス王、バイエルン公もこれに同調した。ルター派の側もザクセン選帝侯などが政治的理由から硬化した態度を取り、ルター派の基盤が形成されると当初は寛容的な態度も持っていたルター自身も非妥協的になった。かくして宗教改革は教義の問題をこえて政治問題と化した。[要出典]

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ドイツの領邦教会制度[編集]

当初はごく限定的な教会の腐敗の問題、あるいは教義上の問題から出発した宗教改革は、その影響が広汎にわたるとともに政治的な傾向を強くした。具体的には宗教改革はまず教皇首位権への挑戦という宗教内の政治的問題に変容し、さらにドイツ国内の皇帝権に対する諸侯の自立を求める、極めて直接的な政治問題に転化した。この問題は三十年戦争の直接的な原因ともなるのであり、ドイツが長い分断国家となる契機の一つが宗教改革に求められる[要出典][* 164]

シュマルカルデン戦争[編集]

1530年カール5世はアウクスブルクに帝国議会を招集した。この議会では両派の歩み寄りの努力がされたが、結局決裂した。さらに同議会ではルター派から「アウクスブルク信仰告白」が提出されたが、ツヴィングリやシュトラースブルクなどの改革派4都市が独自の「信仰」を提出し、プロテスタント内部の宗派分裂も明らかとなった。議会ではカトリックが優勢を占め、最終的決定は翌年の議会に持ち越されたものの、カール5世はルターを帝国追放刑にしプロテスタントを異端とする1521年のヴォルムス勅令を暫定的とはいえ厳しく執行するよう命じた。[要出典]

アウクスブルク帝国議会(1530年
この議会ではプロテスタントとカトリックの歩み寄りが期待されていたが、結局はカトリック側の主張がほぼ一方的に認められた形となった

これに対してプロテスタントの帝国諸侯・諸都市はアウクスブルク帝国議会直後にシュマルカルデンに集まり、軍事同盟結成を協議し、翌1531年2月にヘッセン方伯とザクセン選帝侯を盟主とするシュマルカルデン同盟が結成された。宗教戦争が一触即発に迫ったが、カール5世は妥協し1532年にニュルンベルクの宗教平和によって暫定的にプロテスタントの宗教的立場が保障された。この宗教平和を境にプロテスタントは勢力を一気に拡大した。南ドイツのヴュルテンベルク公領では、プロテスタントであったために追放されていたヴュルテンベルク公ウルリヒが1534年に復位し、北ドイツでも同年ポメルン公、1539年にザクセン公とブランデンブルク選帝侯がプロテスタントに転じた。西南ドイツではルター派とは異なる改革派信仰が広がっていたが、教義上の問題で妥協しプロテスタントの政治勢力は統一性を持つようになった。カトリック諸侯の側もニュルンベルクで同盟を結成し、プロテスタントに対抗した[要出典]

カール5世は対外的な事情から情勢を黙認していたが、フランスとの講和がなると一転ドイツ国内の問題に専心するようになった。1546年にはルターが死亡し、同年ザクセン公が選帝侯の地位を条件に皇帝支持に転じた。それ以前にヘッセン方伯も重婚問題からカール5世につけこまれ、政治的に中立を守らざるをえなくなっていた。自身に有利な条件が整ったと感じたカール5世は同年シュマルカルデン戦争をおこし、シュマルカルデン同盟を壊滅させ、翌年のアウクスブルク帝国議会ではカトリックに有利な「仮信条協定」が帝国法として発布された。皇帝は西南ドイツの帝国都市のツンフトが宗教改革の温床であると考えてこれを解散させるなど強硬な政策を実施した。カール5世の強硬な政策を見て、徐々にカトリック諸侯も反皇帝に転じ、息子フェリペにドイツ・スペインの領土と帝位を継承させようとすると、ますます反発を招いてカール5世は孤立した。[要出典]

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アウクスブルクの平和令[編集]
アウクスブルク宗教平和令
1555年マインツで印刷された版本の表紙

このような情勢の中、ザクセン公は再び反皇帝・プロテスタントの側に転じ、1552年諸侯戦争がおこるとカール5世は敗北し、パッサウ条約によって「仮信条協定」は破棄された。この敗北からカール5世は弟のフェルディナントに宗教問題の解決を任せ、1555年のアウクスブルク帝国議会で、アウクスブルク宗教平和令が議決された。この平和令により「一つの支配あるところ、一つの宗教がある ("Cujus regio, ejus religio")」という原則のもとに諸侯が自身の選んだ信仰を領内に強制することができるという領邦教会制度が成立した[要出典][* 165]

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スイス盟約者団と福音主義[編集]

ドイツルターによって宗教改革の火蓋が切られた頃、スイスでもほぼ同時にツヴィングリによって福音主義的改革が進行していた。ツヴィングリは改革の半ばで戦場に斃れ、その事業は頓挫したが、ジュネーヴカルヴァンが現れ、より厳格な改革を実行した。当初は非常に非寛容で妥協を許さなかったカルヴァン主義であるが、各国で政治権力により迫害を受けるようになると、「寛容」を主張して変貌し、ずっとのちに近代的な政教分離の主張へとつながっていくことになる[330]

スイス盟約者団の歴史的経緯[編集]

スイスの建国神話として今日一般にヴィルヘルム・テルの物語が知られるが、これはスイスの国民意識が高まった15世紀中ごろに世に広まりはじめたものであると考えられている[* 166]今日では、スイスの国家統合は14,15世紀を通じてスイス周辺の状況のなかで徐々に進行したと考えられており、当初の盟約はあくまでラント平和令の延長線上に、域内でのフェーデの制限・禁止を目的としたものであった。[要出典]

12世紀末ごろまでは神聖ローマ帝国辺境の隔絶された山田舎に過ぎなかったスイスは、13世紀の初め頃に南北に貫通する街道が開通すると、一転交通の要衝となった。このことによりスイスは、近隣に支配を拡大しようとしていたハプスブルク家と戦略的価値を重視する皇帝の争奪の的となることとなった。1231年皇帝フリードリヒ2世によってドイツ統治を任されていたハインリヒウーリ地方に証書を発給し、この地方を帝国直属の地位とした[要出典][* 167]。{{要出典範囲|date=2017年3月|1239年には同じくシュヴィーツ地方も帝国直属の地位を獲得した[* 168]14世紀初頭にはウンターヴァルデン地方も帝国直属を獲得しているのが確認される。これ以前の1291年にはすでにこれらの三者は盟約を結んでいた[* 169]

1314年冬、放牧地を巡る争いからシュヴィーツがアインジーデルン修道院を襲撃すると、これを口実にハプスブルク家のフリードリヒ美王1315年11月15日大軍をもって侵攻したが、モルガルテン山からの奇襲攻撃によって敗北を喫した(モルガルテンの戦いドイツ語版英語版)。この直後の12月9日盟約が更新され、盟約者団はさらに結束を強化した。こののち14,15世紀を通じてハプスブルク家との戦いが続くが、近隣の邦や都市が徐々に同盟の形で参加した。1499年、皇帝マクシミリアン1世がスイス盟約者団に奪われたハプスブルク家の古領を回復しようと戦争を仕掛けたが(シュヴァーベン戦争ドイツ語版英語版)、盟約者団はこれを撃退し、この勝利により事実上神聖ローマ帝国から独立した[* 170]1513年アペンツェル同盟において13州の形となり、今日のスイスの基本的な国家枠組みの基礎となる十三邦同盟体制が確立され、この体制が1798年まで維持されることとなる[* 171]

