婁学謙
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婁学謙 | |
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『満洲紳士録 第三版』(1940年) | |
プロフィール | |
出生: | 1891年[1] |
死去: | 不詳 |
出身地: | 清吉林将軍管轄区阿勒楚喀副都統管轄区賓州庁[2] |
職業: | 軍人・政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 婁學謙 |
簡体字: | 娄学谦 |
拼音: | Lóu Xuéqiān |
ラテン字: | Lou Hsüe-ch'ien |
和名表記: | ろう がくけん |
発音転記: | ロウ シュエチエン |
婁 学謙(ろう がくけん、繁体字: 婁學謙; 簡体字: 娄学谦; 繁体字: 婁學謙; 拼音: Lóu Xuéqiān; ウェード式: Lou Hsüe-ch'ien)は、中華民国・満州国の司法官。字は静庵。
事績
[編集]1912年(民国元年)に北京朝陽大学法科を卒業し、中華民国第2期司法官として採用された。以後、吉林省長春地方審判庁推事、吉林高等審判庁学習推事、山西省太原地方検察庁検察官候補、山西省河東第一高等検察庁検察官を歴任している。1927年(民国16年)、国務院から簡任文官とされた[3]。
満州国建国後の1932年(大同元年)3月、婁学謙は黒竜江省高等検察庁庁長に起用され、翌年に奉天省高等法院院長に転じた[4]。1942年(康徳9年)5月、井野英一の後任として最高法院院長に昇進、満州国滅亡まで在任した[5]。満州国滅亡後、婁學謙は中国共産党に逮捕され思想改造を受けたとされるが、没年や最終的な行方等は不詳である[3]。
注
[編集]参考文献
[編集]- 「第三十二篇 人物 第二章 名録 第四節 名人録」 哈爾浜地情網(ハルピン市人民政府地方志弁公室ホームページ)
- 『大満洲帝国名鑑』挙国社、1934年。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 郭卿友主編『中華民国時期軍政職官誌』甘粛人民出版社、1990年。ISBN 7-226-00582-4。