上田竹翁

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上田竹翁

上田 竹翁(うえだ ちくおう、本名:上田寅之助、箸尾寅之助、:竹軒樂人、1866年慶応2年) - 1941年昭和16年))は、明治大正・昭和期に活躍した文人写真研究家。『藝術冩眞』主幹、「コダック 研究会」幹事。

親族[編集]

父は上田文斎(幼名:兵司、号:維暁)といい、適塾舎密局京都大学の前身)に学び、蘭学を修めた儒医であり、この父の代まで十三代にわたって大阪で儒医として郷学を指導し医療にあたっていた。幕末から上田家は、鴻池家と深い関係にあり、さまざまなの藩主お目見えの役職にあったことから、大名貸の取立てを手伝うなどしていた。女系での姻戚関係もあったと言われる。

実兄に洋雑貨商として莫大な財をなし、のちに朝鮮に渡り「京城帝国ホテル」と呼ばれた高級料亭「白水」を作った野々村藤助(本名:謙吉、長男)がおり、戦前の四大写真材料商の一角を占める「上田写真機店」を興した上田貞治郎(次男)、また青木嵩山堂を興した青木恒三郎(三男)がいる。青木嵩山堂は、幸田露伴の『五重塔』や、硯友社山田美妙の多くの作品を出版した、関西出版界の雄である。父上田文斎にも、山田美妙との共著がある[1]。 曾孫に哲学者の清水高志がいる。[2]

経歴[編集]

竹翁は船場に育ち、13歳で鴻池家の別家箸尾家[3]を嗣ぎ、箸尾寅之助と名乗った。まだ今橋2丁目17番地の鴻池本邸に居住していた1887年(明治20年)[4]、21歳のとき、『新訳和英辞書』という和英辞書を編纂した。これは医師として接した患者日本語から多くを学んだヘボンの和英辞書が日本語に難のあるものであり、文語を解する当時の教養ある日本人の感覚にそぐわないものであるのを意識し、文筆家としての彼の感覚で訳語を選定し、項目をあらたに作った画期的なものであり、日本人の手によって作られた最初の本格的な和英辞書であった。六百四十五ページで全17,283項目を収録し、ヘボン版の第三版にも含まれない約二千三百語の新しい項目や訳語を収めたものであった[5]

寅之助は鴻池家の家庭教育によってさまざまな教養や趣味を身につけ、江戸期の浪華の文人、もしくは町人学者的な傾向を色濃く残していた。彼の辞書の、たとえば「満干(ミチヒ)」の項目には、鴻池家とゆかりの深い懐徳堂の代表的町人学者、山片蟠桃の天文図そっくりの図が描かれている[6]海底電信土星の図などがある一方で、狒々猩々などの動物や、鳥獣類の図像、解剖図なども充実しており、本草学の影響を強く受けた百科事典としての性質が窺われる。寅之助とほぼ同世代で、のちに『日本大百科辞典』を編集し三省堂から刊行した齋藤精輔も、この翌年英和辞典を編集、出版している。辞書づくりは、エンサイクロペディア志向をもった当時の日本の出版人にとって、みずからの理想を実現するために可能な唯一の事業であった。

寅之助は、その後高麗橋2丁目で洋雑貨商「竹屋」を営んだりするものの、鴻池家の別家当主としての本業は放擲し、文人・趣味人として生きる道を選ぶ。1893年(明治26年)に『手風琴独案内』という、アコーディオン演奏に関する書物を著し、1万部以上売り上げる評判となった。彼はここで西欧音階を意識し、従来の工尺譜では表現しきれない、の長さにも十分に留意したかたちで、清楽などの古い東洋音楽楽譜化することを試みており、また同時期により本格的な清楽の諸楽器(月琴、胡琴、清笛)の教本も著わしている。

