ヴィーシュホロド

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ヴィーシュホロド
Вишгород
座標 : 北緯50度35分14秒 東経30度29分20秒 / 北緯50.58722度 東経30.48889度 / 50.58722; 30.48889
歴史
建設 946年
都市型集落 1962年
1968年
行政
 ウクライナ
  キエフ州の旗 キエフ州
 地区 ヴィーシュホロド地区
 市 ヴィーシュホロド
市長 Решетняк Віктор Олександрович
地理
面積  
  市域 8,7 km2
人口
人口 (2012年現在)
  市域 26198人
その他
等時帯 東ヨーロッパ時間 (UTC+2)
夏時間 東ヨーロッパ夏時間 (UTC+3)
郵便番号 07300—07304
市外局番 +380-4596
位置図
ヴィーシュホロドの位置(ウクライナ内)
ヴィーシュホロド
ヴィーシュホロド (ウクライナ)
公式ウェブサイト : http://xn--b1acdo5aan5d.com.ua/

ヴィーシュホロドウクライナ語: Вишгород)は、ウクライナキエフ州ヴィーシュホロド地区ウクライナ語版にある市である。同地区の中心地であり、人口は26198人(2012年)。1962年都市型集落1968年に市となった。歴史学的文献にはヴィシゴロド、ヴィシェゴロド等と表記しているものもある。

地理[編集]

ドニエプル川の右岸・キエフ貯水池(キエフ湖)の南端に接する。キエフ市からは北に8kmの距離にある。

歴史[編集]

中世[編集]

ルーシの年代記の中に初めてヴィーシュホロドの名が挙がるのは946年のことである。また、ビザンツ皇帝コンスタンティノス7世905年? - 959年)も、ヴィーシュホロドはキエフからドニエプル川を16ベルスタ遡上したところにあるという主旨の記述を残している。キエフルーシ時代のヴィーシュホロドは高い丘の上に位置し、キエフの北方に対する前哨として要塞化されていた。『原初年代記』の中には、946年に聖オリガの領地であったこと[1]980年ごろにはウラジーミル1世の300人の側室がいたこと[2]1078年からヤロポルク・イジャスラヴィチ(イジャスラフ1世の子)の領地となったこと[3]などの記述がある。

1155年ユーリー・ドルゴルーキーは、ヴィーシュホロドに息子のアンドレイ・ユリエヴィチを置いたが、アンドレイは慣れ親しんだウラジーミル・クリャージマへと去った。その際にヴィーシュホロドの[4]聖母イコンを運び出した。これが今日の有名なイコン、ウラジーミルの聖母である。また、ヴィーシュホロドでは少なからぬ数の攻防戦が行われた。例えば1093年1136年1146年の三度、ポロヴェツ族が街を包囲している。

1240年モンゴルのルーシ侵攻によって勃発したキエフの戦いの際に、ヴィーシュホロドはキエフとともに戦禍を被った。ヴィーシュホロドは破壊され、以降、年代記から記述が消えることとなった。石造りの建築物の残骸や、高い土塁、クルガンなどが、往時のヴィーシュホロドを偲ばせるのみであったという。1523年の修道院の記録の中に、再びヴィーシュホロドの名が現れるが、そこでは貧しく人口の希薄な村落として記述されている。

近代・現代[編集]

史跡・記念碑[編集]

  • ボリス・グレブ教会(ロシア語):ヴィーシュホロドには988年ごろに聖ヴァーシリー教会が建築された。しかし教会は1019年に焼失したため、その代わりとして、1020年にボリス・グレブ教会として再建され、1072年にはボリスとグレブ不朽体が安置された[5](ただし、不朽体は現在所在不明)。その後、幾度かの再建と荒廃を経て、1991年に再建されたものが現在の教会である。
  • ボリスとグレブの像:街の中心地にあり、ボリス・クリロフ(ロシア語)によって作成された。落成式は2011年。なお、おなじく街の中心地には、アフガニスタン紛争チェルノブイリ原発事故を悼む碑などがある。

姉妹都市[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 國本哲男『ロシア原初年代記』(68頁)
  2. ^ 國本哲男『ロシア原初年代記』(93頁)
  3. ^ 國本哲男『ロシア原初年代記』(221頁)
  4. ^ アレクサンドル・ダニロフ『ロシアの歴史(上)古代から19世紀前半まで』(96頁)には、アンドレイが持ち帰ったのは「キエフの聖物」とある。
  5. ^ 國本哲男『ロシア原初年代記』(481頁)

参考文献[編集]