乱妨取り

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大坂夏の陣での乱妨取りが描かれている大坂夏の陣図屏風左隻

乱妨取り(らんぼうどり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて、戦いの後で兵士が人や物を掠奪した行為。一般には、これを略して乱取り(らんどり・乱取)と呼称された。

当時の軍隊における兵士は農民が多く、食料の配給や戦地での掠奪目的の自主的参加が見られた。人狩りの戦利品が戦後、市に出され、大名もそれら乱暴狼藉を黙過したり、褒美として付近を自由に乱取りさせた。それら狼藉は悪事ではないとされた。

凶作水害疫病が起こると、大名は食料獲得のため隣国へ戦争をした。その結果として領土を獲得し、家臣団に与えて下克上の芽を摘み取った。その上で、戦場付近の村を襲い、農作物を根こそぎ奪い、農民をさらい売り払うか奴隷にするかした。人身売買の相場は、通常2貫文(約30万円)であったが、大量に乱取りが行われる戦の直後は25文(約4千円)に急落した。

桶狭間の戦い[編集]

織田信長桶狭間の戦いでの勝因を、「民家への略奪行為で油断する今川方を急襲したから」とする説を、黒田日出男東京大学名誉教授が唱えている。勝因について、明治時代には陸軍を中心に迂回奇襲説が、近年では『信長公記』に基づいて正面攻撃説が主流である。だが、黒田は『甲陽軍鑑』に着目し、「記憶違いはあるが、悪意の捏造はなく、体験に基づく良質な史料」と断定した。そして、当時武田氏と今川氏は同盟していたため「敗因を間違えるとは考え難く、第三者が敗者から得た信頼できる情報に基づく」とした。『甲陽軍鑑』には「その日の(事前にあった別の)戦いに勝ったと思った今川軍が略奪に散る中、織田軍が味方のように入り交じり、義元の首を取った」とあり、また別の史料で徳川家康が「今川軍が略奪し、油断していた」と証言したのも確認した。黒田は略奪を"乱取り"と呼び、新説を「乱取り状態急襲説」と名付けた。

大坂の陣[編集]

戦国時代より続いた大規模な戦闘の最後となった大坂夏の陣の終結直後においても、徳川方の雑兵たちによる大規模な乱妨取りが、大坂市中の民衆らに対して行なわれた。その様子は、戦勝方の武将である黒田長政が絵師に命じて書かせた「大坂夏の陣図屏風」左隻に描かれている。真田信繁(幸村)の娘・阿梅は大坂落城後に仙台藩家老・片倉重長の兵に乱妨取りされている(後に信繁の娘と判明し、重長の継室に迎えられた)[1]

脚注[編集]

  1. ^ [ 「大坂夏の陣と「乱取り」 -真田信繁娘阿梅の行方-」(丸島和洋、『国文研ニューズ No.44 SUMMER 2016』国文学研究資料館、2016年)]

参考文献[編集]

  • 藤木久志 『新版 雑兵たちの戦場 - 中世の傭兵と奴隷狩り』 朝日新聞社〈朝日選書〉、2005年。

関連項目[編集]