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キリスト教国家論の歴史

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キリスト教国家論の歴史(きりすときょうこっかろんのれきし)では、歴史学的知見に基づき、政治社会と宗教の関係性の歴史、とりわけヨーロッパの国家とキリスト教の関係史を中心に概観する[* 1]。したがってここでは政教分離原則成立の社会的背景を、近代国家に先行する政治社会の宗教政策および政治思想史・宗教思想史との関連性に基づくものとして近代国家成立との関連性から統治機構と宗教組織の分離していく歴史を概観する。

バチカン市国
中世におけるカトリック教会は教会国家という世俗的な基盤を有しながらも、全ヨーロッパ規模での普遍的な権威を主張した。近代ヨーロッパ各地に国民国家が成立していくと、このような普遍性に支えられていた特権や管轄地は多く失われ、世俗の国家に回収された。現在カトリック教会はバチカン市国としてサン・ピエトロ大聖堂を中心とした世俗の一独立国家となっている

概要[ソースを編集]

近代のキリスト教は東西いずれの教会においてもその影響力を低下させた。ここでは近代社会と宗教について、とくに近代国家とキリスト教の問題を焦点とすることとし、その際近代国家成立の前提としての近代以前のヨーロッパ史における世俗王権とカトリックの教権の関係をまず概観する。さらにその背景となる思想史についても適宜記述する。近代以降については正教世界にも視野を広げて記述するが、近代国家との関連性を重視するという観点から中世以前の正教世界についてはここでは詳しく触れない。[独自研究?]

四福音書記者
新約聖書の中心部分をなすイエスの生涯を記録した文書が四福音書である。4人の福音書記者はそれぞれ象徴を持つ。天使で象徴されるマタイ(左上)。ライオンで象徴されるマルコ(左下)。で象徴されるヨハネ(右上)。雄牛で象徴されるルカ(右下)

以下、宗教改革以降の近代社会における国家の宗教政策、および時代ごとのキリスト教に関する思想の変遷を概観する。政治史・国家史・教会史・思想史の多岐にわたって概説するため、ここでは便宜のために要約を示す。

  1. 宗教改革(プロテスタント側から)」では、ルターの宗教改革がなぜ宗教問題にとどまらずに政治的な問題に転化したかということについて簡単に説明する。
  2. ドイツの領邦教会制度」では、ドイツにおける宗教改革の初期の帰結としての領邦教会制度が成立するまでを概観する。
  3. ドイツで宗教改革が始まった頃、スイスでも同様に福音主義的改革が始まっていた。「スイス盟約者団と福音主義」では、宗教改革の第2戦線ともいうべきスイスの宗教改革を概観する。
  4. 宗教改革派の諸思想」では、宗教改革派の諸思想を概説する。
  5. フランスのコンフェッショナリズムと主権理論」では、フランスの改革派ユグノーとフランス王権の宗教政策から絶対主義の形成過程を概観する。
  6. 低地地方と宗教改革」では、ネーデルラントにおける独立運動と、それによって成立した新教国オランダの初期の状況について概観する。
ルター
「95カ条の論題」を発表[* 2]して贖有がもたらす宗教的危機を指摘した。これは当初の予想をこえて教義論争に発展し、1520年にルターは三大文書、『教会のバビロン捕囚』『キリスト者の自由』『ドイツ国民のキリスト教貴族に与える書』によって改革の理論と実践を固めた。とくに『ドイツ国民のキリスト教貴族に与える書』で諸侯に、その職務に基づいて改革運動に加わるよう呼びかけたことは、ドイツ国内の政治問題への宗教改革の関与を規定することになった

宗教改革は純粋に宗教内での問題から出発したにもかかわらず、すぐに世俗的問題と結びついて近代国家の成立を基礎づけたばかりか、近代思想にも影響を及ぼした。宗教改革が主権国家を単位として宗教生活を規定する方向に進んだことは、普遍的なキリスト教世界に立脚していた一つの教会という理念を破壊し、教権の基盤を脅かした。近代にはいると、すでに教権は各主権国家に対して優位性を主張することができなくなり、今日まで続く国民を単位とした政治社会が形成される。一方、思想面においては内面の自由、良心の自由が確立され、近代政治思想における基本概念の一つとなっていった[要出典]

宗教改革(プロテスタント側から)[ソースを編集]

1517年アウグスティノ修道会士であったルターによって「95カ条の論題」が発表され、宗教改革が開始された。発表当初は贖有状を巡る僧職どうしの内輪もめと世間に受け取られていたが、やがて教皇首位権が主要な争点になると、人文主義者も続々この論争に関与するようになった。[要出典] 神聖ローマ皇帝カール5世エラスムス派の人文主義者、穏健的なカトリック聖職者の姿勢はこの論争に際して宗教の統一を重視し、プロテスタントカトリックの歩み寄りを期待した。実際両陣営において当初から妥協と和解が不可能ではないことが認識されており、教義においてはルターの思想がカトリック的であることは当時も後にも様々な局面で指摘された[* 3]。一方教皇クレメンス7世とその後継者パウルス3世はプロテスタント側への歩み寄りが教皇首位権の破壊につながることを警戒して和解を拒否し、カール5世を警戒してドイツの分断を狙うフランス王、バイエルン公もこれに同調した。ルター派の側もザクセン選帝侯などが政治的理由から硬化した態度を取り、ルター派の基盤が形成されると当初は寛容的な態度も持っていたルター自身も非妥協的になった。かくして宗教改革は教義の問題をこえて政治問題と化した。[要出典]

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ドイツの領邦教会制度[ソースを編集]

当初はごく限定的な教会の腐敗の問題、あるいは教義上の問題から出発した宗教改革は、その影響が広汎にわたるとともに政治的な傾向を強くした。具体的には宗教改革はまず教皇首位権への挑戦という宗教内の政治的問題に変容し、さらにドイツ国内の皇帝権に対する諸侯の自立を求める、極めて直接的な政治問題に転化した。この問題は三十年戦争の直接的な原因ともなるのであり、ドイツが長い分断国家となる契機の一つが宗教改革に求められる[要出典][* 4]

シュマルカルデン戦争[ソースを編集]

1530年カール5世はアウクスブルクに帝国議会を招集した。この議会では両派の歩み寄りの努力がされたが、結局決裂した。さらに同議会ではルター派から「アウクスブルク信仰告白」が提出されたが、ツヴィングリやシュトラースブルクなどの改革派4都市が独自の「信仰」を提出し、プロテスタント内部の宗派分裂も明らかとなった。議会ではカトリックが優勢を占め、最終的決定は翌年の議会に持ち越されたものの、カール5世はルターを帝国追放刑にしプロテスタントを異端とする1521年のヴォルムス勅令を暫定的とはいえ厳しく執行するよう命じた。[要出典]

アウクスブルク帝国議会(1530年
この議会ではプロテスタントとカトリックの歩み寄りが期待されていたが、結局はカトリック側の主張がほぼ一方的に認められた形となった

これに対してプロテスタントの帝国諸侯・諸都市はアウクスブルク帝国議会直後にシュマルカルデンに集まり、軍事同盟結成を協議し、翌1531年2月にヘッセン方伯とザクセン選帝侯を盟主とするシュマルカルデン同盟が結成された。宗教戦争が一触即発に迫ったが、カール5世は妥協し1532年にニュルンベルクの宗教平和によって暫定的にプロテスタントの宗教的立場が保障された。この宗教平和を境にプロテスタントは勢力を一気に拡大した。南ドイツのヴュルテンベルク公領では、プロテスタントであったために追放されていたヴュルテンベルク公ウルリヒが1534年に復位し、北ドイツでも同年ポメルン公、1539年にザクセン公とブランデンブルク選帝侯がプロテスタントに転じた。西南ドイツではルター派とは異なる改革派信仰が広がっていたが、教義上の問題で妥協しプロテスタントの政治勢力は統一性を持つようになった。カトリック諸侯の側もニュルンベルクで同盟を結成し、プロテスタントに対抗した[要出典]

カール5世は対外的な事情から情勢を黙認していたが、フランスとの講和がなると一転ドイツ国内の問題に専心するようになった。1546年にはルターが死亡し、同年ザクセン公が選帝侯の地位を条件に皇帝支持に転じた。それ以前にヘッセン方伯も重婚問題からカール5世につけこまれ、政治的に中立を守らざるをえなくなっていた。自身に有利な条件が整ったと感じたカール5世は同年シュマルカルデン戦争をおこし、シュマルカルデン同盟を壊滅させ、翌年のアウクスブルク帝国議会ではカトリックに有利な「仮信条協定」が帝国法として発布された。皇帝は西南ドイツの帝国都市のツンフトが宗教改革の温床であると考えてこれを解散させるなど強硬な政策を実施した。カール5世の強硬な政策を見て、徐々にカトリック諸侯も反皇帝に転じ、息子フェリペにドイツ・スペインの領土と帝位を継承させようとすると、ますます反発を招いてカール5世は孤立した。[要出典]

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アウクスブルクの平和令[ソースを編集]

アウクスブルク宗教平和令
1555年マインツで印刷された版本の表紙

このような情勢の中、ザクセン公は再び反皇帝・プロテスタントの側に転じ、1552年諸侯戦争がおこるとカール5世は敗北し、パッサウ条約によって「仮信条協定」は破棄された。この敗北からカール5世は弟のフェルディナントに宗教問題の解決を任せ、1555年のアウクスブルク帝国議会で、アウクスブルク宗教平和令が議決された。この平和令により「一つの支配あるところ、一つの宗教がある ("Cujus regio, ejus religio")」という原則のもとに諸侯が自身の選んだ信仰を領内に強制することができるという領邦教会制度が成立した[要出典][* 5]

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スイス盟約者団と福音主義[ソースを編集]