長期の軍事的緊張を乗り越えたスイスは、ヨーロッパ有数の軍事力を持つ国家となっていた。強力な軍事力を頼んでスイスは当時のイタリア戦争に介入し、1513年のノヴァーラの戦いフランス語版ドイツ語版英語版でフランス軍を大敗させ、ミラノを中心とするロンバルディア地方に覇権を確立したかに見えた。しかし1515年ルイ12世が没し、フランソワ1世が登位すると、同年のマリニャーノの戦い英語版で盟約者団はこの若き王に敗北し、南方へ向けての膨張の夢は潰えた[要出典]

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スイスの宗教改革(1):ツヴィングリ[編集]
ツヴィングリ
チューリヒのリマト川の岸辺に立っている。右手には聖書、左手に大剣、兜を被り、説教服の下は鎧で武装している

1518年12月の末からチューリヒの教区司祭・説教者となっていたツヴィングリは、1519年初頭からマタイによる福音書の説教を開始した。これがスイスにおける福音主義的改革の幕開けとなる。ツヴィングリはエラスムスを通じて、キリスト教を原典から学ぶことの重要性を認識していた。そのためこのマタイ連続説教においてはヴルガタを使用せず、エラスムスの『校訂ギリシア語新約聖書』を使用した。やがて彼の周囲に新しい福音理解に共鳴する信奉者が集まるようになり、旧来のカトリック的信仰理解を堅持する者たちとの間に徐々に疎隔が生じていった。ドイツの広大な領邦に比べて狭小な地域共同体であるカントン[要出典][* 172]の内部での対立は、たちまち先鋭化した。

1522年3月、受難節断食期間が訪れた際、ツヴィングリ支持者は集まって乾いたソーセージを切り分けて食し、「聖書のみ」の考えを実践した[* 173]。さらにその10日後、ツヴィングリは「食物の選択と自由」の説教をおこない、これに対しチューリヒ市参事会は支持を表明し、チューリヒはツヴィングリの福音主義の拠点となった。そして、ツヴィングリは『最初にして最終的な弁明の書』をコンスタンツ司教に宛て、明確に「聖書のみ」を規範とすべきことを表明した。ツヴィングリ派とカトリック派の対立は激化し、市内での武力衝突の危機も迫ったので、チューリヒ市参事会は最終的な決定を下すべく、1523年1月29日にカトリック側聖職者を迎えて公開討論を開催することとなった。ツヴィングリは公開討論のために自らの信仰を明らかにするため、『67カ条の提題』を公表した。この文書の中でツヴィングリは「聖書のみ」の原則を表明し、聖書に根拠がない教皇制度や祝祭日・修道制・独身制・煉獄を批判した。一方で教会の監督は信徒の集まりが行うべきであるとし、市参事会による宗教の管理を暗に正当化していた。さらに社会倫理について『神の義と人間の義』の説教をおこない、これによりこののちのチューリヒにおける改革の枠組みが定まった。すなわちチューリヒでの改革は都市共同体という政治秩序の積極的な関与の下におこなわれるのである。[要出典]

1524年6月には市内全域から聖像画聖遺物ステンドグラスが取り除かれ、12月には修道院がすべて閉鎖されて資産はカントンに接収された。そして1525年3月の復活節を境に、ミサは完全に廃絶され、替わって福音主義の聖晩餐が導入された。また同年6月には福音主義の司祭養成のためにカロリーヌム[* 174]が開設された。こうしてスイスにおける福音主義の橋頭堡は着々と固められた。

しかしながらこの時点では、スイス内での福音主義の孤立は明らかであった。ウーリ・シュヴィーツ・ウンターヴァルデンなどの保守的なカントンはカトリック信仰に揺らぎはなく、福音主義に染まったチューリヒに対して旧来の信仰への復帰を求め、チューリヒを異端と断じて盟約からの追放を宣言した。しかし1528年1月に有力なベルンが福音主義に転じ、1529年2月にはバーゼルで民衆蜂起が起こり、こちらも福音主義に転じた。さらに盟約者団の外部であるが、近隣のザンクト・ガレンコンスタンツでも福音主義が影響力を増し、福音主義のカントンと軍事同盟を結んだ。これを見てカトリック派のカントンも宿敵であったはずのハプスブルク家も巻き込んで軍事同盟を結成し、両者は同年6月、カッペルの野で対峙した(第一次カッペル戦争)。一触即発の危機が迫ったが、ここで両者は歩み寄り、「現状維持」を約束して和睦した(第一次カッペル和議)。すなわち、福音主義に転向したカントンはその信仰を認められるが、カトリックのカントンへの布教を許されず、その逆も然りとされたのである。ここに信仰の「属地主義」、「一つの支配あるところ、一つの宗教がある ("Cujus regio, ejus religio")」が認められ、スイスは他のヨーロッパ諸国に先駆けて改革派とカトリックの共存する地域となった。[要出典]

第二次カッペル戦争
ツヴィングリ率いるチューリヒ市民軍は圧倒的な人数のカトリック軍を迎え撃った。この乱戦の中ツヴィングリは戦死した。1548年に描かれた図版

第一次カッペル和議はスイスに平和と安定をもたらしたかに見えたが、ツヴィングリは現状維持に不満で、福音主義の宣教を軍事的拡張によってでも実現すべきと考えるようになっていた。一方ドイツではルター派は皇帝の圧迫を受けて存亡の危機が迫っていたため、同盟者を必要としていた。ここにルターとツヴィングリの利害の一致点があり、1529年10月、ヘッセン方伯フィリップの斡旋により、マールブルク城で会談が開かれ、ルターとツヴィングリの間で軍事同盟と教義の一致が検討された。この会談において、両者の教義の多くの点で一致を見たものの、最終的には聖餐理解を巡って鋭く対立し[* 175]、物別れに終わった[要出典]

ツヴィングリはその後も強硬にカトリック諸州の軍事的制圧を主張したが、ベルンをはじめとする同盟諸邦の賛同を得られず、ベルンの提案にしたがってカトリック諸州に対し経済封鎖が実施されるに留まった。この経済封鎖によりカトリック諸州はたちまち困窮したため、軍事力に訴えざるをえなくなり、1531年10月4日カトリック諸州はカッペルに再度進軍し(第2次カッペル戦争ドイツ語版英語版)、これに対してツヴィングリは自らチューリヒ市民軍を率いて邀撃した。このときカトリック側8000に対し、チューリヒの市民軍は数百に過ぎず、乱戦のさなかツヴィングリは戦死した。

しかしその後ベルンを核とする福音主義派は反撃し、第一次カッペル和議をほぼ踏襲した第二次カッペル和議が締結され、スイスにおける宗教の属地主義が再確認された。スイスにおける福音主義は後継者ブリンガーに受け継がれ、カルヴァンの登場を待つこととなる。[要出典]

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スイスの宗教改革(2):カルヴァン[編集]
ジュネーヴのサン・ピエール教会
ここでカルヴァンは幾度となく説教を行った

1536年7月から8月にかけてのころ、たまたまジュネーヴに滞在していたカルヴァンは、同地で福音主義的改革を導入しようとしていたヴィルヘルム・ファレルに援助を懇請された。この年の5月、ベルンの援助を受けて福音主義に転じたジュネーヴであったが、いまだ改革の緒についたばかりで方針も定まっておらず、ファレルは当時匿名で出されていた『キリスト教綱要』の著者がカルヴァンであることを知り、援助を願ったのである。カルヴァン自身はこのときストラスブールへ向かっている途中であったが、これに協力することを決意した。

