中井清太夫

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中井 清太夫(なかい せいだゆう、享保17年(1732年) - 寛政7年(1795年2月14日)は江戸時代中期の旗本。通称は里次郎、庄五郎、清太夫。諱は九敬。

略伝[編集]

宝暦10年(1760年)評定所に出仕し、日光山御霊修復御用、関東郡代伊奈忠宥の差添役などを務め、明和4年(1767年)支配勘定となり、同8年(1771年)勘定に移る。安永3年(1774年)甲斐国上飯田代官となり、同6年(1777年)甲府代官に転じた。天明4年(1784年)には谷村代官も兼務し、7万石を管轄した。同7年(1787年)陸奥国小名浜代官に転じ、同8年(1788年)江戸詰めの関東代官となった。寛政元年(1789年)飛騨郡代大原正純の代検見をする。同3年(1791年)代官職を罷免され、切米を絶たれる。

罷免の理由は、前勘定奉行赤井忠晶への金子用立て不都合、追放者・井部定右衛門の手代召抱え、甲州での検地での粗略な扱いなどだったという。その背景には、清太夫の治績は農民側に立ち、幕府からすれば年貢増徴に結びつかなかったためとも言われる。『よしの冊子』には、清太夫は他人の功績を奪い奸智を働く者で、金銀の蓄えが多いから小普請入りしても困らないだろうから、中には遠島にすべきだという者もいる、と清太夫の幕府内の評判を伝えている。その後、剃髪し旧圭と名乗り、4年後病死した。

ジャガイモ栽培の奨励[編集]

甲府代官時代は領民に善政を敷き、安永9年(1780年)の洪水と天明の大飢饉で疲弊した領民救済のため、幕府の許可を得て九州から馬鈴薯を取り寄せ、八代郡九一色郷で試作に成功すると、甲州芋として領内での普及に尽力した。この功績から清太夫芋の別名が付けられた。

また天明2年(1782年)には甲府城修築のため立ち退いた塩部村の村民を帰住させ、同6年(1786年)には富士山の水難に悩む八代郡の農村から笛吹川への排水工事を実施した。

清太夫の転任後も甲斐では生祠や頌徳碑が建立され、その事績が顕彰された。

せいだのたまじ[編集]

上野原市一帯に伝わる郷土料理「せいだのたまじ」は、出荷できないような小さなジャガイモを味噌砂糖で甘辛く煮たものである。この「せいだ」は清太夫の名から採られたものと伝えられている[1]

脚注[編集]

  1. ^ ほっとするね。おばあちゃんの懐かしご飯 農林水産省ホームページ 2018年1月11日閲覧

出典[編集]