ドイツルターによって宗教改革の火蓋が切られた頃、スイスでもほぼ同時にツヴィングリによって福音主義的改革が進行していた。ツヴィングリは改革の半ばで戦場に斃れ、その事業は頓挫したが、ジュネーヴカルヴァンが現れ、より厳格な改革を実行した。当初は非常に非寛容で妥協を許さなかったカルヴァン主義であるが、各国で政治権力により迫害を受けるようになると、「寛容」を主張して変貌し、ずっとのちに近代的な政教分離の主張へとつながっていくことになる[1]

スイス盟約者団の歴史的経緯[ソースを編集]

スイスの建国神話として今日一般にヴィルヘルム・テルの物語が知られるが、これはスイスの国民意識が高まった15世紀中ごろに世に広まりはじめたものであると考えられている[* 6]今日では、スイスの国家統合は14,15世紀を通じてスイス周辺の状況のなかで徐々に進行したと考えられており、当初の盟約はあくまでラント平和令の延長線上に、域内でのフェーデの制限・禁止を目的としたものであった。[要出典]

12世紀末ごろまでは神聖ローマ帝国辺境の隔絶された山田舎に過ぎなかったスイスは、13世紀の初め頃に南北に貫通する街道が開通すると、一転交通の要衝となった。このことによりスイスは、近隣に支配を拡大しようとしていたハプスブルク家と戦略的価値を重視する皇帝の争奪の的となることとなった。1231年皇帝フリードリヒ2世によってドイツ統治を任されていたハインリヒウーリ地方に証書を発給し、この地方を帝国直属の地位とした[要出典][* 7]。{{要出典範囲|date=2017年3月|1239年には同じくシュヴィーツ地方も帝国直属の地位を獲得した[* 8]14世紀初頭にはウンターヴァルデン地方も帝国直属を獲得しているのが確認される。これ以前の1291年にはすでにこれらの三者は盟約を結んでいた[* 9]

1314年冬、放牧地を巡る争いからシュヴィーツがアインジーデルン修道院を襲撃すると、これを口実にハプスブルク家のフリードリヒ美王1315年11月15日大軍をもって侵攻したが、モルガルテン山からの奇襲攻撃によって敗北を喫した(モルガルテンの戦い)。この直後の12月9日盟約が更新され、盟約者団はさらに結束を強化した。こののち14,15世紀を通じてハプスブルク家との戦いが続くが、近隣の邦や都市が徐々に同盟の形で参加した。1499年、皇帝マクシミリアン1世がスイス盟約者団に奪われたハプスブルク家の古領を回復しようと戦争を仕掛けたが(シュヴァーベン戦争ドイツ語版英語版)、盟約者団はこれを撃退し、この勝利により事実上神聖ローマ帝国から独立した[* 10]1513年アペンツェル同盟において13州の形となり、今日のスイスの基本的な国家枠組みの基礎となる十三邦同盟体制が確立され、この体制が1798年まで維持されることとなる[* 11]

長期の軍事的緊張を乗り越えたスイスは、ヨーロッパ有数の軍事力を持つ国家となっていた。強力な軍事力を頼んでスイスは当時のイタリア戦争に介入し、1513年のノヴァーラの戦いフランス語版ドイツ語版英語版でフランス軍を大敗させ、ミラノを中心とするロンバルディア地方に覇権を確立したかに見えた。しかし1515年ルイ12世が没し、フランソワ1世が登位すると、同年のマリニャーノの戦い英語版で盟約者団はこの若き王に敗北し、南方へ向けての膨張の夢は潰えた[要出典]

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スイスの宗教改革(1):ツヴィングリ[ソースを編集]

ツヴィングリ
チューリヒのリマト川の岸辺に立っている。右手には聖書、左手に大剣、兜を被り、説教服の下は鎧で武装している

1518年12月の末からチューリヒの教区司祭・説教者となっていたツヴィングリは、1519年初頭からマタイによる福音書の説教を開始した。これがスイスにおける福音主義的改革の幕開けとなる。ツヴィングリはエラスムスを通じて、キリスト教を原典から学ぶことの重要性を認識していた。そのためこのマタイ連続説教においてはヴルガタを使用せず、エラスムスの『校訂ギリシア語新約聖書』を使用した。やがて彼の周囲に新しい福音理解に共鳴する信奉者が集まるようになり、旧来のカトリック的信仰理解を堅持する者たちとの間に徐々に疎隔が生じていった。ドイツの広大な領邦に比べて狭小な地域共同体であるカントン[要出典][* 12]の内部での対立は、たちまち先鋭化した。

1522年3月、受難節断食期間が訪れた際、ツヴィングリ支持者は集まって乾いたソーセージを切り分けて食し、「聖書のみ」の考えを実践した[* 13]。さらにその10日後、ツヴィングリは「食物の選択と自由」の説教をおこない、これに対しチューリヒ市参事会は支持を表明し、チューリヒはツヴィングリの福音主義の拠点となった。そして、ツヴィングリは『最初にして最終的な弁明の書』をコンスタンツ司教に宛て、明確に「聖書のみ」を規範とすべきことを表明した。ツヴィングリ派とカトリック派の対立は激化し、市内での武力衝突の危機も迫ったので、チューリヒ市参事会は最終的な決定を下すべく、1523年1月29日にカトリック側聖職者を迎えて公開討論を開催することとなった。ツヴィングリは公開討論のために自らの信仰を明らかにするため、『67カ条の提題』を公表した。この文書の中でツヴィングリは「聖書のみ」の原則を表明し、聖書に根拠がない教皇制度や祝祭日・修道制・独身制・煉獄を批判した。一方で教会の監督は信徒の集まりが行うべきであるとし、市参事会による宗教の管理を暗に正当化していた。さらに社会倫理について『神の義と人間の義』の説教をおこない、これによりこののちのチューリヒにおける改革の枠組みが定まった。すなわちチューリヒでの改革は都市共同体という政治秩序の積極的な関与の下におこなわれるのである。[要出典]

1524年6月には市内全域から聖像画聖遺物ステンドグラスが取り除かれ、12月には修道院がすべて閉鎖されて資産はカントンに接収された。そして1525年3月の復活節を境に、ミサは完全に廃絶され、替わって福音主義の聖晩餐が導入された。また同年6月には福音主義の司祭養成のためにカロリーヌム[* 14]が開設された。こうしてスイスにおける福音主義の橋頭堡は着々と固められた。

しかしながらこの時点では、スイス内での福音主義の孤立は明らかであった。ウーリ・シュヴィーツ・ウンターヴァルデンなどの保守的なカントンはカトリック信仰に揺らぎはなく、福音主義に染まったチューリヒに対して旧来の信仰への復帰を求め、チューリヒを異端と断じて盟約からの追放を宣言した。しかし1528年1月に有力なベルンが福音主義に転じ、1529年2月にはバーゼルで民衆蜂起が起こり、こちらも福音主義に転じた。さらに盟約者団の外部であるが、近隣のザンクト・ガレンコンスタンツでも福音主義が影響力を増し、福音主義のカントンと軍事同盟を結んだ。これを見てカトリック派のカントンも宿敵であったはずのハプスブルク家も巻き込んで軍事同盟を結成し、両者は同年6月、カッペルの野で対峙した(第一次カッペル戦争)。一触即発の危機が迫ったが、ここで両者は歩み寄り、「現状維持」を約束して和睦した(第一次カッペル和議)。すなわち、福音主義に転向したカントンはその信仰を認められるが、カトリックのカントンへの布教を許されず、その逆も然りとされたのである。ここに信仰の「属地主義」、「一つの支配あるところ、一つの宗教がある ("Cujus regio, ejus religio")」が認められ、スイスは他のヨーロッパ諸国に先駆けて改革派とカトリックの共存する地域となった。[要出典]

第二次カッペル戦争
ツヴィングリ率いるチューリヒ市民軍は圧倒的な人数のカトリック軍を迎え撃った。この乱戦の中ツヴィングリは戦死した。1548年に描かれた図版

第一次カッペル和議はスイスに平和と安定をもたらしたかに見えたが、ツヴィングリは現状維持に不満で、福音主義の宣教を軍事的拡張によってでも実現すべきと考えるようになっていた。一方ドイツではルター派は皇帝の圧迫を受けて存亡の危機が迫っていたため、同盟者を必要としていた。ここにルターとツヴィングリの利害の一致点があり、1529年10月、ヘッセン方伯フィリップの斡旋により、マールブルク城で会談が開かれ、ルターとツヴィングリの間で軍事同盟と教義の一致が検討された。この会談において、両者の教義の多くの点で一致を見たものの、最終的には聖餐理解を巡って鋭く対立し[* 15]、物別れに終わった[要出典]

ツヴィングリはその後も強硬にカトリック諸州の軍事的制圧を主張したが、ベルンをはじめとする同盟諸邦の賛同を得られず、ベルンの提案にしたがってカトリック諸州に対し経済封鎖が実施されるに留まった。この経済封鎖によりカトリック諸州はたちまち困窮したため、軍事力に訴えざるをえなくなり、1531年10月4日カトリック諸州はカッペルに再度進軍し(第2次カッペル戦争ドイツ語版英語版)、これに対してツヴィングリは自らチューリヒ市民軍を率いて邀撃した。このときカトリック側8000に対し、チューリヒの市民軍は数百に過ぎず、乱戦のさなかツヴィングリは戦死した。

しかしその後ベルンを核とする福音主義派は反撃し、第一次カッペル和議をほぼ踏襲した第二次カッペル和議が締結され、スイスにおける宗教の属地主義が再確認された。スイスにおける福音主義は後継者ブリンガーに受け継がれ、カルヴァンの登場を待つこととなる。[要出典]

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スイスの宗教改革(2):カルヴァン[ソースを編集]