1537年1月16日にはカルヴァンら牧師団によって市参事会に対して、教会改革の具体案が提出され、ここにジュネーヴはツヴィングリ派とは異なった、新たな改革の方針に従うこととなった。ただちに新しい「信仰告白」を含むカテキズムが刊行され、市民はこの「信仰告白」に対して宣誓を求められた。こうして改革が本格的に開始されたが、カルヴァンらはこの「信仰告白」が守られているか厳しく監督したために、市民の間に改革に対する抵抗感が芽生えた[要出典]。また当初から市参事会は、カルヴァンらの主張の中に教会を世俗の権力から独立させ、むしろ世俗権力を教会に従属させようとする意図があることに気づいていた[* 176]1538年4月23日新しい市参事会が発足すると、カルヴァンとファレルはこの新しい市参事会により追放され、カルヴァンはマルティン・ブツァーの勧めにより、ストラスブールのフランス人難民教会の説教師を務めることとした。この間1539年にカルヴァンはビューレンのイデレッテと結婚した。[要出典]

やがてジュネーヴで再び福音主義派が勢いを盛り返し、彼らによる再びの招聘を受けて、1541年9月13日カルヴァンはジュネーヴへと帰還した。帰任早々の9月20日カルヴァンは早速「教会規定」を立法化し、牧師・教師・長老・執事という4職[* 177]を定め、いわゆる「神権政治」を開始した。「神権政治」開始後の最初の5年間に、56件の死刑判決と78件の追放がおこなわれ、反対派はことごとく弾圧された。1553年には高名な人文学者であったミシェル・セルヴェが三位一体説を批判した廉で、異端としてカルヴァンにより火あぶりに処された。1559年には神学大学が設立され、プロテスタント系の神学大学としては、すぐにヴィッテンベルク大学に勝るほどの勢いとなり、ヨーロッパ各地に改革派の説教師や教師を送り出すようになった。[要出典]

聖ニコラウス
15世紀後半盟約者団の間で対立が表面化し始めていたが、隠修士として尊敬を集めていたニコラウスの呼びかけによって、諸邦は再び結束し、シュタンス協定を結んで内部抗争の調停方法を定めた。ヴィルヘルム・テルと並んでスイスの国民的英雄である

1564年の死にいたるまでカルヴァンはカトリック根絶を強硬に主張し、さらに死後の1566年にはツヴィングリ派との間で合同がなり、スイスの改革派は統一され勢力を強めた。カルヴァン主義はやがてフランスでは組織化されてユグノー戦争を惹起し、スコットランドにおいては1560年国教会の地位を獲得するに至った。[要出典]

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プロテスタント圏スイスとカトリック圏スイス[編集]

宗教改革はスイスにとって結局どのような変化をもたらしたのであろうか。それについては前述の、宗教的な動機から見た展開とは別に、政治的意味から見た別の側面も確認できることに注目する必要がある[要出典]

周辺を諸侯修道院領に囲まれた都市共同体にとって、宗教改革を導入することは、これらを解体して領域支配に組み込める可能性が生じた。同時に教会財産の没収により経済力を高めることができた。またツンフトに代表される中下層の市民にとっては、都市共同体を上層で寡頭支配している門閥や都市貴族を排除できる可能性が生じた。なぜなら彼らの多くは保守的でカトリック信仰にとどまっていたからである[要出典][* 178]。ツヴィングリ派から分離発展した再洗礼派はその信仰を守る信者のみで共同体を構成しようとし、農村部では自治運動と結びつくこともあった[* 179]

1600年ごろには、スイスの宗教的分裂は一過性のものではなく、もはや既成事実として明らかなものとなっていた。盟約者団内部で、カトリック・プロテスタント各々のカントンのみによる分離会議が開かれていた。しかし、民衆の間で好まれた演劇などを考慮すれば、このような状況にもかかわらず、スイス人として自由と協調に基づいた国民意識が存在していたことを推測することが出来る[要出典]。彼らにとって、ヴィルヘルム・テルやニコラウス・フォン・フリューエは相変わらず「古き良き盟約者団」の象徴であり、国民的英雄であった[332]もちろん宗教的不和は厳として存在し、それはしばしば顕在化したものの、なお盟約者団への帰属意識が存在していたのである。[要出典]

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宗教改革派の諸思想[編集]

ここでは、宗教改革における改革派の思想を概説する。前述したように改革派の間には当初から宗派対立が存在したが、これは改革派どうしの間でも教義および政治的立場において異なる傾向があったことに起因する。ここでは宗教改革諸派の代表的思想家を概観することで、それぞれの宗派の教義および政治的立場における特徴の背景を概説する。

ルター[編集]
ルター
ヴォルムスにある。中央のひときわ高い位置に立つのがルター像。チューリヒのツヴィングリ像が自ら剣を持ち武装していたのに対し、この像ではルター自身は剣を持たず、側に控えるフリードリヒ賢公が武装している

ルターの思想はアウグスティヌスに決定的な影響を受けている[* 180]その要点を示すと、信仰における個人主義と内面の尊重、自由意志の否定、「二世界論」である。[要出典] ルターはアウグスティヌスに従って人間の原罪を重視し、人間は本質的に罪人である上に神の絶対的支配の下にあるのだから、神の意志を超えた人間の意志による善行があるとすれば、それによって救われるのではないとして自由意志を否定し、ただ神の恩寵によってのみ救われることが可能であるとした。この神の恩寵に預かるためにはひたすら神を信頼し、信仰を寄せることによって救いに至ることができる。この神と個人との間には基本的に介在するものはないという。ここから万人司祭主義、神の前での信仰における人間の平等、聖職者の特権の否定が説かれる。従来教義などの信仰の根拠が教会に求められていたのに対し、ルターはそれを聖書にあるとする。たとえ教会の教えであっても聖書に記載のないものは神の言葉ではないという。教会が独占していた聖書の解釈も万人が自由におこなってよいと述べた。以上のように、ルターは聖書解釈や信仰における教権の優位性を否定した。

政治社会との関係でいえば、重要なのは「二世界論」である。ルターは神がこの世界に二種の支配を作り出したといい、一つは霊的な教会で、目に見えないものでありかつキリスト教徒のみに許されているという。もう一つは世俗的な剣の支配で、これはキリスト教徒に限られず、世界のあらゆる民族を包含している。ルターはキリスト教に反しない限り世俗支配は積極的に受け入れるべきであると説くが、教皇もしくは皇帝が違反した場合にはこれに抵抗することができるという。しかしながら、ルターはあらゆるキリスト教徒が抵抗の主体となることを認めているわけではない。抵抗の主体となりえるのは自らの領民をキリスト教のもとに保護する責務がある諸侯のみである。しかも世俗法においては皇帝と諸侯は契約によって関係を結んでいるのだから、同等であるという。農民のような民衆は皇帝と対等ではないので、抵抗すれば反乱である。これは信仰における諸侯の絶対的権限、領邦教会制度を理論的に認めるものであった。[要出典]

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ツヴィングリ[編集]
マールブルク会談
この会談でルターとツヴィングリは教義について多くの一致点を見いだしたものの、結局は両者の思想の相違が目立つ結果となった[要出典]

ツヴィングリは後世にツヴィングリ派ともいうべき固有の宗派を残さなかったために、その業績はややもすると限定的に捉えられがちである[要出典]。しかしながら、彼をルターやカルヴァンらと比べて二次的な地位に留めることは適切であるとは言えない[333]。ツヴィングリの思想は多くの点でルターとの一致を示すものの、ルターとは異なって人文主義スコラ学の著しい影響が認められるのであり、彼をルターの亜流と見なす考えはこの点で明らかな誤解に基づいている[* 181]