同じ1893年(明治26年)に、寅之助は『漁釣新書 附:魚鼈繁殖孵化及金魚飼育法』[15]、『小禽狩猟新書 附:小鳥飼養法』(安倍精一郎著)を編集し、相次いで青木嵩山堂から刊行した。豊富な挿画によって飾られ、『和漢三才図会 』への言及もみられるこれらの書物は、素人が趣味で実践するための手引き書というよりは、むしろ漁労狩猟にまつわる民俗誌としての色あいが強いものである。

また、日本で奈良時代から上流社会の婦女子の遊戯、嗜みであった盤双六定石についての本(『新撰雙陸独稽古』)を1897年(明治30年)に青木嵩山堂から出版している。盤双六は西洋でいうバックギャモンにあたり、江戸後期にはすでに廃れていたゲームであった。さらに1898年(明治31年)には、煎茶道に関する小著『煎茶早学』上下巻を刊行。煎茶道や清楽は、徳川後期の上方の文人趣味には不可欠のものであった。寅之助の興味は、喪われゆく同時代のものや古いものを、編纂し体系化して残そうとするところにあったものと思われる。

明治43年ごろの上田竹翁

1903年(明治36年)、次兄上田貞治郎が創業した「上田写真機店」の社員となり、その出版・編集部門をおもに担当して、『写真要報』など、写真術に関する多くの書物を著わした。1910年(明治43年)には上田編輯部で、シュルツ・ヘンケによって考案された写実鉛筆画の技法(レタッチング)を、写真修正の技術としてわが国に最初に紹介している。写真術を主題とした彼の書籍の数は現在確認されているだけでも25冊を超え、おそらく30冊は下らないであろうと思われる。1920年(大正9年)にはそれらの集大成として、アルファベット順に写真術にまつわるあらゆる項目を網羅・分類し、解説した名著、『冩眞術百科大辞典』を、上田写真機店から刊行した。こうして彼は、同時期の代表的な写真術研究者、啓蒙家としての地位を確かなものとしていくが、その序文から察するに、前年に三省堂の『日本大百科辞典』が全巻の出版を終えたことにも、相変わらず強い対抗心を燃やしていたようである。[7]

1921年(大正10年)には、海外の「芸術写真[8]の動向を睨んで、次男の箸尾文雄、写真家の不動健治らとともに「藝術冩眞社」を興す。これは同年とはいえ、東京福原信三の「冩眞藝術社」に先立つものであった。雑誌『藝術冩眞』[16] [9]を刊行し、主幹として活躍して西欧の先端理論の紹介や写真家の発掘につとめた。竹翁は、「コダック研究会」の幹事をもつとめ、コダックの作画法について、郵便による質疑応答を積極的に行い、さまざまな技術を通信教育によって伝授、普及させた[10]。彼は写真術を芸術水準に高めるために尽力し、「日本冩眞学院」の講師もつとめた。[11]

またこの頃、重ねられたセルロイドの円盤を回転させて自動的にカメラの露出時間を割り出すための「万能露出計」を自ら改良、考案し、製作販売している。これは1970年頃まで実際に用いられた計算尺式露出計の、より原始的な形態であった。しかし竹翁のものには近景のコントラストを鮮明に、遠景をより曖昧に捉え、空気遠近法の効果を狙おうとする彼のこだわりが感じられる[12]

当時の彼は、英国の写真家で理論家、ジャーナリストでもあったAlfred Horslay Hinton (1863-1908)の芸術写真理論に傾倒し、Hintonの主著"Practical Pictorial Photography."や伝記を纂訳する仕事にも携わった。[13]また、廉価本で月一冊のペースで写真術に関する本を著すなど、夥しい著作を残している。

その後はユナイテッド・アーティスツ配給の洋画字幕翻訳を担当したり、また鴻池家の次男で、後年浄瑠璃研究の天才と呼ばれることになる鴻池幸武[14]の家庭教師をして英語を教えたりして余生を送った。1927年(昭和2年)には、海外での映画技術の発展を受けて、『家庭活動写真術』[15]を著わし、家庭活動写真(ホームムービー)の国内への普及を図った。この著書で彼は、ピクトリアリスムの画面構成の理論を映画に応用することを提唱し、家庭内での子供の発育の記録や、外科手術の技術教育、博物学スポーツの指導などに活動写真を用いることを提案している。

