堀江佐吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

堀江 佐吉(ほりえ さきち、弘化2年2月3日1845年3月10日) - 明治40年(1907年8月18日)は明治時代の青森県において洋風建築を多く手がけた大工棟梁である。青森県弘前市出身。

概要[編集]

弘前の覚仙町に生まれ、祖父は弘前藩の御用大工。洋風建築の専門的な教育を受けたわけではなく、青森県で最初に洋風建築を手がけたといわれる棟梁今常吉に技術を教わったとも伝えられるが、1879年(明治12年)(35歳)、1889年(明治22年)(45歳)と二度にわたる北海道での開拓使関係の工事に従事する間に、函館札幌の洋風建築を研究したといわれている。

東奥義塾校舎(1886年(明治19年):焼失)、東奥義塾校舎(1890年(明治23年):焼失により改めて建築されるもまたも焼失により現存せず)、佐々木嘉太郎邸「布嘉」(1896年(明治29年):焼失により現存せず)など、渡道後から彼の洋風建築は始まっている。これらの建築物はいわゆる擬洋風建築の様を呈していたが、1896年(明治29年)に弘前に新設された陸軍第8師団の建設工事を手がけるようになってから更に技術が洗練されていったと思われ、晩年の建築物は洋風建築の構造の特徴をほぼ完全にふまえたものが見られる。

彼が手がけた建築数は1,500棟を超えるといわれているが、はっきり分かっているものでは、陸軍施設、第五十九銀行店舗、東奥義塾および日本基督教団教会、県内各地の小学校において彼の請負工事がよく確認されている。また、洋風建築だけではなく、弘前城本丸石垣修復工事(1896年(明治29年))や市内の革秀寺長勝寺などの修理も手がけている。

なお、1908年(明治41年)には、生前の功績を讃える「棟梁堀江佐吉翁記念碑」が、第五十九銀行の頭取だった大道寺繁禎ら20名が発起人となって市内銅屋町にある最勝院の境内に建立されており、高さ約7メートルに及ぶ石碑には工学博士古市公威により揮毫されている。

また後進をよく育てており、長男彦三郎(旧弘前偕行社など)、四男伊三郎(旧津島家住宅、日本基督教団弘前教会教会堂(青森県重宝)など)、六男金蔵・七男幸治(旧藤田別邸(現:藤田記念庭園洋館/国の登録有形文化財)、佐瀧本店・別邸(国の登録有形文化財)、旧第五十九銀行青森支店(現:青森県立郷土館企画展示室/国の登録有形文化財)など)や、西谷市助(盛美園洋館(国の名勝)など)など、彼の下で働いた人間も多くの洋風建築・近代建築を残している。

現存する主な建築物[編集]

参考文献[編集]

  • 青森県史編さんグループ編『青森県の暮らしと建築の近代化に寄与した人々』、青森県、青森県史叢書、2007年
  • 船水清『棟梁 堀江佐吉伝』、小野印刷、平成9年4月