ジュネーヴのサン・ピエール教会
ここでカルヴァンは幾度となく説教を行った

1536年7月から8月にかけてのころ、たまたまジュネーヴに滞在していたカルヴァンは、同地で福音主義的改革を導入しようとしていたヴィルヘルム・ファレルに援助を懇請された。この年の5月、ベルンの援助を受けて福音主義に転じたジュネーヴであったが、いまだ改革の緒についたばかりで方針も定まっておらず、ファレルは当時匿名で出されていた『キリスト教綱要』の著者がカルヴァンであることを知り、援助を願ったのである。カルヴァン自身はこのときストラスブールへ向かっている途中であったが、これに協力することを決意した。

1537年1月16日にはカルヴァンら牧師団によって市参事会に対して、教会改革の具体案が提出され、ここにジュネーヴはツヴィングリ派とは異なった、新たな改革の方針に従うこととなった。ただちに新しい「信仰告白」を含むカテキズムが刊行され、市民はこの「信仰告白」に対して宣誓を求められた。こうして改革が本格的に開始されたが、カルヴァンらはこの「信仰告白」が守られているか厳しく監督したために、市民の間に改革に対する抵抗感が芽生えた[要出典]。また当初から市参事会は、カルヴァンらの主張の中に教会を世俗の権力から独立させ、むしろ世俗権力を教会に従属させようとする意図があることに気づいていた[* 16]1538年4月23日新しい市参事会が発足すると、カルヴァンとファレルはこの新しい市参事会により追放され、カルヴァンはマルティン・ブツァーの勧めにより、ストラスブールのフランス人難民教会の説教師を務めることとした。この間1539年にカルヴァンはビューレンのイデレッテと結婚した。[要出典]

やがてジュネーヴで再び福音主義派が勢いを盛り返し、彼らによる再びの招聘を受けて、1541年9月13日カルヴァンはジュネーヴへと帰還した。帰任早々の9月20日カルヴァンは早速「教会規定」を立法化し、牧師・教師・長老・執事という4職[* 17]を定め、いわゆる「神権政治」を開始した。「神権政治」開始後の最初の5年間に、56件の死刑判決と78件の追放がおこなわれ、反対派はことごとく弾圧された。1553年には高名な人文学者であったミシェル・セルヴェが三位一体説を批判した廉で、異端としてカルヴァンにより火あぶりに処された。1559年には神学大学が設立され、プロテスタント系の神学大学としては、すぐにヴィッテンベルク大学に勝るほどの勢いとなり、ヨーロッパ各地に改革派の説教師や教師を送り出すようになった。[要出典]

聖ニコラウス
15世紀後半盟約者団の間で対立が表面化し始めていたが、隠修士として尊敬を集めていたニコラウスの呼びかけによって、諸邦は再び結束し、シュタンス協定を結んで内部抗争の調停方法を定めた。ヴィルヘルム・テルと並んでスイスの国民的英雄である

1564年の死にいたるまでカルヴァンはカトリック根絶を強硬に主張し、さらに死後の1566年にはツヴィングリ派との間で合同がなり、スイスの改革派は統一され勢力を強めた。カルヴァン主義はやがてフランスでは組織化されてユグノー戦争を惹起し、スコットランドにおいては1560年国教会の地位を獲得するに至った。[要出典]

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プロテスタント圏スイスとカトリック圏スイス[ソースを編集]

宗教改革はスイスにとって結局どのような変化をもたらしたのであろうか。それについては前述の、宗教的な動機から見た展開とは別に、政治的意味から見た別の側面も確認できることに注目する必要がある[要出典]

周辺を諸侯修道院領に囲まれた都市共同体にとって、宗教改革を導入することは、これらを解体して領域支配に組み込める可能性が生じた。同時に教会財産の没収により経済力を高めることができた。またツンフトに代表される中下層の市民にとっては、都市共同体を上層で寡頭支配している門閥や都市貴族を排除できる可能性が生じた。なぜなら彼らの多くは保守的でカトリック信仰にとどまっていたからである[要出典][* 18]。ツヴィングリ派から分離発展した再洗礼派はその信仰を守る信者のみで共同体を構成しようとし、農村部では自治運動と結びつくこともあった[* 19]

1600年ごろには、スイスの宗教的分裂は一過性のものではなく、もはや既成事実として明らかなものとなっていた。盟約者団内部で、カトリック・プロテスタント各々のカントンのみによる分離会議が開かれていた。しかし、民衆の間で好まれた演劇などを考慮すれば、このような状況にもかかわらず、スイス人として自由と協調に基づいた国民意識が存在していたことを推測することが出来る[要出典]。彼らにとって、ヴィルヘルム・テルやニコラウス・フォン・フリューエは相変わらず「古き良き盟約者団」の象徴であり、国民的英雄であった[3]もちろん宗教的不和は厳として存在し、それはしばしば顕在化したものの、なお盟約者団への帰属意識が存在していたのである。[要出典]

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宗教改革派の諸思想[ソースを編集]

ここでは、宗教改革における改革派の思想を概説する。前述したように改革派の間には当初から宗派対立が存在したが、これは改革派どうしの間でも教義および政治的立場において異なる傾向があったことに起因する。ここでは宗教改革諸派の代表的思想家を概観することで、それぞれの宗派の教義および政治的立場における特徴の背景を概説する。

ルター[ソースを編集]

ルター
ヴォルムスにある。中央のひときわ高い位置に立つのがルター像。チューリヒのツヴィングリ像が自ら剣を持ち武装していたのに対し、この像ではルター自身は剣を持たず、側に控えるフリードリヒ賢公が武装している

ルターの思想はアウグスティヌスに決定的な影響を受けている[* 20]その要点を示すと、信仰における個人主義と内面の尊重、自由意志の否定、「二世界論」である。[要出典] ルターはアウグスティヌスに従って人間の原罪を重視し、人間は本質的に罪人である上に神の絶対的支配の下にあるのだから、神の意志を超えた人間の意志による善行があるとすれば、それによって救われるのではないとして自由意志を否定し、ただ神の恩寵によってのみ救われることが可能であるとした。この神の恩寵に預かるためにはひたすら神を信頼し、信仰を寄せることによって救いに至ることができる。この神と個人との間には基本的に介在するものはないという。ここから万人司祭主義、神の前での信仰における人間の平等、聖職者の特権の否定が説かれる。従来教義などの信仰の根拠が教会に求められていたのに対し、ルターはそれを聖書にあるとする。たとえ教会の教えであっても聖書に記載のないものは神の言葉ではないという。教会が独占していた聖書の解釈も万人が自由におこなってよいと述べた。以上のように、ルターは聖書解釈や信仰における教権の優位性を否定した。

政治社会との関係でいえば、重要なのは「二世界論」である。ルターは神がこの世界に二種の支配を作り出したといい、一つは霊的な教会で、目に見えないものでありかつキリスト教徒のみに許されているという。もう一つは世俗的な剣の支配で、これはキリスト教徒に限られず、世界のあらゆる民族を包含している。ルターはキリスト教に反しない限り世俗支配は積極的に受け入れるべきであると説くが、教皇もしくは皇帝が違反した場合にはこれに抵抗することができるという。しかしながら、ルターはあらゆるキリスト教徒が抵抗の主体となることを認めているわけではない。抵抗の主体となりえるのは自らの領民をキリスト教のもとに保護する責務がある諸侯のみである。しかも世俗法においては皇帝と諸侯は契約によって関係を結んでいるのだから、同等であるという。農民のような民衆は皇帝と対等ではないので、抵抗すれば反乱である。これは信仰における諸侯の絶対的権限、領邦教会制度を理論的に認めるものであった。[要出典]

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ツヴィングリ[ソースを編集]

マールブルク会談
この会談でルターとツヴィングリは教義について多くの一致点を見いだしたものの、結局は両者の思想の相違が目立つ結果となった[要出典]

ツヴィングリは後世にツヴィングリ派ともいうべき固有の宗派を残さなかったために、その業績はややもすると限定的に捉えられがちである[要出典]。しかしながら、彼をルターやカルヴァンらと比べて二次的な地位に留めることは適切であるとは言えない[4]。ツヴィングリの思想は多くの点でルターとの一致を示すものの、ルターとは異なって人文主義スコラ学の著しい影響が認められるのであり、彼をルターの亜流と見なす考えはこの点で明らかな誤解に基づいている[* 21]

ツヴィングリの福音主義思想の中で、明らかにルターと異なると認められる特徴は、その実践的な性格である。ルターは個人的な深い宗教的探求によってその思想を形成しカトリックを批判したが、ツヴィングリはより実践的な考慮によって、つまり生活上の慣習や社会通念における誤った宗教的理解について攻撃を加えた[要出典]。彼によれば、聖書に根拠のない聖人崇拝、修道制、独身制などは廃止されるべきで、さらに進んで生活全般が「聖書のみ」によって規定されるべきであるとし、宗教を含めた生活の監督は信徒の集まりによって、つまり教会ではない住民の自治組織によって行われるべきだとされた[* 22]

ツヴィングリの死ぬころには、彼の信仰告白を受け入れる都市はスイスに留まらず、ドイツ南部にまで広がっていたが、彼の死後それらの多くはカルヴィニズムの中に分解されていった。[要出典]

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カルヴァン[ソースを編集]

ジャン・カルヴァン
その非妥協で厳格な性格からか、生前から毀誉褒貶が定まらない[要出典]

カルヴァンの政治思想には2つの要点がある。1つは教会を世俗権力から独立させること、もう1つは世俗権力に教会の目的への奉仕をさせることである。彼は教権と俗権という「二本の剣」は分離不可の関係ではあるが、明確に弁別されるべきであると述べた。

カルヴァンはアウグスティヌスに従って、教会を、神によって定められた独自の権威を持つものと考える。彼はこの世には見える教会と見えない教会があるという。見えない教会は正しい信徒の作る精神的な共同体で、時間と空間の制約を受けない。見える教会は信徒が集まって、儀礼や礼拝、説教が行われる場所で、この見える教会においては成員すべてが必ずしも完全な信仰を有しているわけではない。そのため見える教会は成員すべてを完全な信仰に導くために、規律を必要とし、内部に政治が必要とされるのである。そのため教会の幹部は道徳を含む世俗の問題に対しても判決を出すことが出来る。