ツヴィングリの福音主義思想の中で、明らかにルターと異なると認められる特徴は、その実践的な性格である。ルターは個人的な深い宗教的探求によってその思想を形成しカトリックを批判したが、ツヴィングリはより実践的な考慮によって、つまり生活上の慣習や社会通念における誤った宗教的理解について攻撃を加えた[要出典]。彼によれば、聖書に根拠のない聖人崇拝、修道制、独身制などは廃止されるべきで、さらに進んで生活全般が「聖書のみ」によって規定されるべきであるとし、宗教を含めた生活の監督は信徒の集まりによって、つまり教会ではない住民の自治組織によって行われるべきだとされた[* 182]

ツヴィングリの死ぬころには、彼の信仰告白を受け入れる都市はスイスに留まらず、ドイツ南部にまで広がっていたが、彼の死後それらの多くはカルヴィニズムの中に分解されていった。[要出典]

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カルヴァン[編集]
ジャン・カルヴァン
その非妥協で厳格な性格からか、生前から毀誉褒貶が定まらない[要出典]

カルヴァンの政治思想には2つの要点がある。1つは教会を世俗権力から独立させること、もう1つは世俗権力に教会の目的への奉仕をさせることである。彼は教権と俗権という「二本の剣」は分離不可の関係ではあるが、明確に弁別されるべきであると述べた。

カルヴァンはアウグスティヌスに従って、教会を、神によって定められた独自の権威を持つものと考える。彼はこの世には見える教会と見えない教会があるという。見えない教会は正しい信徒の作る精神的な共同体で、時間と空間の制約を受けない。見える教会は信徒が集まって、儀礼や礼拝、説教が行われる場所で、この見える教会においては成員すべてが必ずしも完全な信仰を有しているわけではない。そのため見える教会は成員すべてを完全な信仰に導くために、規律を必要とし、内部に政治が必要とされるのである。そのため教会の幹部は道徳を含む世俗の問題に対しても判決を出すことが出来る。

一方世俗権力の担い手である国家は、真の宗教、正しい信仰を広めるためのものである。もちろん既存国家の中には必ずしも完全な信仰に合致していない場合もあるが、そのような国家に対して反抗することは絶対に許されない。もし抵抗を認めてしまえば、無秩序に陥る恐れがあり、またそもそも神の力によって、誤った状態は長く続くことはないと考えられるからである。

カルヴァンの思想のうち、無抵抗については彼の死後現実のユグノー弾圧への対応として、理不尽な支配に対しては抵抗してもよいというモナルコマキの政治理論が登場した。同様に彼の思想にある非寛容で妥協を許さない攻撃性も、カルヴァン主義が深刻なコンフェッショナリズムに直面するうちに失われていき、寛容へと傾いていった[要出典][* 183]

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フランスのコンフェッショナリズムと主権理論[編集]

コンフェッショナリズムとは、政治闘争が信仰の対立と密接に結びついた、宗教改革の時期特有の政治状況である[要出典]。このような形での宗教対立が最も典型におこなわれたのが16,17世紀のフランスであった。フランスの宗教改革派はカルヴァン派が主流で、ユグノーと呼ばれる[* 184][* 185]このユグノーと王権やカトリック勢力の間の政治闘争を通じて、フランス絶対王政が形成された。[要出典]

フランスの改革派、ユグノー[編集]
カトリーヌ・ド・メディシス
アンリ2世の妃で、メディチ家出身。夫の死後は相次いで息子を即位させ、実権を握った

フランスにおいても宗教改革と通じる福音主義的思想が現れた。その最初期のものは、ルフェーブル・デタープルによるパウロの書簡の注解(1512年)やフランス語訳新約聖書(1523年)があげられる。しかしパリ大学の神学者やパリ高等法院から弾圧され、デタープルはストラスブールへ亡命するなど、改革運動に迫害が加えられた。だが改革派は急速に影響力を増大させ[要出典][* 186]1550年代にはカルヴァンの指導の元で組織化が図られるようになった。[要出典]

国王フランソワ1世は姉のマルグリットが人文主義や改革運動に好意的であったためか、当初改革派に理解を示していたが、檄文事件を境に弾圧に回り、パリ高等法院に異端審問委員会を設置した。さらに後継者アンリ2世1547年特設異端審問法廷を設け、弾圧を強化した。

これに対し改革派は1559年に第1回全国改革派教会会議を開催し、信仰箇条や教会の規則を定めて一応の組織化を果たした。このころからブルボン家やコンデ親王家をはじめとする貴族が改革派へ参加した。とくにブルボン家などの大貴族層は、政敵であるカトリックの大貴族ギーズ家への対抗という政治的意図から改宗を選んだと考えられる。

アンリ2世の死後は、その妃で息子たちの後見として実権を握ったカトリーヌ・ド・メディシスが政治的駆け引きに改革派とカトリック派を利用しようとし、王家と改革派・カトリック派の三分構造が際だつようになった。[要出典]

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ユグノー戦争[編集]

前述の状況の中、1560年の改革派によるギーズ家の影響排除を狙った「アンボワーズの陰謀」事件や、1562年に起こったカトリック派によるヴァシーでのユグノー虐殺など不穏な事件が相次ぎ、ヴァシーの虐殺を契機として最初の武力衝突が起こった(第一次宗教戦争)。以後1598年ナントの勅令公布までの間フランスは断続的な内戦状態に陥った(ユグノー戦争)。1571年には改革派のコリニー提督が宮廷で影響力を増大させ、新教国と連携してフランスを八十年戦争に介入させようとしたが、1572年ユグノーに対する虐殺事件(サン・バルテルミの虐殺)に巻き込まれて殺された。[要出典] これに対し改革派は1574年に第1回改革派政治会議を開き、改革派の優勢な地域での徴税とそれを財源とした常備軍設立を決定し、オランダの改革派と結びついて、ほとんど独立した状態となった。また1581年にブルボン家のアンリ・ド・ナヴァルを「保護者 ("Protecteur")」として推戴した[要出典]。アンリは改革派の軍事指揮権と改革派支配地での司法官や財務官の任命権を得たが、一方でユグノーの顧問会議によってその権力は制限されていた。これは後述するユグノーの共和政的政治思想の影響も無視できない[334][335]

サン・バルテルミの虐殺
ブルボン家のナヴァル王アンリと王妹マルグリットの結婚式に参列するため、パリに集まった改革派貴族を、1572年のサン・バルテルミの祝日(8月24日)にカトリック派が襲った。この事件の影響はたちまち全フランスに広がり、各地で改革派に対する襲撃が相次いだ

カトリック貴族もギーズ公アンリを中心に「カトリック同盟(ラ・リーグ、"la Ligue")」を結成し、独自の軍事組織を持った。こうして王権・改革派・カトリック派の政治闘争はいよいよ本格的な武力闘争に発展した。ユグノーの背後にはオランダとイングランドが、カトリック同盟の背後にはスペインと教皇庁が存在し、内乱は国際的な宗派対立と密接に連動していた。一方でこの時期フランス王権は対ハプスブルク外交としてオスマン帝国に接近した。

この内乱に教皇は積極的にカトリック支援を意図して介入し、とくにグレゴリウス13世はサン・バルテルミの虐殺においてカトリック同盟を支持した。またグレゴリウス14世は同盟支援のために軍隊を派遣した。ハプスブルク家のフェリペ2世1580年ころからカトリック同盟を露骨に援助するようになると、国王アンリ3世はユグノーに接近し、国王は刺客を放って1588年ギーズ公アンリを暗殺した。しかし翌年には国王も同盟側によって暗殺され、ナヴァル王アンリが王位継承者(アンリ4世)となるが、カトリック勢力は根強く反抗した。1593年にナヴァル王アンリはカトリックに改宗して翌年パリに入城することができた。