また竹翁はピクチュア・ライブラリー事業を日本で始めることを構想し、事業所(家庭活動写真フィルム交換所)を設立しつつあることを『家庭活動写真術』で述べている。これは当時アメリカで劇場用映画を十六ミリフィルムに縮小して供給していたことにヒントを得て考えられたもので、利用者が十六ミリの映画をまず格安で買取り、見終わったフィルムを傷がない状態で交換所にもちよれば、別のフィルムと交換してもらえるという仕組みであった。内容は「西洋もの喜劇、戯曲、漫画、産業、旅行、名所、科学、教育などのフィルム」はもちろん、日本ものとして「阪妻、百々之助、林長二郎等の剣劇から、新旧の演劇、日本の名所もの教育、時事の出来事などのフィルム」を格安で供給しようとしたものであった。さらに小プロダクションを作り、供給用にあらたな日本劇を撮影することも計画した[16]

彼は兄の貞治郎と同じく、クリスチャンでもあった。姪(貞治郎の娘)に大阪のファッション・デザイナーの先駆けで、服飾専門学校(上田安子服飾専門学校)の経営でも成功し、山崎豊子の小説『女の勲章』の主人公のモデルになった、上田安子がいる。

語録[編集]

「破軍星 ハグンシャウ Great bear」[17]

「光Light,蔭Shade,および影Shadowのあいだには著しい関係あり、蔭は光より暗く、影は蔭よりなお暗し。(中略)蔭と影を混同すべからず」

「蔭なき白紙は光あらず」

「緻密の制限 建築物あるいはいかなる他の目的物に成功すべきすべてのことは明らかに自然の思想を顕すにあり、建築物に新旧いずれも、石の組織が正しきも形状不規則なるも、これを示すに十分に運ばれたるとき、一個ずつ石を描くは全体の描写に重要なるものにあらず、ゆえに観者は構造に関して暗示せらるるものを認むるのみ、正しき再顕は満足なる類似に必要を感ぜず」[18]

脚注[編集]

