天野景貫
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
官位 | 安芸守、宮内右衛門尉[1] |
主君 | 今川義元→徳川家康→武田信玄→勝頼→後北条氏 |
氏族 | 遠江天野氏 |
父母 | 父:天野虎景 |
兄弟 | 正貫、景貫 |
子 | 景直 |
天野 景貫(あまの かげつら)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。犬居城主。
略歴[編集]
遠江天野氏は、藤原南家工藤氏の一族で天野氏庶流。鎌倉時代以降、遠江国、三河国、安芸国などにそれぞれ分家して栄えた。
天野小四郎虎景の子として誕生。当初、景貫は駿河国の今川氏に従属し、天文16年(1547年)9月、戸田康光成敗を目的とした三河田原本宿の合戦などで功を立て、今川義元から感状を賜り、遠江奥山郷を領した。永禄6年(1563年)12月、天野氏の宗家である天野景泰・元景親子が今川氏から離反したため、天野氏の惣領職を継承した。しかし、今川氏の勢力が衰退すると、永禄12年(1569年)頃には、代わって勢力を強めてきた三河国の徳川氏に鞍替えし、徳川家康の遠江国侵攻に協力した。
元亀年間(1570年~1573年)以降は甲斐国の甲斐武田氏が遠江に侵攻すると降伏し、徳川領侵攻の先導役として活躍。元亀2年(1571年)の春、菅沼定盈などの抵抗を受けて三河設楽郡への力攻めが進まず兵を収めた秋山虎繁(信友)に代わり遠江方面から参戦したとされる。また長篠城の攻略を担当したが、多大な犠牲を払い城方へも出血を強要させるも陥落には至らなかった模様。それでも、山家三方衆に代表される設楽郡の小領主らの従属に結びついた以上、働きは少なくなかった。
元亀4年(1573年)の武田信玄の死後、武田氏が衰退すると徳川家康の反撃を受け、景貫は奮戦したものの敗れ犬居城から退去している。武田氏滅亡後は相模国の後北条氏に仕え、対佐竹氏との戦いなどで活躍した。
没年は不詳であるが、資料上で最後に確認できるのは天正12年(1584年)4月である(天野文書)