アンリ4世の改宗に改革派は危機を覚え、改革派政治会議を全国組織にし、会議は1595年から1597年の間、王権と並ぶ統治機関として機能した。この会議はオランダの改革派との合同も模索したが、これに対しアンリ4世は改革派に宗教上の保証を与えるナントの勅令1598年に発布した。改革派はこれに満足し、王権への忠誠を誓った。[要出典]

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ナントの勅令廃止まで[編集]

ナントの勅令の実施状況の監督に当たっては、各州改革派とカトリックから選ばれた国王親任官が各教区を巡回した。しかしパリ高等法院やカトリックの聖職者たちはともすればこの勅令を非寛容な方向に厳密に解釈して適用しようとし、種々の訴訟を起こして改革派を陰に陽に弾圧しようとした。改革派にとって最大の後ろ盾であったアンリ4世の暗殺後には、改革派内部に明確な亀裂が生じ、北部のパリノルマンディーの改革派は王権への服従とカトリックとの妥協を目指す「穏健派」を形成し、南部のギュイエンヌラングドックの改革派は「強硬派」を形成した。「穏健派」は徐々に王権神授説に傾いた。

アンリ4世の死後摂政となった妃のマリー・ド・メディシスは改革派に配慮を示していたが、成人したルイ13世は改革派に威圧的な態度を取った。1620年ルイ13世が、改革派が多数を占めるベアルヌ地方でカトリックを支持する裁定を下すと、改革派は反発し、その年の12月に開かれた全国会議で「強硬派」が優勢となって武装蜂起を決定した。ユグノー側の軍事的指導者となったのはロアン公アンリである。1621年から1622年にわたっておこなわれた戦いは、ほぼ王側の優勢のうちに決着したが、和平においてはルイ13世が譲歩する形でナントの勅令が再確認された(モンプリエ条約)。[要出典]

ユグノーの多く居住する地域(17世紀

しかしルイ13世はモンプリエ条約の遵守に熱心でなく、改革派は不満を隠しきれなかった。1625年に再び戦闘が開始されると、宰相リシュリューは改革派の拠点ラ・ロシェルを包囲し、ロアン公アンリ率いる改革派をうち破ったが、このときリシュリューは外交方針を変更して三十年戦争でプロテスタント側を援助することも考慮していたため、1626年には講和してモンペリエ条約を再確認した(パリ条約)。だが平和は短かった。1627年にリシュリューは再びラ・ロシェルを包囲し、改革派はイングランドの援助を受けたが、イングランド艦隊は有効な支援ができず、1628年10月ラ・ロシェルは陥落した。1629年には王軍がラングドックにも侵攻して決定的な勝利を得、またロアン公アンリを国外へ追放した。6月和平がなりアラスの勅令が出され、ここでナントの勅令が再び確認されたものの、改革派は武装解除され、これは「恩恵の勅令」と言われるように、王権が改革派を決定的に従属させるものであった。

1630年から1660年にかけての30年間は、王権への臣従姿勢によって改革派が比較的安定した時期を迎えていた。例えばリシュリューの庇護のもとアカデミー・フランセーズを設立したヴァランタン・コンラールも改革派の文筆家であった。とはいえ、この時期改革派に圧迫が加えられてもいる。リシュリュー死後、実権を握ったマザランは改革派全国教会会議の開催を禁止した。

ルイ14世が親政を開始すると、改革派の権利が徐々に剥奪されていった。まず1661年にフランス全土に官吏が派遣され、改革派の礼拝について調査が行われた。そしてさまざまな条例を発布して公職から徐々に改革派を閉め出した。1679年ドラゴナードという制度が定められ、これは竜騎兵を改革派の家に宿泊させ、暴力的威嚇によって改宗を強制するものであった[要出典][* 187]これに対して1683年に改革派の多い南部で散発的な抵抗運動が起こったが、すぐに鎮圧された。1685年にはついにナントの勅令廃止が宣言(フォンテーヌブローの勅令)され、改革派牧師の追放、改革派教会堂の破壊が命じられた。[要出典]

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ユグノーとフランス経済史[編集]

マックス・ウェーバーが指摘するように、ユグノー1617世紀フランス経済に大きな影響を及ぼした[* 188]。ここではユグノーのフランス経済に及ぼした影響、とくにコルベール主義との関連を概観し、ナントの勅令廃止(1685年)の経済史的意義についても言及する[* 189]

ナントの勅令
ナントの勅令は信仰の自由を与えるものとはいえず、カトリックとプロテスタントに対する扱いも平等ではない。あくまでプロテスタントへの寛容を表明するにとどまっている

フランスのプロテスタンティズムはその最盛期で人口200万人、当時の人口の10%ほどを占めたが、ユグノー戦争によって5%程度まで減少した[336]。その内訳は貴族農民手工業者商人金融業者など多様な社会階層に及んだ[337]。そのうち貴族層は前述したように政治的意図が濃厚であったので、その目的が達成されたユグノー戦争 後には、そのほとんどが早期に信仰を離れた。ユグノーが大きな勢力を持った南部では、農民層にもプロテスタンティズムが浸透し、彼らの貢献により、この地域は内乱の被害が著しかったにもかかわらず早期に復興を成し遂げた。しかしとりわけブルジョア層においてプロテスタンティズムは広く浸透した。

ユグノーはとくに集中マニュファクチュアの担い手として重要であり、金融・商業においても支配的であった。コルベールは重商主義政策の柱に国内の金融業・商業・工業の発展を据えていたので、当然その担い手であるユグノーを保護し、これと提携する道を選んだ。[要出典]

毛織物工業では、ラングドックプロヴァンスドフィネレヴァント地方への輸出用ラシャが大量に生産されていた。シャンパーニュ地方のスダンも北ドイツへの輸出用ラシャを生産し、毛織物工業の中核でもあったが、ここではユグノーの製造業者が織機の半数を所有していた[338]絹織物工業においては、17世紀中葉トゥールリヨンにおける顕著な発展が知られるが、それはユグノーの貢献に拠るところが大きい。リンネル工業をフランスに導入したのもユグノーであり、リンネルはイギリスへの輸出用商品として貴重なものであった[339]オーヴェルニュアングモアでは製紙業が発達していたが、その主な担い手もユグノーであった。ここで製造された紙はフランス国内のみならず、イギリスやオランダでも消費された。とくにオーヴェルニュのアンベールの紙は当時ヨーロッパで最良のものとされていた。これらの工業は一般的にナントの勅令廃止後に衰退した[* 190]

ラ・ロシェルボルドーにおける海上交易の発展にもユグノーは多大な寄与を為していた。ボルドーにおいては主にイギリス・オランダとの交易を担い、ラ・ロシェルにおいてはナントの勅令直前まで貿易は彼らの独占状態にあるという有様であった[340]。ユグノーの銀行家としては、17世紀初めにはリシュリューの財源となったタルマン家やラムブイエ家が知られる。またユグタン家も有名である。もともとリヨンの出版業者であったが、1685年にアムステルダムに移住し、そこで17世紀最大の銀行家にまで成長した[341]。フランス革命後には多くのユグノー銀行家がフランス金融界で活躍し、現在でもユダヤ系以外はプロテスタント系によってフランス銀行業は担われている[342]

ナントの勅令廃止によりユグノーの工業技術・資本はイギリス・オランダ・スイス・ドイツに流出し、それらの国々の工業的発展に寄与した結果、対フランス貿易における各国製品の競争力を高めた。[要出典]

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政治思想(モナルコマキとポリティーク)[編集]