  1. ^ 『和歌独習自在』上田維暁(文斎)著・山田美妙補。1899年(明治32年)、青木嵩山堂、全六巻。国学者としての文斎は、蓼生園の中村良顕に和歌を学び、本居宣長とその弟子の学説に共鳴していた。『類題近世和歌集』、平田篤胤の高弟、物集高世撰の和歌を編集した『類題明治和歌集』などの著書もある。解剖学者でもある彼は、衛生思想の普及のために、明治初年に人体の仕組みについての平易な教科書を著している。維暁という号は、煎茶や陶芸、書道に異才を発揮し、『天保医鑑』(伊佐治重光編)にも名の見える文斎の父、坦斎もまた名乗ったものであった[1]。なお、竹翁の親族と経歴についての記載は、本人の著作、大阪市立大学のUCRCアーカイブスの上田貞治郎研究、竹翁の息子・上田竹三(大阪毎日新聞社名古屋支局写真部長)の長男、上田昌一による。
  2. ^ https://twitter.com/omnivalence/status/910730051322130432?s=21
  3. ^ 安岡重明『前期的資本の変質過程:鴻池研究の一節』(宮本又次編『大阪の研究』清文堂. (1970年)第四巻p480)によれば、鴻池家は分家、別家の制度を1879年(明治12年)に解消しており、それまでの分家、別家のおのおのに十三銀行から株券を与えている。記録によれば、このとき株券を得たものは41名おり、そのうちに上田寅之助(箸尾寅之助)の養父、箸尾元市の名もみえる。7株で、のちにみずから買った株が1株あるのも加えると、当時の金額で800円相当であった[2]。箸尾家が鴻池家の別家であったことは、こうした資料からも確認することができる。なお箸尾家は、高階氏後裔を称し、江戸中期以降学者を多く輩出した旧家である。箸尾元市の祖父箸尾元恭も本草物産家で蘭学者であり、その妹土沙(本姓大高につき、大高土沙)は懐徳堂学主中井履軒の息子で水哉館学主であった中井柚園の妻となっている(『近世学芸論考-羽倉敬尚論文集-』鈴木淳編、明治書院)[3]
  4. ^ 『新訳和英辞書』の縮約版として、寅之助は『和英ダイヤモンド』という辞書も刊行しており、国会図書館の近代デジタルアーカイブでその内容を閲覧可能である。この書物の奥書を参照のこと[4]。鴻池邸の住所、番地については、同じくデジタルアーカイブに収められた『大阪地籍地図』[5]1911年(明治44年)、吉江集画堂地籍地図編輯部編、大阪:吉江集画堂刊、によって確認可能である。なお、『新訳和英辞書』の奥書が「今橋三丁目十七番地」となっているのは、当時の刊行物にしばしば見られる誤植である。今橋三丁目の十七番地は江戸時代から種痘所のあったところであり、土地台帳を確認すると明治末まで緒方洪庵の養子で跡継ぎの緒方拙斎の所有地である。[6]
  5. ^ もっとも、ヘボンの辞書から廃語だけ除いたり、いろは順に並べ替えただけのものに関して言うと、1885年(明治18年)にも一万数千語を収録した辞書がすでに刊行されている。『和英対訳いろは字典』尾本国太郎,江口虎之輔編、東京、共同刊行、明治18年(1885年)。 『英和和英字彙大全』、嶋田三郎校訂、市川義夫纂訳、如雲閣、明治18年など。同時期のものとしては『明治通俗和英節用集』、高潮豊三、東京、イーグル書房、明治20年があるが、これにもヘボンの第三版に含まれたもの以外の語彙はない。
  6. ^ この図は『和英ダイヤモンド』のものである。
  7. ^ 東京都立中央図書館で上巻(Lの項目まで)を閲覧することができ、また現在でも古書店で売買されることがある。[7][8][9][10][11] [12]。上巻だけで525ページにおよぶ浩瀚な書物であり、複数の海外の辞典類、雑誌等から情報を得つつ、竹翁がみずからの思想や実践的な経験にもとづき、著述したものである。写真をめぐって、修正術、化学光学技術写真史、人物、芸術論などのあらゆる事項が網羅されている。下巻は『藝術冩眞』に連載され、全体の原稿が完成していたが、今日残っているかどうかは不明である。
  8. ^ 英国の王立アカデミーでは写真術は最初技術としての扱いを受けていた。後に写真をたんなる技術の産物ではなく芸術として独立させようとする運動が起こったが、これが芸術写真(ピクトリアリスム )運動である。一方で竹翁は、写真術をあくまでも技術ととらえていたが、しかしそれは西欧近代のリアリズムや複製技術からこぼれ落ちてしまうものを逆にあぶり出す技術なのであった。この、こぼれ落ちてしまうものこそが彼にとっての芸術であり、写真術は彼にとってそうした意味での芸術の研究であった。
