丁若鏞

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丁若鏞
Mokminsimseo.jpg
牧民心書
各種表記
ハングル 정약용
漢字 丁若鏞
発音: チョン・ヤギョン
日本語読み: てい じゃくよう
文化観光部2000年式 Jeong Yakyong
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丁 若鏞(てい じゃくよう、チョン・ヤギョン、1762年8月5日(旧暦6月16日) - 1836年4月7日(旧暦2月22日))は、李氏朝鮮時代後期の儒学者。いわゆる「実学」運動を集大成した人物であった[1]

文学、哲学、工学、科学、行政の分野で活動した。字は美庸、号は茶山、俟菴、籜翁、苔叟、紫霞道人、鐵馬山人、門巖逸人等[1]

来歴[編集]

全羅南道羅州の出身(生誕は京畿道[1]南人の学者の家に生まれ育ち[1]、1789年に科挙に合格して官吏となった[1][2]。西学(カトリック、西洋科学)に関心を持ち、その理解者となった[1]

自称するところによると、最初はキリスト教の影響を受けたが、1791年に全羅道珍山のキリスト教徒が祖先崇拝を廃止したことが露見して斬首される事件が起きると(珍山事件)、キリスト教から離れたという[2][3]。兄の丁若鍾は事件後も信仰を守り、1800年に明道会が結成されるとその会長に就任し、またハングルで『主教要旨』2巻を執筆した。これは朝鮮語で書かれた最初のキリスト教教義書だった[4][5]

正祖は南人の蔡済恭を奎章閣の提学に任命し、李家煥や丁若鏞などの南人を要職に起用した[6]

1792年、丁若鏞は正祖に上疏して城制改革を主張した。これに対して正祖は『古今図書集成』に収録されたヨハン・シュレック『奇器図説』を与えて研究させた[7]水原城建設のため、丁若鏞は「城説」「起重架図説」などを著した[2]。挙重器の作成によって、銭四万を節約したという[7][8]

しかし、1800年に正祖が没すると南人に対する風当たりは再び厳しくなった。1801年にキリスト教弾圧(辛酉教難)が起き、李家煥は獄中で死亡、丁若鍾は大逆罪で刑死、丁若鏞と兄の丁若銓は流刑になった[9][10]

丁若鏞は全羅南道康津郡に配流され、18年もの流刑生活を余儀なくされた[1]。しかし、隣の海南郡に母の尹氏の実家があり、丁若鏞は配流中に尹氏の蔵書を利用して研究・著作に専念した[2]

著書[編集]

丁若鏞は生涯に500巻あまりの著書を残した。その経世思想は「一表二書」と呼ばれる3部の著書に表されている[2]

  • 『経世遺表』は国政改革のプランを示す。
  • 『牧民心書』は地方行政について記す。
  • 『欽々新書』は司法分野の改善について述べる。

ほかに地理に関する『我邦疆域考』・『大東水経』、医学に関する『麻科会通』、行政改革に関する『田論』・『湯論』、『茶山集』などの著書がある。

日本について客観的に記した「日本考」があり、また日本の古学に影響され、伊藤仁斎荻生徂徠太宰春台らの説を著書『論語古今注』に引用した[11]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g 丁若鏞 - 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』『世界大百科事典』および『日本大百科全書(ニッポニカ)』(コトバンク
  2. ^ a b c d e 姜(2001) pp.397-405
  3. ^ 姜(2008) pp.166-168
  4. ^ 姜(2008) pp.185-186
  5. ^ 山口(1985) pp.115-117
  6. ^ 姜(2001) p.376-377
  7. ^ a b 姜(2008) p.165
  8. ^ 河(2008) p.71
  9. ^ 浦川(1973) p.100
  10. ^ 山口(1985) pp.82-84
  11. ^ 河(2008) p.72

参考文献[編集]