カルヴァンは信徒に抵抗を認めなかったが、ユグノーに対する弾圧が強くなると、ユグノーたちの間に支配権力に対する抵抗理論が現れた。1572年のサン・バルテルミの虐殺によって宗教対立がいよいよ抜き差しならない段階に入ると、武力抵抗を肯定する必要が生じた。こうして武力抵抗を肯定する理論として暴君は打倒しても良いとする暴君放伐論が現れ、暴君放伐論者をモナルコマキ英語版という。暴君放伐論として代表的なのはテオドール・ド・ベーズの『臣民に対する為政者の権利について』(1573年)とユニウス・ブルートゥスというペンネームの著者が著した『暴君に対する自由の擁護』である。[要出典]

ジャン・ボダン
国家の統一を維持すべきという観点から宗教的寛容を主張した。主権の形態としては君主制に優越性を認めていたが、それはつねに主権の行使者が一者であるということと世襲的であるということが、継続的な永続性を実現していると考えたからである[要出典]

ベーズは為政者が人民の同意しない権力を行使した場合は、これに抵抗することが可能であるという。ただし抵抗の主体となることができるのは個々の人民ではなく、三部会もしくは大貴族によってのみ国王を放伐することが可能であるとした。後者の著作はベーズのものより体系的な政治理論を展開しており、一連のユグノーの暴君放伐論の中では絶頂であると考えられている。まず君主が神の代理人として地上で神の法を行う義務を負うと述べ、次に旧約聖書を引用して神と、君主およびその支配下にある人民の間に契約があるという。次に君主と人民の間にも契約があり、君主がこの契約に守らない場合は、人民はこれに服従しなくてもよいとする。このように契約論を展開する一方で『暴君に対する自由の擁護』は、ベーズ同様、等族国家の原理に影響を受けた身分制的な思想を展開する。君主の契約違反に人民は服従しなくてもよいが直接抵抗することは認められない。君主に抵抗できるのは身分ある貴族だけで、身分のない人民は貴族の抵抗に荷担するか、消極的に君主の支配から逃亡するかである。最後にこの著作が示す興味深い論は、近隣の君主が暴君の支配に苦しむ国に干渉戦争をおこなうことを認めている点である。

ラ・リーグの側でも、同様の抵抗理論が展開された。ただカトリック強硬派の政治理論に特徴的なのは、従来の教権擁護の理論を継承して、国王の解任権やその不当支配に対する抵抗権の条件に教会、とくに教皇の承認を重視する点である。

一方で、カトリック穏健派はモナルコマキたちが君主への抵抗に神との契約違反を見たり、教皇の承認を重視したりする傾向に批判的であった。彼らはむしろ国家を重視し、宗教上の問題に寛容な解決をもたらすことで、政治的統一を尊重すべきと説いた。彼らを国家主義者という意味でポリティークと呼ぶ。

ポリティークの代表的論者はジャン・ボダンで、彼は一方で近代的な主権理論の祖ともいわれる。ボダンは中世的な国王大権を発展させて、主権概念をつくった。この主権とは、国家を支配-被支配の関係で捉えた際に支配者側が持つ絶対的な権限のことで、国王にのみ固有のものである。彼によれば、「国家の絶対的な権力が主権」であり、「主権による統治が国家」である。つまり主権は国家そのものと不可分である。要するに、伝統的な封建制や従来の身分制社会では、国王と末端の被支配者である人民との間に、大貴族や群小の領主のように中間権力が存在したが、ボダンは主権を設定することによって、中間権力を排除して、支配者と被支配者の二者関係で国家を定義した。これによりモナルコマキたちが主張した、貴族などが支配権の一部を分担しているという観点から抵抗権を認める暴君放伐論を否定した。この主権概念と対立するのは伝統的な普遍支配権を主張する皇帝と教皇である。まずボダンは皇帝を選挙によって選ばれるのであるから、選挙を行なう支配者たちの主権を譲渡された受益者に過ぎないとこれを主権から外す。また教皇の至上権に対しては、国家の自律性・自然性を強調し、領域国家内の政治から宗教上の争いが排除されなければいけないとして政教分離を主張した。[要出典]

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低地地方と宗教改革[編集]

メルセン条約によって東フランク西フランクに分属することとなった低地地方[* 191]は中世後期に至るまで政治的統一とは無縁であった。しかしながら、14世紀ヴァロワ=ブルゴーニュ家の支配下にはいると、地域の政治的統一が促進されることとなった。その後、同家の断絶によりハプスブルク家がこの地を相続し、中央集権的な支配を及ぼそうとしたが、これに対して低地地方の貴族は不満を募らせ1568年に反乱し、やがて北部はオランダ共和国として独立した。オランダ共和国は改革派が多数であったわけではないが[* 192]、独立の過程においては改革派が主導的な影響を及ぼし、やがて改革派の中心国家として台頭することになった。

低地17州の歴史的経緯[編集]
ディジョンにあるブルゴーニュ公の宮殿

12世紀までに、低地地方にはホラント伯やゲルデルン公、ブラバント公エノー伯ルクセンブルク伯フランドル伯などの世俗領主、ユトレヒト司教やリエージュ司教といった教会領主が分立割拠していた。11世紀後半ごろからこの地域に対する神聖ローマ皇帝の圧力は減退していき、低地地方は徐々に英仏両国の影響を受けるようになっていった。

低地地方南部で徐々に強大な勢力を確立したフランドル伯は、フランスとの対立を深め、とくにフランドル伯支配下の都市はイングランドとの通商関係での結びつきがあったことから、イングランド王に接近した。フランドル伯ボードゥアン9世の時代には、ノルマンディをイングランド王ジョンから取り上げたフィリップ2世がフランドルを窺う情勢となった。つづくボードゥアンの娘ジャンヌの時代に、イングランド王ジョン・神聖ローマ皇帝オットー4世と同盟し、フランス王権に挑戦したが、1214年ブーヴィーヌの戦いで敗北した。以降フランドルはしばらくの間フランス王権の掣肘を受けることとなる。

14世紀半ばに同地は相続を通じてブルゴーニュ家のフィリップ豪胆公の支配下に入り、この公国のもとで政治的統一が進められた。公国は財政的にも低地地方に大きく依存しており[* 193]、自然と公国の重心も低地地方へと移動した。このころすでに聖職者、貴族、有力都市民からなる身分制議会が低地地方でも開かれていたが、あらたに課税賛否権と請願権を与え、この議会は「全国議会(エタ・ジェネロー)」[* 194]へと発展した。

14世紀にルクセンブルク伯領を領していたルクセンブルク家の当主が相次いで神聖ローマ皇帝となり、同家はやがて神聖ローマ帝国の東方に広大な家領を形成した。カール4世の時代にルクセンブルク伯はルクセンブルク公へと格上げされ、同家は最盛期を迎えるが、やがて15世紀初めには同家の男系は断絶し、その支配地域の多くは相続を通じてハプスブルク家の手中に収まった。

1477年シャルル突進公がロレーヌ・アルザス・スイス軍との戦いで戦死すると、フランス国内のブルゴーニュ公領はたちまちフランス王権に回収され、相続者マリーに残されたのは低地地方とフランシュ=コンテのみであった。マリーは同年ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と結婚し、これらの地域もまたハプスブルク家の支配に収まった。

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ハプスブルク家の統治(カール5世とフェリペ2世)[編集]
カール5世の「帝国」(1547年)