  9. ^ 雑誌『藝術冩眞』は1921年(大正10年)1月10日に第三種郵便物として認可され、大阪市西区江之子島東野町二十番地(後に北区上福島北一丁目)に本社があった、藝術冩眞社から発行された。大正10年(1921年)12月号の奥書によると、当時藝術冩眞社の九州支社が小倉市魚町電車停留所前に、東京支社が麹町区二丁目七番地にあった。福原の『冩眞藝術』が、「福原さんの手」と呼ばれた安成三郎[13]がライターとして執筆し、編集した同人誌であったのに対し、『藝術冩眞』は広く読者大衆が参加することを目指した商業誌であった。大阪府立中之島図書館に一巻(1-2,4-12)が残っている。
  10. ^ 『速成冩眞術』による。
  11. ^ 大阪市港区八幡屋に、「上田写真学校」を開校したこともあったが、こちらは経営的にほどなく行き詰まった、という。
  12. ^ 『欧米及国産冩眞銘鑑 : 附・冩眞術捷径』による。『新撰雙陸独稽古』を著した際にも、彼は盤双六の古い形状を再現して手ずから作成し、販売することを試みている。
  13. ^ 『エ・ホースレイ・ヒントン氏繪畫冩眞の研究』。Hintonが彼の芸術写真理論をきわめて仔細に展開した書物、"Practical Pictorial Photography Part One and Part Two" London Hazell, Watson & Viney: 1910 & 1905の二巻本を中心とし、hintonの伝記を加えて編纂した邦訳。裏表紙には蒔絵風の意匠、巻頭部分のhintonの伝記の周囲にはアールヌーボー風の装飾が施された豪華本であった。[14] 上田写真機店出版部の編纂により、貞治郎の娘婿銀蔵の名で1921年(大正10年)に発行された。
  14. ^ 大正3年生まれ。早稲田大学国文科で石割松太郎に師事したのち、早稲田の演劇博物館に勤務。武智鉄二らと浄瑠璃批評、演劇批評、演出などを行ない、稀有な才能を発揮した。第二次大戦中にフィリピンで戦死。彼の妻は大正天皇の生母柳原愛子の甥・柳原義光伯爵の息女であり、柳原家を通じて白洲正子といとこになる。
  15. ^ 昭和2年(1927年)、上田寅之助編、出版者上田竹翁。この著書は現代美術評論家であり、映像作家としても活動する西村智弘が、2003年5月4日、阿佐ヶ谷美術専門学校422教室で行った『戦前の小型映画 』と題するKINO BALAZS(キノ・バラージュ:映画・映像作家ら有志の研究会)での発表において採りあげたものである。
  16. ^ 『家庭活動写真術』P.109による。
  17. ^ 『和英ダイヤモンド』の35頁~36頁。破軍星は大熊座の北斗七星の一番端の星のことで、宿曜道ではこの星を背にして戦えば必ず勝つとされた。もちろんヘボンの和英辞書には記載されていない。竹翁は挿画として、動物のシルエットとその中の星座を描いている。彼の辞書の形式には室町時代に成立した日本風の百科事彙、「節用集(せつようしゅう)」の影響が見られるが、あるいはこの節用集のみならず、易占関係の知識を多く含む百科書として寛永以降に広く流通した、「大雑書(おおざっしょ)」の類にも通じていたものと思われる。いずれにせよ、こうした項目をわざわざ設けるところに、一貫したアンチ・リアリストとしての彼の面目躍如たるものがあるであろう。
  18. ^ いずれも『藝術冩眞』大正13年(1924年)4月号に載ったエッセイ、『冩眞家ノートブック』より。表現は新かな遣いに改めた。竹翁にとって光は蔭Shadeと分離できないものであり、むしろほぼ蔭Shadeである。輪郭線のみの精確さによって対象をリアルに捉えようとすることや、過剰な緻密さ(色彩をも含む)を排し、そのためにあえて写真に介入し、それらを制限したり、蔭Shadeをつけたりする。いわば、「引き算の美学」によって、マチエールのなかに自然界のイデーを浮かび上がらせようとするポイエシス行為が、「芸術写真」である。竹翁の「芸術写真」理論は、このように主張しているpdf二十一歳のときの『新訳和英辞書』において、彼はすでに影(kage)の訳語にShade,Shadow,Lightの三つを挙げている。

