ヨーロッパにおける政教分離の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
政教分離の歴史から転送)
移動先: 案内検索
「ミュンスター条約締結の図」(ヘラルト・テル・ボルフ画)
1648年ヴェストファーレン条約ミュンスターおよびオスナブリュック条約)ではカルヴァン派が新たに容認された。

ヨーロッパにおける政教分離の歴史(ヨーロッパにおけるせいきょうぶんりのれきし)では、ヨーロッパにおける政治社会と宗教の関係性の歴史、具体的にはヨーロッパの諸国家とキリスト教の関係史について叙述する。ヨーロッパにおいて、政教分離原則の成立は一回的な歴史事象としてあらわれたのではなく、長い歴史的過程のなかで徐々に進行した結果成し遂げられたものである[1]。したがってここでは、その成立史を、近代以前の政治社会にもさかのぼって、その国制や宗教政策を軸に、社会的背景や政治思想史・宗教思想史との関連も含めて記述し、ヨーロッパにおいて統治機構と宗教組織が分離していく過程として説明する。

なお、政教分離原則それ自体に関わる歴史事象については政教分離原則#歴史を参照のこと。

概要[編集]

四福音書記者
新約聖書の中心部分をなすイエスの生涯を記録した文書が四福音書である。4人の福音書記者はそれぞれ象徴を持つ。天使で象徴されるマタイ(左上)。ライオンで象徴されるマルコ(左下)。で象徴されるヨハネ(右上)。雄牛で象徴されるルカ(右下)

冒頭に述べたように、政教分離は一回性をもって説明しうる歴史事象ではなく、78世紀地中海を中心とした統一的な世界が消滅し、コンスタンティノープルを中心とする東方の正教世界から離れて、西ヨーロッパローマを中心としたカトリック世界として成立して以来、長い歴史過程のなかで徐々に進行してきた歴史事象である[1]

国法学日比野勤は、政教分離を「国家の非宗教性、宗教的中立性の要請、ないしその制度的現実化」と規定しており、その制度的現実化によって「宗教は公権力の彼岸に位置づけられ、『私事』として主観的内面性を保障される」としている[1]。そして、そのうえで、

  1. 中世ヨーロッパにおける叙任権闘争
  2. 近世においては宗教改革に端を発して展開した宗教戦争
  3. 近代におけるフランス革命

の3つの事象を、政教分離を巨視的にみた際の重要な画期として指摘している[1]

中世ヨーロッパにおいては、国家と教会、国権と教権とが分かちがたく結びついて、それが一体のものとなっていたために、信教の自由は認められず、国教ないし公認の宗教・宗派以外は「異端」として刑罰を受け、迫害されてきた(詳細は、異端審問を参照[2])。宗教戦争以降、ヨーロッパでは宗教的寛容と国家の宗教的中立の制度がしだいに広まり、現代においては世俗的な立憲国家の憲法原則として広く採用されるところとなっている[2]

本項では、ルネサンス・宗教改革および宗教戦争の時期から、絶対王政、フランス革命を経て国民国家が成立するまでの、16世紀初頭から19世紀前葉にかけてのヨーロッパにおける政教分離の歴史について説明する。

なお、叙任権闘争をはじめとする中世の政教関係史の詳細については中世ヨーロッパにおける教会と国家および叙任権闘争を参照のこと。

宗教改革と改革派の諸思想[編集]

ルター
「95カ条の論題」を発表[* 1]して贖有がもたらす宗教的危機を指摘した。これは当初の予想をこえて教義論争に発展し、1520年にルターは三大文書、『教会のバビロン捕囚』『キリスト者の自由』『ドイツ国民のキリスト教貴族に与える書』によって改革の理論と実践を固めた。とくに『ドイツ国民のキリスト教貴族に与える書』で諸侯に、その職務に基づいて改革運動に加わるよう呼びかけたことは、ドイツ国内の政治問題への宗教改革の関与を規定することになった

宗教改革は純粋に宗教内部の問題から出発したにもかかわらず、すぐに世俗的問題と結びついて近代国家の成立を準備したばかりか、ヨーロッパ近代思想にも影響を及ぼした。宗教改革が主権国家を単位として宗教生活を規定する方向に進んだことは、普遍的なキリスト教世界に立脚していた一つの教会という理念を崩壊させ、教権の基盤を脅かした。近代にはいると、すでに教権は各主権国家に対して優位性を主張することができなくなり、今日まで続く国民を単位とした政治社会が形成される。一方、思想面においては内面の自由、良心の自由が確立され、近代政治思想における基本概念の一つとなっていった。

1517年アウグスティノ修道会士であったルターが当時販売されていた贖宥状を批判した95ヶ条の論題を提示し、さらに行為義認でなく信仰によってのみ義とされると唱える信仰義認や、万人祭司を主張してカトリックの教階制(聖職位階制)を否定し、教会は全信徒によって構成されるものとする宗教改革がはじまった[3][4]。教皇はルターを破門し、プロテスタント教会はカトリックから分離した。しかし、ザクセン選帝侯フリードリヒ賢公はルターを保護した[4]。95ヶ条の論題の発表当初は贖有状を巡る僧職どうしの内輪もめと世間に受け取られていたが、やがて教皇首位権が主要な争点になると、人文主義者も続々この論争に関与するようになった[5]神聖ローマ皇帝カール5世エラスムス派の人文主義者、穏健的なカトリック聖職者の姿勢はこの論争に際して宗教の統一を重視し、プロテスタントカトリックの歩み寄りを期待した。実際両陣営において当初から妥協と和解が不可能ではないことが認識されており、教義においてはルターの思想がカトリック的であることは当時も後にも様々な局面で指摘された[* 2]。一方ローマ教皇クレメンス7世とその後継者パウルス3世はプロテスタント側への歩み寄りが教皇首位権の破壊につながることを警戒して和解を拒否し、カール5世を警戒してドイツの分断を狙うフランス王、バイエルン公もこれに同調した。ルター派の側もザクセン選帝侯などが政治的理由から硬化した態度を採り、ルター派の基盤が形成されると当初は寛容的な態度も持っていたルター自身も非妥協的になった。かくして宗教改革は教義の問題をこえて政治問題と化した。[要出典]

以下、宗教改革における改革派の思想を概説する。前述したように改革派の間には当初から宗派対立が存在したが、これは改革派どうしの間でも教義および政治的立場において異なる傾向があったことに起因する。ここでは宗教改革諸派の代表的思想家を概観することで、それぞれの宗派の教義および政治的立場における特徴の背景を概説する。

ルター[編集]

ルター
ヴォルムスにある。中央のひときわ高い位置に立つのがルター像。チューリヒのツヴィングリ像が自ら剣を持ち武装していたのに対し、この像ではルター自身は剣を持たず、側に控えるフリードリヒ賢公が武装している

ルターの思想はアウグスティヌスに決定的な影響を受けている[* 3]。その要点を示すと、信仰における個人主義と内面の尊重、自由意志の否定、「二王国論英語版」である[6]

ルターはアウグスティヌスに従って人間の原罪を重視し、人間は本質的に罪人である上に神の絶対的支配の下にあるのだから、神の意志を超えた人間の意志による善行があるとすれば、それによって救われるのではないとして自由意志を否定し、ただ神の恩寵によってのみ救われることが可能であるとした。この神の恩寵に預かるためにはひたすら神を信頼し、信仰を寄せることによって救いに至ることができる[6]。この神と個人との間には基本的に介在するものはないという。ここから万人司祭主義、神の前での信仰における人間の平等、聖職者の特権の否定が説かれる[6]。従来教義などの信仰の根拠が教会に求められていたのに対し、ルターはそれを聖書にあるとする。たとえ教会の教えであっても聖書に記載のないものは神の言葉ではないという[6]。教会が独占していた聖書の解釈も万人が自由におこなってよいと述べた。以上のように、ルターは聖書解釈や信仰における教権の優位性を否定した[6]

政治社会との関係でいえば、重要なのは「二王国論」である。ルターは神がこの世界に二種の支配(2つの王国)を作り出したといい、一つは霊的な教会で、目に見えないものでありかつキリスト教徒のみに許されているという。もう一つは世俗的な剣の支配で、これはキリスト教徒に限られず、世界のあらゆる民族を包含している。ルターはキリスト教に反しない限り世俗支配は積極的に受け入れるべきであると説くが、一方、教皇もしくは皇帝が違反した場合にはこれに抵抗することができるとしている。しかし、ルターはあらゆるキリスト教徒が抵抗の主体となることを認めているわけではない。抵抗の主体となりえるのは自らの領民をキリスト教のもとに保護する責務がある諸侯のみである。しかも世俗法においては皇帝と諸侯は契約によって関係を結んでいるのだから、同等であるという。農民のような民衆は皇帝と対等ではないので、抵抗すれば反乱である[6]。これは信仰における諸侯の絶対的権限および領邦教会制度(後述)を理論的に認めるものであった。

他にはメランヒトンや、カールシュタットがあらわれ、さらに「すべての聖職者を殺せ」と主張するツヴィカウ急進派などもあらわれた[4]ミュンツァー農民戦争を起こし、ルターは当初農民に同情的だったが、現世の国のことは世俗権力に委ねるべきで、戦闘をやめない農民を「狂犬」と呼んでシュヴァーベン同盟軍による鎮圧に加勢した[4]

ルター派教会はドイツからさらに北方の諸地域へと広がり、現在でもなおデンマークスウェーデンノルウェーフィンランドでは「国教会」としての地位を得ている[6]。これらの地域では、カトリックからルター派へと置き換わったものの、2つの教会のあいだに同延性がみとめられた[6]。これらの地域で教会堂の内部にルターの巨大な立像を見かけることが多いのも、そうした同延性の原則が保持されてきた現れとみなすことができる[6]

ツヴィングリ[編集]

マールブルク会談
この会談でルターとツヴィングリは教義について多くの一致点を見いだしたものの、結局は両者の思想の相違が目立つ結果となった[要出典]

ツヴィングリは後世にツヴィングリ派ともいうべき固有の宗派を残さなかったために、その業績はややもすると限定的に捉えられがちだが、彼をルターやカルヴァンらと比べて二次的な地位に留めることは適切であるとはいえない[7]。ツヴィングリの思想は多くの点でルターとの一致を示すものの、ルターとは異なり、人文主義スコラ学の著しい影響が認められるのであり、彼をルターの亜流と見なす考えはこの点で明らかな誤解に基づいている[* 4]

ツヴィングリの福音主義思想の中で、明らかにルターと異なると認められる特徴は、その実践的な性格である。ルターは個人的な深い宗教的探求によってその思想を形成しカトリックを批判したが、ツヴィングリはより実践的な考慮によって、つまり生活上の慣習や社会通念における誤った宗教的理解について攻撃を加えた[要出典]。彼によれば、聖書に根拠のない聖人崇拝、修道制、独身制などは廃止されるべきで、さらに進んで生活全般が「聖書のみ」によって規定されるべきであるとし、宗教を含めた生活の監督は信徒の集まりによって、つまり教会ではない住民の自治組織によって行われるべきだとされた[* 5]

ツヴィングリが死去したころには、彼の信仰告白を受け入れる都市はスイスに留まらず、ドイツ南部にまで広がっていたが、彼の死後それらの多くはカルヴィニズムのなかに解消されていった。[要出典]

カルヴァン[編集]

ジャン・カルヴァン
その非妥協で厳格な性格からか、生前から毀誉褒貶が定まらない[要出典]

カルヴァンはアウグスティヌスの「神の国」「地の国」に影響され、教会と国家の権力の差異と非類似性からいって、「霊的王国」と「政治的王国」は常に区別しなければならないとした[8]カルヴァンの政治思想には2つの要点がある。1つは教会を世俗権力から独立させること、もう1つは世俗権力に教会の目的への奉仕をさせることである。彼は教権と俗権という「二本の剣」は分離不可の関係ではあるが、明確に弁別されるべきであると述べた。

カルヴァンはアウグスティヌスに従って、教会を、神によって定められた独自の権威を持つものと考える。彼はこの世には「見える教会」と「見えない教会」があるという。見えない教会は正しい信徒の作る精神的な共同体で、時間と空間の制約を受けない。見える教会は信徒が集まって、儀礼や礼拝、説教が行われる場所で、この見える教会においては成員すべてが必ずしも完全な信仰を有しているわけではない。そのため見える教会は成員すべてを完全な信仰に導くために、規律を必要とし、内部に政治が必要とされるのである。そのため教会の幹部は道徳を含む世俗の問題に対しても判決を出すことが出来る。

一方、世俗権力の担い手である国家は、真の宗教、正しい信仰を広めるためのものである。もちろん既存国家のなかには必ずしも完全な信仰に合致していない場合もあるが、そのような国家に対して反抗することは絶対に許されない。もし抵抗を認めてしまえば、無秩序に陥る恐れがあり、またそもそも神の力によって、誤った状態は長く続くことはないと考えられるからである。

カルヴァンの思想のうち、無抵抗については彼の死後現実のユグノー弾圧への対応として、理不尽な支配に対しては抵抗してもよいというモナルコマキの政治理論が登場した。同様に彼の思想にある非寛容で妥協を許さない攻撃性も、カルヴァン主義が深刻なコンフェッショナリズム(後述)に直面するうちに失われていき、寛容へと傾いていった[要出典]

カルヴァン派やジョン・ノックスなどの改革派教会では信仰上の原理が政治上の規律とされるなど厳格な統治がなされ、神政政治が実現したともいわれる[9]。なお、カルヴァンは新旧両方から異端とされたミカエル・セルヴェトゥス火刑に処したことなども問題視されている[10][11]

宗教改革から宗教戦争へ(ドイツ)[編集]

当初はごく限定的な教会の腐敗の問題、あるいは教義上の問題から出発した宗教改革は、その影響が広汎にわたるとともに政治的な傾向を強くした。具体的には宗教改革はまず教皇首位権への挑戦という宗教内の政治的問題に変容し、さらにドイツ国内の皇帝権に対する諸侯の自立を求める、極めて直接的な政治問題に転化した。この問題は三十年戦争の直接的な原因ともなるのであり、ドイツが長い分断国家となる契機の一つが宗教改革に求められる[要出典][* 6]

シュマルカルデン戦争[編集]

