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坂本直鎮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
坂本直鎮
時代 江戸時代
生誕 享保3年(1718年)[注釈 1]
死没 天明6年8月17日(1786年9月9日)
改名 治富[1][2]→直鎮
別名 四郎五郎[1][2]、小左衛門[1][2]通称
戒名 日秋[3]
墓所 東京都港区北青山の持法寺
幕府 江戸幕府
氏族 柴田氏坂本氏
父母 父:柴田勝富 母:水野忠増の養女
養父:坂本直規
兄弟 柴田勝定、柴田伊織、曲淵景福、柴田勝豊、坂本直鎮柴田勝惟、熊倉登茂英の妻 [1]
養家の兄弟:坂本成亮、三宅康英の妻、直鎮の妻 [3]
坂本直規の娘[3]
坂本直富の妻、岡部長久の妻、江原全義の妻、柴田勝房野々山兼続 [3]
養子:坂本直富 [3]
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坂本 直鎮(さかもと なおやす[2])は、江戸時代旗本

生涯

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旗本・柴田勝富の五男として生まれる[2][1]。柴田家は柴田勝家の子孫にあたる3520石の大身旗本であった[注釈 2]。生家は兄の柴田勝定が継いでおり、直鎮は1700石の御小姓組番士・坂本直規の婿養子となる[2][注釈 3]

養父の死により、延享4年(1747年)8月6日に家督を継ぐ[2]。寛延元年(1748年)、御小姓組番士[2]

天明6年(1786年)、69歳で没[3]

家は婿養子の坂本直富六郷政豊の子)が継いだが、実子の男子2人も記録されている。柴田勝房(直鎮の二男として扱われている[1])は、柴田勝満[注釈 4]末期養子となり、直鎮の生家である柴田家を継いだ[1]

脚注

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注釈

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  1. ^ 没年・享年からの逆算。
  2. ^ 柴田勝家の養子である柴田勝政の子・柴田勝重が徳川家に出仕し、旗本としての柴田家の初代となった。3代目の柴田勝門のときに3520石の知行地を三河国に移された。勝門の子が勝富である。
  3. ^ 坂本家は徳川綱吉の時代に坂本重治が寺社奉行を務め、一挙に7800石の加増を受けて大名(相模国深見藩)となったが、綱吉の勘気を受けて加増分を収公されて旗本に戻されたという経緯を有する。坂本直規は重治の三男で、実兄・坂本成方の跡を継いだ[2]
  4. ^ 直鎮の実兄・勝定の孫にあたる。

出典

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  1. ^ a b c d e f g 『寛政重修諸家譜』巻第三百七十二「柴田」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.1106
  2. ^ a b c d e f g h i 『寛政重修諸家譜』巻第百三十一「坂本」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.795、『新訂寛政重修諸家譜 第三』p.81。
  3. ^ a b c d e f 『寛政重修諸家譜』巻第百三十一「坂本」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.796、『新訂寛政重修諸家譜 第三』p.82。

参考文献

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