岸見館

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岸見館
Kishimi-kwan
種類 事業場
市場情報 消滅
略称 岸見東映(1959年 - 1962年)
本社所在地 日本の旗 日本
597-0013
大阪府貝塚市津田北町98番地
設立 1910年代
業種 サービス業
事業内容 映画の興行
代表者 代表 神宮司徳市
支配人 楠原竹治郎
関係する人物 宮原保
福原正雄
中西三郎
永吉誓願
永吉秀雄
神宮司清
特記事項:略歴
1910年代 開館
1959年 岸見東映と改称
1962年 閉館
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岸見館(きしみかん)は、かつて存在した日本の映画館である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12][13][14]。正確な年代は不明であるが寺田紡績工廠(現在のテラボウ)が大阪府泉南郡麻生郷村大字津田(現在の同府貝塚市津田南町)で紡績業を開始した1912年(大正元年)前後[15]の時期以降には、同工場至近の津田川を隔てた北側(現在の津田北町)の岸見橋付近に開館している[16]。同地域が貝塚町に併合される1931年(昭和6年)前後には他館と競合し始め[4][5]第二次世界大戦以降、1959年(昭和34年)には新興映画会社の東映と契約、岸見東映(きしみとうえい)と改称した[11][12][13]。改称3年後の1962年(昭和37年)には閉館した[13][14]。同市内最古の映画館であった[1][2][3][4]

沿革[編集]

データ[編集]

概要[編集]

正確な年代は不明であるが、寺田紡績工廠(現在のテラボウ)が大阪府泉南郡麻生郷村大字津田(現在の同府貝塚市津田南町28番55号)で紡績業を開始した1912年(大正元年)前後[15]の時期以降には、同工場至近の津田川を隔てた北側、のちの津田北98番地(現在の津田北町2番地)の岸見橋付近に、岸見館として開館している[16]。1914年(大正3年)4月1日には、南海鉄道(現在の南海電気鉄道)の岸和田駅 - 貝塚駅間に蛸地蔵駅が新設されており、従来の両駅よりは最寄駅となったが、同工場も同館も、むしろ紀州街道に依拠した立地であった。1918年(大正7年)8月14日の夕刻、同地を襲った台風で同館の瓦屋根は吹き飛ばされ、このとき大阪気象台(現在の大阪管区気象台)の風力計は「風速60メートル」を指したまま吹き飛ばされたという[16]。この台風の記録の詳細は不明であるが、京都地方気象台によれば、翌15日の京都市内での降水量は、1時間降水量の極値において現在も歴代2位(1位は1980年8月26日、昭和55年台風第13号)を記録している[17]

開館当時の同館の詳細は不明であるが、1925年(大正14年)に発行された『日本映画年鑑 大正十三・四年』には、すでに映画館として営業を行っていた記録が残っている[1]。経営者、観客定員数についての記載はないが、興行系統は松竹キネマであった[1]。『日本映画事業総覧 昭和二年版』、『同 昭和三・四年版』には、観客定員数530名、興行系統は帝国キネマ演芸としてあり、経営者は前者では宮原保、後者では福原正雄(1856年 - 1937年[18][19])と記載されている[2][3]。福原は、麻生郷村の資産家であり篤志家として知られる人物である[18][19]。『同 昭和五年版』には、観客定員数についての記載はないが、経営者が中西三郎に代わっており、興行系統は帝国キネマ演芸に加え、東亜キネマ河合映画製作社が挙げられている[4]。このころには、松竹キネマ作品を興行する山村座貝塚町近木町1028番地、経営・山村儀三郎)、日活および松竹キネマ作品を興行する八千代館(貝塚町海塚新町407番地、経営・中西多重郎)の2館が映画館として活動を開始し、同館と競合するようになった[4][5]。1931年(昭和6年)4月1日には、同館が所在した麻生郷村が貝塚町に併合された。同年9月、当時泉南郡木島村大字水間(現在の貝塚市水間)に水間座が開館しているが[10]、当時の同時代の資料には映画館としての記録は見られない[5][6][7]

同館の設立を「1934年11月」(昭和9年11月)とする資料(『映画年鑑 1955 別冊 全国映画館総覧』)が存在するが[10]、同館自体は、上記のように大正年間にはすでに営業している記録がある[1][2][3][4]。同資料には、山村座を「1935年」(昭和10年)、八千代館を「1937年」(昭和12年)の設立としているが、これらも同様に1930年前後には映画館として活動を開始している[4][5]

1942年(昭和17年)には第二次世界大戦による戦時統制が敷かれ、日本におけるすべての映画が同年2月1日に設立された社団法人映画配給社の配給になり、すべての映画館が紅系・白系の2系統に組み入れられるが、同年発行の『映画年鑑 昭和十七年版』によれば、同館の興行系統は記載されていない[6]。当時の観客定員数は507名、経営は引き続き中西三郎の個人経営、支配人には楠原竹治郎の名が挙げられている[6]。楠原は、同館の経営が永吉誓順に交代する戦中戦後の時期を過ぎ、1960年(昭和35年)前後にはふたたび同館の支配人に戻ってくる人物である[11][12][13]。翌1943年(昭和18年)発行の『同 昭和十八年版』によれば、観客定員は変わらないが、経営が永吉誓順の個人経営に代っている[7]。同年5月1日、貝塚町は市制を敷き貝塚市になった。

