三宿神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
三宿神社
世田谷三宿神社の拝殿
所在地 東京都世田谷区三宿2-27-6
位置 北緯35度39分4.73秒 東経139度40分25.96秒 / 北緯35.6513139度 東経139.6738778度 / 35.6513139; 139.6738778 (三宿神社)座標: 北緯35度39分4.73秒 東経139度40分25.96秒 / 北緯35.6513139度 東経139.6738778度 / 35.6513139; 139.6738778 (三宿神社)
主祭神 宇迦能御魂命、毘沙門天(大物主神)
社格 無格社
創建 不詳
例祭 9月23日
地図
三宿神社の位置(東京都区部内)
三宿神社
三宿神社
テンプレートを表示

三宿神社(みしゅくじんじゃ)は東京都世田谷区三宿にある神社。境内は多聞寺(廃寺)の跡地の一部を利用しており、1885年(明治18年)に多聞寺の伽藍であった毘沙門堂の前に拝殿を増築して三宿神社と名付けた。[1]

祭神[編集]

歴史[編集]

「多聞寺」の存在[編集]

かつてこの地には「多聞寺」という寺院が存在していた[2][3]。多聞寺は、当地にあった「多聞寺城」(世田谷城の東の砦)の中核部であったといわれる[4]。多聞寺城はまたの名を「三宿城」といい、文明年間(1469年-1486年)の頃に吉良氏が築いたもので、三宿村もこの時期に開かれたという説がある[3]

三宿村は北宿、本宿、南宿の3つのに分かれていた[3][注釈 1]。多聞寺の付近は「字北宿」に属していて、南北を北沢川烏山川(烏山用水)によって刻まれた台地であり、台地の東の端で両河川は合流して目黒川となっている[3][6]

往古の本尊である毘沙門天は村人たちに深く尊崇されていた[4][7]。『新編武蔵国風土記稿』では、「多聞寺 村ノ北ニアリ。曹洞宗。郡中世田ケ谷村勝国寺ノ末、清水山天王院ト号ス」と記されていて、勝国寺(世田谷四丁目27番4号に現存)の末寺であった[8][9][5]。同じ『新編武蔵国風土記稿』に「イヅレノ頃カ火災ニ遭ヒ、開山・開基ナドモ詳ナラズト云」とあって、創建年などは不明である[8][5]

三宿神社の建立[編集]

多聞寺は明治初期に廃仏毀釈の余波を受けて廃寺となり[10]、その跡地の一部を使って1885年(明治18年)に三宿神社が建立された[3]。これは村の鎮守が必要になったための措置で、神社の由来には、(寺のままでもよかったのに)なぜ神社が鎮座することになったのか由来は不明、と書かれている。

多聞寺境内にあった毘沙門堂の前に拝殿を新築して「三宿神社」と名付けたものであった[4]東京府に祭神を毘沙門天(=多聞天)として申告したところ許可が下りず、改めて大物主命を祭神として申告しなおしたという[4][7]。現在残っている当時の申請書には「毘沙門天」と書かれた部分に線引きがされ、その横に「大物主命」と書かれている。この訂正は申請書を持参した村人の目の前で行われた、と伝わる。他社にも類例があるが、明治新政府の意向により、本来は外来の神である毘沙門天ではなく、国産の神である大物主を祀らせた、とする説がある。ともあれ、結局祭神は毘沙門天を祀ることになったという[4]。当時の申告によれば、社務所は400坪余り、東京府までの距離2里15町(約10キロメートル)、総代4軒で所在地は三宿村字北宿379番地であった[4]。戦後の記録では祭神は「倉稲魂命」となっている。実際に境内には稲荷社もあるが、この時点でもまだ「毘沙門天」を祀ることが許されていない。大正12年(1923年)に大人神輿が製作されているが、本来その年9月の祭礼に間に合わせ、注文していた浅草の神輿店から納められることになっていた。しかし神輿の完成を聞いた氏子たちが浅草まで出かけ、8月中には早々にこれを三宿に引き取ってきて喜んでいた。9月1日に発生した関東大震災により浅草一帯は壊滅したが、よってこの神輿は無事であった。さらにこの神輿は昭和20年(1945年)5月のこの辺りに対する米軍の空襲も逃れた。ただし数年前に建てた社殿は消失している。

村の中心部は大山街道が通る[注釈 2]字本宿と南宿付近であり、三宿神社が建てられた時期の字北宿付近に民家は1軒もなかった[3]。神社前を流れる烏山用水沿いは田んぼが広がり、多聞寺橋付近には堰が設けられていた[3]。近在の農民たちは、この堰に毎月1日と15日に餅を供えていたという[3]。社殿は第2次世界大戦の戦災に遭って焼失したが、その際に毘沙門天像は持ち出されており無時で、現在も祀られている。1949年(昭和24年)に郊外の元・軍需工場から不要になった社殿を譲り受け、失った本殿は再建された[11]。その後拝殿は1967年(昭和42年)に建築された[2][11]

境内[編集]

烏山川緑道沿いにある大鳥居をくぐってすぐ右手に手水舎、左手に社務所がある。手水舎の水はかつて湧水を使っていたが、近くに幼稚園が建設された際、地下を掘り返したために水が枯れた[4]

