沙鉢羅咥利失可汗

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沙鉢羅咥利失可汗(Ϊšbara teriš qaγan、呉音:しゃはちらでちりしちかがん、漢音:さはつらてつりしつかがん、拼音:Shābōluódiélìshī kĕhàn、? - 639年)は、西突厥可汗咄陸可汗(トゥロク・カガン)の弟。沙鉢羅咥利失可汗(イシュバラ・テリシュ・カガン)[1]というのは可汗号で、姓は阿史那氏、名は不明。同娥設(トンガ・シャド Toŋa Šad)[2]という官職に就いていた。

生涯[編集]

貞観8年(634年)、咄陸可汗(トゥロク・カガン)が卒去すると、弟の同娥設(トンガ・シャド)が立って沙鉢羅咥利失可汗(イシュバラ・テリシュ・カガン)に即位した。

貞観9年(635年)、沙鉢羅咥利失可汗は上表してに請婚し、500頭を献上した。朝廷はただ厚く加えて撫慰するだけで、その結婚を許さなかった。

沙鉢羅咥利失可汗は部衆に帰服されず、遂に離反されてしまい、統吐屯(トン・トゥドゥン:官名)[3]に襲われ、麾下は亡散した。沙鉢羅咥利失可汗は左右の百余騎でこれを拒み、数回戦うと、不利と見た統吐屯は兵を引いた。沙鉢羅咥利失可汗は弟の歩利設(ボリ・シャド Böri Šad:官名)[4]のもとへ逃れ、焉耆国に立てこもった。阿悉結(アスケール Askēl)部[5]の闕俟斤(キュル・イルキン Kül irkin:官名)は統吐屯らと国人を召して、欲谷設(ユクク・シャド:官名)[6]を立てて大可汗とし、沙鉢羅咥利失可汗を小可汗にしようとした。しかし、統吐屯が殺され、欲谷設の兵もその俟斤(イルキン:官名)に破られたので、沙鉢羅咥利失可汗はふたたび旧地を取り戻し、弩失畢部・処密部などが沙鉢羅咥利失可汗に帰順することとなった。

貞観12年(638年)、西部境は欲谷設を立てて乙毘咄陸可汗(イルピ・トゥロク・カガン)とした。乙毘咄陸可汗が立つと、沙鉢羅咥利失可汗と大規模な戦闘に入り、両軍の多くが死に、各々撤退した。これによって、沙鉢羅咥利失可汗と二分し、伊麗河(イリ川)以西は乙毘咄陸可汗に属し、伊麗河以東は沙鉢羅咥利失可汗に属した。乙毘咄陸可汗は可汗庭(首都)を鏃曷山の西に建て、北庭とした。厥越失・抜悉蜜(バシュミル)・駁馬・結骨(キルギズ)・火尋・触木昆(処木昆)の諸国は皆これに臣従した。

貞観13年(639年)、沙鉢羅咥利失可汗の吐屯俟利発(トゥドゥン・イルテベル:官名)は乙毘咄陸可汗と密通して造反した。そのため沙鉢羅咥利失可汗は抜汗那(フェルガナ)国に逃れたが死去した。弩失畢部落の酋帥は沙鉢羅咥利失可汗の弟の伽那(カーナー Kānā)の子である薄布特勤を迎えてこれを立てて、乙毘沙鉢羅葉護可汗(イルピ・イシュバラ・ヤブグ・カガン)とした。

脚注[編集]

  1. ^ 「咥利失」は古代テュルク語で「集めること」を意味する「ティリシュ tiriš」「テリシュ teriš」の音写かもしれない。(佐口・山田・護 1972,p222)
  2. ^ 「トンガ Toŋa」は「豹」「英雄」を意味し、人名や称号、またはその一部として用いられた。(佐口・山田・護 1972,p222)
  3. ^ 「統」は「暾」とも写されるテュルク語と思われ、クリャシュトルヌィによると、「暾」は「第一の」「最初の」などを意味するテュルク語「トン ton」「トゥン tun」の音を写したものであるという。(佐口・山田・護 1972,p214)
  4. ^ 「歩利」はテュルク語で「狼」を意味する「ボリ Böri」の音写。(佐口・山田・護 1972,p224)
  5. ^ 内藤 1988,p173-174
  6. ^ クリャシュトルヌィによれば、「大切なもの、珍しいもの」を示すテュルク語「ヨクク yoquq」を音写したものであるという。(佐口・山田・護 1972,p225)

参考資料[編集]