公達
公達(きんだち)は、本来は諸王のことを指したが、後代には臣籍にある諸王の子弟や、摂家・清華家などの子弟・子女に対する呼称として用いられた語である[1]。
公達家は清華家の異称である。
概要
[編集]平安時代中期以降、藤原北家忠平流や宇多天皇以降の賜姓源氏(宇多源氏・醍醐源氏・村上源氏など)などの近衛次将を経て公卿に昇進し得る上流貴族の家系出身者を「公達」と呼ぶようになり、これらの家は「公達」の家格とされた(当時の貴族社会では、「公達」・「諸大夫」・「侍」の家格に分類されていた)。
こうした通説に対して、「公達」の語は元々上流貴族が自らの子弟を指して「君達」と称していたのが変化した語であり、平安中期には上流貴族の子弟を指した漠然とした意味しか持っておらず、家格として成立していた訳では無いとする研究もある(11世紀前半には藤原北家と賜氏源氏が摂関・大臣・公卿の地位を占められるようになったために、結果的には両系統に属する者が占めることになる)[2]。11世紀末頃より「地下公達」という言葉が登場する。これは、上流貴族の子孫でありながら、家の没落や貴族社会全体の官位の停滞によって受領や地下の官位にしか進めなくなった家柄の者を指したもので、殿上人と諸大夫の中間層の家格と言え、家格としての「公達」はこちらの方が古いと考えられている[3]。やがて、地下公達は摂関家などの有力者の家司を務めて、摂関期には殿上人が務めていた奉仕を代わりに行うようになる。これに対して、後代における「公達」と呼ばれる人々は当時は主に「貴種」と称されてきたが次第に両者の区別が曖昧となってまとめて「公達」と称されるようになった[4]。
平安時代末期には特に平家の子弟・子女も公達と呼ばれた[5]。
茨城県結城市に公達という町名が存在する[1]。町名の由来については、先の説明にある平家の子弟・子女に関連すると思われる内容が、崙書房、石島滴水著[6]に見ることが出来る。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 金玄耿「家格としての公達の成立」『中世的身分秩序と家格の形成』思文閣出版、2025年 ISBN 978-4-7842-2111-0 P117-155.