1530年カール5世はアウクスブルクに帝国議会を招集した。この議会では両派の歩み寄りの努力がされたが、結局決裂した。さらに同議会ではルター派から「アウクスブルク信仰告白」が提出されたが、ツヴィングリやシュトラースブルクなどの改革派4都市が独自の「信仰」を提出し、プロテスタント内部の宗派分裂も明らかとなった。議会ではカトリックが優勢を占め、最終的決定は翌年の議会に持ち越されたものの、カール5世はルターを帝国追放刑にしプロテスタントを異端とする1521年のヴォルムス勅令を暫定的とはいえ厳しく執行するよう命じた[12]

アウクスブルク帝国議会(1530年
この議会ではプロテスタントとカトリックの歩み寄りが期待されていたが、結局はカトリック側の主張がほぼ一方的に認められた形となった

これに対してプロテスタントの帝国諸侯・諸都市はアウクスブルク帝国議会直後にシュマルカルデンに集まり、軍事同盟結成を協議し、翌1531年2月にヘッセン方伯とザクセン選帝侯を盟主とするシュマルカルデン同盟が結成された。宗教戦争が一触即発に迫ったが、カール5世は妥協し1532年にニュルンベルクの宗教平和によって暫定的にプロテスタントの宗教的立場が保障された。この宗教平和を境にプロテスタントは勢力を一気に拡大した。南ドイツのヴュルテンベルク公領では、プロテスタントであったために追放されていたヴュルテンベルク公ウルリヒが1534年に復位し、北ドイツでも同年ポメルン公、1539年にザクセン公とブランデンブルク選帝侯がプロテスタントに転じた。西南ドイツではルター派とは異なる改革派信仰が広がっていたが、教義上の問題で妥協しプロテスタントの政治勢力は統一性を持つようになった。カトリック諸侯の側もニュルンベルクで同盟を結成し、プロテスタントに対抗した[12]

カール5世は対外的な事情から情勢を黙認していたが、フランスとの講和がなると一転ドイツ国内の問題に専心するようになった。1546年にはルターが死亡し、同年ザクセン公が選帝侯の地位を条件に皇帝支持に転じた。それ以前にヘッセン方伯も重婚問題からカール5世につけこまれ、政治的に中立を守らざるをえなくなっていた。自身に有利な条件が整ったと感じたカール5世は同年シュマルカルデン戦争をおこし、シュマルカルデン同盟を壊滅させ、翌年のアウクスブルク帝国議会ではカトリックに有利な「仮信条協定」が帝国法として発布された。皇帝は西南ドイツの帝国都市のツンフトが宗教改革の温床であると考えてこれを解散させるなど強硬な政策を実施した。カール5世の強硬な政策を見て、徐々にカトリック諸侯も反皇帝に転じ、息子フェリペにドイツ・スペインの領土と帝位を継承させようとすると、ますます反発を招いてカール5世は孤立した。[要出典]

アウクスブルクの平和令と領邦教会制度の確立[編集]

アウクスブルク宗教平和令
1555年マインツで印刷された版本の表紙

このような情勢の中、ザクセン公は再び反皇帝・プロテスタントの側に転じ、1552年諸侯戦争がおこるとカール5世は敗北し、パッサウ条約によって「仮信条協定」は破棄された。この敗北からカール5世は弟のフェルディナントに宗教問題の解決を任せ、1555年のアウクスブルク帝国議会で、アウクスブルク宗教平和令が議決された。これにより、カトリックとルター派は信仰を理由とした暴力が禁止されたが、カルヴァン派やツヴィングリ派は信仰の自由の対象から除外された[4]。また、この平和令により諸侯の信仰の自由が認められ、領民はそれに服するべきであるとされ[4]、やがて「一つの支配あるところ、一つの宗教がある ("Cuius regio, eius religio")」という原則のもとに諸侯が自身の選んだ信仰を領内に強制することができるという領邦教会制度が成立した[6][13][14]。領邦教会制は宗教を政治に従属させるもので、領邦国家の自立を教皇も皇帝も認めざるをえなかったため、ドイツの宗教改革における真の勝利者は領邦君主であったともいわれる[4]。領邦君主はカロリング朝やオットー朝のように「キリストの代理人」として教会を支配したわけではなく、世俗国家が宗教を管理したもので、領邦教会制は聖俗分離の帰結であり、信仰の個人化と政治の世俗化が進行していった[4]

アウクスブルクの宗教和議は、神聖ローマ帝国という1つの政治単位のなかに、従来のカトリック教会とはまた別に新しい教会としてルター派教会(ルーテル教会)を認め、2つの信仰共同体に対等な法的地位を認めたことに画期性が認められる[6]。ここでは、もとより個人における信教の自由は保障されるべくもなかったが、にもかかわらず国制における宗教多元化の第一歩だったからである[6]

一方、カトリック教会も中世以来の世俗権力を有しており、トリアー、ケルン、マインツ大司教は神聖ローマ帝国選帝侯でもあった[15]。このようにドイツの領邦教会制にあっては、中世とほぼ類似の国家・教会関係が維持された[9]

スイスの宗教改革[編集]

ドイツルターによって宗教改革の火蓋が切られた頃、スイスでもほぼ同時にツヴィングリによって福音主義的改革が進行していた。ツヴィングリは改革の半ばで戦場に斃れ、その事業は頓挫したが、ジュネーヴカルヴァンが現れ、より厳格な改革を実行した。当初は非常に非寛容で妥協を許さなかったカルヴァン主義であるが、各国で政治権力により迫害を受けるようになると、「寛容」を主張して変貌し、やがて近代的な政教分離の主張を展開していくことになる[16]

ハプスブルク家とスイス盟約者団の抗争[編集]

スイスの建国神話として今日一般にヴィルヘルム・テルの物語が知られるが、これはスイスの国民意識が高まった15世紀中ごろに世に広まりはじめたものであると考えられている[* 7]今日では、スイスの国家統合は14,15世紀を通じてスイス周辺の状況のなかで徐々に進行したと考えられており、当初の盟約はあくまでラント平和令の延長線上に、域内でのフェーデの制限・禁止を目的としたものであった。[要出典]

12世紀末ごろまでは神聖ローマ帝国辺境の隔絶された僻地に過ぎなかったスイスは、13世紀の初め頃に南北に貫通する街道が開通すると、一転交通の要衝となった。このことによりスイスは、近隣に支配を拡大しようとしていたハプスブルク家と戦略的価値を重視する皇帝の争奪の的となることとなった。1231年皇帝フリードリヒ2世によってドイツ統治を任されていたハインリヒウーリ地方に証書を発給し、この地方を帝国直属の地位とした[要出典][* 8]1239年には同じくシュヴィーツ地方も帝国直属の地位を獲得した[* 9]14世紀初頭にはウンターヴァルデン地方も帝国直属を獲得しているのが確認される。これ以前の1291年にはすでにこれらの三者は盟約を結んでいた[* 10]

1314年冬、放牧地を巡る争いからシュヴィーツがアインジーデルン修道院を襲撃すると、これを口実にハプスブルク家のフリードリヒ美王1315年11月15日大軍をもって侵攻したが、モルガルテン山からの奇襲攻撃によって敗北を喫した(モルガルテンの戦い)。この直後の12月9日盟約が更新され、盟約者団はさらに結束を強化した。こののち14,15世紀を通じてハプスブルク家との戦いが続くが、近隣の邦や都市が徐々に同盟の形で参加した。

盟約者団から連邦共和制国家へ[編集]

1499年、皇帝マクシミリアン1世がスイス盟約者団に奪われたハプスブルク家の古領を回復しようと戦争を仕掛けたが(シュヴァーベン戦争ドイツ語版英語版)、盟約者団はこれを撃退し、この勝利により事実上神聖ローマ帝国から独立した[* 11]1513年アペンツェル同盟において13州の形となり、今日のスイスの基本的な国家枠組みの基礎となる十三邦同盟体制が確立され、この体制が1798年まで維持されることとなる[* 12]

長期の軍事的緊張を乗り越えたスイスは、ヨーロッパ有数の軍事力を持つ国家となっていた。強力な軍事力を頼んでスイスは当時のイタリア戦争に介入し、1513年のノヴァーラの戦いフランス語版ドイツ語版英語版でフランス軍を大敗させ、ミラノを中心とするロンバルディア地方に覇権を確立したかに見えた。しかし1515年ルイ12世が没し、フランソワ1世が登位すると、同年のマリニャーノの戦い英語版で盟約者団はこの若き王に敗北し、南方へ向けての膨張の夢は潰えた[要出典]

ツヴィングリの宗教改革[編集]

ツヴィングリ
チューリヒのリマト川の岸辺に立っている。右手には聖書、左手に大剣、兜を被り、説教服の下は鎧で武装している

1518年12月の末からチューリヒの教区司祭・説教者となっていたツヴィングリは、1519年初頭からマタイによる福音書の説教を開始した。これがスイスにおける福音主義的改革の幕開けとなる。ツヴィングリはエラスムスを通じて、キリスト教を原典から学ぶことの重要性を認識していた。そのためこのマタイ連続説教においてはヴルガタを使用せず、エラスムスの『校訂ギリシア語新約聖書』を使用した。やがて彼の周囲に新しい福音理解に共鳴する信奉者が集まるようになり、旧来のカトリック的信仰理解を堅持する者たちとの間に徐々に疎隔が生じていった。ドイツの広大な領邦に比べて狭小な地域共同体であるカントン[要出典][* 13]の内部での対立は、たちまち先鋭化した。

1522年3月、受難節断食期間が訪れた際、ツヴィングリ支持者は集まって乾いたソーセージを切り分けて食し、「聖書のみ」の考えを実践した[18][* 14]。さらにその10日後、ツヴィングリは「食物の選択と自由」の説教をおこない、これに対しチューリヒ市参事会は支持を表明し、チューリヒはツヴィングリの福音主義の拠点となった[18]。そして、ツヴィングリは『最初にして最終的な弁明の書』をコンスタンツ司教に宛て、明確に「聖書のみ」を規範とすべきことを表明した[18]。ツヴィングリ派とカトリック派の対立は激化し、市内での武力衝突の危機も迫ったので、チューリヒ市参事会は最終的な決定を下すべく、1523年1月29日にカトリック側聖職者を迎えて公開討論を開催することとなった[18]。ツヴィングリは公開討論のために自らの信仰を明らかにするため、『67カ条の提題』を公表した[18]。この文書の中でツヴィングリは「聖書のみ」の原則を表明し、聖書に根拠がない教皇制度や祝祭日・修道制・独身制・煉獄を批判した。一方で教会の監督は信徒の集まりが行うべきであるとし、市参事会による宗教の管理を暗に正当化していた。さらに社会倫理について『神の義と人間の義』の説教をおこない、これによりこののちのチューリヒにおける改革の枠組みが定まった。すなわちチューリヒでの改革は都市共同体という政治秩序の積極的な関与の下におこなわれるのである。

1524年6月には市内全域から聖像画聖遺物ステンドグラスが取り除かれ、12月には修道院がすべて閉鎖されて資産はカントンに接収された。そして1525年3月の復活節を境に、ミサは完全に廃絶され、替わって福音主義の聖晩餐が導入された。また同年6月には福音主義の司祭養成のためにカロリーヌム[* 15]が開設された。こうしてスイスにおける福音主義の橋頭堡は着々と固められた。

しかしながらこの時点では、スイス内における福音主義の孤立は明らかであった。ウーリ・シュヴィーツ・ウンターヴァルデンなどの保守的なカントンではカトリック信仰に揺らぎはなく、福音主義に染まったチューリヒに対して旧来の信仰への復帰を求め、チューリヒを異端と断じて盟約からの追放を宣言した。しかし1528年1月に有力なカントンであるベルンが福音主義に転じ、1529年2月にはバーゼルで民衆蜂起が起こり、こちらも福音主義に転じた。さらに盟約者団の外部であるが、近隣のザンクト・ガレンコンスタンツでも福音主義が影響力を増し、福音主義のカントンと軍事同盟を結んだ。これを見てカトリック派のカントンも宿敵であったはずのハプスブルク家も巻き込んで軍事同盟を結成し、両者は同年6月、カッペルの野で対峙した(第一次カッペル戦争)。一触即発の危機が迫ったが、ここで両者は歩み寄り、「現状維持」を約束して和睦した(第一次カッペル和議)。すなわち、福音主義に転向したカントンはその信仰を認められるが、カトリックのカントンへの布教を許されず、その逆も然りとされたのである。ここに信仰の「属地主義」、「一つの支配あるところ、一つの宗教がある ("Cujus regio, ejus religio")」が認められ、スイスは他のヨーロッパ諸国に先駆けて改革派とカトリックの共存する地域となった。[要出典]

第二次カッペル戦争
ツヴィングリ率いるチューリヒ市民軍は圧倒的な人数のカトリック軍を迎え撃った。この乱戦の中ツヴィングリは戦死した。1548年に描かれた図版

第一次カッペル和議はスイスに平和と安定をもたらしたかに見えたが、ツヴィングリは現状維持に不満で、福音主義の宣教を軍事的拡張によってでも実現すべきと考えるようになっていた。一方ドイツではルター派は皇帝の圧迫を受けて存亡の危機が迫っていたため、同盟者を必要としていた。[要出典]ここにルターとツヴィングリの利害の一致点があり、1529年10月、ヘッセン方伯フィリップの斡旋により、マールブルク城で会談が開かれ、ルターとツヴィングリの間で軍事同盟と教義の一致が検討された。この会談において、両者の教義の多くの点で一致を見たものの、最終的には聖餐理解を巡って鋭く対立し[* 16]、物別れに終わった[19]

ツヴィングリはその後も強硬にカトリック諸州の軍事的制圧を主張したが、ベルンをはじめとする同盟諸邦の賛同を得られず、ベルンの提案にしたがってカトリック諸州に対し経済封鎖が実施されるに留まった。この経済封鎖によりカトリック諸州はたちまち困窮したため、軍事力に訴えざるをえなくなり、1531年10月4日カトリック諸州はカッペルに再度進軍し(第2次カッペル戦争ドイツ語版英語版)、これに対してツヴィングリは自らチューリヒ市民軍を率いて邀撃した。このときカトリック側8000に対し、チューリヒの市民軍は数百に過ぎず、乱戦のさなかツヴィングリは戦死した。

しかしその後ベルンを核とする福音主義派は反撃し、第一次カッペル和議をほぼ踏襲した第二次カッペル和議が締結され、スイスにおける宗教の属地主義が再確認された。スイスにおける福音主義は後継者ブリンガーに受け継がれ、カルヴァンの登場を待つこととなる。[要出典]