戦後は、1949年(昭和24年)1月23日に行われた第24回衆議院議員総選挙に、同館の経営者である永吉誓順が大阪5区から立候補し、落選している[20]。永吉は1953年(昭和28年)までは同館を経営していたが、同年中には神宮寺徳市に経営を交代している[8][9]。神宮寺は、その後、佐野阪南劇場泉佐野市大西町)を経営した人物である[21]。当時の同館の興行系統は大映東宝・東映・新東宝の混映、観客定員数は344名に縮小していた[10]。この間、1951年(昭和26年)1月には同市海塚町92番地に貝塚劇場(経営・西村昇)が開館、市内の映画館が5館になっている[10]

1959年(昭和34年)には、東映と専門館契約を結んで岸見東映と改称[11][12][13]、それとともに、戦前に同館の支配人を務めていた楠原竹治郎が、ふたたび支配人に就任しており、観客定員数も540名に増加している[11][12][13]。しかしながら、その3年後の1962年(昭和37年)には閉館、同市内初の映画館として存在した約50年の歴史に幕を閉じた[13][14]。『映画年鑑 1963』によれば、同年2月5日、水間座が火災により全焼、そのまま閉館しており[22]、この2館の閉館により、同市内の映画館は、山村座、八千代館、貝塚劇場の3館になった[13][14]。同市内の東映系封切は、既存の山村座が継承し、翌1963年(昭和38年)には貝塚東映と改称している[13][14][23]

同館の跡地は、Google ストリートビューによれば2009年(平成21年)7月現在、更地である[24]。テラボウの赤レンガ造の工場は、2012年(平成24年)現在、同館の開館当時のような状態で使用保存されてる[25]

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e f 年鑑[1925], p.472.
  2. ^ a b c d e f g 総覧[1927], p.678.
  3. ^ a b c d e f g 総覧[1929], p.282.
  4. ^ a b c d e f g h i 総覧[1930], p.584.
  5. ^ a b c d e 昭和7年の映画館 大阪府下 31館 Archived 2016年3月5日, at the Wayback Machine.、中原行夫の部屋(原典『キネマ旬報』1932年1月1日号)、2014年1月20日閲覧。
  6. ^ a b c d e f 年鑑[1942], p.10-109.
  7. ^ a b c d e 年鑑[1943], p.472.
  8. ^ a b c 総覧[1953], p.100.
  9. ^ a b c 総覧[1954], p.107.
  10. ^ a b c d e f 総覧[1955], p.117.
  11. ^ a b c d e f 便覧[1960], p.180.
  12. ^ a b c d e f g 便覧[1961], p.182.
  13. ^ a b c d e f g h i j k l 便覧[1962], p.177.
  14. ^ a b c d e f 便覧[1963], p.170.
  15. ^ a b デジタル版 日本人名大辞典+Plus『寺田利吉』 - コトバンク、2014年1月20日閲覧。
  16. ^ a b c d 貝塚市[1957], p.66.
  17. ^ 京都府の気象特性京都地方気象台、2014年1月20日閲覧。
  18. ^ a b 部落解放[1984], p.408.
  19. ^ a b 横山[2001], p.352.
  20. ^ 第24回衆議院議員選挙 大阪5区永吉誓順、ザ選挙、VoiceJapan, 2014年1月20日閲覧。
  21. ^ 便覧[1975], p.116.
  22. ^ 年鑑[1963], p.288.
  23. ^ 便覧[1964], p.161.
  24. ^ 大阪府貝塚市津田北町2番地Google ストリートビュー、2009年7月撮影、2014年1月20日閲覧。
  25. ^ レンガ造りの建物(テラボウ)、貝塚市、2012年4月2日更新、2014年1月20日閲覧。

参考文献[編集]

  • 『日本映画年鑑 大正十三・四年』、アサヒグラフ編輯局東京朝日新聞発行所、1925年発行
  • 『日本映画事業総覧 昭和二年版』、国際映画通信社、1927年発行
  • 『日本映画事業総覧 昭和三・四年版』、国際映画通信社、1929年発行
  • 『日本映画事業総覧 昭和五年版』、国際映画通信社、1930年発行
  • 『映画年鑑 昭和十七年版』、日本映画協会、1942年発行
  • 『映画年鑑 昭和十八年版』、日本映画協会、1943年発行
  • 『映画年鑑 1953 別冊 全国映画館総覧』、時事映画通信社、1953年発行
  • 『映画年鑑 1954 別冊 全国映画館総覧』、時事映画通信社、1954年発行
  • 『映画年鑑 1955 別冊 全国映画館総覧』、時事映画通信社、1955年発行
  • 『貝塚市史 第二巻 各説』、貝塚市臨時貝塚市史編纂部、貝塚市、1957年3月
  • 『映画年鑑 1960 別冊 映画便覧』、時事映画通信社、1960年発行
  • 『映画年鑑 1961 別冊 映画便覧』、時事映画通信社、1961年発行
  • 『映画年鑑 1962 別冊 映画便覧』、時事映画通信社、1962年発行
  • 『映画年鑑 1963』、時事映画通信社、1963年発行
  • 『映画年鑑 1963 別冊 映画便覧』、時事映画通信社、1963年発行
  • 『映画年鑑 1964 別冊 映画便覧』、時事映画通信社、1964年発行
  • 『映画年鑑 1975 別冊 映画便覧』、時事映画通信社、1975年発行
  • 『大阪同和教育史料集 第3巻』、部落解放研究所、1984年3月
  • 『戦時下の社会 大阪の一隅から』、横山篤夫岩田書院、2001年3月 ISBN 4872941977

関連項目[編集]

外部リンク[編集]