1506年フィリップ端麗公が急死すると、その長子シャルルが公国を相続し、1515年1月に全国議会で即位した。さらにシャルルは1516年にはカスティリャ・アラゴン両王国の君主となり、1519年には対抗馬のフランソワ1世を破って神聖ローマ皇帝カール5世となった。こうして東はトランシルヴァニアから西はスペインにいたる、ヨーロッパ全体を包含するかのような「帝国」が形成された。この帝国には一体的な国家組織がなく、個別の国家がただ単にカール5世のもとに集約されているに過ぎなかったが、低地地方はその中で位置的には辺境であるにもかかわらず、対フランスの軍事的・政治的拠点であり、さらにアントウェルペンの金融は「帝国」の重要な財源であった。カールは低地地方の行政的中心をブリュッセルにおき、中央集権化を進めて政治的統一を促進させる一方、周辺地域の武力的制圧をすすめ、メルセン条約以来分断されていた低地地方を初めて統一した。低地地方が17州[* 195]と呼ばれるのは、このカール5世が帯びた、低地地方の17の称号に由来し、1548年のアウクスブルク帝国議会で正式に承認された。1549年には低地地方が「永久に不可分」な形でハプスブルク家に継承されることを定めた国事詔書(プラグマティック・サンクシオン)が発布され、全国議会で承認された。

カール5世に続いて低地地方を支配したのは長子フェリペであった。フェリペもカール5世の基本路線を継承し、法典や裁判制度の統一をはかり、低地地方を中央集権化しようと試みた。低地地方の政治の実権はグランヴェルなどの寵臣が握っており、オラニエ家などの大貴族と対立した。フェリペは低地地方での支配権を強化するため、低地地方での教区再編を計画し、1559年7月教皇パウルス4世から許可を得た。これにより低地地方に3つの大司教区[* 196]が新設され、これらの司教区の司教には従来王権の下で異端審問に関与していた神学者が多数登用された[* 197]。このころフランスから多数の改革派が流入し始めていたので、宗教的な緊張が高まり、低地地方に不穏な空気が流れ始めた。

アルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレド
「鉄の公爵」と呼ばれた。彼の設けた「騒擾評議会」は別名「血の裁判所」と呼ばれるほど苛烈で、低地地方を苦しめた

1565年フェリペが改めて低地地方での異端審問の強化を命令すると、下級貴族は反発を強め、1566年には異端審問の中止を求める訴状を執政マルハレータに提出した[* 198]。マルハレータは異端審問の一時緩和を発表したが、これにより改革派が公然と低地地方で活動を開始するに至った。

フェリペは低地地方での支配権を強化するため、低地地方での教区再編を計画し、1559年7月教皇パウルス4世から許可を得た。これにより低地地方に3つの大司教区[* 199]が新設され、これらの司教区の司教には従来王権の下で異端審問に関与していた神学者が多数登用された[* 200]。しかし、この頃フランスから多数の改革派が流入し始めていたので、宗教的な緊張が高まり、低地地方に不穏な空気が流れ始めた。

1566年フランドルでカトリック教会や修道院を狙った暴動が発生し、その反乱は低地地方各地へと広まった。フェリペが重税などの圧政を行っていたため、まだプロテスタントが浸透していない北部にまで暴動は拡大した。この暴動は一見宗教的動機に隠されてはいるが、そのうちに深刻な経済的理由が存在していた[* 201]。この年は北欧での大規模な戦争によってバルト海方面からの穀物流入が激減し、食糧難と経済危機によって低地地方の人々は苦しんでいたのである。1567年8月、フェリペは事態の収拾を図るため、アルバ公に指揮権を与え軍隊による介入を指示し、1万ほどの軍勢とともに派遣した。アルバ公は「騒擾評議会」なる特別法廷を設置し、暴動の参加者を徹底的に弾圧した。さらに12月にはマルハレータに替わって執政になり、ネーデルラント貴族にこの暴動の責任を問うた。1568年6月5日、異端撲滅の名の下に、エフモント伯ラモラール、ホールン伯フィリップを含む大貴族20人余りがブリュッセルで処刑された。この際、大貴族の一人であったオラニエ公ウィレム1世1567年4月すでにドイツに逃れており無事だったが、彼ら亡命貴族の財産・領地の多くが没収された。1569年には十分の一税を導入して、スペインの財政改善のために低地地方に経済的圧迫をもたらした。

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八十年戦争とオランダ共和国[編集]

ドイツに逃れていたオラニエ公ウィレムは1568年4月に軍を率いてオランダ北部と中部から一斉に進攻するが、5月23日ハイリハレーの戦いに勝利したものの、結局は失敗に終わった。ウィレムはフランスのユグノーに合流し、「海乞食(ワーテルヘーゼン)」を組織して低地地方の沿岸を無差別に略奪した。1572年4月1日海乞食はブリーレの占拠に偶然にも成功し、やがて港湾都市を少しずつ制圧していった。同年7月ホラント州は反乱側に転じ、ウィレムを州総督に迎えることとした。ホラント・ゼーラント2州に海乞食が足場を整えると、改革派が続々と流入し、徐々に主導権を握るようになった。1573年2月にはホラント州でカトリックの礼拝が禁じられた。

1576年には給料の未払いから低地地方に駐留していたスペイン軍が略奪に走ると、スペインに協力的であった南部州も反乱州との提携に転じ、ヘントの和約が結ばれた。和約は全部で25か条あるが、最初の3か条はとくにこの条約の基本性格を表していると考えられている。第1条ではスペイン王による無条件大赦を要求し、第2条では諸州の連帯と低地地方の平和維持を規定、第3条では宗教問題など諸州の問題を解決するために全国議会を開くことを決めていた。しかしながら、この和約は全く効果的な裏付けを欠いていた。そもそも約束された諸問題の解決のための全国議会は結局開かれなかったし、条約は北部と南部が互いに都合良く解釈する余地を残していた。たとえばフェリペ2世の意向を気にする高級官僚は早くも1576年11月9日づけの国王宛書簡で「和約」を容認したやむべき経緯を釈明した上で、和約の実施にあたっては修正を加えることを示唆している。同様にオラニエ公ウィレムの側でも、側近がイングランド宛の書簡で宗教問題について、ホラント・ゼーラント両州では全く妥協する気がないことを述べている。このようにヘントの和約は全くその場限りの一時的な妥協に過ぎず、永続性を欠いており、状況の推移によって簡単に崩れる脆い地盤の上にあった。

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関連項目[編集]

帝権と教権[編集]

各国史[編集]

教会[編集]

ヨーロッパ外の祭祀王権との比較[編集]

参考文献[編集]