一方世俗権力の担い手である国家は、真の宗教、正しい信仰を広めるためのものである。もちろん既存国家の中には必ずしも完全な信仰に合致していない場合もあるが、そのような国家に対して反抗することは絶対に許されない。もし抵抗を認めてしまえば、無秩序に陥る恐れがあり、またそもそも神の力によって、誤った状態は長く続くことはないと考えられるからである。

カルヴァンの思想のうち、無抵抗については彼の死後現実のユグノー弾圧への対応として、理不尽な支配に対しては抵抗してもよいというモナルコマキの政治理論が登場した。同様に彼の思想にある非寛容で妥協を許さない攻撃性も、カルヴァン主義が深刻なコンフェッショナリズムに直面するうちに失われていき、寛容へと傾いていった[要出典][* 23]

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フランスのコンフェッショナリズムと主権理論[ソースを編集]

コンフェッショナリズムとは、政治闘争が信仰の対立と密接に結びついた、宗教改革の時期特有の政治状況である[要出典]。このような形での宗教対立が最も典型におこなわれたのが16,17世紀のフランスであった。フランスの宗教改革派はカルヴァン派が主流で、ユグノーと呼ばれる[* 24][* 25]このユグノーと王権やカトリック勢力の間の政治闘争を通じて、フランス絶対王政が形成された。[要出典]

フランスの改革派、ユグノー[ソースを編集]

カトリーヌ・ド・メディシス
アンリ2世の妃で、メディチ家出身。夫の死後は相次いで息子を即位させ、実権を握った

フランスにおいても宗教改革と通じる福音主義的思想が現れた。その最初期のものは、ルフェーブル・デタープルによるパウロの書簡の注解(1512年)やフランス語訳新約聖書(1523年)があげられる。しかしパリ大学の神学者やパリ高等法院から弾圧され、デタープルはストラスブールへ亡命するなど、改革運動に迫害が加えられた。だが改革派は急速に影響力を増大させ[要出典][* 26]1550年代にはカルヴァンの指導の元で組織化が図られるようになった。[要出典]

国王フランソワ1世は姉のマルグリットが人文主義や改革運動に好意的であったためか、当初改革派に理解を示していたが、檄文事件を境に弾圧に回り、パリ高等法院に異端審問委員会を設置した。さらに後継者アンリ2世1547年特設異端審問法廷を設け、弾圧を強化した。

これに対し改革派は1559年に第1回全国改革派教会会議を開催し、信仰箇条や教会の規則を定めて一応の組織化を果たした。このころからブルボン家やコンデ親王家をはじめとする貴族が改革派へ参加した。とくにブルボン家などの大貴族層は、政敵であるカトリックの大貴族ギーズ家への対抗という政治的意図から改宗を選んだと考えられる。

アンリ2世の死後は、その妃で息子たちの後見として実権を握ったカトリーヌ・ド・メディシスが政治的駆け引きに改革派とカトリック派を利用しようとし、王家と改革派・カトリック派の三分構造が際だつようになった。[要出典]

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ユグノー戦争[ソースを編集]

前述の状況の中、1560年の改革派によるギーズ家の影響排除を狙った「アンボワーズの陰謀」事件や、1562年に起こったカトリック派によるヴァシーでのユグノー虐殺など不穏な事件が相次ぎ、ヴァシーの虐殺を契機として最初の武力衝突が起こった(第一次宗教戦争)。以後1598年ナントの勅令公布までの間フランスは断続的な内戦状態に陥った(ユグノー戦争)。1571年には改革派のコリニー提督が宮廷で影響力を増大させ、新教国と連携してフランスを八十年戦争に介入させようとしたが、1572年ユグノーに対する虐殺事件(サン・バルテルミの虐殺)に巻き込まれて殺された。[要出典] これに対し改革派は1574年に第1回改革派政治会議を開き、改革派の優勢な地域での徴税とそれを財源とした常備軍設立を決定し、オランダの改革派と結びついて、ほとんど独立した状態となった。また1581年にブルボン家のアンリ・ド・ナヴァルを「保護者 ("Protecteur")」として推戴した[要出典]。アンリは改革派の軍事指揮権と改革派支配地での司法官や財務官の任命権を得たが、一方でユグノーの顧問会議によってその権力は制限されていた。これは後述するユグノーの共和政的政治思想の影響も無視できない[5][6]

サン・バルテルミの虐殺
ブルボン家のナヴァル王アンリと王妹マルグリットの結婚式に参列するため、パリに集まった改革派貴族を、1572年のサン・バルテルミの祝日(8月24日)にカトリック派が襲った。この事件の影響はたちまち全フランスに広がり、各地で改革派に対する襲撃が相次いだ

カトリック貴族もギーズ公アンリを中心に「カトリック同盟(ラ・リーグ、"la Ligue")」を結成し、独自の軍事組織を持った。こうして王権・改革派・カトリック派の政治闘争はいよいよ本格的な武力闘争に発展した。ユグノーの背後にはオランダとイングランドが、カトリック同盟の背後にはスペインと教皇庁が存在し、内乱は国際的な宗派対立と密接に連動していた。一方でこの時期フランス王権は対ハプスブルク外交としてオスマン帝国に接近した。

この内乱に教皇は積極的にカトリック支援を意図して介入し、とくにグレゴリウス13世はサン・バルテルミの虐殺においてカトリック同盟を支持した。またグレゴリウス14世は同盟支援のために軍隊を派遣した。ハプスブルク家のフェリペ2世1580年ころからカトリック同盟を露骨に援助するようになると、国王アンリ3世はユグノーに接近し、国王は刺客を放って1588年ギーズ公アンリを暗殺した。しかし翌年には国王も同盟側によって暗殺され、ナヴァル王アンリが王位継承者(アンリ4世)となるが、カトリック勢力は根強く反抗した。1593年にナヴァル王アンリはカトリックに改宗して翌年パリに入城することができた。

アンリ4世の改宗に改革派は危機を覚え、改革派政治会議を全国組織にし、会議は1595年から1597年の間、王権と並ぶ統治機関として機能した。この会議はオランダの改革派との合同も模索したが、これに対しアンリ4世は改革派に宗教上の保証を与えるナントの勅令1598年に発布した。改革派はこれに満足し、王権への忠誠を誓った。[要出典]

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ナントの勅令廃止まで[ソースを編集]

ナントの勅令の実施状況の監督に当たっては、各州改革派とカトリックから選ばれた国王親任官が各教区を巡回した。しかしパリ高等法院やカトリックの聖職者たちはともすればこの勅令を非寛容な方向に厳密に解釈して適用しようとし、種々の訴訟を起こして改革派を陰に陽に弾圧しようとした。改革派にとって最大の後ろ盾であったアンリ4世の暗殺後には、改革派内部に明確な亀裂が生じ、北部のパリノルマンディーの改革派は王権への服従とカトリックとの妥協を目指す「穏健派」を形成し、南部のギュイエンヌラングドックの改革派は「強硬派」を形成した。「穏健派」は徐々に王権神授説に傾いた。

アンリ4世の死後摂政となった妃のマリー・ド・メディシスは改革派に配慮を示していたが、成人したルイ13世は改革派に威圧的な態度を取った。1620年ルイ13世が、改革派が多数を占めるベアルヌ地方でカトリックを支持する裁定を下すと、改革派は反発し、その年の12月に開かれた全国会議で「強硬派」が優勢となって武装蜂起を決定した。ユグノー側の軍事的指導者となったのはロアン公アンリである。1621年から1622年にわたっておこなわれた戦いは、ほぼ王側の優勢のうちに決着したが、和平においてはルイ13世が譲歩する形でナントの勅令が再確認された(モンプリエ条約)。[要出典]

ユグノーの多く居住する地域(17世紀

しかしルイ13世はモンプリエ条約の遵守に熱心でなく、改革派は不満を隠しきれなかった。1625年に再び戦闘が開始されると、宰相リシュリューは改革派の拠点ラ・ロシェルを包囲し、ロアン公アンリ率いる改革派をうち破ったが、このときリシュリューは外交方針を変更して三十年戦争でプロテスタント側を援助することも考慮していたため、1626年には講和してモンペリエ条約を再確認した(パリ条約)。だが平和は短かった。1627年にリシュリューは再びラ・ロシェルを包囲し、改革派はイングランドの援助を受けたが、イングランド艦隊は有効な支援ができず、1628年10月ラ・ロシェルは陥落した。1629年には王軍がラングドックにも侵攻して決定的な勝利を得、またロアン公アンリを国外へ追放した。6月和平がなりアラスの勅令が出され、ここでナントの勅令が再び確認されたものの、改革派は武装解除され、これは「恩恵の勅令」と言われるように、王権が改革派を決定的に従属させるものであった。

1630年から1660年にかけての30年間は、王権への臣従姿勢によって改革派が比較的安定した時期を迎えていた。例えばリシュリューの庇護のもとアカデミー・フランセーズを設立したヴァランタン・コンラールも改革派の文筆家であった。とはいえ、この時期改革派に圧迫が加えられてもいる。リシュリュー死後、実権を握ったマザランは改革派全国教会会議の開催を禁止した。

ルイ14世が親政を開始すると、改革派の権利が徐々に剥奪されていった。まず1661年にフランス全土に官吏が派遣され、改革派の礼拝について調査が行われた。そしてさまざまな条例を発布して公職から徐々に改革派を閉め出した。1679年ドラゴナードという制度が定められ、これは竜騎兵を改革派の家に宿泊させ、暴力的威嚇によって改宗を強制するものであった[要出典][* 27]これに対して1683年に改革派の多い南部で散発的な抵抗運動が起こったが、すぐに鎮圧された。1685年にはついにナントの勅令廃止が宣言(フォンテーヌブローの勅令)され、改革派牧師の追放、改革派教会堂の破壊が命じられた。[要出典]