カルヴァンの宗教改革[編集]

ジュネーヴのサン・ピエール教会
ここでカルヴァンは幾度となく説教を行った

1536年7月から8月にかけてのころ、たまたまジュネーヴに滞在していたカルヴァンは、同地で福音主義的改革を導入しようとしていたヴィルヘルム・ファレルに援助を懇請された。この年の5月、ベルンの援助を受けて福音主義に転じたジュネーヴであったが、いまだ改革の緒についたばかりで方針も定まっておらず、ファレルは当時匿名で出されていた『キリスト教綱要』の著者がカルヴァンであることを知り、援助を願ったのである。カルヴァン自身はこのときストラスブールへ向かっている途中であったが、これに協力することを決意した。

1537年1月16日にはカルヴァンら牧師団によって市参事会に対して、教会改革の具体案が提出され、ここにジュネーヴはツヴィングリ派とは異なった、新たな改革の方針に従うこととなった。ただちに新しい「信仰告白」を含むカテキズムが刊行され、市民はこの「信仰告白」に対して宣誓を求められた。こうして改革が本格的に開始されたが、カルヴァンらはこの「信仰告白」が守られているか厳しく監督したために、市民の間に改革に対する抵抗感が芽生えた[要出典]。また当初から市参事会は、カルヴァンらの主張の中に教会を世俗の権力から独立させ、むしろ世俗権力を教会に従属させようとする意図があることに気づいていた[* 17]1538年4月23日新しい市参事会が発足すると、カルヴァンとファレルはこの新しい市参事会により追放され、カルヴァンはマルティン・ブツァーの勧めにより、ストラスブールのフランス人難民教会の説教師を務めることとした。この間1539年にカルヴァンはビューレンのイデレッテと結婚した。[要出典]

やがてジュネーヴで再び福音主義派が勢いを盛り返し、彼らによって再び招聘されたカルヴァンは1541年9月13日、ジュネーヴに帰還した。帰任早々の9月20日カルヴァンは早速「教会規定」を立法化し、牧師・教師・長老・執事という4職[* 18]を定め、いわゆる「神権政治」を開始した。「神権政治」開始後の最初の5年間に、56件の死刑判決と78件の追放がおこなわれ、反対派はことごとく弾圧された。1553年には高名な人文学者であったミシェル・セルヴェが三位一体説を批判した廉で、異端としてカルヴァンにより火あぶりに処された。1559年には神学大学が設立され、プロテスタント系の神学大学としては、すぐにヴィッテンベルク大学に勝るほどの勢いとなり、ヨーロッパ各地に改革派の説教師や教師を送り出すまでになった。[要出典]

聖ニコラウス
15世紀後半盟約者団の間で対立が表面化し始めていたが、隠修士として尊敬を集めていたニコラウスの呼びかけによって、諸邦は再び結束し、シュタンス協定を結んで内部抗争の調停方法を定めた。ヴィルヘルム・テルと並んでスイスの国民的英雄である

1564年の死にいたるまでカルヴァンはカトリック根絶を強硬に主張し、さらに死後の1566年にはツヴィングリ派との間で合同がなり、スイスの改革派は統一され勢力を強めた。カルヴァン主義はやがてフランスでは組織化されてユグノー戦争を惹起し、スコットランドにおいては1560年国教会の地位を獲得するに至った。[要出典]

スイスにおける教会分裂[編集]

宗教改革はスイスにとって結局どのような変化をもたらしたのであろうか。それについては前述の、宗教的な動機から見た展開とは別に、政治的意味から見た別の側面も確認できることに注目する必要がある[要出典]

周辺を諸侯修道院領に囲まれた都市共同体にとって、宗教改革を導入することは、これらを解体して領域支配に組み込める可能性が生じた。同時に教会財産の没収により経済力を高めることができた。またツンフトに代表される中下層の市民にとっては、都市共同体を上層で寡頭支配している門閥や都市貴族を排除できる可能性が生じた。なぜなら彼らの多くは保守的でカトリック信仰にとどまっていたからである[要出典][* 19]。ツヴィングリ派から分離発展した再洗礼派はその信仰を守る信者のみで共同体を構成しようとし、農村部では自治運動と結びつくこともあった[* 20]

1600年ごろには、スイスの宗教的分裂は一過性のものではなく、もはや既成事実として明らかなものとなっていた。盟約者団内部で、カトリック・プロテスタント各々のカントンのみによる分離会議が開かれていた。しかし、民衆の間で好まれた演劇などを考慮すれば、このような状況にもかかわらず、スイス人として自由と協調に基づいた国民意識が存在していたことを推測することが出来る[要出典]。彼らにとって、ヴィルヘルム・テルやニコラウス・フォン・フリューエは相変わらず「古き良き盟約者団」の象徴であり、国民的英雄であった[20]もちろん宗教的不和は厳として存在し、それはしばしば顕在化したものの、なお盟約者団への帰属意識が存在していたのである。[要出典]

コンフェッショナリズムの展開[編集]

コンフェッショナリズムとは、宗教上の信条の対立が政治闘争となる状態のことである[21]。宗教改革の帰結としてドイツでは各領邦で国教制度をとる領邦教会が成立したが、30年戦争などの宗教戦争によって大きな損害を被った[21]。宗教改革によって神聖ローマ帝国は衰退し、主権的国家が登場し、政治の世俗化を決定的なものにした[4]。イングランドでは国教会が成立し、イスパニアは反対改革の拠点となり、教皇中心主義をとった[21]。そのイスパニアの支配から逃れようとしたのがネーデルラント(オランダ)である[21]。また宗教改革の影響で1568年トランシルヴァニア公国ではトゥルダ勅令が、1573年にはポーランド・リトアニア共和国で宗派間の寛容が保障されたワルシャワ連盟協約などが締結され、これらは政教分離の先駆とされる[14]。しかし、16世紀末にはポーランド・リトアニア共和国でのカトリック政策によってこうした動きも退潮していった[22]

教皇は反カトリックに対抗して、1534年にイエズス会を設置し、また1542年からのトリエント公会議では教会での最高権力は教皇にあるとされた[4]16世紀末までにはバイエルン、オーストリア、フランス、ポーランド、チェコがカトリックの勢力圏に入った[4]

こうしたなか、フランスではコンフェッショナリズムの激突が最も典型的におこった[23]。フランスはカルヴァンの祖国であり、カルヴァニズム(カルヴァン主義)が発展していった[24]。フランスの宗教改革派はカルヴァン派が主流で、ユグノーと呼ばれる[* 21][* 22]このユグノーと王権やカトリック勢力の間の政治闘争を通じて、フランス絶対王政が形成された。[要出典]

ユグノー戦争とナントの勅令[編集]

カトリーヌ・ド・メディシス
アンリ2世の妃で、メディチ家出身。夫の死後は相次いで息子を即位させ、実権を握った

フランスにおいても宗教改革と通じる福音主義的思想が現れた。その最初期のものは、ルフェーブル・デタープルによるパウロの書簡の注解(1512年)やフランス語訳新約聖書(1523年)があげられる。しかしパリ大学の神学者やパリ高等法院から弾圧され、デタープルはストラスブールへ亡命するなど、改革運動に迫害が加えられた[25]。だが改革派は急速に影響力を増大させ[* 23]、1550年代にはカルヴァンの指導の元で組織化が図られるようになった[26]

国王フランソワ1世は姉のマルグリットが人文主義や改革運動に好意的であったためか、当初改革派に理解を示していたが、檄文事件を境に弾圧に回り、パリ高等法院に異端審問委員会を設置した。さらに後継者アンリ2世1547年特設異端審問法廷を設け、弾圧を強化した。

これに対し改革派は1559年に第1回全国改革派教会会議を開催し、信仰箇条や教会の規則を定めて一応の組織化を果たした。このころからブルボン家やコンデ親王家をはじめとする貴族が改革派へ参加した。とくにブルボン家などの大貴族層は、政敵であるカトリックの大貴族ギーズ家への対抗という政治的意図から改宗を選んだと考えられる。

アンリ2世の死後は、その妃で息子たちの後見として実権を握ったカトリーヌ・ド・メディシスが政治的駆け引きに改革派とカトリック派を利用しようとし、王家と改革派・カトリック派の三分構造が際だつようになった。[要出典]

こうした状況のなか、1560年の改革派によるギーズ家の影響排除を狙った「アンボワーズの陰謀」事件や、1562年に起こったカトリック派によるヴァシーでのユグノー虐殺など不穏な事件が相次ぎ、ヴァシーの虐殺を契機として最初の武力衝突が起こった(第一次宗教戦争)。以後1598年ナントの勅令公布までの間フランスは断続的な内戦状態に陥った(ユグノー戦争)。1571年には改革派のコリニー提督が宮廷で影響力を増大させ、新教国と連携してフランスを八十年戦争に介入させようとしたが、1572年ユグノーに対する虐殺事件(サン・バルテルミの虐殺)に巻き込まれて殺された。[要出典] これに対し改革派は1574年に第1回改革派政治会議を開き、改革派の優勢な地域での徴税とそれを財源とした常備軍設立を決定し、オランダの改革派と結びついて、ほとんど独立した状態となった。また1581年にブルボン家のアンリ・ド・ナヴァルを「保護者 ("Protecteur")」として推戴した[要出典]。アンリは改革派の軍事指揮権と改革派支配地での司法官や財務官の任命権を得たが、一方でユグノーの顧問会議によってその権力は制限されていた。これは後述するユグノーの共和政的政治思想の影響も無視できない[27][28]

サン・バルテルミの虐殺
ブルボン家のナヴァル王アンリと王妹マルグリットの結婚式に参列するため、パリに集まった改革派貴族を、1572年のサン・バルテルミの祝日(8月24日)にカトリック派が襲った。この事件の影響はたちまち全フランスに広がり、各地で改革派に対する襲撃が相次いだ

カトリック貴族もギーズ公アンリを中心に「カトリック同盟(ラ・リーグ、"la Ligue")」を結成し、独自の軍事組織を持った。こうして王権・改革派・カトリック派の政治闘争はいよいよ本格的な武力闘争に発展した。ユグノーの背後にはオランダとイングランドが、カトリック同盟の背後にはスペインと教皇庁が存在し、内乱は国際的な宗派対立と密接に連動していた。一方でこの時期フランス王権は対ハプスブルク外交としてオスマン帝国に接近した。

この内乱に教皇は積極的にカトリック支援を意図して介入し、とくにグレゴリウス13世はサン・バルテルミの虐殺においてカトリック同盟を支持した。またグレゴリウス14世は同盟支援のために軍隊を派遣した。ハプスブルク家のフェリペ2世1580年ころからカトリック同盟を露骨に援助するようになると、国王アンリ3世はユグノーに接近し、国王は刺客を放って1588年ギーズ公アンリを暗殺した。しかし翌年には国王も同盟側によって暗殺され、ナヴァル王アンリが王位継承者(アンリ4世)となるが、カトリック勢力は根強く反抗した。1593年にナヴァル王アンリはカトリックに改宗して翌年パリに入城することができた。

アンリ4世の改宗に改革派は危機を覚え、改革派政治会議を全国組織にし、会議は1595年から1597年の間、王権と並ぶ統治機関として機能した。この会議はオランダの改革派との合同も模索したが、これに対しアンリ4世は改革派に宗教上の保証を与えるナントの勅令1598年に発布した。改革派はこれに満足し、王権への忠誠を誓った。[要出典]

ユグノーとフランス経済[編集]

マックス・ウェーバーが指摘するように、ユグノー1617世紀フランス経済に大きな影響を及ぼした[* 24]。ここではユグノーのフランス経済に及ぼした影響、とくにコルベール主義との関連を概観し、ナントの勅令廃止(1685年)の経済史的意義についても言及する[* 25]

ナントの勅令
ナントの勅令は信仰の自由を与えるものとはいえず、カトリックとプロテスタントに対する扱いも平等ではない。あくまでプロテスタントへの寛容を表明するにとどまっている

フランスのプロテスタンティズムはその最盛期で人口200万人、当時の人口の10%ほどを占めたが、ユグノー戦争によって5%程度まで減少した[29]。その内訳は貴族農民手工業者商人金融業者など多様な社会階層に及んだ[30]。そのうち貴族層は前述したように政治的意図が濃厚であったので、その目的が達成されたユグノー戦争 後には、そのほとんどが早期に信仰を離れた。ユグノーが大きな勢力を持った南部では、農民層にもプロテスタンティズムが浸透し、彼らの貢献により、この地域は内乱の被害が著しかったにもかかわらず早期に復興を成し遂げた。しかしとりわけブルジョア層においてプロテスタンティズムは広く浸透した。

ユグノーはとくに集中マニュファクチュアの担い手として重要であり、金融・商業においても支配的であった。コルベールは重商主義政策の柱に国内の金融業・商業・工業の発展を据えていたので、当然その担い手であるユグノーを保護し、これと提携する道を選んだ。[要出典]

毛織物工業では、ラングドックプロヴァンスドフィネレヴァント地方への輸出用ラシャが大量に生産されていた。シャンパーニュ地方のスダンも北ドイツへの輸出用ラシャを生産し、毛織物工業の中核でもあったが、ここではユグノーの製造業者が織機の半数を所有していた[31]絹織物工業においては、17世紀中葉トゥールリヨンにおける顕著な発展が知られるが、それはユグノーの貢献に拠るところが大きい。リンネル工業をフランスに導入したのもユグノーであり、リンネルはイギリスへの輸出用商品として貴重なものであった[32]オーヴェルニュアングモアでは製紙業が発達していたが、その主な担い手もユグノーであった。ここで製造された紙はフランス国内のみならず、イギリスやオランダでも消費された。とくにオーヴェルニュのアンベールの紙は当時ヨーロッパで最良のものとされていた。これらの工業は一般的にナントの勅令廃止後に衰退した[* 26]

ラ・ロシェルボルドーにおける海上交易の発展にもユグノーは多大な寄与を為していた。ボルドーにおいては主にイギリス・オランダとの交易を担い、ラ・ロシェルにおいてはナントの勅令直前まで貿易は彼らの独占状態にあるという有様であった[33]。ユグノーの銀行家としては、17世紀初めにはリシュリューの財源となったタルマン家やラムブイエ家が知られる。またユグタン家も有名である。もともとリヨンの出版業者であったが、1685年にアムステルダムに移住し、そこで17世紀最大の銀行家にまで成長した[34]。フランス革命後には多くのユグノー銀行家がフランス金融界で活躍し、現在でもユダヤ系以外はプロテスタント系によってフランス銀行業は担われている[35]