参考文献[編集]

  • 豊田実『日本英学史の研究』岩波書店、1939年、p735-736
  • 小川直人「上田貞治郎コレクションの伝来経緯と都市記述の方法論」2007年? pdf
  • 東京都写真美術館編『夜明けまえ知られざる日本写真開拓史. 1(関東編研究報告)』東京都写真美術館、2007年

外部リンク[編集]

著書[編集]

  • 『新訳和英辞書』箸尾寅之助纂訳、青木嵩山堂、明治20年(1887年)9月
  • 『和英ダイヤモンド』[17]箸尾寅之助纂訳、青木嵩山堂、明治20年(1887年)12月
  • 『手風琴独案内』第一集・第二集[18]、箸尾竹軒、青木嵩山堂、明治26年・27年(1893年1894年
  • 『月琴清笛胡琴清樂獨稽古 』箸尾寅之助、青木嵩山堂、明治26年(1893年)
  • 『日本俗曲集 : 月琴清笛胡琴 』箸尾寅之助、青木嵩山堂、明治26年(1893年)
  • 『三味線獨習之友』箸尾寅之助、青木嵩山堂 、明治27年(1894年)
  • 『印京城図』[19]箸尾寅之助編、青木嵩山堂、明治27年(1894年)
  • 『手風琴獨案内征清歌曲集』箸尾竹軒、青木嵩山堂 、明治29年(1896年
  • 『手風琴獨案内流行歌曲集』箸尾竹軒、 青木嵩山堂、明治30年(1897年
  • 『新撰雙陸独稽古』[20]竹軒樂人、青木嵩山堂、明治30年(1897年)
  • 『煎茶早学』上下巻、竹軒樂人、青木嵩山堂、明治31年(1898年
  • 『実地冩眞術 : 通信教授 』[21]上田寅之助、上田写真機店、明39年(1906年
  • 『シュルツ、ヘンケ氏冩眞修整術』上田編輯部編訳、上田写真機店、明治43年(1910年
  • 『実地応用 : 冩眞術独案内』上田寅之助、上田写真機店、明治44年(1911年
  • 『ポケット冩眞術』上田竹軒、青木嵩山堂、明治44年(1911年
  • 『魔法的冩眞術』上田竹翁、上田写真機店、大正3年(1914年
  • 『掌中冩眞家必携』上田竹翁、上田写真機店、大正7年(1918年)頃
  • 『通俗冩眞術』上田竹翁、上田写真機店、大正7年(1918年)頃
  • 『最新印画法全書』上田竹翁、上田写真機店、大正7年(1918年)頃
  • 『家庭人像冩眞術』上田竹翁、上田写真機店、大正7年(1918年)頃
  • 『閃光夜間冩眞術』上田竹翁、上田写真機店、大正7年(1918年)頃
  • 『乾板冩眞術』上田竹翁、上田写真機店、大正7年(1918年)頃
  • 『冩眞原板修正術』上田寅之助編、自刊、大正7年(1918年)頃
  • 『冩眞になるまで』上田寅之助編、自刊、大正7年(1918年)頃
  • 『誰にも出来る最新写真術』上田竹軒編、三星社出版部、大正7年(1918年)
  • 『コダック冩眞術』上田寅之助編、上田写真機店、大正8年(1919年)
  • 『訂正増補コダック作画法: 附・フィルム写真術』上田竹翁、小西六右衛門、大正8年(1919年
  • 『コダツク冩眞新書』上田寅之助編、自刊、大正9年(1920年)
  • 『冩眞術百科大辞典』上田寅之助編、上田写真機店、大正9年(1920年
  • 『エ・ホースレイ・ヒントン氏繪畫冩眞の研究』、上田写真機店出版部編、上田写真機店、大正10年(1921年
  • 『速成冩眞術』上田寅之助編、藝術冩眞社用達部、大正10年(1921年
  • 『原板の修整と改良』上田寅之助編、藝術冩眞社(大阪)、大正10年(1921年)
  • 『欧米及国産冩眞銘鑑 : 附・冩眞術捷径』上田寅之助編、自刊、大正13年(1925年
  • 『冩眞銘鑑 : 附・冩眞機及冩眞鏡玉撰択』上田寅之助編、自刊、大正14年(1926年
  • 『冩眞藝術のしるべ』上田編集部(竹翁)編、上田写真機店、大正14年(1926年
  • 『家庭活動冩眞術』上田寅之助編、出版者上田竹翁、昭和2年(1927年

他多数。