吉安郷
表示
別称: 知卡宣・七脚川・吉野 | |
地理 | |
---|---|
位置 |
北緯--°--' 東経--°--' |
面積: | 65.2582 km² |
各種表記 | |
繁体字: | 吉安 |
日本語読み: | きつあん |
拼音: | Jí’ān |
注音符号: | ㄐㄧˊㄢ |
片仮名転写: | ジーアン |
台湾語: | Kiat-an |
客家語: | Kit-ôn |
アミ語: | Cikasuan |
行政 | |
行政区分: | 郷 |
上位行政区画: | 花蓮県 |
下位行政区画: | 18村528鄰 |
吉安郷長: | 黃馨 |
公式サイト: | 吉安郷公所 |
情報 | |
総人口: | 82,589 人(2015年1月) |
世帯数: | 31,098 戸(2015年1月) |
郵便番号: | 973 |
市外局番: | 03 |
吉安郷の木: | - |
吉安郷の花: | - |
吉安郷の鳥: | - |
地理
[編集]吉安郷は花蓮県北東部に位置し、北は花蓮市と、西は秀林郷と、南は寿豊郷とそれぞれ接し、東は太平洋に面している。人口は県内第2位であり、花蓮市に次ぐ規模である。山地及び海岸地帯以外は、沖積平原に位置しているため地勢は平坦である。
歴史
[編集]吉安郷は古くは原住民であるアミ族の居住地であり、旧名をTsikasowanと称した。これはアミ語で「薪の多い所」と言う意味であり、漢人により台湾語で殆ど同音の七脚川とも表記された。だが日本への割譲後の1908年(明治41年)、地元のアミ族が日本の官憲に対し蜂起したチカソワン事件が発生し、事後処理としてチカソワン(七脚川)社は解散させられた。台湾総督府は花蓮地区への内地人移民村の建設を積極的に推し進め、明治41年、「七腳川ノ原野ニハ最初德島縣吉野川沿岸ヨリ招致セル移住者多キト其字義又佳良ニテ母國人ノ耳ニ熟セルモノナルニ」依り[1]、チカソワン社跡地は四国徳島県吉野川流域出身の移民が入植したことにちなんで吉野村(よしのむら)と改称され、1937年の東部地方制度改制の際に吉野庄が設置され花蓮港庁花蓮郡の管轄とされた。
戦後は花蓮県吉野郷と改編されたが、「吉野」という地名は日本を強く連想させることから1948年に吉安郷と改称されて現在に至っている。
経済
[編集]行政区
[編集]村 |
---|
光華村、干城村、永興村、南華村、稲香村、仁和村、仁里村、宜昌村、南昌村、福興村、吉安村、東昌村、慶豊村、太昌村、北昌村、仁安村、勝安村、永安村 |
歴代郷長
[編集]代 | 氏名 | 任期 |
---|
教育
[編集]高級職業学校
[編集]国民中学
[編集]国民小学
[編集]特殊学校
[編集]交通
[編集]種別 | 路線名称 | その他 |
---|---|---|
鉄道 | 台東線 | 吉安駅 |
省道 | 台9線 | 花東公路 |
省道 | 台9丙線 | |
省道 | 台11線 | |
省道 | 台11甲線 | |
県道 | 県道193号 (台湾) |
観光
[編集]出典
[編集]- ^ 臺灣總督府編、『官營移民事業報告』、臺灣總督府、大正八年、六〇頁。