ナントの勅令廃止によりユグノーの工業技術・資本はイギリス・オランダ・スイス・ドイツに流出し、それらの国々の工業的発展に寄与した結果、対フランス貿易における各国製品の競争力を高めた。[要出典]

アンリ4世の暗殺とナントの勅令廃止[編集]

ナントの勅令の実施状況の監督に当たっては、各州改革派とカトリックから選ばれた国王親任官が各教区を巡回した。しかしパリ高等法院やカトリックの聖職者たちはともすればこの勅令を非寛容な方向に厳密に解釈して適用しようとし、種々の訴訟を起こして改革派を陰に陽に弾圧しようとした。改革派にとって最大の後ろ盾であったアンリ4世の暗殺後には、改革派内部に明確な亀裂が生じ、北部のパリノルマンディーの改革派は王権への服従とカトリックとの妥協を目指す「穏健派」を形成し、南部のギュイエンヌラングドックの改革派は「強硬派」を形成した。「穏健派」は徐々に王権神授説に傾いた。

アンリ4世の死後摂政となった妃のマリー・ド・メディシスは改革派に配慮を示していたが、成人したルイ13世は改革派に威圧的な態度を取った。1620年ルイ13世が、改革派が多数を占めるベアルヌ地方でカトリックを支持する裁定を下すと、改革派は反発し、その年の12月に開かれた全国会議で「強硬派」が優勢となって武装蜂起を決定した。ユグノー側の軍事的指導者となったのはロアン公アンリである。1621年から1622年にわたっておこなわれた戦いは、ほぼ王側の優勢のうちに決着したが、和平においてはルイ13世が譲歩する形でナントの勅令が再確認された(モンプリエ条約)。[要出典]

ユグノーの多く居住する地域(17世紀

しかしルイ13世はモンプリエ条約の遵守に熱心でなく、改革派は不満を隠しきれなかった。1625年に再び戦闘が開始されると、宰相リシュリューは改革派の拠点ラ・ロシェルを包囲し、ロアン公アンリ率いる改革派をうち破ったが、このときリシュリューは外交方針を変更して三十年戦争でプロテスタント側を援助することも考慮していたため、1626年には講和してモンペリエ条約を再確認した(パリ条約)。だが平和は短かった。1627年にリシュリューは再びラ・ロシェルを包囲し、改革派はイングランドの援助を受けたが、イングランド艦隊は有効な支援ができず、1628年10月ラ・ロシェルは陥落した。1629年には王軍がラングドックにも侵攻して決定的な勝利を得、またロアン公アンリを国外へ追放した。6月和平がなりアラスの勅令が出され、ここでナントの勅令が再び確認されたものの、改革派は武装解除され、これは「恩恵の勅令」と言われるように、王権が改革派を決定的に従属させるものであった。

1630年から1660年にかけての30年間は、王権への臣従姿勢によって改革派が比較的安定した時期を迎えていた。例えばリシュリューの庇護のもとアカデミー・フランセーズを設立したヴァランタン・コンラールも改革派の文筆家であった。とはいえ、この時期改革派に圧迫が加えられてもいる。リシュリュー死後、実権を握ったマザランは改革派全国教会会議の開催を禁止した。

ルイ14世が親政を開始すると、改革派の権利が徐々に剥奪されていった。まず1661年にフランス全土に官吏が派遣され、改革派の礼拝について調査が行われた。そしてさまざまな条例を発布して公職から徐々に改革派を閉め出した。1679年ドラゴナードという制度が定められ、これは竜騎兵を改革派の家に宿泊させ、暴力的威嚇によって改宗を強制するものであった[要出典][* 27]これに対して1683年に改革派の多い南部で散発的な抵抗運動が起こったが、すぐに鎮圧された。1685年にはついにナントの勅令廃止が宣言(フォンテーヌブローの勅令)され、改革派牧師の追放、改革派教会堂の破壊が命じられた。[要出典]

政治思想(モナルコマキ、リーグ、ポリティーク)[編集]

カルヴァンは信徒に反乱や抵抗を認めなかったが、カルヴァン死後のカルヴァン派は国家からの弾圧に抵抗し、1572年のサン・バルテルミの虐殺事件が発生した[36]。その翌年、ジュネーブのテオドール・ド・ベーズが『臣民に対する為政者の権利について』において、人民の同意しない僭主や、また正当な君主であっても権力を濫用する場合の抵抗権を主張したた[36]。ただし、ベーズは、抵抗する資格のない個人の権利については制限しており、抵抗する資格があるのは次位の為政者、具体的には大貴族や三身分会であるとする[37]

また、同年にはフランソワ・オーマンの『フランコガリア』が出され、ゲルマン人の伝統である等族国家の「祖先の良き法」によって絶対主義に対抗した[38]。ローマ人が専制政治を持ち込み、ゲルマン人には本当の自由があるという観念は、モンテスキューの「自由はゲルマンの森より」という文句にもあり、こうしたゲルマン的自由を制度にしたものが選挙王政や等族国家での立憲主義であった[38]

暴君への抵抗理論の絶頂とされるのが、ユニウス・ブルートゥスというペンネームの著者が著した『暴君に対する自由の擁護』である[39]。このパンフレットでは、君主は神の代理人として神の法を行う義務を負うと述べ、旧約聖書を引用して神と、君主、人民の間に契約があるという[40]。したがって、君主が神の法を侵した場合には服従しなくてよいとされる[40]。そしてベーズ同様に、王に抵抗できるのは次位の為政者である貴族だけであるとされ、ここでも等族国家をモデルとしたものであった[41]。また、近隣の暴君の支配に苦しむ国に干渉戦争をおこなうことは、真の宗教を擁護することであるとして肯定される[42]

このような暴君放伐論者にはモナルコマキ(Monarchomachs)とあだながつけられた[42]

カトリック側でも虐殺は行き過ぎだとする意見が出てくるとこれに反発したイエズス会などカトリック強硬派が、ユグノーをもっと弾圧すべきであると主張し、リーグとよばれた[43]。1584年に王弟が死ぬと、王位継承者がナヴァル家のアンリになると、ユグノーの王が出現することになるので、これに反発するためにユグノーのモナルコマキを借用して、権力は人民から来ており、契約違反があれば抵抗権が認められると主張した[43]。イエズス会のロベルト・ベラルミーノは『至高の権力について』で、教皇の権威を強調し、ジャン・ブーシェが国王アンリ3世暗殺後に『アンリ3世の正統な退位について』でアンリは契約違反であったと論じた[44]。このほか、イスパニアのマリアナとかフランシスコ・スアレスがおり、スアレスは国法と自然法を区別したことによってグロチウスの先駆者とされる[45]。しかし、リーグの教皇至上主義(ウルトラモンタニズム)は、フランスの利益という観点から支持されなくなり、また暗殺のような手段をとったことで勢力を失った[45]

一方で、国家を重視し、宗教よりも世俗の秩序を優先させる、いいかえれば宗教上の寛容によって内戦を終結させるポリティークと呼ぶ勢力が出た[46]。ポリティークの支持者はブルジョワジーであり、宗派の争いによる政治の混乱を避けた[47]。ポリティークの代表的論者はジャン・ボダンである。ボダンは国家を「多くの家族とそれらの間で共通の事柄との主権的権力を伴った正しい統治」と定義する[48]。家族は家父長のもとに統治され、さらに家族と家族の武力抗争の結果、勝ったものが主権者となり、勝った主権者に従っていたものは国民になり、負けた者は奴隷になるとした[49]。ここでの国民(citoyen)とは、他人の主権に依存する自由な臣民(sujet)である[49]。ボダンは中世的な国王大権を発展させて、主権概念をつくった。この主権とは、国家を支配-被支配の関係で捉えた際に支配者側が持つ絶対的な権限のことで、国王にのみ固有のものである。彼によれば、「国家の絶対的な権力が主権」であり、「主権による統治が国家」である。つまり主権は国家そのものと不可分である。要するに、伝統的な封建制や従来の身分制社会では、国王と末端の被支配者である人民との間に、大貴族や群小の領主のように中間権力が存在したが、ボダンは主権を設定することによって、中間権力を排除して、支配者と被支配者の二者関係で国家を定義した[50]これによりモナルコマキたちが主張した、貴族などが支配権の一部を分担しているという観点から抵抗権を認める暴君放伐論を否定した。この主権概念と対立するのは伝統的な普遍支配権を主張する皇帝と教皇である。まずボダンは皇帝を選挙によって選ばれるのであるから、選挙を行なう支配者たちの主権を譲渡された受益者に過ぎないとこれを主権から外す。また教皇の至上権に対しては、国家の自律性・自然性を強調し、領域国家内の政治から宗教上の争いが排除されなければいけないとして政教分離を主張した。[要出典]

宗教改革と低地地方[編集]

メルセン条約によって東フランク西フランクに分属することとなった低地地方[* 28]は中世後期に至るまで政治的統一とは無縁であった。しかしながら、14世紀ヴァロワ=ブルゴーニュ家の支配下にはいると、地域の政治的統一が促進されることとなった。その後、同家の断絶によりハプスブルク家がこの地を相続し、中央集権的な支配を及ぼそうとしたが、これに対して低地地方の貴族は不満を募らせ1568年に反乱し、やがて北部はオランダ共和国として独立した。オランダ共和国は改革派が多数であったわけではないが[* 29]、独立の過程においては改革派が主導的な影響を及ぼし、やがて改革派の中心国家として台頭することになった。

低地17州の歴史的経緯[編集]

ディジョンにあるブルゴーニュ公の宮殿

12世紀までに、低地地方にはホラント伯やゲルデルン公、ブラバント公エノー伯ルクセンブルク伯フランドル伯などの世俗領主、ユトレヒト司教やリエージュ司教といった教会領主が分立割拠していた。11世紀後半ごろからこの地域に対する神聖ローマ皇帝の圧力は減退していき、低地地方は徐々に英仏両国の影響を受けるようになっていった。

低地地方南部で徐々に強大な勢力を確立したフランドル伯は、フランスとの対立を深め、とくにフランドル伯支配下の都市はイングランドとの通商関係での結びつきがあったことから、イングランド王に接近した。フランドル伯ボードゥアン9世の時代には、ノルマンディをイングランド王ジョンから取り上げたフィリップ2世がフランドルを窺う情勢となった。つづくボードゥアンの娘ジャンヌの時代に、イングランド王ジョン・神聖ローマ皇帝オットー4世と同盟し、フランス王権に挑戦したが、1214年ブーヴィーヌの戦いで敗北した。以降フランドルはしばらくの間フランス王権の掣肘を受けることとなる。

14世紀半ばに同地は相続を通じてブルゴーニュ家のフィリップ豪胆公の支配下に入り、この公国のもとで政治的統一が進められた。公国は財政的にも低地地方に大きく依存しており[* 30]、自然と公国の重心も低地地方へと移動した。このころすでに聖職者、貴族、有力都市民からなる身分制議会が低地地方でも開かれていたが、あらたに課税賛否権と請願権を与え、この議会は「全国議会(エタ・ジェネロー)」[* 31]へと発展した。

14世紀にルクセンブルク伯領を領していたルクセンブルク家の当主が相次いで神聖ローマ皇帝となり、同家はやがて神聖ローマ帝国の東方に広大な家領を形成した。カール4世の時代にルクセンブルク伯はルクセンブルク公へと格上げされ、同家は最盛期を迎えるが、やがて15世紀初めには同家の男系は断絶し、その支配地域の多くは相続を通じてハプスブルク家の手中に収まった。

1477年シャルル突進公がロレーヌ・アルザス・スイス軍との戦いで戦死すると、フランス国内のブルゴーニュ公領はたちまちフランス王権に回収され、相続者マリーに残されたのは低地地方とフランシュ=コンテのみであった。マリーは同年ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と結婚し、これらの地域もまたハプスブルク家の支配に収まった。

ハプスブルク家の統治(カール5世とフェリペ2世)[編集]

カール5世の「帝国」(1547年)

1506年フィリップ端麗公が急死すると、その長子シャルルが公国を相続し、1515年1月に全国議会で即位した。さらにシャルルは1516年にはカスティリャ・アラゴン両王国の君主となり、1519年には対抗馬のフランソワ1世を破って神聖ローマ皇帝カール5世となった。こうして東はトランシルヴァニアから西はスペインにいたる、ヨーロッパ全体を包含するかのような「帝国」が形成された。この帝国には一体的な国家組織がなく、個別の国家がただ単にカール5世のもとに集約されているに過ぎなかったが、低地地方はその中で位置的には辺境であるにもかかわらず、対フランスの軍事的・政治的拠点であり、さらにアントウェルペンの金融は「帝国」の重要な財源であった。カールは低地地方の行政的中心をブリュッセルにおき、中央集権化を進めて政治的統一を促進させる一方、周辺地域の武力的制圧をすすめ、メルセン条約以来分断されていた低地地方を初めて統一した。低地地方が17州[* 32]と呼ばれるのは、このカール5世が帯びた、低地地方の17の称号に由来し、1548年のアウクスブルク帝国議会で正式に承認された。1549年には低地地方が「永久に不可分」な形でハプスブルク家に継承されることを定めた国事詔書(プラグマティック・サンクシオン)が発布され、全国議会で承認された。

カール5世に続いて低地地方を支配したのは長子フェリペであった。フェリペもカール5世の基本路線を継承し、法典や裁判制度の統一をはかり、低地地方を中央集権化しようと試みた。低地地方の政治の実権はグランヴェルなどの寵臣が握っており、オラニエ家などの大貴族と対立した。フェリペは低地地方での支配権を強化するため、低地地方での教区再編を計画し、1559年7月教皇パウルス4世から許可を得た。これにより低地地方に3つの大司教区[* 33]が新設され、これらの司教区の司教には従来王権の下で異端審問に関与していた神学者が多数登用された[* 34]。このころフランスから多数の改革派が流入し始めていたので、宗教的な緊張が高まり、低地地方に不穏な空気が流れ始めた。

アルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレド
「鉄の公爵」と呼ばれた。彼の設けた「騒擾評議会」は別名「血の裁判所」と呼ばれるほど苛烈で、低地地方を苦しめた

1565年フェリペが改めて低地地方での異端審問の強化を命令すると、下級貴族は反発を強め、1566年には異端審問の中止を求める訴状を執政マルハレータに提出した[* 35]。マルハレータは異端審問の一時緩和を発表したが、これにより改革派が公然と低地地方で活動を開始するに至った。

