坪内家定
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 永禄7年(1564年) |
死没 | 慶安元年10月24日(1648年12月8日) |
別名 | 通称:源太郎、惣兵衛、玄蕃 |
墓所 | 松泉寺(東京都港区) |
幕府 | 江戸幕府鉄砲頭 |
主君 | 織田信長、信雄、豊臣秀吉、徳川家康、秀忠、家光 |
氏族 | 藤原利仁流富樫氏族坪内氏 |
父母 | 父:坪内利定、母:生駒家宗の娘 |
兄弟 | 家定、定吉、正定、秀定、安定、行定、定令、浅井直元室 |
妻 | 生駒家長の娘 |
子 | 定仍、定次、前野自勝室、加藤縫殿介室、中根平左衛門室、松倉重次室、荒川吉政室、立木三郎兵衛室、滝氏室 |
坪内 家定(つぼうち いえさだ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。豊臣秀吉に仕えた前野長康は伯父にあたる。
生涯
[編集]はじめ織田信長に仕える。天正10年(1582年)甲州征伐では織田信忠軍に属し、高遠城攻めに功があった。信長没後は織田信雄に属し、天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いでは滝川雄利と共に松ヶ島城に籠もり、のち徳川家康に召されて生駒氏の守る小折砦への援軍を命じられ、忍者3人を討ち取った。天正18年(1590年)奥州仕置では伯父長康と共に陸奥国へ派遣される。道中で加藤光泰配下の失態により蜂起した一揆に包囲されたが、これを返り討ちにしている。文禄元年(1592年)文禄の役では長康や弟たちと密かに渡海し、釜山浦攻めで武功を挙げた。前後して徳川家康に仕え、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは父らと共に井伊直政麾下として活躍。戦後、父の家督を継ぎ鉄砲頭となった。慶長19年(1614年)からの大坂の陣にはいずれも一族とともに従軍。寛永3年(1626年)徳川秀忠の上洛に随行。寛永11年(1634年)水口城番となった。
出典
[編集]- 「寛政重修諸家譜」巻第1017