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ユグノーとフランス経済史[ソースを編集]

マックス・ウェーバーが指摘するように、ユグノー1617世紀フランス経済に大きな影響を及ぼした[* 28]。ここではユグノーのフランス経済に及ぼした影響、とくにコルベール主義との関連を概観し、ナントの勅令廃止(1685年)の経済史的意義についても言及する[* 29]

ナントの勅令
ナントの勅令は信仰の自由を与えるものとはいえず、カトリックとプロテスタントに対する扱いも平等ではない。あくまでプロテスタントへの寛容を表明するにとどまっている

フランスのプロテスタンティズムはその最盛期で人口200万人、当時の人口の10%ほどを占めたが、ユグノー戦争によって5%程度まで減少した[7]。その内訳は貴族農民手工業者商人金融業者など多様な社会階層に及んだ[8]。そのうち貴族層は前述したように政治的意図が濃厚であったので、その目的が達成されたユグノー戦争 後には、そのほとんどが早期に信仰を離れた。ユグノーが大きな勢力を持った南部では、農民層にもプロテスタンティズムが浸透し、彼らの貢献により、この地域は内乱の被害が著しかったにもかかわらず早期に復興を成し遂げた。しかしとりわけブルジョア層においてプロテスタンティズムは広く浸透した。

ユグノーはとくに集中マニュファクチュアの担い手として重要であり、金融・商業においても支配的であった。コルベールは重商主義政策の柱に国内の金融業・商業・工業の発展を据えていたので、当然その担い手であるユグノーを保護し、これと提携する道を選んだ。[要出典]

毛織物工業では、ラングドックプロヴァンスドフィネレヴァント地方への輸出用ラシャが大量に生産されていた。シャンパーニュ地方のスダンも北ドイツへの輸出用ラシャを生産し、毛織物工業の中核でもあったが、ここではユグノーの製造業者が織機の半数を所有していた[9]絹織物工業においては、17世紀中葉トゥールリヨンにおける顕著な発展が知られるが、それはユグノーの貢献に拠るところが大きい。リンネル工業をフランスに導入したのもユグノーであり、リンネルはイギリスへの輸出用商品として貴重なものであった[10]オーヴェルニュアングモアでは製紙業が発達していたが、その主な担い手もユグノーであった。ここで製造された紙はフランス国内のみならず、イギリスやオランダでも消費された。とくにオーヴェルニュのアンベールの紙は当時ヨーロッパで最良のものとされていた。これらの工業は一般的にナントの勅令廃止後に衰退した[* 30]

ラ・ロシェルボルドーにおける海上交易の発展にもユグノーは多大な寄与を為していた。ボルドーにおいては主にイギリス・オランダとの交易を担い、ラ・ロシェルにおいてはナントの勅令直前まで貿易は彼らの独占状態にあるという有様であった[11]。ユグノーの銀行家としては、17世紀初めにはリシュリューの財源となったタルマン家やラムブイエ家が知られる。またユグタン家も有名である。もともとリヨンの出版業者であったが、1685年にアムステルダムに移住し、そこで17世紀最大の銀行家にまで成長した[12]。フランス革命後には多くのユグノー銀行家がフランス金融界で活躍し、現在でもユダヤ系以外はプロテスタント系によってフランス銀行業は担われている[13]

ナントの勅令廃止によりユグノーの工業技術・資本はイギリス・オランダ・スイス・ドイツに流出し、それらの国々の工業的発展に寄与した結果、対フランス貿易における各国製品の競争力を高めた。[要出典]

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政治思想(モナルコマキとポリティーク)[ソースを編集]

カルヴァンは信徒に抵抗を認めなかったが、ユグノーに対する弾圧が強くなると、ユグノーたちの間に支配権力に対する抵抗理論が現れた。1572年のサン・バルテルミの虐殺によって宗教対立がいよいよ抜き差しならない段階に入ると、武力抵抗を肯定する必要が生じた。こうして武力抵抗を肯定する理論として暴君は打倒しても良いとする暴君放伐論が現れ、暴君放伐論者をモナルコマキ英語版という。暴君放伐論として代表的なのはテオドール・ド・ベーズの『臣民に対する為政者の権利について』(1573年)とユニウス・ブルートゥスというペンネームの著者が著した『暴君に対する自由の擁護』である。[要出典]

ジャン・ボダン
国家の統一を維持すべきという観点から宗教的寛容を主張した。主権の形態としては君主制に優越性を認めていたが、それはつねに主権の行使者が一者であるということと世襲的であるということが、継続的な永続性を実現していると考えたからである[要出典]

ベーズは為政者が人民の同意しない権力を行使した場合は、これに抵抗することが可能であるという。ただし抵抗の主体となることができるのは個々の人民ではなく、三部会もしくは大貴族によってのみ国王を放伐することが可能であるとした。後者の著作はベーズのものより体系的な政治理論を展開しており、一連のユグノーの暴君放伐論の中では絶頂であると考えられている。まず君主が神の代理人として地上で神の法を行う義務を負うと述べ、次に旧約聖書を引用して神と、君主およびその支配下にある人民の間に契約があるという。次に君主と人民の間にも契約があり、君主がこの契約に守らない場合は、人民はこれに服従しなくてもよいとする。このように契約論を展開する一方で『暴君に対する自由の擁護』は、ベーズ同様、等族国家の原理に影響を受けた身分制的な思想を展開する。君主の契約違反に人民は服従しなくてもよいが直接抵抗することは認められない。君主に抵抗できるのは身分ある貴族だけで、身分のない人民は貴族の抵抗に荷担するか、消極的に君主の支配から逃亡するかである。最後にこの著作が示す興味深い論は、近隣の君主が暴君の支配に苦しむ国に干渉戦争をおこなうことを認めている点である。

ラ・リーグの側でも、同様の抵抗理論が展開された。ただカトリック強硬派の政治理論に特徴的なのは、従来の教権擁護の理論を継承して、国王の解任権やその不当支配に対する抵抗権の条件に教会、とくに教皇の承認を重視する点である。

一方で、カトリック穏健派はモナルコマキたちが君主への抵抗に神との契約違反を見たり、教皇の承認を重視したりする傾向に批判的であった。彼らはむしろ国家を重視し、宗教上の問題に寛容な解決をもたらすことで、政治的統一を尊重すべきと説いた。彼らを国家主義者という意味でポリティークと呼ぶ。

ポリティークの代表的論者はジャン・ボダンで、彼は一方で近代的な主権理論の祖ともいわれる。ボダンは中世的な国王大権を発展させて、主権概念をつくった。この主権とは、国家を支配-被支配の関係で捉えた際に支配者側が持つ絶対的な権限のことで、国王にのみ固有のものである。彼によれば、「国家の絶対的な権力が主権」であり、「主権による統治が国家」である。つまり主権は国家そのものと不可分である。要するに、伝統的な封建制や従来の身分制社会では、国王と末端の被支配者である人民との間に、大貴族や群小の領主のように中間権力が存在したが、ボダンは主権を設定することによって、中間権力を排除して、支配者と被支配者の二者関係で国家を定義した。これによりモナルコマキたちが主張した、貴族などが支配権の一部を分担しているという観点から抵抗権を認める暴君放伐論を否定した。この主権概念と対立するのは伝統的な普遍支配権を主張する皇帝と教皇である。まずボダンは皇帝を選挙によって選ばれるのであるから、選挙を行なう支配者たちの主権を譲渡された受益者に過ぎないとこれを主権から外す。また教皇の至上権に対しては、国家の自律性・自然性を強調し、領域国家内の政治から宗教上の争いが排除されなければいけないとして政教分離を主張した。[要出典]

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低地地方と宗教改革[ソースを編集]

メルセン条約によって東フランク西フランクに分属することとなった低地地方[* 31]は中世後期に至るまで政治的統一とは無縁であった。しかしながら、14世紀ヴァロワ=ブルゴーニュ家の支配下にはいると、地域の政治的統一が促進されることとなった。その後、同家の断絶によりハプスブルク家がこの地を相続し、中央集権的な支配を及ぼそうとしたが、これに対して低地地方の貴族は不満を募らせ1568年に反乱し、やがて北部はオランダ共和国として独立した。オランダ共和国は改革派が多数であったわけではないが[* 32]、独立の過程においては改革派が主導的な影響を及ぼし、やがて改革派の中心国家として台頭することになった。

低地17州の歴史的経緯[ソースを編集]

ディジョンにあるブルゴーニュ公の宮殿

12世紀までに、低地地方にはホラント伯やゲルデルン公、ブラバント公エノー伯ルクセンブルク伯フランドル伯などの世俗領主、ユトレヒト司教やリエージュ司教といった教会領主が分立割拠していた。11世紀後半ごろからこの地域に対する神聖ローマ皇帝の圧力は減退していき、低地地方は徐々に英仏両国の影響を受けるようになっていった。

低地地方南部で徐々に強大な勢力を確立したフランドル伯は、フランスとの対立を深め、とくにフランドル伯支配下の都市はイングランドとの通商関係での結びつきがあったことから、イングランド王に接近した。フランドル伯ボードゥアン9世の時代には、ノルマンディをイングランド王ジョンから取り上げたフィリップ2世がフランドルを窺う情勢となった。つづくボードゥアンの娘ジャンヌの時代に、イングランド王ジョン・神聖ローマ皇帝オットー4世と同盟し、フランス王権に挑戦したが、1214年ブーヴィーヌの戦いで敗北した。以降フランドルはしばらくの間フランス王権の掣肘を受けることとなる。