フェリペは低地地方での支配権を強化するため、低地地方での教区再編を計画し、1559年7月教皇パウルス4世から許可を得た。これにより低地地方に3つの大司教区[* 36]が新設され、これらの司教区の司教には従来王権の下で異端審問に関与していた神学者が多数登用された[* 37]。しかし、この頃フランスから多数の改革派が流入し始めていたので、宗教的な緊張が高まり、低地地方に不穏な空気が流れ始めた。

1566年フランドルでカトリック教会や修道院を狙った暴動が発生し、その反乱は低地地方各地へと広まった。フェリペが重税などの圧政を行っていたため、まだプロテスタントが浸透していない北部にまで暴動は拡大した。この暴動は一見宗教的動機に隠されてはいるが、そのうちに深刻な経済的理由が存在していた[* 38]。この年は北欧での大規模な戦争によってバルト海方面からの穀物流入が激減し、食糧難と経済危機によって低地地方の人々は苦しんでいたのである。1567年8月、フェリペは事態の収拾を図るため、アルバ公に指揮権を与え軍隊による介入を指示し、1万ほどの軍勢とともに派遣した。アルバ公は「騒擾評議会」なる特別法廷を設置し、暴動の参加者を徹底的に弾圧した。さらに12月にはマルハレータに替わって執政になり、ネーデルラント貴族にこの暴動の責任を問うた。1568年6月5日、異端撲滅の名の下に、エフモント伯ラモラール、ホールン伯フィリップを含む大貴族20人余りがブリュッセルで処刑された。この際、大貴族の一人であったオラニエ公ウィレム1世1567年4月すでにドイツに逃れており無事だったが、彼ら亡命貴族の財産・領地の多くが没収された。1569年には十分の一税を導入して、スペインの財政改善のために低地地方に経済的圧迫をもたらした。

八十年戦争とオランダ共和国[編集]

ドイツに逃れていたオラニエ公ウィレムは1568年4月に軍を率いてオランダ北部と中部から一斉に進攻するが、5月23日ハイリハレーの戦いに勝利したものの、結局は失敗に終わった。ウィレムはフランスのユグノーに合流し、「海乞食(ワーテルヘーゼン)」を組織して低地地方の沿岸を無差別に略奪した。1572年4月1日海乞食はブリーレの占拠に偶然にも成功し、やがて港湾都市を少しずつ制圧していった。同年7月ホラント州は反乱側に転じ、ウィレムを州総督に迎えることとした。ホラント・ゼーラント2州に海乞食が足場を整えると、改革派が続々と流入し、徐々に主導権を握るようになった。1573年2月にはホラント州でカトリックの礼拝が禁じられた。

1576年には給料の未払いから低地地方に駐留していたスペイン軍が略奪に走ると、スペインに協力的であった南部州も反乱州との提携に転じ、ヘントの和約が結ばれた。和約は全部で25か条あるが、最初の3か条はとくにこの条約の基本性格を表していると考えられている。第1条ではスペイン王による無条件大赦を要求し、第2条では諸州の連帯と低地地方の平和維持を規定、第3条では宗教問題など諸州の問題を解決するために全国議会を開くことを決めていた。しかしながら、この和約は全く効果的な裏付けを欠いていた。そもそも約束された諸問題の解決のための全国議会は結局開かれなかったし、条約は北部と南部が互いに都合良く解釈する余地を残していた。たとえばフェリペ2世の意向を気にする高級官僚は早くも1576年11月9日づけの国王宛書簡で「和約」を容認したやむべき経緯を釈明した上で、和約の実施にあたっては修正を加えることを示唆している。同様にオラニエ公ウィレムの側でも、側近がイングランド宛の書簡で宗教問題について、ホラント・ゼーラント両州では全く妥協する気がないことを述べている。このようにヘントの和約は全くその場限りの一時的な妥協に過ぎず、永続性を欠いており、状況の推移によって簡単に崩れる脆い地盤の上にあった。

三十年戦争とヴェストファーレン条約[編集]

三十年戦争1618年1648年)でもカトリック勢力とプロテスタント勢力が衝突した[51]。要因は宗派対立だけでなく、皇帝と帝国等族の対立、領邦君主と領邦等族の対立などもあったが、引き金は宗派対立であり、ヨーロッパ最後の大規模な宗教戦争となった[4]。大きくはボヘミア・プファルツ戦争(1618年 - 1623年)、デンマーク戦争(1625年 - 1629年)、スウェーデン戦争(1630年 - 1635年)、フランス・スウェーデン戦争(1635年 - 1648年)の戦争がある。

プロテスタント諸侯とカトリックの対立は1570年代以降に深刻化し、ケルン大司教職を巡る紛争ではカトリックが勝利した[4]1608年、カルヴァン派のプファルツ選帝侯によってプロテスタント同盟(ウニオン)が結成されるとオランダが協力し、対抗してバイエルン選帝侯によってカトリック連盟(リガ)が結成されるとスペインが後押しをした[4]。さらにクレーヴェ大公没後の継承問題でブランデンブルクとフランスが前者に、プファルツ・ノイブルクと皇帝が後者の陣営についた[4]

1617年ボヘミア王となった反宗教改革の強硬派ハプスブルク家フェルディナントがプロテスタント弾圧を開始すると、領邦等族が対抗してフェルディナントを罷免し、新教同盟のプファルツ選帝侯フリードリヒ5世を新国王にした[4]。フランクフルトでフェルディナントが皇帝に選出されると、スペインと旧教連盟と組み鎮圧に向かい、ボヘミアの反乱勢力は処刑されフリードリヒ5世はボヘミアを追われた[4]。以後ボヘミアはカトリック化政策が断行された[4]

1621年には旧教軍がプファルツに侵攻し占領すると、脅威を感じたフランスはオランダ、イギリス、デンマークに働きかけハーグ同盟を結び戦争となった[4]。皇帝・旧教軍が優勢となり、皇帝は1629年の復旧勅令で1552年以降没収された教会領地をカトリック側に返還することを命じた[4]。これは皇帝権のピークであり、皇帝絶対主義を意味した[4]

西ヨーロッパの主要国が参戦した三十年戦争は、ヨーロッパ全域に多大な影響を与えることとなった。講和条約のヴェストファーレン条約によって、フランスとスウェーデンがドイツの保証国となり、帝国等族の自立が強化され、神聖ローマ帝国ハプスブルク家は弱体化した[4][52]。ドイツの経済や都市も破滅的な損害をうけ、ドイツの後進性が決定づけられた[4]。他方、領邦的分裂は文化や教育の普及をもたらした[4]

また、条約でフランスの優位が規定されヴェストファーレン体制が形成され、国際法勢力均衡の視点が芽生えたといわれる[53][54]が、近年はヴェストファーレン条約によって国際法が開始したというのは19世紀の神話であると指摘されている[55]

絶対王政と啓蒙主義[編集]

宗教改革によってヨーロッパにおける宗教が多元化し、宗教戦争への反省のなかから、寛容の思想が勢力を増した[56]

フランス王国ではガリカン教会(フランス教会)の教皇権からの独立を求めるガリカニスムによって[10]ルイ14世1685年フォンテーヌブローの勅令でナント勅令を廃止すると、50万人のカルヴァン派ユグノーが国外へ逃れ、宗教的寛容や宗教的自由をめぐる議論が活発化し、ピエール・ベールクリスティアン・トマジウスなどが著作を執筆した[57]。カルヴァン派のピエール・ベールは「迷える良心」は人間の自由の表現であるとして、信仰の強制や、宗教的迫害を正当化するガリカニスムを批判した[58][10]。しかし、ベールはカトリック教徒を装って偽名で小冊子『亡命者への忠告』を発表して、論敵であったプロテスタントのピエール・ジュリューを批判した[59][10]。ベールは、ジュリューの千年王国説的な予言は当たらなかったし、無政府状態や共和主義は深刻な災いをもたらすと批判して、ユグノーは自分たちのために寛容を要求するが、カトリックに信仰の自由を認めるのかと改革派へ反省を促した[10]

1761年、宗教対立の続いていたトゥールーズにおいて、新教徒のジャン・カラスがカトリックに改宗した息子を殺害したとして死刑判決を受けたカラス事件が発生した[60][10]ヴォルテールは1763年に『寛容論』を書くなど再審運動を起こし、1765年国王諮問会議は判決無効を宣告し、カラスは無罪で名誉回復となり、この事件はカトリック側の不寛容を象徴する事件となった[61]

1762年の『社会契約論』においてルソーは宗教を3つに分けて、「聖職者の宗教」(カトリック)は「ひとびとに二つの法体系、二人の首長、二つの祖国 を与えて、人々を矛盾した義務に従わせ、人々が信者と市民の役割を使い分けるように仕向ける」として否定し、ギリシアとローマなどの「市民の宗教」は神への礼拝と法への愛とを結びつけ、祖国を熱愛の対象とするよい宗教だが、自国民以外に対して排他的で不寛容なこともあるとし、さらに純粋な福音の宗教としての「人間の宗教」において人間はすべて互いに兄弟となるが市民たちの心を国家からも引き離してしまうので、社会的精神に反するとして批判した[62]

寛容思想は各地で実現へと向かい、オランダが最初に宗教的寛容を実現し、イギリスでも国王への忠誠を誓い法王を否定するかぎりで非国教徒も寛容の対象となった[57]。その後は、アメリカ憲法修正条項からフランス革命でも受け継がれた[57]

ブランデンブルク=プロイセンでは1671年ブランデンブルク選帝侯プロイセンフリードリッヒ・ヴィルヘルムがオーストリアから追放された富裕なユダヤ人家族に定住許可を与え、保護状が与えられた[57]プロイセン王国では。1730年フリードリヒ・ヴィルヘルム1世プロイセン国王がユダヤ人基本法でユダヤ人の権利を制限し、1750年に啓蒙専制君主として知られたフリードリヒ2世が改定特権規則基本法で、ユダヤ人の権利と資格を六級に区分して、一級は一般的特権、二級は正規保護、三級は臨時保護、四級はコロニー公務員、五級は恩情による居住許可、六級は保護状を持ユダヤ人の使用人とされ[57]ハプスブルク帝国ではヨーゼフ2世1781年にユダヤ人に対して寛容令を発布したが、目的は同化政策であった[57]

アメリカとフランスの革命を契機として寛容思想が普及し、19世紀のヨーロッパで制度的再編に乗り出した[14]

フランス革命と政教分離[編集]

アンシャンレジーム(「旧体制」)におけるカトリック教会は、国教としてフランスの王権と一体化しており、文化の面でも行政の面でもブルボン朝による絶対王政を支えていた[63]。フランス全土に網の目のように張り巡らされた教区教会は、1667年民事王令以降、教区司祭のもと洗礼証書・婚姻証書・埋葬証書の認証というかたちで戸籍業務を一手に担い、教区内住民の生誕、結婚葬送に関する一切の記録を納めていた[63][64][65]。王から発せられる命令もミサ祭壇から教区の人びとに告知された[65]。教会組織はまた、民衆向けの医療福祉教育などの機能もはたしており、人びとの日常生活に深く入り込んで王政による臣民統合を基礎づけるものとなっていた[63][65][* 39]。一方、カトリック教会は、教区民の助言者であり、告解やミサを通じて信者の生活規範を点検する道徳統制者でもあり、また、常に信者本人や家族に対して日々の信仰生活のありようを問い、その冠婚葬祭に際して宗教的な証しを求めた[64][65]プロテスタントの信徒はといえば、カトリック教会の台帳には登録されなかったため、たとえば結婚については正式なものとは認められず、したがって、正式な夫婦でない男女から生まれた子どもたちもまた社会的には私生児として扱われた[64]。そして、洗礼証書(現代でいう出生証書)のない死者の埋葬には、しばしば大きな困難がともなったのである[64]。プロテスタントやユダヤ教徒は「不法に」ではなく、いわば「合法的に」差別されていた[64]。その状態に変化の兆しがみられたのは、国王ルイ16世の名においてプロテスタント諸派に信仰の自由と戸籍が与えられた1787年のことであり、ここにみられる「宗教の相対化」はしたがって後述するフランス革命の所産ではなく、「啓蒙の世紀」が培ったものであったといえる[64]

憲法制定国民議会と1791年憲法体制[編集]

「バスティーユ襲撃」(ジャン=ピエール・ウーエル英語版画)

一方、1780年代のフランスの国家財政は疲弊の極に達していた[66][67]テュルゴーネッケルによって試みられた財政改革は停滞し、後を引き継いだカロンヌブリエンヌらの改革も不調に終わって再びジャック・ネッケルが財務総監に任命された[66]1789年5月、国王ルイ16世は財政問題の抜本的な立て直しのために3身分(聖職者326人、貴族330人、平民661人)の代表計1,318人による全国三部会ヴェルサイユに召集し、事態の改善をめざした[67][68][* 40]。しかし貴族たちは新しい租税制度に反対し、一般総会の開催を国王に求めた[67]アベ・シェイエスをはじめとする第三身分(平民)は自分たちこそがフランス国民の代表者であると主張し、みずからの会議を国民議会と称し、憲法が制定されるまではどんな圧力があっても議会を解散させないと誓い合って立憲王政をめざした[67][69]。これに第一身分(聖職者)議員の大部分と自由主義を支持する第二身分(貴族)の議員が合流し、1789年7月9日憲法制定国民議会が発足した[67][69]。事態が急展開をみせたのは7月14日のことである。政府が外国人傭兵をかき集めてパリ駐屯隊を強化する方針を定めたという噂が流れ、また、7月11日に財政問題を唯一解決できるとみなされていた穏健改革派のネッケルが罷免されたという情報に接したパリの群衆が激怒し、この日、バスティーユ牢獄を襲撃して、武器を奪い、ここを占拠した[67][69]。まもなく騒動はフランス全土におよび、後世「大恐怖」と称されるパニック状態が農村各地に広がった[69]。貴族の邸宅は農民たちによって襲われ、土地台帳は奪われて焼き捨てられた[67][69]。国民議会は、オノーレ・ミラボーらの主導のもと、大恐怖に対応するため改革を急ぎ、8月4日、封建的特権の廃止(有償)を宣言した[70]。議会はまた、8月26日十分の一教会税の廃止を決議し、憲法前文として、ラファイエットらの起草による「人間と市民の権利の宣言」が採択され、自由平等国民主権言論の自由私有財産の不可侵などの諸原則がここに示された[67][70]。いわゆる「フランス人権宣言」である。

