山岡景助
山岡 景助(やまおか かげすけ、寛永元年(1624年) - 宝永2年4月8日(1705年4月30日)[1][2])は、江戸幕府の旗本。通称は十兵衛、幼名は愛蔵・弥五兵衛。官職は従五位下、対馬守[1][2]。
父は山岡十兵衛景次。母は吉勝の娘で、妻は永見重貞の娘[1]。
略歴
[編集]寛永13年2月6日(1636年3月13日)、13歳の時に将軍徳川家光に初めて拝謁する[1][2]。同20年(1643年)、小姓組の番士になる[1][2]。
慶安元年6月9日(1648年7月28日[2])、日比谷門付近を通行の際、松平右京大夫の家臣・稲田民部某が従者の不作法があった上、刀を抜いて敵対したため、景助がこの者を殺害。この一件で景助は蟄居処分となるが、詮議により景助の行動に理があるとして赦され、元の勤務に戻る[1][2]。
慶安3年(1650年)9月3日に西丸書院番士に転じ、後に江戸城本丸勤務に移る[1]。寛文9年(1669年)3月11日、小十人の番頭(ばんがしら)となる。同年7月19日(1669年8月15日)に、父・景次が致仕して、1000石の家督を継ぐ[1][2]。同年12月25日(1670年2月15日)、布衣の着用を許される[1][2]。
延宝9年[3]7月13日(1681年8月26日)、先手組鉄砲頭に就任[1][2]。同2年4月21日(1682年5月28日)に上野国邑楽郡の所領500石を加増され、禄高1500石となる。貞享元年12月26日(1685年1月30日)、盗賊追捕の役(火付盗賊改方)に就く[1][2]。
貞享4年(1687年)2月18日、長崎奉行に就任[1]。武蔵国足立郡・埼玉郡の所領500石を加増され、知行2000石となる[1]。元禄4年12月26日(1692年2月12日)、従五位下を叙任、対馬守を称す[1][2]。長崎奉行の在任中、長崎警備を担当する福岡藩・佐賀藩の藩兵が市中に宿泊する宿を、長崎の内町・外町で半分ずつ割り当てる案を、同僚の長崎奉行・川口宗恒と共に提示する[4]。
元禄7年(1694年)12月14日、職を辞して寄合になる[1]。同8年12月6日(1696年1月10日)、致仕する。この時、養い料として蔵米300俵を賜る[1]。宝永2年4月8日(1705年4月30日)に没する。享年82[1]。法名は隠市[1]。
ミカド
[編集]来日中、長崎の出島に滞在し、江戸参府にも随行して、後に日本を紹介する本を著したエンゲルベルト・ケンペルは、長崎奉行・山岡景助を「たいへん謙虚で公正で慈悲深い」人物と紹介しているが、同時に「彼の屋敷の召使いに対しては、不誠実な行為がわずかに見られただけで、すぐさま」死刑にすることを常としていたと書いている[5]。
ケンペルの著書を読んだヨーロッパの人々は、そういった行いを「異国風で不条理」とみなし、それによりウィリアム・S・ギルバート脚本、アーサー・サリヴァン作曲のオペレッタ『ミカド』が生み出されることとなった[6]。ただし、このオペレッタでは、長崎奉行(山岡)の行いが、日本の支配者・「ミカド」によるものとされている。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『新訂 寛政重修諸家譜』第十七 株式会社続群書類従完成会、353頁。
- ^ a b c d e f g h i j k 釣洋一著 『江戸刑事人名事典 火附盗賊改』 新人物往来社、180-181頁。
- ^ 『新訂 寛政重修諸家譜』では、天和元年となっているが、旧暦の年月日を換算して、『江戸刑事人名事典 火附盗賊改』に書かれた延宝9年とする。
- ^ 木村直樹著 『長崎奉行の歴史 苦悩する官僚エリート』 角川選書、93頁。
- ^ 原著:エンゲルベルト・ケンペル、訳注:B・M・ボダルト=ベイリー 『Kaempfer's Japan: Tokugawa Culture Observed』、149頁。
- ^ 「処罰が犯罪に見合うようにするために」ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー著 『犬将軍 綱吉は名君か暴君か』 柏書房、271-275頁。
参考文献
[編集]- 木村直樹著 『長崎奉行の歴史 苦悩する官僚エリート』 角川選書 ISBN 978-4-04-703574-4
- 釣洋一著 『江戸刑事人名事典 火附盗賊改』 新人物往来社 ISBN 4-404-03411-3
- ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー著 『犬将軍 綱吉は名君か暴君か』 柏書房 ISBN 978-4-7601-4492-1
- 『国史大辞典』10巻 吉川弘文館、1989年 ISBN 4-642-00510-2
- 『新訂 寛政重修諸家譜』第十七 株式会社続群書類従完成会