政教分離における歴史学的視座
近代国家成立史として(国制史的側面)
霊性史として(倫理思想史的側面)
全体
  • 森安達也 『近代国家とキリスト教』 平凡社〈平凡社ライブラリー, 446〉、2002年ISBN 4582764460[* 202]
  • 歴史学研究会 編『現代歴史学の成果と課題 1980年-2000年 2 "国家像・社会像の変貌"』青木書店、2003年。
  • 小林良彰河野武司山岡龍一 著『政治学入門 ('07)』放送大学教育振興会、2007年。
  • 江川温 著『ヨーロッパの歴史 ('05)』放送大学教育振興会、2005年。
  • リュシアン・フェーヴル 『ヨーロッパとは何か : 第二次大戦直後の連続講義から』 長谷川輝夫訳、刀水書房、2008年ISBN 9784887083646
  • ウィリアム・ウッドラフ 著、原剛ほか訳『概説 現代世界の歴史 1500年から現代まで』ミネルヴァ書房、2003年。
  • 岡本明 編著『支配の文化史 -近代ヨーロッパの解読-』ミネルヴァ書房、1997年。
各国史全般
キリスト教史
キリスト教教義
  • ジャン・ピエール・トレル 著、渡邉義愛 訳『カトリック神学入門』白水社、1998年。
  • 日本カトリック司教協議会諸宗教部門 編『諸宗教対話 公文書資料と解説』カトリック中央協議会、2006年。[* 204]
  • 教皇庁教理省 著、和田幹男 訳『宣言 主イエス』カトリック中央協議会、2006年。[* 205]
  • 教皇ヨハネ・パウロ2世 回勅、石脇慶總 ほか訳『聖霊 生命の与え主』ペトロ文庫、2005年。
  • E・スキレベークス 著、伊藤庄治郎 訳『救いの協力者聖母マリア』聖母文庫、1991年。[* 206]
  • 日本カトリック司教協議会社会司教委員会 編『信教の自由と政教分離』カトリック中央協議会、2007年。
  • アリスター・マクグラス 『キリスト教神学入門』 神代真砂実訳、教文館2002年ISBN 978-4764272033[* 207]
グレゴリウス改革
マリア信仰
  • 竹下節子 著『聖母マリア <異端>から<女王>へ』講談社選書メチエ、1998年。
異端
  • クルト・ルドルフ 著、大貫隆 ほか訳『グノーシス 古代末期の一宗教の歴史と本質』岩波書店、2001年。
  • 甚野尚 著『世界史リブレット20 中世の異端者たち』山川出版社、1996年。
  • D・クリスティ・マレイ 著、野村美紀子 訳『異端の歴史』教文館、1997年。
  • ルネ・ネッリ 著、柴田和雄 訳『異端カタリ派の哲学』法政大学出版局、1996年。
  • 原田武 著『異端カタリ派と転生』人文書院、1991年。
  • 西川杉子 著『ヴァルド派の谷へ』山川出版社、2003年。
宗教改革
  • アリスター・マクグラス 『宗教改革の思想』 高柳俊一訳、教文館、2000年ISBN 476427194X[* 207]
  • 小泉徹 著『世界史リブレット27 宗教改革とその時代』山川出版社、1996年。
  • マックス・ウェーバー 著、大塚久雄 訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫、1989年[改訳版、1997年 第25刷 参照]。
  • 金子晴勇 著『宗教改革の精神 ルターとエラスムスの思想対決』講談社学術文庫、2001年。
  • 永田諒一 著『ドイツ近世の社会と教会』ミネルヴァ書房、2000年。
  • I・ジョン・ヘッセリンク 著、廣瀬久允 訳『改革派とは何か』教文館、1995年。
  • S・ムール 『危機のユグノー : 17世紀フランスのプロテスタント』 佐野泰雄訳、教文館、1990年ISBN 4764262657
  • ジョルジュ・リヴェ 著、二宮宏之関根素子 訳『宗教戦争』白水社、1968年[1998年 第10刷 参照]。
  • 木崎喜代治 著 『信仰の運命 フランス・プロテスタントの歴史』岩波書店、1997年。
  • 金哲雄 『ユグノーの経済史的研究』 ミネルヴァ書房〈Minerva人文・社会科学叢書, 74〉、2003年ISBN 4623037495
法制史
  • 勝田有恒森征一山内進 『概説西洋法制史』 ミネルヴァ書房、2004年ISBN 9784623040643
  • 吉野悟 著『ローマ法とその社会』近藤出版社、1976年。
  • ピーター・スタイン 著、屋敷二郎監訳『ローマ法とヨーロッパ』ミネルヴァ書房、2003年。
  • 山田信彦 『スペイン法の歴史』 彩流社、1992年ISBN 488202215X
  • 水林彪 ほか編『新体系日本史 2 法社会史』山川出版社、2001年。
中世史
  • ハンス・K・シュルツェ 著、千葉徳夫 ほか訳『西欧中世史事典』ミネルヴァ書房、1997年。
  • ハンス・K・シュルツェ 著、五十嵐修 ほか訳『西欧中世史事典II』ミネルヴァ書房、2003年。
  • アンリ・ピレンヌ 著、中村宏 ほか訳『ヨーロッパ世界の誕生』創文社、1960年。
  • 堀米庸三 編『世界の名著67 ホイジンガ』中公バックス、1979年。
  • ヨーロッパ中世史研究会 編『西洋中世史料集』東京大学出版会、2000年。
  • 樺山紘一 ほか編『岩波講座(新)世界歴史7 ヨーロッパの誕生岩波書店、1998年。
  • 堀米庸三 ほか編『岩波講座(旧)世界歴史10 中世4』岩波書店、1970年。
  • 堀越孝一 編『新書ヨーロッパ史・中世編』講談社現代新書、2003年。
  • 菊池良生 著『神聖ローマ帝国』講談社現代新書、2003年。
  • 江村洋 著『ハプスブルク家』講談社現代新書、1990年。
  • 五十嵐修 『地上の夢キリスト教帝国 : カール大帝の「ヨーロッパ」』 講談社〈講談社選書メチエ, 224〉、2001年ISBN 4062582244
  • 阿部謹也 著『阿部謹也著作集』2、8、10、筑摩書房、1999年。
  • 堀米庸三 著『中世国家の構造』日本評論社、1948年。
  • 増田四郎 著『西洋中世世界の成立』講談社学術文庫、1996年。
  • 増田四郎 著『西洋中世社会史研究』岩波書店、1974年。
  • ラウール・マンセッリ 著、大橋喜之 訳『西欧中世の民衆信仰』八坂書房、2002年。
  • J・ル・ゴフ 『中世とは何か』 池田健二 ,菅沼潤訳、藤原書店、2005年ISBN 4894344424[* 208]
  • J・ル・ゴフ 著、桐村泰二 訳『中世西欧文明』論創社、2007年。
  • J・ル・ゴフ 著、加納修 訳『もうひとつの中世のために』白水社、2006年。
  • エリザベス・ハラム 編、川成洋 ほか訳『十字軍大全』東洋書林、2006年。
  • エドマンド・キング 『中世のイギリス』 吉武憲司訳、慶應義塾大学出版会2006年ISBN 978-4766413236
  • マルク・ブロック 著、堀米庸三 ほか訳『封建社会』岩波書店、1995年。
  • 佐藤彰一 ほか編著『西欧中世史 〔上〕』ミネルヴァ書房、1995年。
  • 江川温 ほか編著『西欧中世史 〔中〕』ミネルヴァ書房、1995年。
  • 朝治啓三 ほか編著『西欧中世史〔下〕』ミネルヴァ書房、1995年。
  • レジーヌ・ル・ジャン 『メロヴィング朝』 加納修訳、白水社文庫クセジュ〉、2009年ISBN 978-4560509395
  • Ian Wood (1995). The Merovingian Kingdoms, 450-751. Longman. ISBN 978-0582493728. http://www.leeds.ac.uk/history/staff/ian_wood.htm. 
  • 橋本龍幸 『中世成立期の地中海世界—メロヴィング時代のフランクとビザンツ』 南窓社1998年ISBN 978-4816502002
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思想史
日本における政教分離

文献案内[編集]

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  • 長岡徹「政教分離原則の正当性(平松毅教授退任記念論集)」、『法と政治』第55巻第4号、関西学院大学、2004年12月30日、 675-708頁、 NAID 110004476162
  • 大塚和夫「イスラーム世界と世俗化をめぐる一試論(<特集>イスラームと宗教研究)」、『宗教研究』第78巻第2号、日本宗教学会、2004年9月30日、 617-642頁、 NAID 110002826612
  • 久保田泰夫「<論文>ロージャー・ウィリアムズの政教分離論 : 主著『信仰上の理由による迫害の血塗れの教義』(1644)を巡って」、『東京工芸大学芸術学部紀要』第3巻、東京工芸大学、1997年3月31日、 57-69頁、