志度藤雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
しど ふじお
志度 藤雄
生誕 1901年
日本の旗 日本
死没 1986年
国籍 日本
職業 料理人
流派 フランス料理

志度 藤雄(しど ふじお、1901年[1] - 1986年[1])は、日本人のフランス料理人。吉田茂が首相を務めていた際に官邸料理人の任に就き「吉田茂の料理番」[2]、「日本のフレンチの草分け」、「フレンチの先駆者」[3]、「ムッシュ志度」[4]とも称される。

来歴[編集]

香川県三本松町にて植田右衛門、かつ夫妻の間の8人兄弟の末っ子に生まれる[1]。生後間もなく、志度繁太郎、まさ夫妻の三男として養子となる[1]

三本松尋常高等小学校を卒業後、義理の叔父が経営する神戸市の西洋料理屋「精養軒」へ住み込みで働く[1]。4年以上勤めた後、先輩や友人の勧めでいくつか働き先を移り歩いた後、1921年に京都市の「萬葉軒」に就職する。萬葉軒の料理長は秋山徳蔵の一番弟子である今川金松であった[1]。今川の仕事ぶりに感銘を受け、日本郵船所有の香取丸の料理人となる[1]ロンドンへ船が着くと脱船し[5]ピカデリー・ホテル英語版へ行くがそこの料理に失望。不法入国で逮捕され日本に強制送還されるが、船がマルセイユへ寄港した際に再び脱走し[5]パリの日本食レストラン「常磐」に就職、並行してコルドン・ブルー料理学校フランス語版に通う[1]オテル・ドゥ・クリヨンフランス語版ル・ムーリスフランス語版などで修行を続ける[1][5]

重光葵吉田茂の知遇を得、1941年に閉鎖されるまでイギリスの在英国日本国大使館の料理長を務める[1]

日本に帰国後、「日動グリル」の料理長を務め「フォン・ド・ヴォー・カレー」を創作したことで一躍有名になる[1]。戦時中は岡山に疎開していたが、戦後、吉田茂に促されて、上京。1956年にレストラン「花の木」の料理長となる[1]。その後、官邸料理人、「メイゾン・シド」、「四季」の料理長を務める。メイゾン・シドは高峰秀子松山善三が挙式の際に披露宴を開催したことでも知られる[5]

「四季」で料理長を務めていた際に、3年ほど坂井宏行が弟子となっており、坂井は料理人としての自分に大きな影響を与えた3人の人物の1人に志度の名前を挙げている[3]。「四季」での志度は朝は誰よりも早く厨房に入り、夜は坂井らを帰した後も厨房に残り、店の全てに目を行き届かせるという、料理同様、完璧主義の人だったと坂井は語っている[4]

1972年フランス料理アカデミー賞を受賞[1]

創作[編集]

  • フォン・ド・ヴォー・カレー
  • パリ・ソワール(Soupe Paris Soir)
    冷やしてゼリー状にしたコンソメスープとヴィシソワーズとを交互にガラス器に注ぎ入れたもの。パリの夕暮れの意で、コンソメを夕焼けに、ビシソワーズを雲に見立てて命名された。

著書[編集]

雑誌掲載[編集]

TV番組[編集]

関連人物[編集]

  • 坂井宏行 - 銀座「四季」に勤めていた時に3年ほど志度の弟子となっている[3]

出典・脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 広報東かがわ 2005年10月号 東かがわ人物探訪17 「フォン・ド・ボー・カレー」の生みの親 「志度藤雄」 (PDF)”. 東かがわ市 (2005年10月1日). 2016年8月29日閲覧。
  2. ^ ““吉田茂の料理番”志度藤雄と幻の銀座「花の木」”. 週刊YEAR BOOK 日録20世紀 (講談社). (1999). 
  3. ^ a b c “「ラ・ロシェル」坂井宏行シェフが「ネスカフェ」を選ぶ理由” (プレスリリース), ネスカフェ, (2016年5月30日), http://www.asahi.com/and_w/information/SDI2016051766411.html 2016年8月29日閲覧。 
  4. ^ a b 歴史 ラ・ロシェルについて”. ラ・ロシェル. 2016年8月29日閲覧。
  5. ^ a b c d 神山典士「「密航」して料理修行した大先輩」『新・世界三大料理: 和食はなぜ世界料理たりうるのか』PHP研究所、2014年。ISBN 978-4-569-81908-2
  6. ^ LE CORDON BLEU E-Newsletter Vol.83 September 26, 2007