14世紀半ばに同地は相続を通じてブルゴーニュ家のフィリップ豪胆公の支配下に入り、この公国のもとで政治的統一が進められた。公国は財政的にも低地地方に大きく依存しており[* 33]、自然と公国の重心も低地地方へと移動した。このころすでに聖職者、貴族、有力都市民からなる身分制議会が低地地方でも開かれていたが、あらたに課税賛否権と請願権を与え、この議会は「全国議会(エタ・ジェネロー)」[* 34]へと発展した。

14世紀にルクセンブルク伯領を領していたルクセンブルク家の当主が相次いで神聖ローマ皇帝となり、同家はやがて神聖ローマ帝国の東方に広大な家領を形成した。カール4世の時代にルクセンブルク伯はルクセンブルク公へと格上げされ、同家は最盛期を迎えるが、やがて15世紀初めには同家の男系は断絶し、その支配地域の多くは相続を通じてハプスブルク家の手中に収まった。

1477年シャルル突進公がロレーヌ・アルザス・スイス軍との戦いで戦死すると、フランス国内のブルゴーニュ公領はたちまちフランス王権に回収され、相続者マリーに残されたのは低地地方とフランシュ=コンテのみであった。マリーは同年ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と結婚し、これらの地域もまたハプスブルク家の支配に収まった。

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ハプスブルク家の統治(カール5世とフェリペ2世)[ソースを編集]

カール5世の「帝国」(1547年)

1506年フィリップ端麗公が急死すると、その長子シャルルが公国を相続し、1515年1月に全国議会で即位した。さらにシャルルは1516年にはカスティリャ・アラゴン両王国の君主となり、1519年には対抗馬のフランソワ1世を破って神聖ローマ皇帝カール5世となった。こうして東はトランシルヴァニアから西はスペインにいたる、ヨーロッパ全体を包含するかのような「帝国」が形成された。この帝国には一体的な国家組織がなく、個別の国家がただ単にカール5世のもとに集約されているに過ぎなかったが、低地地方はその中で位置的には辺境であるにもかかわらず、対フランスの軍事的・政治的拠点であり、さらにアントウェルペンの金融は「帝国」の重要な財源であった。カールは低地地方の行政的中心をブリュッセルにおき、中央集権化を進めて政治的統一を促進させる一方、周辺地域の武力的制圧をすすめ、メルセン条約以来分断されていた低地地方を初めて統一した。低地地方が17州[* 35]と呼ばれるのは、このカール5世が帯びた、低地地方の17の称号に由来し、1548年のアウクスブルク帝国議会で正式に承認された。1549年には低地地方が「永久に不可分」な形でハプスブルク家に継承されることを定めた国事詔書(プラグマティック・サンクシオン)が発布され、全国議会で承認された。

カール5世に続いて低地地方を支配したのは長子フェリペであった。フェリペもカール5世の基本路線を継承し、法典や裁判制度の統一をはかり、低地地方を中央集権化しようと試みた。低地地方の政治の実権はグランヴェルなどの寵臣が握っており、オラニエ家などの大貴族と対立した。フェリペは低地地方での支配権を強化するため、低地地方での教区再編を計画し、1559年7月教皇パウルス4世から許可を得た。これにより低地地方に3つの大司教区[* 36]が新設され、これらの司教区の司教には従来王権の下で異端審問に関与していた神学者が多数登用された[* 37]。このころフランスから多数の改革派が流入し始めていたので、宗教的な緊張が高まり、低地地方に不穏な空気が流れ始めた。

アルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレド
「鉄の公爵」と呼ばれた。彼の設けた「騒擾評議会」は別名「血の裁判所」と呼ばれるほど苛烈で、低地地方を苦しめた

1565年フェリペが改めて低地地方での異端審問の強化を命令すると、下級貴族は反発を強め、1566年には異端審問の中止を求める訴状を執政マルハレータに提出した[* 38]。マルハレータは異端審問の一時緩和を発表したが、これにより改革派が公然と低地地方で活動を開始するに至った。

フェリペは低地地方での支配権を強化するため、低地地方での教区再編を計画し、1559年7月教皇パウルス4世から許可を得た。これにより低地地方に3つの大司教区[* 39]が新設され、これらの司教区の司教には従来王権の下で異端審問に関与していた神学者が多数登用された[* 40]。しかし、この頃フランスから多数の改革派が流入し始めていたので、宗教的な緊張が高まり、低地地方に不穏な空気が流れ始めた。

1566年フランドルでカトリック教会や修道院を狙った暴動が発生し、その反乱は低地地方各地へと広まった。フェリペが重税などの圧政を行っていたため、まだプロテスタントが浸透していない北部にまで暴動は拡大した。この暴動は一見宗教的動機に隠されてはいるが、そのうちに深刻な経済的理由が存在していた[* 41]。この年は北欧での大規模な戦争によってバルト海方面からの穀物流入が激減し、食糧難と経済危機によって低地地方の人々は苦しんでいたのである。1567年8月、フェリペは事態の収拾を図るため、アルバ公に指揮権を与え軍隊による介入を指示し、1万ほどの軍勢とともに派遣した。アルバ公は「騒擾評議会」なる特別法廷を設置し、暴動の参加者を徹底的に弾圧した。さらに12月にはマルハレータに替わって執政になり、ネーデルラント貴族にこの暴動の責任を問うた。1568年6月5日、異端撲滅の名の下に、エフモント伯ラモラール、ホールン伯フィリップを含む大貴族20人余りがブリュッセルで処刑された。この際、大貴族の一人であったオラニエ公ウィレム1世1567年4月すでにドイツに逃れており無事だったが、彼ら亡命貴族の財産・領地の多くが没収された。1569年には十分の一税を導入して、スペインの財政改善のために低地地方に経済的圧迫をもたらした。

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八十年戦争とオランダ共和国[ソースを編集]

ドイツに逃れていたオラニエ公ウィレムは1568年4月に軍を率いてオランダ北部と中部から一斉に進攻するが、5月23日ハイリハレーの戦いに勝利したものの、結局は失敗に終わった。ウィレムはフランスのユグノーに合流し、「海乞食(ワーテルヘーゼン)」を組織して低地地方の沿岸を無差別に略奪した。1572年4月1日海乞食はブリーレの占拠に偶然にも成功し、やがて港湾都市を少しずつ制圧していった。同年7月ホラント州は反乱側に転じ、ウィレムを州総督に迎えることとした。ホラント・ゼーラント2州に海乞食が足場を整えると、改革派が続々と流入し、徐々に主導権を握るようになった。1573年2月にはホラント州でカトリックの礼拝が禁じられた。

1576年には給料の未払いから低地地方に駐留していたスペイン軍が略奪に走ると、スペインに協力的であった南部州も反乱州との提携に転じ、ヘントの和約が結ばれた。和約は全部で25か条あるが、最初の3か条はとくにこの条約の基本性格を表していると考えられている。第1条ではスペイン王による無条件大赦を要求し、第2条では諸州の連帯と低地地方の平和維持を規定、第3条では宗教問題など諸州の問題を解決するために全国議会を開くことを決めていた。しかしながら、この和約は全く効果的な裏付けを欠いていた。そもそも約束された諸問題の解決のための全国議会は結局開かれなかったし、条約は北部と南部が互いに都合良く解釈する余地を残していた。たとえばフェリペ2世の意向を気にする高級官僚は早くも1576年11月9日づけの国王宛書簡で「和約」を容認したやむべき経緯を釈明した上で、和約の実施にあたっては修正を加えることを示唆している。同様にオラニエ公ウィレムの側でも、側近がイングランド宛の書簡で宗教問題について、ホラント・ゼーラント両州では全く妥協する気がないことを述べている。このようにヘントの和約は全くその場限りの一時的な妥協に過ぎず、永続性を欠いており、状況の推移によって簡単に崩れる脆い地盤の上にあった。

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関連項目[ソースを編集]

帝権と教権[ソースを編集]

各国史[ソースを編集]

教会[ソースを編集]

ヨーロッパ外の祭祀王権との比較[ソースを編集]

参考文献[ソースを編集]

