和徳城

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和徳城(わっとくじょう)は、青森県弘前市和徳町にあった日本の城である。

概要[編集]

和徳城は、未だにどの辺りにあったのかがはっきりしておらず、和徳神社、又は和徳坂の辺といわれているが、一般的には、和徳神社が和徳城の中心部という事になっている。また、和徳城には、大浦為信に攻め込まれた和徳城の兵士が落城前に食べた、又は、大浦為信側の野戦食ものが、けの汁の起源という説がある。

歴史[編集]

弘和年間(1381年1384年)、藤崎城主安東氏の庶流安倍氏が築城したといわれている。(「和徳城主考」)[1]

南部氏が攻めてきた文安2年(1445年)、清原氏の流れを汲むとも言われる配下、小山内氏の内通によって城は落城。以後、小山内氏は南部氏に従い和徳城の城主となった。天文12年(1543年)、大浦政信が和徳城主小山内永春と戦って討死にしている。しかし、元亀2年(1571年)5月5日(旧暦)、近隣の石川城が大浦為信の奇襲よって落とされた。すると、それに勢いづいた大浦勢が森岡信元約250人、小笠原信清約150人、為信本隊約500人で三方から攻め寄せた。小山内讃岐守は、一族譜代と共に約50人で出撃し、十二矢又五郎に討たれ、和徳城の城兵約140人と出撃した部隊は一人残らず討ち死にし、和徳城は落城した。また、讃岐守の父永春も援軍として駆けつけたが、形勢不利と見て、親類田舎館家の居城田舎館城に引き上げる途中、小笠原信清隊に討たれた。その後、和徳城は為信によって配下の森岡信元に与えられた。

和徳城は、その後、弘前城が完成した頃には、自然に廃城の状態となったものと思われる。

脚注[編集]

  1. ^ 日本城郭大系 第2巻

参考文献[編集]

  • 児玉 幸阿・坪井 清足 『日本城郭大系 第2巻 青森・岩手・秋田』 新人物往来社1980年7月15日
  • 津軽諸城の研究(1981) 沼館愛三著