上田安子

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上田 安子(うえだ・やすこ、1906年4月9日 - 1996年9月7日[1])は昭和後期の日本のファッション・デザイナー。日本のファッションデザイナーの中では草分け的な存在。

経歴[編集]

明治の文人・著作家の上田貞治郎の四女として大阪府泉北郡浜寺村(現・堺市西区)で生まれる。夕陽丘高女卒業[1]伊東衣服研究所で学んだ後、服飾研究所を1941年に創設[1]、一時中断の後、戦後に再開し、1948年に「上田安子文化学院」を設立する。翌年には大丸顧問デザイナーに就任。1953年、クリスチャン・ディオールのもとで学び[1]、以降たびたびフランスなどを訪問する。1958年には自身の学校を「上田安子服飾学院」に改称、1976年に「上田安子服飾専門学校」を設置、1982年に「上田学園」を設置し、理事長に就任した。

公職[編集]

日本デザイナークラブ評議員、日本服飾芸術協会委員、大阪府認可洋裁学校協会理事、総合デザイナー協会参与、日本デザイン文化協会大阪支部長、名誉顧問、関西ファッション文化協会会長、大阪府服飾学校協会監事を歴任する。

大阪女子学園短期大学(現・大阪夕陽丘学園短期大学)講師、帝塚山短期大学(帝塚山大学短期大学部を経て、現・帝塚山大学)講師、関西女子学園学園長・理事、関西女子学園短期大学(宝塚造形芸術大学短期大学部を経て、現・宝塚大学)教授を歴任する。

受賞[編集]

大阪府知事の私学教育功労者表彰受賞(1972年)、文部大臣認可専修学校教育振興会より服飾教育文化章受賞(1983年)、勲五等宝冠章受章(1984年)、専修学校教育功労者として文部大臣章受賞(1985年)、大阪市民文化功労表彰受賞(1987年)。

作品・作風[編集]

服飾制作の基本はきちんと型を取って裁縫するという、昔ながらの服作りを大事にするやり方であった。それまで着物の延長だった日本の洋服に立体裁断の技術を導入した。その結果、オーガンディ(薄い綿布)を張って膨らませたスカートが日本中に広まった。踊り子をモデルに日本で初めてのファッション・ショーを開く。オートクチュールの技術を日本に紹介した[1]

語録[編集]

  • 「美しいものは人の心を満たしてくれる」
  • 「人生、最後まで学心を忘れずに」

エピソード[編集]

  • 女学校卒業後は茶道、華道、ピアノ、日本画、英会話の後、山登りに熱中し、そこから服飾の方に眼が開かれることになる。そのきっかけは、その当時の登山服を不格好だと感じて、自分で登山用のズボンを作ったことだった。
  • 本人は山崎豊子の小説『女の勲章』の主人公のモデルとされる。本人と山崎とはもともと親しい友人ではあったが、小説発表後は本人は不快感を露わにし、二人の関係は危うくなったが、時とともに回復した。

親族[編集]

父親は明治の文人・著作家・写真機店主・写真収集家の上田貞治郎である。伯父に洋雑貨商で名を馳せ後朝鮮で料亭「白水」を経営して成功した野々村藤助、叔父に出版社・青木嵩山堂を興した青木恒三郎、写真術に関する著作を何十冊と著した上田竹翁がいる。姪の光子は大丸社長だった井狩彌治郎の妻である。

著訳書[編集]

  • 『山とファッションと私』なにわ塾叢書20、ブレーンセンタ、1985年
  • 『美への想い、一途に――上田安子、学園と共に55年』上田学園、1995年
  • クリスチャン・ディオール著、上田安子、穴山昂子共訳『一流デザイナーになるまで』六月社、1957年
    • クリスチャン・ディオール著、上田安子、穴山昂子共訳『一流デザイナーになるまで』牧歌舎、2008年

参考文献[編集]

  • 上田浩『上田浩の上田浩の自分史――幾多の山も谷も越えた81歳の凡才の旅』上田浩、2008年
  • 青木育志『明治の異色文人・上田貞治郎』青木嵩山堂、2014年

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 『日本人名大辞典』(講談社)p263

関連項目[編集]

外部リンク[編集]