政教分離における歴史学的視座
近代国家成立史として(国制史的側面)
霊性史として(倫理思想史的側面)
全体
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  • 小林良彰河野武司山岡龍一 著『政治学入門 ('07)』放送大学教育振興会、2007年。
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  • リュシアン・フェーヴル 『ヨーロッパとは何か : 第二次大戦直後の連続講義から』 長谷川輝夫訳、刀水書房、2008年ISBN 9784887083646
  • ウィリアム・ウッドラフ 著、原剛ほか訳『概説 現代世界の歴史 1500年から現代まで』ミネルヴァ書房、2003年。
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各国史全般
キリスト教史
キリスト教教義
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  • E・スキレベークス 著、伊藤庄治郎 訳『救いの協力者聖母マリア』聖母文庫、1991年。[* 46]
  • 日本カトリック司教協議会社会司教委員会 編『信教の自由と政教分離』カトリック中央協議会、2007年。
  • アリスター・マクグラス 『キリスト教神学入門』 神代真砂実訳、教文館2002年ISBN 978-4764272033[* 47]
グレゴリウス改革
マリア信仰
  • 竹下節子 著『聖母マリア <異端>から<女王>へ』講談社選書メチエ、1998年。
異端
  • クルト・ルドルフ 著、大貫隆 ほか訳『グノーシス 古代末期の一宗教の歴史と本質』岩波書店、2001年。
  • 甚野尚 著『世界史リブレット20 中世の異端者たち』山川出版社、1996年。
  • D・クリスティ・マレイ 著、野村美紀子 訳『異端の歴史』教文館、1997年。
  • ルネ・ネッリ 著、柴田和雄 訳『異端カタリ派の哲学』法政大学出版局、1996年。
  • 原田武 著『異端カタリ派と転生』人文書院、1991年。
  • 西川杉子 著『ヴァルド派の谷へ』山川出版社、2003年。
宗教改革
  • アリスター・マクグラス 『宗教改革の思想』 高柳俊一訳、教文館、2000年ISBN 476427194X[* 47]
  • 小泉徹 著『世界史リブレット27 宗教改革とその時代』山川出版社、1996年。
  • マックス・ウェーバー 著、大塚久雄 訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫、1989年[改訳版、1997年 第25刷 参照]。
  • 金子晴勇 著『宗教改革の精神 ルターとエラスムスの思想対決』講談社学術文庫、2001年。
  • 永田諒一 著『ドイツ近世の社会と教会』ミネルヴァ書房、2000年。
  • I・ジョン・ヘッセリンク 著、廣瀬久允 訳『改革派とは何か』教文館、1995年。
  • S・ムール 『危機のユグノー : 17世紀フランスのプロテスタント』 佐野泰雄訳、教文館、1990年ISBN 4764262657
  • ジョルジュ・リヴェ 著、二宮宏之関根素子 訳『宗教戦争』白水社、1968年[1998年 第10刷 参照]。
  • 木崎喜代治 著 『信仰の運命 フランス・プロテスタントの歴史』岩波書店、1997年。
  • 金哲雄 『ユグノーの経済史的研究』 ミネルヴァ書房〈Minerva人文・社会科学叢書, 74〉、2003年ISBN 4623037495
法制史
  • 勝田有恒森征一山内進 『概説西洋法制史』 ミネルヴァ書房、2004年ISBN 9784623040643
  • 吉野悟 著『ローマ法とその社会』近藤出版社、1976年。
  • ピーター・スタイン 著、屋敷二郎監訳『ローマ法とヨーロッパ』ミネルヴァ書房、2003年。
  • 山田信彦 『スペイン法の歴史』 彩流社、1992年ISBN 488202215X
  • 水林彪 ほか編『新体系日本史 2 法社会史』山川出版社、2001年。
中世史
  • ハンス・K・シュルツェ 著、千葉徳夫 ほか訳『西欧中世史事典』ミネルヴァ書房、1997年。
  • ハンス・K・シュルツェ 著、五十嵐修 ほか訳『西欧中世史事典II』ミネルヴァ書房、2003年。
  • アンリ・ピレンヌ 著、中村宏 ほか訳『ヨーロッパ世界の誕生』創文社、1960年。
  • 堀米庸三 編『世界の名著67 ホイジンガ』中公バックス、1979年。
  • ヨーロッパ中世史研究会 編『西洋中世史料集』東京大学出版会、2000年。
  • 樺山紘一 ほか編『岩波講座(新)世界歴史7 ヨーロッパの誕生岩波書店、1998年。
  • 堀米庸三 ほか編『岩波講座(旧)世界歴史10 中世4』岩波書店、1970年。
  • 堀越孝一 編『新書ヨーロッパ史・中世編』講談社現代新書、2003年。
  • 菊池良生 著『神聖ローマ帝国』講談社現代新書、2003年。
  • 江村洋 著『ハプスブルク家』講談社現代新書、1990年。
  • 五十嵐修 『地上の夢キリスト教帝国 : カール大帝の「ヨーロッパ」』 講談社〈講談社選書メチエ, 224〉、2001年ISBN 4062582244
  • 阿部謹也 著『阿部謹也著作集』2、8、10、筑摩書房、1999年。
  • 堀米庸三 著『中世国家の構造』日本評論社、1948年。
  • 増田四郎 著『西洋中世世界の成立』講談社学術文庫、1996年。
  • 増田四郎 著『西洋中世社会史研究』岩波書店、1974年。
  • ラウール・マンセッリ 著、大橋喜之 訳『西欧中世の民衆信仰』八坂書房、2002年。
  • J・ル・ゴフ 『中世とは何か』 池田健二 ,菅沼潤訳、藤原書店、2005年ISBN 4894344424[* 48]
  • J・ル・ゴフ 著、桐村泰二 訳『中世西欧文明』論創社、2007年。
  • J・ル・ゴフ 著、加納修 訳『もうひとつの中世のために』白水社、2006年。
  • エリザベス・ハラム 編、川成洋 ほか訳『十字軍大全』東洋書林、2006年。
  • エドマンド・キング 『中世のイギリス』 吉武憲司訳、慶應義塾大学出版会2006年ISBN 978-4766413236
  • マルク・ブロック 著、堀米庸三 ほか訳『封建社会』岩波書店、1995年。
  • 佐藤彰一 ほか編著『西欧中世史 〔上〕』ミネルヴァ書房、1995年。
  • 江川温 ほか編著『西欧中世史 〔中〕』ミネルヴァ書房、1995年。
  • 朝治啓三 ほか編著『西欧中世史〔下〕』ミネルヴァ書房、1995年。
  • レジーヌ・ル・ジャン 『メロヴィング朝』 加納修訳、白水社文庫クセジュ〉、2009年ISBN 978-4560509395
  • Ian Wood (1995). The Merovingian Kingdoms, 450-751. Longman. ISBN 978-0582493728. http://www.leeds.ac.uk/history/staff/ian_wood.htm. 
  • 橋本龍幸 『中世成立期の地中海世界—メロヴィング時代のフランクとビザンツ』 南窓社1998年ISBN 978-4816502002
  • 『ヨーロッパ—国家・中間権力・民衆—』 長谷川博隆、名古屋大学出版会、1985年ISBN 978-4930689382
思想史
日本における政教分離

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脚注[ソースを編集]

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注釈[ソースを編集]

