乙屈利失乙毘可汗

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乙屈利失乙毘可汗呉音:おちくちりしちおちびかがん、漢音:いつくつりしついつひかかん、拼音:Yǐqūlìshīyǐpíkĕhàn、? - 640年)は、西突厥可汗沙鉢羅咥利失可汗の子。乙屈利失乙毘可汗というのは可汗号で、姓は阿史那氏、名は不明。『旧唐書』では莫賀咄乙毘可汗(ばくかとついつひかかん、バガテュル・イビル・カガン)と表記。

生涯[編集]

貞観13年(639年)、沙鉢羅咥利失可汗(イシュバラ・テリシュ・カガン)配下の吐屯俟利発(トゥドゥン・イルテベル:官名)が乙毘咄陸可汗(イビル・テュルク・カガン)と密通し造反したので、沙鉢羅咥利失可汗は抜汗那(フェルガナ)国に逃れたが死去した。国人はその子を立てて乙屈利失乙毘可汗としたが、翌年(640年)になって死去した。そこで、弩失畢部の酋帥は沙鉢羅咥利失可汗の弟の伽那設(カーナー・シャド Kānā Šad)の子である薄布特勤(畢賀咄葉護、バガテュル・ヤブグ)を迎え、乙毘沙鉢羅葉護可汗(イビル・イシュバラ・ヤブグ・カガン)とした。

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参考資料[編集]