1789年8月26日「人間と市民の権利の宣言」
モーセの十戒」の図像学的な伝統にならい2枚の石版に記されていることが注目される[64]

フランス人権宣言では、国家は「人の消滅することのない自然権を保全する」という世俗的目的のための「政治的団結」であるとされ、フランス国家はここにおいて、真理への奉仕や神の喜捨にではなく、自由で平等な「個人」の意思のうえに基礎づけられた[1]。ここにおける「個人」とは、信教の自由という権利を有し、宗派にかかわりなく平等であることを保障された、世俗的な存在として想定された自律的な個人であった[1]。ここに、国家と宗教の関係について「中立化」という方向づけが明確になったのである[1]。とはいえ、この段階では、フランスの国会と教会はまだ必ずしも分離されていなかった[67]

十分の一教会税の廃止は、これまで自弁で維持してきた聖堂学校神学校施療院捨て子養育院、貧民救済などの諸事業にかかわる財産の一切を放棄し、国庫に全面的に依存することを意味しており、教会はまた、9月末には教会が所有する金銀製の聖器や装飾品などの類も礼拝儀式に必要なものを除いてすべて国庫に供出することに同意した[71]。国民議会は、1789年10月より教会の組織再編を審議しはじめ、これはカトリック聖職者の自治およびその排他的権利にとっては脅威となった[72]

1789年11月2日フリーメイソン会員で啓蒙思想の影響を強く受けたオータン司教のタレーラン・ペリゴールが憲法制定国民議会に対し、修道院を含む全教会財産の没収と国有化を提案した[67][71][72]。議会はこれを採択し、国家が祭式費用と聖職者の給与を負担することを決めた[67]。教会所有地は、フランス王国の2割に達していただろうと考えられ、その資産総額は約30億フランに達した[71][73]。接収した土地の一部は1890年5月と7月に出された政令にもとづいて売却された[73]。教会財産の国有化は、かつてプロテスタントの君主が自領でおこなった改革であったが、革命前後の混乱と税金不払いの拡大のため、財政状況のさらなる深刻化から非常措置もやむをえないとされたからであった[72][74]。これによりフランス国内の司教と司祭は、神聖で特別な立場から国家公務員という立場となり、すべて一定額以上の租税負担を負うことのできる有権者(「能動市民」)によって選ばれる身分となった[67][74]1790年3月には財政悪化がさらに進行したため、見積もられた国有資産となった教会領を担保とする5パーセントの利子付き債券「アッシニア」の発行が決定された[72][73]。教会に関する国民議会の当初方針は、道徳的基盤としての教会の存続を脅かすことではなく、聖書者および聖職者による教育・慈善事業の国家管理であった[72]。しかし、かねてより無益で費用がかかりすぎるとして多方面より批判があった観想修道会などについては廃止が決定された(1790年2月13日1792年8月18日の法令)[72]。これにより実体のともなわない男子修道会の統廃合が進んだが、教育や医療にかかわるものについては除外された[71]。修道僧の強制的な還俗も含むこの措置は世俗権力による宗教そのものへの侵害を意味したが、ほとんど抵抗なく実施された[71]

1790年2月13日の聖職者の終身誓約と修道会の廃止をうけて自由を喜ぶ修道士[* 41]

2月13日の法令では、行政は教区聖職者の組織体系にまでは干渉していなかった[71]。しかし、1790年7月12日、行政権力の力で教会の粛正と再編を図る聖職者民事基本法(聖職者市民法)が議会を通過した[67][75]。従来135あった司教区は新たに導入された県にあわせて83に削減され、18名いた大司教も10名までとされた。市町村の小教区も人口にあわせて再編された[75]。聖職者の位階も単純化され、すでに有名無実化していた役職・聖職禄は全廃された[75]。また、修道誓願の禁止、観想修道会の禁止、聖職服の禁止等々が定められた[67]。教区司祭と司教は、適性や資格が審査されたのち、行政単位ごとに選挙集会の選挙において俗人によって選ぶこととした[72][75]。つまり、これは行政改革の原則が教会組織にまで拡大されたことを意味している[72][75]。聖職者民事基本法の本質は、教会は国家と市民社会に従属しなければならないというものであり、一面ではガリカニスムの論理的帰結でもあったが、これは、ローマ教会としては到底受け入れがたいものであった[72][75][76][77]。当初ローマ教皇ピウス6世は聖職者民事基本法に対して態度を保留していたものの、すべてのフランスの聖職者が公務員として革命政府に忠誠の誓いをたてなければならない(1790年11月17日の法令)と定められるや、1791年3月から4月にかけてこの法令の内容を公然と非難しつづけた[67][72]。多くのフランスの聖職者たちは当初、教会の民主化を喜んで受け入れたものの、135名の司教のうち宣誓に応じたのはタレーラン含めて7名のみであり、教区で直接信徒に接する司祭や助祭は約半数近くに相当する2万4,000名あまりが宣誓を拒否した[75]。全体の5割ないし6割が国家への忠誠を誓ったものの、ローマ教皇がこのように否定的態度を鮮明にすると、宣誓を撤回した聖職者も少なくなかった[72]。また、教皇がどのような意見がわからないまま不本意ながら聖職者民事基本法に署名したルイ16世は、のちに教皇の見解に接したとき暗澹たる表情を示していたという[74]

議会の命令で聖職者に宣誓を強制しようとする様子を描いた風刺画(1791年)

フランスの教会はタレーランに指導された「憲法派教会」と宣誓を拒否した正統教会に分裂した[67]。信仰心の篤い地域では、宣誓僧は無資格僧とみなされ、「ユダ、裏切り者」と罵倒され、宣誓拒否僧は聖人扱いされることも多く、しばしば宣誓拒否僧自身が反革命を煽動したこともあったのに対し、革命派の勢力が盛んだった都市部などでは宣誓を渋る僧に対して民衆が圧力をかけ決断を強制するようなところも少なくなかった[75]。「宣誓か縛り首か」を迫られた聖職者もあれば、宣誓拒否をしたために、槍や鎌をもった群衆によって「異端」宣言され、追放された聖職者もあった[75]。こうしたフランス全土におよび深刻な分裂は1801年ナポレオン・ボナパルトによるカトリック教会の復興まで続いた[67]。ピウス6世にしたがって宣誓を拒否した聖職者に対する弾圧は伝統的な宗教生活にとっては致命的なものであったが、一方ではヴァンデの反乱(後述)をはじめとする反革命に大きな力をあたえる契機ともなった[67][75]。国家が反聖職者的、反宗教的な諸法を次々に制定すると、カトリックの伝統を支持する地域住民の多くは、神と彼らを仲介する存在として長らく機能してきた教区司祭を守ろうとし、アンシャンレジームの復興を強く希求するようになった[67][72]。こうして教会内部での抗争は激化したが、過激派が勢いを得た革命政府は1791年にローマ教皇庁と断交し、当時教皇領だったアヴィニョンコンタ・ヴネサンフランス語版を占領した[67]

憲法制定国民議会は、1791年 9月3日、フランス初の憲法(1791年憲法)を可決し、これはまもなく国王ルイ16世によって承認された[78]。この憲法は、教会を国家権力のもとにおき、権力の世俗化を図ることを一つの特徴としていた[79]。これに先立つ新しい地方行政制度やギルドの廃止を定めたル・シャプリエ法、上述したアッシニアの発行、聖職者民事基本法、あるいは、そのほか行政や財産に関する法令が次々と成立したが、1791年憲法とこれらの一連の法令にもとづく体制を1791年憲法体制という[76][77][79]。ここでは、権力の世俗化とともにギルドなどの社団的な中間権力をなくして権力の一元化が推し進められた[79]。1791年憲法では、税の支払能力によって能動市民と受動市民とに分け、能動市民による制限選挙によって選ばれた議員による、一院制の新しい議会をひらくことが定められた[76][77][78][* 42]。。こうした自由主義的な立憲君主制が軟着陸するためには、国王側の協力が条件となっていたが、革命側からすれば、これが不確実なものと理解されていた[77]。議会が二院制論をしりぞけ、立法機関の行政機関に対する優位を強調して国王拒否権に難色を示したのも、宮廷に対する疑念からであった[77]。国王一家がパリを脱出し、その日のうちにヴァレンヌで捕捉された1791年6月20日の事件(ヴァレンヌ事件)は、国民を見捨てようとした国王夫妻に対するこうした疑念を押しひろげ、それはときに激しい嫌悪をともなうものだったのである[80]

共和政フランスと反キリスト教運動[編集]

国民議会は制限選挙が実施されたことでその目的を終え、1791年9月30日立法議会(立法国民議会)に引き継がれた[78]。この議員の選挙では、国民議会議員の再選が禁じられていたので、新人ばかりの顔ぶれとなった[78]。議会では、立憲君主政の定着をはかるフイヤン派といっそうの民主化を求めるジロンド派が対立した。立法議会は、フランス国内の反革命運動を支援する外国との開戦を主張するジロンド派、また、それとは逆に敗戦によって革命の終結をもくろむ国王周辺の双方の意向におされ、1992年4月20日、国境地帯の亡命者とこれを支持する外国の軍勢に対し軍事行動をとることを可決した[78]。これは事実上、オーストリアに対する宣戦布告となった(フランス革命戦争[78]。これを受けてオーストリアと同盟したプロイセン軍がフランスに侵入、将校の大半が亡命していたフランス軍は弱体化しており、戦況は当初フランスに不利であったが、危機を感じたパリの民衆と全国から駆け付けた義勇軍テュイルリー宮殿を襲撃して国王を監禁、立法議会に対して、普通選挙制によって選ばれた議員から成る新しい国会(国民公会)の開設と新憲法の制定を約束させた(8月10日事件[78]。パリではこののち、9月2日より「九月虐殺」と呼ばれる大量殺戮が起こり、それは全国化して3名の司教と200名以上の司祭が憤激する暴徒によって殺害される惨事となった[81]

コンコルド広場でのルイ16世の処刑」(作者不詳、18世紀)

保守派が逃亡してジロンド派が多数派となった立法議会は、さらに領主貢租の無償廃止や宣誓拒否聖職者の国外追放などを決めたが、過激化したパリの民衆はジロンド派への圧力を強めた[82]。立法議会解散直前の9月20日、議会は住民の民事的身分を認証する役務を教区教会から地方自治体に移した[64][81]。結婚は役所に届け出ることが正規の手続きとされ、離婚の可能性が認められた[64][81]。これにより、離婚を認める世俗の法とそれを認めないカトリック教会の法は、婚姻に関する限り相容れないものとなった[64][81]。なお、この日はヴァルミーの戦いでフランス軍が勝利した日でもあった[82][* 43]

国王の逃亡や対外戦争の開始など緊張のつづく政治局面において、人びとの聖職者に対する視線もまた厳しいものになっていったが、戸籍の世俗化と離婚に関する法令は「憲法派教会」の存立基盤を揺り動かす意味合いさえ有していた[81]。教区簿冊すなわち戸籍簿の管理によってかろうじて自身の立場を維持していた憲法派・宣誓派の僧たちはもはや公務員的な役割さえ失うこととなった[81]。また、離婚法の制定は、カトリックで禁じられていた離婚・再婚を可能にしたばかりではなく、僧侶の結婚さえ合法化するものであり、教会法はもはや打ち捨てられたに等しかった[81]

1792年9月21日、男子普通選挙にもとづく国民公会がひらかれ、9月22日、王政の廃止が宣言されてフランス共和国が成立した[82]。ローマ教皇によって聖別される王政は否定されたのである[64]1793年1月21日、祖国に対する裏切りの罪で裁判にかけられた国王ルイ16世はシャルル=アンリ・サンソンの手によって、ついに断頭台の露と消えた[82]。これは、アンシャン・レジームとの決別を示す最後の象徴であったのと同時に、ヨーロッパの君主たちに対する挑戦でもあった[82]。フランス軍のオーストリア領ネーデルラント(いまのベルギー)占領に対し、英蘭両国がこれを脅威とみなしたところから、1793年2月、国民公会はオランダとイギリスに対しても宣戦布告した[82]。こののち、マクシミリアン・ロベスピエールを中心としてジャコバン派独裁がはじまり、サン・キュロットたちの意向に配慮した国民公会によって「国民の敵」に対する恐怖政治が展開された[82]。欧州で孤立無援の情勢となったフランスでは、国内にいる共和国の敵をどうしても殲滅しなければならないと考えられたのであり、一方で食糧危機がきわめて深刻化していた経済事情もこれに拍車をかけた[83][* 44]

「恐怖政治」の時期には、多くの聖職者が処刑され、追放された[67][83]。教会は閉鎖され、多くの建造物は破壊されて美術品も売りに出された[67][83]。こうした「非キリスト教化運動」(反キリスト教運動、キリスト教否定運動)が特に激しかったのは1793年秋から1794年春にかけてであった[83]。この運動は、知識人の反宗教感情と国民一般の反教権主義とが結びついたもので、宣誓を拒否する聖職者は「反革命的狂信者」と断罪された[83]。一方で、市民道徳と人間性回復の一環として「理性」と「最高存在」の崇拝が導入された[67][83]。これらは「革命的宗教」ないし「革命的諸宗教」とも称される[84][* 45]。1793年11月10日エベール派の主導によってノートルダム聖堂で「哲学」の名において「理性の祭典」がとりおこなわれた[83][84][85]。この祭典は以後、数か月にパリの各教会はじめ諸県の主要都市においてくりひろげられ、無神論的でアナーキーな性格をもつものであった[85]。これに対し、1794年5月7日法令に基づいて6月8日テュイルリー宮殿シャン・ド・マルス公園を中心に「最高存在の祭典」が挙行された[64][83][85]。その中心となったのはロベスピエール派であり、理神論的性格をもつものであった[84][85]。しかし、これらは宗教を否定していながらも実際には完璧な宗教儀式の外観を呈していたとも評される[64]。1793年11月、国民公会によって定められた共和暦(フランス革命暦)は、イエス・キリストの降誕を紀元とする従来のグレゴリウス暦に代わって採用された[64][83][86]。革命前から暦の改変を提案していたのはシルヴァン・マレシャルただひとりだったが、共和暦は1806年まで公式に使用された[64][86][* 46]。各月を等しく30日に、1日を等しく10時間にすることもおこなわれた[86]。地名もまた、サンテチエンヌがアルムヴィル(武装せる都市)に、サントロペがエラクレス(ヘラクレス)に改称されるなど、宗教色の強い地名は改名させられた[87]。これらはいずれも、日常生活から宗教を取り除く試みであった[83]

