中原多代

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中原 多代(なかはら たよ、1911年(明治44年)5月 - 没年不明)[1]は、日本声楽家歌手発声法研究者西洋音楽邦楽両方の歌唱にわたる研究・実践を行い、その活動が「歌詞を大切にしている声楽家」と評されている[2]。また、日本人の特性を活かす発声法を科学的に研究し、それを生かしたボイストレーニングも行っていた。

略歴[編集]

1911年5月 横浜に生まれる。

幼少の頃から邦楽の稽古に励む一方で、家には大型オルガンアップライトピアノ電蓄があった。また、叔父がヴァイオリンを弾き、叔母が賛美歌を歌う一方、母は三味線と、邦楽・西洋音楽の両方から影響を受けた。

1923年の関東大震災の際、神奈川県立第一高等女学校(現在の神奈川県立横浜平沼高等学校)から文化学院に転校後、同校卒業。日本女子大学家政科を一年で中退。1930年~1931年頃日本音楽学校に入学し、イタリア・カーピ歌劇団のアッテリオ・ベレッティにベルカント唱法の指導を受ける[3]ものの、中退。在学中、藤原歌劇団の母体となった「ヴォーカルフォア」に入団した他、「東京セレネーダーズ」というグループを作ってステージ・ラジオの仕事をしていたことに対し、校長の反対を受けてのことであった。

その後、谷田部勁吉が主任であった松竹歌劇団の声楽専科でバレエジャズダンスタップダンス日本舞踊演劇の訓練を受け、東宝劇団に移籍。歌舞伎新劇・現在で言うミュージカル(当時、ミュージカルという言葉は、まだ日本で使われていなかった。)などに出演。軽音楽(ロックではない。)や演歌も歌う。1939年、オペレッタ「ショーボート」を自費公演したことは「何らかの記録にのこっているようである」[4]

1943年5月、山田耕筰の媒酌で、ピアニスト中原高次と結婚。

戦後、杵屋正邦の下で、邦楽全般の研究を続ける。1951年から、毎年~隔年のペースで「日本のうた」リサイタルを開催(12回)[5]。ピアノ伴奏による日本歌曲と、邦楽器伴奏による邦楽家の作品などを発表した。虎の門音楽舞踊学校を設立し、1957年に、ミュージカル「長靴を履いた猫」(台本も執筆)を日本青年館で公演。1958年ごろからは、NHKラジオ「歌のおばさん」「歌のおじさん」「お話し出て来い」「お茶のひととき」などの台本を担当。

1975年ごろから、昭和大学医学部の猪口清一郎の下で、本格的に生理解剖学人類学の研究を始め至る。

アッテリオ・ベレッティ、下八川圭祐、城田又兵衛、原信子に声楽を師事。杵屋正邦に邦楽を師事。日本声楽発声学会、日本民族音楽学会会員。

2011年頃、死去[要出典]

主な活動[編集]

「新しい邦楽曲の会」という門下生演奏会などを開催。「発声のしくみ研究会」や、関連のシンポジウムなども開いた。また、「声のコンサルタント」として、声楽の発声のみならず、声を使って仕事をしている人たちの発声指導を続けている。

著書[編集]

  • 中原多代『声の文化「んとN」』自費出版,1985年
  • 中原多代『声とからだ 声の文化「んとN」』ヤマハミュージックメディア,1996年

脚注[編集]

  1. ^ 少なくとも、1999年(88歳)時点では生存している。『治る.com 声に力がない』2010年3月4日閲覧、による。
  2. ^ 大松幾子・菊永謙「声の文化 中原多代」大松幾子 編『対談 朗読文化』かど創房,p40
  3. ^ 中原多代『声とからだ ~声の文化「んとN」』ヤマハミュージックメディア,p29
  4. ^ 中原多代『声とからだ ~声の文化「んとN」』ヤマハミュージックメディア,p86
  5. ^ これに対して、朗読指導者・研究者である大松幾子は、「日本語を大切にという深い想いがあって意義がありますね。」と評している。大松幾子・菊永謙「声の文化 中原多代」大松幾子 編『対談 朗読文化』かど創房,p49、より。

参考文献・URL[編集]

  • 大松幾子・菊永謙「声の文化 中原多代」大松幾子 編『対談 朗読文化』かど創房,1996年
  • 中原多代『声とからだ ~声の文化「んとN」』ヤマハミュージックメディア,1996年