  1. ^ このように規定されることの学的背景については「政教分離における歴史学的視座」で詳しく記述する。なぜヨーロッパの国家としてビザンツ帝国が除外されうるかについても同様。
  2. ^ 従来説のようにヴィッテンベルク城の聖堂の扉に掲載されたという説は現在疑問視されている。
  3. ^ たとえばツヴィングリ、カルヴァンなどほかの改革派はルターのプロテスタンティズムを教義において保守的であると批判している。またルターの教義の核心である信仰義認説については1511年に枢機卿コンタリーニがルターとは無関係にこの結論に達しており、同時代ではイングランドメアリー女王のもとでカンタベリー大司教であった枢機卿ポール、人文主義者でケルン司教区の改革に従事していたグロッパーなどが個別に信仰義認説に到達している。コンタリーニ、グロッパーなどはカトリックの穏健派で、論争に際してはルターとの和解を模索した。
  4. ^ しかし一方でルター訳聖書が近代ドイツ語の基礎となったように、文化的側面においてはドイツの統合をもたらす側面もあった。[要出典]
  5. ^ ただしこの時点ではカルヴァン派・ツヴィングリ派・再洗礼派などは異端とされ、信仰の自由から除外された[要出典]
  6. ^ 斎藤泰「帝国国制における原スイス永久同盟」『スイスの歴史と文化』p.19。そもそもこの事件の結果とされる盟約者団結成も物語での1308年のことではなく、1291年8月1日のことである。
  7. ^ 帝国直属という地位は帝国都市と同等であり、他の諸侯の影響を受けないことから「帝国自由」と呼ばれ、国家形成に通じる自治を可能にするものであった[要出典]
  8. ^ このシュヴィーツに下された特許状がフリードリヒ2世の破門中に出されたものであり、かつ誰から皇帝が買い戻したかが書かれていないことが、こののちしばしば争点となり、ハプスブルク家はその点を指摘して証書を無効と見なすことが出来たのである}}。
    「永久同盟」文書
    1291年8月1日、ウーリ・シュヴィーツ・ニトヴァルデン三者がハプスブルク家を意識しつつ、相互援助を約した。現在のスイスでは、この同盟締結の年を建国の年としており、8月1日はスイスの建国記念日である
  9. ^ オプヴァルデン渓谷は盟約結成直後に参加している。
  10. ^ しかし、この通説に対する有力な異説として、この戦争をマクシミリアン1世は皇帝としてではなく、ハプスブルク家の当主として戦っているのであり、したがってこの戦争は地方的な紛争に過ぎないとするものがある。この異説は1947年、H・ジークリストによって提唱され、1958年の著書において、K・モムゼンもこの見方を継承する。[2]
  11. ^ このころ諸州の代表団によって形成された「大同盟」議会が同盟内で唯一の連邦的権威を有していたが、その権限は不確定であった。スイスはすでにヨーロッパの有力な勢力となっていたが、各カントンは依然として個別に同盟関係を築き、固有の従属領域を維持しており、独立性が高かった[要出典]
  12. ^ スイスでは自治権を持つ州のことをカントンをいうが、これはスイス革命により成立したヘルヴェティア共和国の時期に一般化したフランス語由来の用語である。それ以前は「邦」と呼ばれていた。ここではカントンと邦を区別せずに用いる[要出典]
  13. ^ ツヴィングリは聖書に記載されていない事柄は聖書の教えに反しており、禁止されるべきという考えを持っていた。
  14. ^ カール大帝の名にちなんでいる。現在のチューリヒ大学の元となった。
  15. ^ ルターは聖体拝領のパンと葡萄酒の中にキリストが実在しているという両体共存説をとっていたが、ツヴィングリはパンと葡萄酒は象徴に過ぎないと考えていた。詳細は聖餐論を参照。
  16. ^ 「1537年1月の提案の時点ですでに、これらの片言隻句にさえ教会権自律の主張を感じ取ったジュネーヴ市参事会は……。」(出村彰監修『総説 キリスト教史 2 宗教改革編』pp.117-118)
  17. ^ 牧師と教師は説教などを通じて司牧の役割を担い、聖書解釈の問題などについて定期的に審議した。長老は、牧師・教師とともに監督院を形成して、市内のどの家でも自由に立ち入ることができる権利を有し、市民生活を監督した。執事は教会施設の管理と救貧を担った。
  18. ^ この点で隣接する南西ドイツのルター派都市との命運の差は歴然である。なぜならシュマルカルデン戦争の結果、これらの都市ではカール5世により徹底的にツンフトが解体され、門閥支配に戻されたからである。ドイツとスイスの都市は国境を挟んで一方はルター派にとどまり、門閥支配が強められ、他方はカルヴァン派を信仰し、ツンフトが宗教改革を通じて門閥支配を解体した[要出典]。「シュマルカルデン戦争」節を参照。
  19. ^ ウルリヒイム・ホーフ 1997, pp. 84-85。再洗礼派については、同ページの訳注(3)を参照。
  20. ^ しかし、ルターはアウグスティヌスの教会論を意図的に斥けているように見える。アウグスティヌスはドナティストとの論争において、彼らが教会に分裂をもたらしかねないことが問題であるとした。教会は唯一であるべきというのが彼の考えであった(A・E・マクフグラス『キリスト教思想史入門』pp.103-112)。
  21. ^ アウグスト・フランツェンによれば、ツヴィングリがルター思想の影響を受けるようになるのは、1519年のライプツィヒ討論以後のことでしかも非常に限定的であり、1522年まではエラスムスの影響が顕著であるという(アウグスト・フランツェン『教会史提要』p.245)。A・E・マクグラスによれば、北ドイツの宗教改革に対し、スイスの宗教改革には人文主義の著しい影響が認められる(アリスター・マクグラス 2000, pp. 85-92)。
  22. ^ ツヴィングリはこのような自治組織の権威は神に由来し、聖書の解釈をする権威さえも保持していると考えた(アリスター・マクグラス 2000, p. 285)。
  23. ^ フランスのカルヴァン派政治理論の変容過程については「フランスのコンフェッショナリズムと主権理論」を参照。
  24. ^ 「ユグノー」という用語は当初は蔑称であり、プロテスタント側はこの語を使っていなかった。語源的にはスイスにおいてサヴォワ公に反対した「連合派 (Eidgenossen)」に由来するといわれ、民間信仰における「ユゴン王」に結びつけられていた。この「ユゴン王」は一種の化け物である。(木崎喜代治『信仰の運命』pp.20-21、金哲雄 2003, p. 2)
  25. ^ フランスのプロテスタンティズムは、概して民衆の自発的な選択によっていたことが大きな特徴である[要出典]
  26. ^ 1533年にはパリ大学総長がルターに依拠して演説し、1534年にはカトリックのミサ聖祭の中止を訴える檄文事件が起こっている[要出典]
  27. ^ 1685年の事例によれば、竜騎兵たちは疲労しないよう交替しながら、改革派信徒を眠らせないよう太鼓を鳴らし、罵倒し、体を揺さぶり、針を突き刺し、命に別状ないやり方で苦痛を与えた[要出典]
  28. ^ マックス・ウェーバーは、フランスの改革派が「フランス工業の資本主義的発展の最も重要な担い手の一つだった」(マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』p.28)と述べている。またウォーラーステイン は『近代世界システム 1600-1750』において、ナント勅令廃止がフランス産業革命の立ち後れをもたらしたと指摘する(金哲雄 2003, p. 14)。一方でウェーバーの研究に影響を受けた日本の大塚史学においては、ユグノーの経済史的役割は概して冷淡に扱われた(金哲雄 2003, pp. 5,20-28)。
  29. ^ この節は全般的に金哲雄 2003に依拠する。
  30. ^ この衰退に宗教迫害がどれだけ影響を及ぼしたかについては主要な研究において見解が相違している。W・C・スコヴィルは『ユグノーの発展とフランスの経済的発展 1680~1720』(1960年)において、宗教的迫害の激しくなる時期と経済的衰退の時期が一致しないことを挙げ、むしろルイ14世の対外戦争に対抗した諸外国による高額の関税、インド産綿布の普及、国家による経済統制や国産品税の導入などがその原因であるとする(金哲雄 2003, pp. 83-91)。それに対し、C・ヴァイスの先駆的研究「17世紀におけるフランス・プロテスタントに関する研究報告書」はナントの勅令を経済的衰退の原因と見ている(金哲雄 2003, pp. 106-113)。金哲雄も同様である(金哲雄 2003, pp. 113-151)。
  31. ^ 低地地方をあらわすNederlanden(複数形)の発音は「ネーデルラント」よりも「ネーデルランド」に近い(厳密には「ネーデルランデン」)。Nederland(単数形)の発音は「ネーデルラント」であるが、これは今日オランダを指す。今日のオランダ・ベルギーを含む低地地方を「ネーデルラント」と日本語で表記することが多いが、これは適切とはいえない(川口博 1995, pp. 12-15)。したがって、この記事内ではオランダとベルギーを含む地域を「低地地方」と表記し、「ネーデルラント」は用いない。
  32. ^ 少なくとも「カルヴィニズム的北部」と「カトリック的南部」の分離が宗教的理由によるという見解はオランダ独立の歴史的な経過に即しているとはいえない。そもそもカルヴァン派の人口に占める割合は、北部よりも南部の方が当初は多かったのであるから、北部と南部の宗教事情の相違は分離の原因ではなく結果であると見るべきである(川口博 1995, pp. 19-27)。
  33. ^ ブルゴーニュ公国の収入において大部分を占める臨時収入において、低地地方からの収入割合は75%を占め、経常収入においてもブルゴーニュ本領の収入は5%に過ぎなかった。(堀米庸三「ホイジンガの人と作品」『世界の名著67 ホイジンガ』p.64)
  34. ^ :États Généraux:Staten-Generaal。慣例で「全国議会」と訳されるが、この会議は低地地方全体の身分制議会ではなく、州ごとの身分制議会の派遣する使節団の会議というほうが実情に近い(川口博『身分制国家とネーデルランドの反乱』pp.10-11)。
  35. ^ ところで、この17州というのが具体的にどの州を数え上げたものかについては数説あり、一致した見解が得られているとは言えず、不明確である。あるいは中世ヨーロッパにおいて17という数字は不特定多数の寓意でもあったので、それに由来するのではという示唆もホイジンガから出されている。詳細は川口博「「十七州」考」(『身分制国家とネーデルランド』所収)参照。
  36. ^ カンブレメヘレンユトレヒトに大司教区が設けられた。
  37. ^ グランヴェルもメヘレン大司教となっている。
  38. ^ このとき下級貴族を「乞食(ヘーゼン)」と蔑称したことから、彼らは自ら「乞食党(ヘーゼン)」を名乗るようになったという。なおよくある表記「ゴイセン」は現地語に即して正しい表記とはいえない(おそらく「ゴイセン」はドイツ語のGeusen(発音はゴイゼン)に由来すると思われる)。ヘーゼンのオランダ語における綴りは「Geuzen」であるが、この語頭の「g」は有声軟口蓋摩擦音であり、有声軟口蓋破裂音であることが多い英語の「g」や日本語ガ行とは異なる音であるため、最近ではハ行で転写されることが増えつつある。また「オランダのカルヴァン派をゴイセンと呼んだ」という誤解があるが、これはずっと後になってから特殊に改革派をヘーゼンと蔑称する用例ができたに過ぎない(川口博『身分制国家とネーデルランドの反乱』pp.15-16)。
  39. ^ カンブレメヘレンユトレヒトに大司教区が設けられた。
  40. ^ グランヴェルもメヘレン大司教となっている。
  41. ^ これは改革派がそれほど浸透していない低地地方北部でも暴動が起こっていることから明らかである。(森田安一 1998, pp. 245-246)
  42. ^ 宗教改革以後のキリスト教と近代国家の問題を中心に扱ったもの。森安は本書でせまい地域史にとらわれて時代区分を見失ってしまう弊害を指摘し、「近代とはなにか」という大きな視点が必要だと示唆する。森安の結論によれば、近代国家が宗教に対して制度として確立できたのは「せいぜい政教分離の原則」で、宗教根絶の試みは不毛であったという。
    本書は1994年刊『神々の力と非力』(平凡社刊、ISBN 978-4582495287)を改題したもの。
  43. ^ 初版は1981年に「人類の知的遺産」シリーズ第15巻として講談社から出版された。
  44. ^ 第二バチカン公会議以降進められた諸宗教対話の姿勢に関する、教会の公文書の抜粋と解説。
  45. ^ 2000年にイエス・キリストと教会の救いの唯一性と普遍性について、諸宗教の影響や科学などによって信仰が相対化されるべきでないと述べた宣言。少なからず反響のあった本宣言の、和田幹男による全訳と概説である。
  46. ^ 一部に教義を超えた独自の見解を展開しているものの、マリア神学、マリア論の全体がよく俯瞰されている著作。
  47. ^ a b c A・E・マクグラスはオックスフォード大学神学部歴史神学教授。『キリスト教思想史入門』は『キリスト教神学入門』および『宗教改革の思想』と一部記述が重複する。
  48. ^ アナール学派の泰斗がインタヴューに答える形で自身の考える西欧中世像について述べている。
  49. ^ 旧版の初版は1962年。
  50. ^ 1975年未來社から刊行されたものの新版。

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出典[ソースを編集]

  1. ^ 福田歓一 1985, pp. 247-248.
  2. ^ 柳澤伸一「スイス誓約同盟とシュヴァーベン同盟(保健福祉学部 福祉学科)」、『西南女学院大学紀要』第10巻、西南女学院大学、2006年2月28日、 31-39頁、 NAID 110004866386
  3. ^ ウルリヒイム・ホーフ 1997, pp. 102-103.
  4. ^ 小田垣雅也『キリスト教の歴史』pp.137-138。出村彰監修『総説 キリスト教史 2 宗教改革編』p.92。アウグスト・フランツェン『教会史提要』p.244。
  5. ^ S・ムール 1990, 訳者まえがき、p.19.
  6. ^ 福田歓一 1985, pp. 258-262.
  7. ^ 金哲雄 2003, p. 2.
  8. ^ 金哲雄 2003, p. 56.
  9. ^ 金哲雄 2003, p. 63.
  10. ^ 金哲雄 2003, p. 64.
  11. ^ 金哲雄 2003, pp. 66-67.
  12. ^ 金哲雄 2003, p. 68.
  13. ^ 金哲雄 2003, p. 69.

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