大西椿年
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大西 椿年(おおにし ちんねん、寛政4年(1792年) - 嘉永4年11月6日(1851年11月28日))は江戸時代後期の南画家。
字は大寿。号は楚南・運霞堂・霞翁など。通称は行之助。江戸の生まれ。
略伝
[編集]幕府蔵手代を務め、浅草鳥越橋付近(現・台東区浅草橋3丁目)に住んだ。
円山応挙の高弟・渡辺南岳が一時江戸に移り住んだとき入門し円山派の画法を習得。江戸に円山派を広める役割を果たした。南岳の帰京後、谷文晁の画塾写山楼に入り、様々な画派(南画・南蘋派・北宗画・大和絵・狩野派など)の技法を修める。人物図・花鳥図など画作したが特に亀の戯画に人気があった。渡辺崋山・曲亭馬琴・亀田鵬斎らと交友した。
行年60歳。浅草金剛院に葬られたが、現在墓所は熊野山安泰寺(大田区西糀谷)にある。門弟に洋画家・川上冬崖や淡島椿岳がいる。
刊行物
[編集]- 『楚南画譜』天保5年(1834年)
- 『椿年画譜』文政12年(1829年)
- 『あつまの手ぶり』 文政12年(1829年)
- 『太平有象』
- 『日光山志』
挿絵
[編集]作品
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- 「狂女図」 亀田鵬斎賛
- 「神馬図」 浅草寺
- 「草画手本」 東京芸術大学大学美術館
- 「花禽譜」
- 「群亀戯画」 1830年代 リンデン民族学博物館
- 「蠣崎波響像」 19世紀前半 個人(松前町教育委員会寄託)[1]