1793年11月、コミューンの活動家たちに連行されたパリ大司教英語版ジャン=バティスト=ジョゼフ・ゴベル英語版国民公会の演壇に立って僧職の離脱を宣言し、彼のミトラ(司教冠)は赤い「自由の帽子」に取り換えられた[81]。彼は、みずからの叙任状と十字架、司教用の指輪を壇上に置いて「革命が成った以上は自由と平等の宗教以外に国民的な宗教はもはや不要である」と述べた[81]。聖職者議員たちは次々とこれにしたがった[81]。僧職離脱を拒否してキリスト教の信仰告白をおこなった勇気ある議員はアンリ・グレゴワール英語版司教だけであった[81]。これ以降、聖職放棄は地方へも急速に波及し、憲法派僧すなわち教区僧2万6,542人のうち半数強にあたる1万3,000人ないし1万5,000人が聖職放棄の強制に応じた[81]。非教区僧を加えた聖職者全体は1万6,000人から2万人におよぶと考えられており、教区聖職者はアンシャンレジーム期の4分の1に落ち込んで、立憲教会体制はこうして内側から切り崩された[81]。聖職放棄には妻帯の強制をともなうことも少なくなかった[81]。僧侶の独身は「カトリック的偏見の産物」とみなされ、聖職者と市民を隔てる障壁と考えられた[81]。およそ6,000名の僧が教会法では許されない妻帯に手を染めた[81]。こうした聖職放棄や妻帯は国家への忠誠宣誓以上に人びとのあいだに聖職者への抜きがたい不信感を植え付けることとなった[81]

ジョゼフ・フーシェによって1793年10月に発せられた墓地令では、共同墓地から十字架さえ撤去されて、死者を見守るのはただ「死は永遠の眠りである」と記された墓碑銘だけとなった[87]死生観さえも世俗化され、以後、死と葬送は私事の領域へと移っていくこととなる[87]。共同墓地や教会から刈りだされた十字架は火刑の薪となり、告解の場もまた焼却されるか、哨舎に転用された[87]

革命初期におこなわれた教会の銀器や装飾品・祭具の没収が没収され、由緒ある教会・修道院も破壊されて蔵書などが失われた。鐘楼の鐘も没収され、祖国フランスの防衛のための砲弾として改鋳された[87]。聖人像はいたるところで首を刈られたり、引きずりおろされていた[87]イコノクラスム(聖像破壊)やヴァンダリズム(文化破壊)と称される「民衆的暴力」が顕現した[87]。神を冒涜するかのような火刑マスカラード(仮装行列)がしばしば民衆の熱狂を誘い、聖人像やローマ教皇をかたどった人形が火あぶりにされ、聖書やミサ典書、祭壇布といった従来神聖視されてきた諸物が焼かれ、聖職放棄僧の叙任状と一緒に火にくべられた[87]

「ヴァンデの反乱:ショレの民衆蜂起」(Paul-Émile Boutigny画)

こうした運動は、国民公会が派遣した議員が主導して行われたため、その徹底の度合いは派遣議員の熱意や地域性によるところがきわめて大きかった[83]。すでに教会の権威が低下していた中部の諸地域やパリ周辺、ノルマンディローヌ川沿岸地域などでは宗教的習慣がいっそう弱まったものの、一方では、伝統の無視とそれに対する攻撃にむしろ反発をつのらせ、聖職者が以前もまして崇敬されるようになった地域も少なくなかった[83]。民衆運動やジャコバン派は革命を反革命勢力から守りぬく決意を固めていたが、一方では、反革命の動きも顕著となった[88]。当初は亡命貴族、そして民衆の側からも反革命運動が激化・拡大していった[88]。公的役割をになうプロテスタントが増加したことに対する反発や怖れ、極端なキリスト教否定運動に対する反発、重税や徴兵、食糧やの徴用、革命政府の土地政策に対する不満などがその要因であった[88]。1793年3月にヴァンデ地方で起こったヴァンデの反乱では大多数の市民が教会の祭壇を守るために立ち上がった[67][88]。ヴァンデの民衆反乱は当初3万人規模を擁する大規模なもので、93年末にはほぼ鎮圧されたが、ヴァンデ、ブルターニュ、ノルマンディなどの西部地方では、その後も1795年ころまで「シュアヌリ英語版(フクロウ党)」と呼ばれるゲリラ組織がつくられ、地域住民からの支持を受けて政府軍への抵抗をつづけた[88]

1794年7月のテルミドールのクーデターによってジャコバン派の独裁は倒れ、1795年11月に国民公会が解散、同月、ポール・バラスジョゼフ・フーシェラザール・カルノーらによる総裁政府が発足した[89]。1795年10月4日にパリの王党派が武装蜂起した際、砲兵隊を率いて注目された若き将校がナポレオン・ボナパルトである[90]。ナポレオンは、鎮圧後、国内軍司令官に大抜擢され、以後、バラスの配下として活躍した[90]。1796年3月、総裁政府はナポレオンをイタリア方面軍司令官に任命し、イタリア戦役が開始された[91]。ナポレオンの軍はイタリア北部を席巻し、1796年5月10日ロディの戦いでオーストリア軍を破り、15日にはミラノに入城して旧ミラノ公国の領域を制圧した[91]。ミラノにはロンバルディア行政府が設置され、北イタリアでのパトリオット(愛国派)やジャコビーノ(イタリア・ジャコバン派)の活動の中心となった[91]。6月、ナポレオンは教皇国家北部のレガツィオーネイタリア語版に侵入してボローニャフェラーラを占領、モデナ公国から分離したレッジョモデーナも支配して、そこに「チスパダーナ連合」を結成させ、のちにチスパダーナ共和国を建国させた[91]。連戦連勝のナポレオンは総裁政府からの自立を強め、みずからの手でイタリア政策を推し進めて自身の政治的立場を強化した[91]1797年6月にはロンバルディアにチザルピーナ共和国を樹立してチスパダーナ共和国をこれに併合している[67]。ときのローマ教皇ピウス6世はナポレオンに対し強く抵抗したが、ナポレオンは1798年、教皇領全体を占領してローマ共和国を発足させた[67][92]。ナポレオン軍はさらにヴァチカンを占領して、ピウス6世はトスカーナに亡命したため、ここにローマにおける教皇の世俗支配は崩壊した[92]

コンコルダ体制へ[編集]

一方、聖職者世俗化法で「至高尊者」などの名の下にカトリックに代わる新たな公的祭祀が行われた[15]

その後、ナポレオンと教皇ピウス7世によるコンコルダ(政教条約)によって、フランスはカトリック中心の公認宗教制となった[15]。このコンコルダ体制では、プロテスタント、ユダヤ教も認可したものの、カトリック国教制であった(1814年憲章、1830 年憲章・1848 年憲法)[15]

第三共和制のもとで国家の非宗教化・中立化(ライシテ)が進んで、1905年の教会国家分離法が施行された[15]


脚注[編集]

[ヘルプ]

注釈[編集]

  1. ^ 従来説のようにヴィッテンベルク城の聖堂の扉に掲載されたという説は現在疑問視されている。
  2. ^ たとえばツヴィングリ、カルヴァンなどほかの改革派はルターのプロテスタンティズムを教義において保守的であると批判している。またルターの教義の核心である信仰義認説については1511年に枢機卿コンタリーニがルターとは無関係にこの結論に達しており、同時代ではイングランドメアリー女王のもとでカンタベリー大司教であった枢機卿ポール、人文主義者でケルン司教区の改革に従事していたグロッパーなどが個別に信仰義認説に到達している。コンタリーニ、グロッパーなどはカトリックの穏健派で、論争に際してはルターとの和解を模索した。
  3. ^ しかし、ルターはアウグスティヌスの教会論を意図的に斥けているように見える。アウグスティヌスはドナティストとの論争において、彼らが教会に分裂をもたらしかねないことが問題であるとした。教会は唯一であるべきというのが彼の考えであった(A・E・マクフグラス『キリスト教思想史入門』pp.103-112)。
  4. ^ アウグスト・フランツェンによれば、ツヴィングリがルター思想の影響を受けるようになるのは、1519年のライプツィヒ討論以後のことでしかも非常に限定的であり、1522年まではエラスムスの影響が顕著であるという(アウグスト・フランツェン『教会史提要』p.245)。A・E・マクグラスによれば、北ドイツの宗教改革に対し、スイスの宗教改革には人文主義の著しい影響が認められる(アリスター・マクグラス 2000, pp. 85-92)。
  5. ^ ツヴィングリはこのような自治組織の権威は神に由来し、聖書の解釈をする権威さえも保持していると考えた(アリスター・マクグラス 2000, p. 285)。
  6. ^ しかし一方でルター訳聖書が近代ドイツ語の基礎となったように、文化的側面においてはドイツの統合をもたらす側面もあった。[要出典]
  7. ^ 斎藤泰「帝国国制における原スイス永久同盟」『スイスの歴史と文化』p.19。そもそもこの事件の結果とされる盟約者団結成も物語での1308年のことではなく、1291年8月1日のことである。
  8. ^ 帝国直属という地位は帝国都市と同等であり、他の諸侯の影響を受けないことから「帝国自由」と呼ばれ、国家形成に通じる自治を可能にするものであった[要出典]
  9. ^ このシュヴィーツに下された特許状がフリードリヒ2世の破門中に出されたものであり、かつ誰から皇帝が買い戻したかが書かれていないことが、こののちしばしば争点となり、ハプスブルク家はその点を指摘して証書を無効と見なすことが出来たのである}}。
    「永久同盟」文書
    1291年8月1日、ウーリ・シュヴィーツ・ニトヴァルデン三者がハプスブルク家を意識しつつ、相互援助を約した。現在のスイスでは、この同盟締結の年を建国の年としており、8月1日はスイスの建国記念日である
  10. ^ オプヴァルデン渓谷は盟約結成直後に参加している。
  11. ^ しかし、この通説に対する有力な異説として、この戦争をマクシミリアン1世は皇帝としてではなく、ハプスブルク家の当主として戦っているのであり、したがってこの戦争は地方的な紛争に過ぎないとするものがある。この異説は1947年、H・ジークリストによって提唱され、1958年の著書において、K・モムゼンもこの見方を継承する。[17]
  12. ^ このころ諸州の代表団によって形成された「大同盟」議会が同盟内で唯一の連邦的権威を有していたが、その権限は不確定であった。スイスはすでにヨーロッパの有力な勢力となっていたが、各カントンは依然として個別に同盟関係を築き、固有の従属領域を維持しており、独立性が高かった[要出典]
  13. ^ スイスでは自治権を持つ州のことをカントンをいうが、これはスイス革命により成立したヘルヴェティア共和国の時期に一般化したフランス語由来の用語である。それ以前は「邦」と呼ばれていた。ここではカントンと邦を区別せずに用いる[要出典]
  14. ^ ツヴィングリは聖書に記載されていない事柄は聖書の教えに反しており、禁止されるべきという考えを持っていた。
  15. ^ カール大帝の名にちなんでいる。現在のチューリヒ大学の元となった。
  16. ^ ルターは聖体拝領のパンと葡萄酒の中にキリストが実在しているという両体共存説をとっていたが、ツヴィングリはパンと葡萄酒は象徴に過ぎないと考えていた。詳細は聖餐論を参照。
  17. ^ 「1537年1月の提案の時点ですでに、これらの片言隻句にさえ教会権自律の主張を感じ取ったジュネーヴ市参事会は……。」(出村彰監修『総説 キリスト教史 2 宗教改革編』pp.117-118)
  18. ^ 牧師と教師は説教などを通じて司牧の役割を担い、聖書解釈の問題などについて定期的に審議した。長老は、牧師・教師とともに監督院を形成して、市内のどの家でも自由に立ち入ることができる権利を有し、市民生活を監督した。執事は教会施設の管理と救貧を担った。
  19. ^ この点で隣接する南西ドイツのルター派都市との命運の差は歴然である。なぜならシュマルカルデン戦争の結果、これらの都市ではカール5世により徹底的にツンフトが解体され、門閥支配に戻されたからである。ドイツとスイスの都市は国境を挟んで一方はルター派にとどまり、門閥支配が強められ、他方はカルヴァン派を信仰し、ツンフトが宗教改革を通じて門閥支配を解体した[要出典]。「シュマルカルデン戦争」節を参照。
  20. ^ ウルリヒイム・ホーフ 1997, pp. 84-85。再洗礼派については、同ページの訳注(3)を参照。
  21. ^ 「ユグノー」という用語は当初は蔑称であり、プロテスタント側はこの語を使っていなかった。語源的にはスイスにおいてサヴォワ公に反対した「連合派 (Eidgenossen)」に由来するといわれ、民間信仰における「ユゴン王」に結びつけられていた。この「ユゴン王」は一種の化け物である。(木崎喜代治『信仰の運命』pp.20-21、金哲雄 2003, p. 2)
  22. ^ フランスのプロテスタンティズムは、概して民衆の自発的な選択によっていたことが大きな特徴である[要出典]
  23. ^ 1533年にはパリ大学総長がルターに依拠して演説し、1534年にはカトリックのミサ聖祭の中止を訴える檄文事件が起こっている[要出典]
  24. ^ マックス・ウェーバーは、フランスの改革派が「フランス工業の資本主義的発展の最も重要な担い手の一つだった」(マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』p.28)と述べている。またウォーラーステイン は『近代世界システム 1600-1750』において、ナント勅令廃止がフランス産業革命の立ち後れをもたらしたと指摘する(金哲雄 2003, p. 14)。一方でウェーバーの研究に影響を受けた日本の大塚史学においては、ユグノーの経済史的役割は概して冷淡に扱われた(金哲雄 2003, pp. 5,20-28)。
  25. ^ この節は全般的に金哲雄 2003に依拠する。
  26. ^ この衰退に宗教迫害がどれだけ影響を及ぼしたかについては主要な研究において見解が相違している。W・C・スコヴィルは『ユグノーの発展とフランスの経済的発展 1680~1720』(1960年)において、宗教的迫害の激しくなる時期と経済的衰退の時期が一致しないことを挙げ、むしろルイ14世の対外戦争に対抗した諸外国による高額の関税、インド産綿布の普及、国家による経済統制や国産品税の導入などがその原因であるとする(金哲雄 2003, pp. 83-91)。それに対し、C・ヴァイスの先駆的研究「17世紀におけるフランス・プロテスタントに関する研究報告書」はナントの勅令を経済的衰退の原因と見ている(金哲雄 2003, pp. 106-113)。金哲雄も同様である(金哲雄 2003, pp. 113-151)。
  27. ^ 1685年の事例によれば、竜騎兵たちは疲労しないよう交替しながら、改革派信徒を眠らせないよう太鼓を鳴らし、罵倒し、体を揺さぶり、針を突き刺し、命に別状ないやり方で苦痛を与えた[要出典]
  28. ^ 低地地方をあらわすNederlanden(複数形)の発音は「ネーデルラント」よりも「ネーデルランド」に近い(厳密には「ネーデルランデン」)。Nederland(単数形)の発音は「ネーデルラント」であるが、これは今日オランダを指す。今日のオランダ・ベルギーを含む低地地方を「ネーデルラント」と日本語で表記することが多いが、これは適切とはいえない(川口博 1995, pp. 12-15)。したがって、この記事内ではオランダとベルギーを含む地域を「低地地方」と表記し、「ネーデルラント」は用いない。
  29. ^ 少なくとも「カルヴィニズム的北部」と「カトリック的南部」の分離が宗教的理由によるという見解はオランダ独立の歴史的な経過に即しているとはいえない。そもそもカルヴァン派の人口に占める割合は、北部よりも南部の方が当初は多かったのであるから、北部と南部の宗教事情の相違は分離の原因ではなく結果であると見るべきである(川口博 1995, pp. 19-27)。
  30. ^ ブルゴーニュ公国の収入において大部分を占める臨時収入において、低地地方からの収入割合は75%を占め、経常収入においてもブルゴーニュ本領の収入は5%に過ぎなかった。(堀米庸三「ホイジンガの人と作品」『世界の名著67 ホイジンガ』p.64)
  31. ^ :États Généraux:Staten-Generaal。慣例で「全国議会」と訳されるが、この会議は低地地方全体の身分制議会ではなく、州ごとの身分制議会の派遣する使節団の会議というほうが実情に近い(川口博『身分制国家とネーデルランドの反乱』pp.10-11)。
  32. ^ ところで、この17州というのが具体的にどの州を数え上げたものかについては数説あり、一致した見解が得られているとは言えず、不明確である。あるいは中世ヨーロッパにおいて17という数字は不特定多数の寓意でもあったので、それに由来するのではという示唆もホイジンガから出されている。詳細は川口博「「十七州」考」(『身分制国家とネーデルランド』所収)参照。
  33. ^ カンブレメヘレンユトレヒトに大司教区が設けられた。
  34. ^ グランヴェルもメヘレン大司教となっている。
  35. ^ このとき下級貴族を「乞食(ヘーゼン)」と蔑称したことから、彼らは自ら「乞食党(ヘーゼン)」を名乗るようになったという。なおよくある表記「ゴイセン」は現地語に即して正しい表記とはいえない(おそらく「ゴイセン」はドイツ語のGeusen(発音はゴイゼン)に由来すると思われる)。ヘーゼンのオランダ語における綴りは「Geuzen」であるが、この語頭の「g」は有声軟口蓋摩擦音であり、有声軟口蓋破裂音であることが多い英語の「g」や日本語ガ行とは異なる音であるため、最近ではハ行で転写されることが増えつつある。また「オランダのカルヴァン派をゴイセンと呼んだ」という誤解があるが、これはずっと後になってから特殊に改革派をヘーゼンと蔑称する用例ができたに過ぎない(川口博『身分制国家とネーデルランドの反乱』pp.15-16)。
  36. ^ カンブレメヘレンユトレヒトに大司教区が設けられた。
  37. ^ グランヴェルもメヘレン大司教となっている。
  38. ^ これは改革派がそれほど浸透していない低地地方北部でも暴動が起こっていることから明らかである。(森田安一 1998, pp. 245-246)
  39. ^ アンシャンレジーム期のフランスの教会は、施療院や捨て子養育院を経営し、貧民救済事業をおこなったほか、教区ごとに小さな学校(プチト・ゼコール)を設け、民衆の子弟に読み・書き・計算を教え、よきカトリック信者となるべき作法を伝授した。谷川(2006)pp.65-66
  40. ^ 教会内部の分裂を反映して、第一身分(聖職者)議員326人のうち220人は下位の聖職者すなわち教区司祭であった。貴族出身の司教修道院長、上位聖職者、修道士など教会組織の支配層は少数であった。プライス(2008)p.138
  41. ^ この当時の修道院生活は極めて厳しいものであったので、多くの者が解放を喜んだ。
  42. ^ 能動市民は25歳以上のフランス人男性で、1年以上同一地に居住し、3日分の労賃にあたる直接税を支払う能力のある市民であり、受動市民には民事上の諸権利はあたえられたものの参政権は付与されなかった。女性や奉公人、使用人、植民地奴隷は能動市民に含まれなかった。谷川(2006)pp.53-54
  43. ^ 義勇兵を主体とするフランス軍が初めてプロイセンに勝利した戦いで、プロイセン側でこの戦闘を目撃したゲーテが「ここから、そしてこの日から世界史の新しい時代が始まる」と述べたことで知られる。
  44. ^ 食糧危機の原因は、増強されたフランス軍兵士の糧食が増えて従来の食糧供給のシステムが破綻したことに加え、民衆騒擾、紙幣と化したアッシニア濫発にともなうインフレーション、さらに不作が重なったことなどである。戦争によって海外市場が失われて国民の購買力が低下し、失業率が高まったことがこれに拍車をかけた。プライス(2008)p.170
  45. ^ 「革命的諸宗教」はアルフォンス・オラールの用語である。オラールによれば、革命的な諸信仰はジャコバン独裁期の相次ぐ政治的必要に応え、競合する政治集団によって執り行われた国防目的の方便にすぎなかったし、政治対立の目的でもあり手段でもあるところの人為的創設物でしかなかったので、複数形でしか語りえないものであった。それに対し、アルベール・マチエの考える「革命的宗教」では自然発生的な創設が想定され、いわば、18世紀の哲学のうえに咲いた遅咲きの花であるとする。宗教に関しても、マチエはエミール・デュルケームの思想から発想を得て「個人を社会に統合する規範の総体としての宗教」という考え方を提示した。オズーフ「革命的宗教」(1999)pp.43-62
  46. ^ 当初は1789年7月14日を記念日として「自由元年」とする発想が生まれるが、1792年の8月10日事件後はこれに「平等元年」という考えが付け加わる。ここでさまざまな論争が起こるが、結局、1792年9月22日の共和政宣言の日がたまたま秋分の日にあたっていたところから、自然と歴史の両方に依拠してその日が新しい暦の開始点となった。オズーフ「共和暦」(1999)pp.78-95

