大草城 (信濃国)
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大草城 (長野県) | |
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本郭跡 | |
城郭構造 | 平山城 |
天守構造 | 不明 |
築城主 | 香坂高宗 |
築城年 | 南北朝時代初期 |
主な城主 | 香坂氏 |
廃城年 | 天正年間 |
遺構 | 曲輪 |
指定文化財 | 中川村の史跡 |
位置 | 座標: 北緯35度37分42秒 東経137度56分45秒 / 北緯35.62842度 東経137.94589度 |
地図 |
大草城(おおくさじょう)は、長野県上伊那郡中川村にあった日本の城。跡地は大草城址公園(おおくさじょうしこうえん)として整備されている。
概要
[編集]大草城は大鹿村、中川村大草を所領していた、大鹿村大河原城主香坂高宗の重要拠点として、南北朝時代初期に築城されたと推定される。香坂高宗は南北朝時代、南朝方後醍醐天皇の第8皇子、宗良親王を大河原に迎え、手厚く守護した。宗良親王の大河原移住は『李花集』より1344年頃である。宗良親王は大河原を拠点に、幾度もの作戦行動を起こしているが、南朝方の勢力は振るわず、30有余年を山里大河原に潜居した。南朝方の大草城は天竜川東岸に位置し、西岸に位置する、北朝方の船山城主片桐氏、本郷城主飯島氏等の豪族と対峙し、軍事的、経済的に最重要拠点であった[1]。大草城は、1581年(天正9年)織田軍の伊那侵攻以後に廃された。1591年(天正19年)の大草郷検地帳には、畑地として記載されているので、香坂氏は高宗の孫、宗久の代に帰農したと推定される。1977年(昭和52年)中川村の史跡に指定され[2]、1982年(昭和57年)大草城址公園整備計画が決定され、1993年(平成5年)に完成した。1985年(昭和60年)の発掘調査で、外堀は本丸を起点に東西北に実在していたが、本丸周辺を2 - 3メートル切り崩して、埋められていることが判明した[3]。
大草城址公園
[編集]自然地形を利用した平山城跡の大草城址を中心に、1993年(平成5年)に大草城址公園として、中川村にて整備された[3]。年間を通じ雄大な中央アルプスを景観できる。特に春は、200本以上植樹されている、桜の花が、残雪の中央アルプスを背景に絶景ポイントになっている。
公園内広場
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- 管理棟
- 駐車場2か所
- 城址の丘
- 桜の広場
- 四季の広場
- 芝生の広場
- わんぱく広場
- 宗良親王歌碑「我を世にありやと問わば信濃なるいなと答えよ嶺の松風」
画像
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宗良親王歌碑
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大草城址公園の桜
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わんぱく広場
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駐車場より城址の丘への石段
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駐車場より桜の広場方面をのぞむ
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大草城址公園より中央アルプスをのぞむ
脚注
[編集]- ^ 上伊那誌編纂会(編) 1965, p. [要ページ番号].
- ^ “中川村(県)指定文化財一覧”. 中川村. 2019年6月27日閲覧。
- ^ a b 中川村誌編纂刊行委員会(編) 2006, p. [要ページ番号].
参考文献
[編集]- 上伊那誌編纂会(編) 編『長野県上伊那誌』 第二巻 歴史篇、上伊那誌刊行会、1965年10月1日。全国書誌番号:73020595。
- 中川村誌編纂刊行委員会(編) 編『中川村誌』 中巻、中川村、2006年3月31日。全国書誌番号:21049090。