更に奥に進むと右手に神楽殿(木造)が北西を向いて建っている。本殿(木造流造)及び拝殿(木造)は神楽殿を右手に見ながら階段を数段上ったところにあり、拝殿に向かって左手に稲荷神社が存在する。[12]

神楽殿の向かいには、1956年(昭和31年)に太田道灌江戸城開城500年を記念して地元の有志が建立した旧江戸城の城石の碑がある。武者小路実篤の筆である。[2][13]

本殿の北東には多聞寺があった際に作られた墓地があるが、多聞寺廃寺以降は勝国寺の檀家の墓地とされている[4]。当該墓地敷地内には、1701年元禄14年)製の庚申塔が存在する。舟形光背型で、正面には地蔵菩薩立像が彫られている[14][15]

1,600m2の境内は奥に進むにつれて高くなっており、小高い丘のようになっている。丘の上には、世田谷区立公園である三宿の森緑地があり、神社の樹木と一体となって密集した市街地の中における貴重な樹林地を形成している[16]

境内社[編集]

  • 稲荷神社(宇迦能御魂神)

参考画像[編集]

年中行事[編集]

主な祭事、年中行事は以下の通り[4][17]

  • 元旦祭 1月1日
  • 初午 2月二午(にのうま)日
  • 節分豆撒 2月3日
  • 夏越大祓 6月23日
  • 例大祭 9月22日〜23日
  • 年越大祓 12月23日
  • 月次祭 毎月1日

9月の例大祭で奉納される神楽の中に「たぬき囃子」がある[2][18]。これは近在に住む父親思いの少年がある日けがをしたたぬきを助けたところ、そのたぬきの恩返しとして、境内裏手の丘から流れる湧水が少年の父親が患っていた病気を治す水に変じたという伝説にちなんだものといわれる[2][18]

交通アクセス[編集]

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 『新編武蔵風土記稿』では、小名として記述されているのは柳田耕地・溝街道のみ[5]
  2. ^ 「村内東ヨリ西ニ貫キテ二町許相州矢倉沢街道アリ」『新編武蔵国風土記稿』[5]

出典[編集]

  1. ^ 世田谷区総務部文化課文化行政係 『ふるさと世田谷を語る』東京出版センター、1994年、63頁。 
  2. ^ a b c d e 世田谷区教育委員会 『世田谷社寺と史跡(その一)』世田谷区教育委員会、1968年、2頁。 
  3. ^ a b c d e f g h 世田谷区生活文化部文化・国際課 『ふるさと世田谷を語る 池尻・三宿・若林・三軒茶屋』世田谷区生活文化部文化・国際課、2004年、43-45頁。 
  4. ^ a b c d e f g h i 世田谷区生活文化部文化・国際課 『ふるさと世田谷を語る 池尻・三宿・若林・三軒茶屋』世田谷区生活文化部文化・国際課、2004年、63-65頁。 
  5. ^ a b c d 新編武蔵風土記稿三宿村.
  6. ^ 世田谷区遺跡調査会 『多聞山遺跡調査報告書』世田谷区教育委員会、1983年、63-65頁。 
  7. ^ a b 世田谷区生活文化部文化・国際課 『ふるさと世田谷を語る 池尻・三宿・若林・三軒茶屋』世田谷区生活文化部文化・国際課、2004年、173頁。 
  8. ^ a b 下山照夫 『史料に見る江戸時代の世田谷』世田谷区教育委員会、1968年、178-179頁。 
  9. ^ 世田谷区教育委員会 『世田谷社寺と史跡(その一)』世田谷区教育委員会、1968年、20頁。 
  10. ^ 東京府庶務課社寺掛『社寺廃合取調帳』1875年,東京都公文書館・藏,「廃寺院目録」6丁表(表記は「多門寺」)
  11. ^ a b 東京都神社庁 『世田谷社寺と史跡(その一)』東京都神社庁、1986年、326頁。 
  12. ^ 東京都神社庁 編 『東京都神社名鑑(上巻)』1986年、326頁。 
  13. ^ 世田谷区口調室広報課 編 『改訂・せたがやの散歩道一歩二歩散歩』1995年、28-29頁。 
  14. ^ 東京都世田谷区教育委員会 編 『世田谷区石造遺物調査報告書Ⅱ世田谷の庚申塔』1984年、42&127頁。 
  15. ^ 世田谷区生活文化部文化・国際課 『ふるさと世田谷を語る 池尻・三宿・若林・三軒茶屋』世田谷区生活文化部文化・国際課、2004年、67頁。 
  16. ^ 平成16年3月 予算特別委員会-03月18日-06号”. 世田谷区議会 (2004年3月18日). 2017年1月30日閲覧。
  17. ^ a b c 世田谷区神社総代会運営委員会 編 『郷土を知ろう あなたの町の鎮守さま』2007年3月1日、29頁。 
  18. ^ a b 世田谷区生活文化部文化・国際課 『ふるさと世田谷を語る 池尻・三宿・若林・三軒茶屋』世田谷区生活文化部文化・国際課、2004年、72-74頁。 

参考文献[編集]

  • 「三宿村」 『新編武蔵風土記稿』 巻ノ51荏原郡ノ13、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:763982/44 

外部リンク[編集]