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g 日比野(1988)pp.270-271
  2. ^ a b 山野(1987)p.293
  3. ^ 尾崎秀夫「教会」歴史学事典,弘文堂
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 木村編 2001, pp.99-117.
  5. ^ 松本(2009)pp.234-237
  6. ^ a b c d e f g h i j k l 出村(2001)pp.59-68
  7. ^ 小田垣雅也『キリスト教の歴史』pp.137-138。出村彰監修『総説 キリスト教史 2 宗教改革編』p.92。アウグスト・フランツェン『教会史提要』p.244。
  8. ^ Steven K. Green,The Separation of Church and State in the United States,OXford Reseach Encyclopedias.
  9. ^ a b 樺山紘一「キリスト教と国家」歴史学事典第12巻 王と国家
  10. ^ a b c d e f 福島清紀「「寛容」概念に関する試論」富山国際大学国際教養学部紀要5、2009,pp.165-175.
  11. ^ 倉塚平「ミカエル・セルヴェトゥスの思想形成」政經論叢35巻1号、1966
  12. ^ a b 成瀬治, 山田欣吾 & 木村靖二 1996, pp. 461-463.
  13. ^ 初宿正典「現代ドイツにおける宗教と法」法哲学年報 日本法哲学会 編 2002巻、ページ86~97
  14. ^ a b c 渡辺昭子「政教分離」歴史学事典第12巻 王と国家、弘文堂、p.399-400.
  15. ^ a b c d e 文化庁海外の宗教事情に関する調査報告書」平成20年3月
  16. ^ 福田歓一 1985, pp. 247-248.
  17. ^ 柳澤伸一「スイス誓約同盟とシュヴァーベン同盟(保健福祉学部 福祉学科)」、『西南女学院大学紀要』第10巻、西南女学院大学、2006年2月28日、 31-39頁、 NAID 110004866386
  18. ^ a b c d e 出村(2001)pp.82-86
  19. ^ 成瀬治, 山田欣吾 & 木村靖二 1996, pp. 457-460.
  20. ^ ウルリヒイム・ホーフ 1997, pp. 102-103.
  21. ^ a b c d 福田歓一 1985, p. 256.
  22. ^ 『ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社、p.133
  23. ^ 福田歓一 1985, p. 257.
  24. ^ 福田歓一 1985, pp. 257-258.
  25. ^ 柴田三千雄, 樺山紘一 & 福井憲彦 1996, pp. 99-101.
  26. ^ 柴田三千雄, 樺山紘一 & 福井憲彦 1996, pp. 101-111.
  27. ^ S・ムール 1990, 訳者まえがき、p.19.
  28. ^ 福田歓一 1985, pp. 258-262.
  29. ^ 金哲雄 2003, p. 2.
  30. ^ 金哲雄 2003, p. 56.
  31. ^ 金哲雄 2003, p. 63.
  32. ^ 金哲雄 2003, p. 64.
  33. ^ 金哲雄 2003, pp. 66-67.
  34. ^ 金哲雄 2003, p. 68.
  35. ^ 金哲雄 2003, p. 69.
  36. ^ a b 福田歓一 1985, pp. 258-259.
  37. ^ 福田歓一 1985, p. 259.
  38. ^ a b 福田歓一 1985, p. 260.
  39. ^ 福田歓一 1985, pp. 260-261.
  40. ^ a b 福田歓一 1985, p. 261.
  41. ^ 福田歓一 1985, pp. 261-262.
  42. ^ a b 福田歓一 1985, p. 262.
  43. ^ a b 福田歓一 1985, pp. 263.
  44. ^ 福田歓一 1985, pp. 263-264.
  45. ^ a b 福田歓一 1985, pp. 264-265.
  46. ^ 福田歓一 1985, p. 266.
  47. ^ 福田歓一 1985, p. 267.
  48. ^ 福田歓一 1985, p. 270.
  49. ^ a b 福田歓一 1985, p. 271.
  50. ^ 柴田三千雄, 樺山紘一 & 福井憲彦 1996, pp. 141-143.
  51. ^ 中村賢二郎「アウクスブルクの和議」日本大百科全書(ニッポニカ),小学館。「三十年戦争」世界大百科事典 第2版
  52. ^ #木村・成瀬・山田編 1996,p3
  53. ^ 伊藤宏二『ヴェストファーレン条約と神聖ローマ帝国』九州大学出版会
  54. ^ 谷本正行「CSIS から眺めた国際情勢:国際秩序の行方(上)」海外投融資 24(2), 32-35, 2015-03海外投融資情報財団
  55. ^ 明石欽司「国際法学説における『ウェストファリア神話』の形成(一)〜(三)」『法学研究』第80巻6-8号(2007年)
  56. ^ 渡辺信夫・笹川紀勝「信教の自由」世界大百科事典14,p.255-256.
  57. ^ a b c d e f 後藤正英「近代ユダヤ教と宗教的寛容 ―啓蒙主義的排外主義という逆説をめぐって」一神教学際研究 3、2007年3月、同志社大学一神教学際研究センター
  58. ^ 『〈強いて入らしめよ〉というイエス・キリストの御言葉に関する哲学的注解』(1686)
  59. ^ C.L.A.A.P.D.P.著L’Avis important aux réfugiées sur leur prochain retour en France 『フランスへの近き帰国につき、亡命者に与うる重大なる忠告』
  60. ^ 小林善彦「カラス事件 : 十八世紀フランスにおける異端と寛容の問題」研究年報10号/学習院大学文学部,pp.269-331,1964
  61. ^ 「カラス事件」ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
  62. ^ 柳原邦光「アメリカとフランスの市民宗教論の比較」地域学論集5巻3号、鳥取大学地域学部地域文化学科,2009,p227-251.
  63. ^ a b c 谷川(2001)pp.289-290
  64. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 工藤(2007)pp.50-55
  65. ^ a b c d 谷川(2006)pp.65-66
  66. ^ a b プライス(2008)pp.87-90
  67. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 高柳(2001)pp.87-94
  68. ^ プライス(2008)pp.137-139
  69. ^ a b c d e プライス(2008)pp.143-145
  70. ^ a b プライス(2008)pp.149-154
  71. ^ a b c d e f 谷川(2006)pp.66-67
  72. ^ a b c d e f g h i j k l プライス(2008)pp.154-157
  73. ^ a b c 福井(2001)pp.251-254
  74. ^ a b c 長谷川(2007)pp.247-248
  75. ^ a b c d e f g h i j 谷川(2006)pp.67-69
  76. ^ a b c 福井(1996)pp.277-279
  77. ^ a b c d e 柴田(1961)pp.120-123
  78. ^ a b c d e f g プライス(2008)pp.161-164
  79. ^ a b c 川北(1997)pp.41-55
  80. ^ 長谷川(2007)pp.248-251
  81. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 谷川(2006)pp.69-71
  82. ^ a b c d e f g プライス(2008)pp.164-168
  83. ^ a b c d e f g h i j k l プライス(2008)pp.168-172
  84. ^ a b c オズーフ「革命的宗教」(1999)pp.43-62
  85. ^ a b c d 谷川(2006)pp.74-76
  86. ^ a b c オズーフ「共和暦」(1999)pp.78-95
  87. ^ a b c d e f g h 谷川(2006)pp.71-73
  88. ^ a b c d e プライス(2008)pp.174-178
  89. ^ プライス(2008)pp.180-184
  90. ^ a b 福井(2001)pp.265-267
  91. ^ a b c d e 北原(2008)pp.335-340
  92. ^ a b 北原(2008)pp.340-344

参考文献[編集]

文献案内[編集]

関連項目[編集]

帝権と教権[編集]

各国史[編集]

教会[編集]

ヨーロッパ外の祭祀王権との比較[編集]