上長崎村

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かみながさきむら
上長崎村
廃止日 1920年10月1日
廃止理由 編入合併
上長崎村浦上山里村長崎市
現在の自治体 長崎市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 九州地方
都道府県 長崎県
西彼杵郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
総人口 7,066
(長崎県大観 大典記念 222頁、1915年)
隣接自治体 長崎市、西彼杵郡茂木町浦上山里村西浦上村矢上村日見村
上長崎村役場
所在地 長崎県長崎市桜馬場町※
座標 北緯32度43分50秒 東経129度51分54秒 / 北緯32.73058度 東経129.86511度 / 32.73058; 129.86511座標: 北緯32度43分50秒 東経129度51分54秒 / 北緯32.73058度 東経129.86511度 / 32.73058; 129.86511
特記事項 ※村役場は長崎市内に所在。
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上長崎村(かみながさきむら)は、長崎県西彼杵郡にあった。1920年(大正9年)に浦上山里村とともに長崎市に編入された。

現在の長崎市中央地区の一部にあたる。

地理[編集]

野母半島(長崎半島)及び西彼杵半島の基部に位置し、中島川の上流から中流域を村域とする。

  • 山:風頭山、彦山(英彦山)、烽火山、金比羅山、日見峠
  • 池沼:西山水源池、本河内水源池(高部・低部)
  • 河川:中島川、西山川、御手水川、妙相寺川、鳴滝川

沿革[編集]

江戸時代は幕府領慶長年間は大村藩領)のうち、長崎奉行の支配する「長崎町」を総称する地域と長崎代官の支配する農村部[1]があり、これらを合わせて長崎村と称した[2]。後に上長崎村となる区域は、上記のうち農村部の地域にあたる。

長崎村は1878年(明治11年)の郡区町村編制法施行により、村内のうち「長崎町」を総称する区域を長崎区として分立。残部(農村部)は上長崎村・下長崎村に分割された[2][3]

  • 1889年(明治22年)4月1日 - 市制町村制施行により、上長崎村の一部が長崎市に編入し、同村の残部をもって西彼杵郡上長崎村が発足。
  • 1898年(明治31年)10月1日 - 当村のうち伊良林郷・岩原郷・中川郷・馬場郷・船津郷の各一部が戸町村淵村の各一部[4]、及び下長崎村の全域とともに長崎市に編入[5]
  • 1920年(大正9年)10月1日 - 浦上山里村とともに長崎市に編入し、上長崎村は自治体として消滅。

地名[編集]

を行政区域とする。大字は設置していない。

  • 伊良林郷 - 1898年、一部を長崎市に編入[5]
  • 岩原郷 - 1898年、一部を長崎市に編入[5]
  • 片淵郷
  • 木場郷(こば)
  • 中川郷 - 1898年、一部を長崎市に編入[5]
  • 西山郷
  • 馬場郷 - 1898年、一部を長崎市に編入[5]
  • 夫婦川郷 - 市町村制施行時に全域が長崎市に編入。
  • 船津郷 - 1898年、一部を長崎市に編入[5]
  • 本河内郷(ほんごうち)

名所・旧跡[編集]

上長崎村出身の著名人[編集]

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 地内は伊良林郷・岩原郷・片淵郷・高野平郷・小島郷・木場郷・十善寺郷・中川郷・西山郷・馬場郷・船津郷(浦)・本河内郷・夫婦川郷の13郷からなる。
  2. ^ a b 角川日本地名大辞典 42 長崎県「長崎村(近世)」
  3. ^ 長崎村の農村部の分割時期については、資料によって明治11年から22年までの間でばらつきが見られる。
  4. ^ 戸町村の残部は小ヶ倉村に編入、淵村は一部が浦上山里村に編入、残部が小榊村として分立し、それぞれ自治体として消滅した。
  5. ^ a b c d e f 長崎縣告示第百二十九號『市村廃置分合の件 [1][2]』長崎県公報 明治31年7月22日付

関連項目[編集]