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大道寺繁清

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大道寺繁清
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 明暦3年(1657年
死没 元禄14年(1701年
別名 次郎市、隼人(通称)、為直、明貞
墓所 弘前市の耕春山宗徳寺
主君 津軽信政
陸奥弘前藩
氏族 大道寺氏(隼人家)
父母 大道寺為久大道寺直秀娘・喜久
津軽信義娘・伊与
直聴
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大道寺 繁清(だいどうじ しげきよ)は、江戸時代前期の弘前藩士。

生涯

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天和元年(1681年)、幕府より弘前藩が命じられた越後国魚沼四郡と越前国検地の総奉行となる。この際、同じ大道寺氏で越前福井藩に仕えていた軍学者の大道寺友山と交流する。のち、弘前藩家老の津軽政方は友山の娘を妻に迎えている。

貞享元年(1684年)、弘前藩内の検地の総奉行になり、元禄3年(1690年)に家老となった。

文武両道、高潔で、主君・津軽信政から信任された。室は信政の妹である。

参考文献

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  • 「青森県人名大事典」[1]1969年、東奥日報社

脚注

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  1. ^ 青森県人名大事典」『東奥日報社/国立国会図書館デジタルコレクション』352頁。