モンゴジェジェ

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モンゴジェジェ (孝慈高皇后) はイェヘナラ氏女真族。初代イェヘ東城主・ヤンギヌの娘。ヌルハチの妻。ホンタイジの母。清朝で初めて追封された皇后である。

略史[編集]

『滿洲實錄』の記載に拠ると、ヤンギルヌルハチの婚姻では、見目麗しく、ヌルハチに相応しい娘として、当時まだ少女のモンゴジェジェが選ばれた。1588年旧暦9月、兄・ナリムブルはモンゴジェジェをヌルハチに嫁がせ、ヌルハチは部下を引き連れて盛大に婚礼の儀をあげた。1592年、モンゴジェジェはヌルハチの八子、後の太宗・ホンタイジを出産し、これが生涯唯一の子供となった。モンゴジェジェはほかにヌルハチの孫・ヨトを養育した[1]:40

マンジュ・グルンは勢力が伸長するに連れ、モンゴジェジェの実家であるイェヘと次第に反目しあうようになった。双方は1597年に再び政略結婚を結ぼうとしたが、モンゴジェジェの姪と婚約まで行った末に破談となった。1603年、ヌルハチとイェヘが敵対し続ける中、モンゴジェジェは危篤となり、今際の際で母との最後の別れを希望した。ヌルハチは使者を送ったが、ナリムブルはこれを斥けた。結局、モンゴジェジェは双方歪み合う中で病逝した。享年29歲 (数え歳) であった。この年、ヌルハチはフィアラ (費阿拉) からヘトゥアラに遷都したばかりであったが、昼も夜も悲哀に暮れ、モンゴジェジェの霊柩を院内に三年も止めた後に尼雅満山に葬った。天命9 (1622) 年、ヌルハチは父祖の妻子の墳墓をヘトゥアラから新都・遼陽城のあるい一帯に移葬し、[1]:40モンゴジェジェも東京楊魯山に移された。天聡3 (1629) 年には更に瀋陽の福陵に移葬された。

モンゴジェジェの死後10余年が経った天命8 (1623) 旧暦6月、ヌルハチはホンタイジについて「我が愛妻の生みし唯一の後嗣なる故に愛憫に勝へず」と語ったという。モンゴジェジェの妹・綽奇 (松古図の母) もまたヌルハチのフジンの一人である。

正妻、中宮、追謚[編集]

モンゴジェジェとの結婚からその死去まで、ヌルハチはハンを称したことはなかった。死後の1605年には対内的に建州部の王を称した。また、満洲貴族は一夫多妻多妾制を敷き、あまたいる妻はみなフジンを称し、そのフジンの中には一夫一妻多妾制のような厳格な嫡庶の差別をもうけなかった。フジンが産んだ子は全て同じ地位にあり、相続権も同じであった。史料の欠乏のため、中国の学界は嘗て長きに亘りアイシン・グルン (後金) 社会の一夫多妻多妾制と漢民族社会の一夫一妻多妾制を同等に捉え、両者は混淆されがちであった。[2]モンゴジェジェを妾室と捉えたために、ホンタイジを庶子と見做し、ホンタイジの即位は長子相続制度下における庶出相続、庶出による簒奪だと誤解されてきた。[1]:39[3]

1607年から記録が始まったとされる『滿洲老檔』はヌルハチの妻の内、アバハイだけが「amba fujin」(大フジン) と呼ばれている。ホンタイジ治世で上梓された『滿洲實錄』ではモンゴジェジェを「dulimbai amba fujin」(中室大フジン[1]:40または中宮皇后) と呼んでいる。『清史稿』では、アバハイはモンゴジェジェ死後に大妃 (大福晋) とされたとあるが、モンゴジェジェの生前に大福晋という肩書きがあったのかは中国学界でも意見がわかれる。杜家驥は『滿洲實錄』巻7中の天命9年旧暦4月、ヌルハチが祖陵をヘトゥアラから遼陽に移葬した記事の満洲語文を根拠として、モンゴジェジェは生前にヌルハチの大福晋であったと結論づけている。[1]:41

1636年、本退治が登基し、清朝太宗となった。母親の地位は子によって決まるという慣習にしたがい、モンゴジェジェは孝慈昭憲純德貞順承天育聖武皇后と追謚された。康熙元年には高皇后と改称され、雍正年間と乾隆年間を通じて、諡号が追加され、孝慈昭憲敬順仁徽懿德慶顯承天輔聖高皇后と改められた。

脚註[編集]

  1. ^ a b c d e 杜家骥 (1998). “清太宗出身考” (中国語). 史学月刊 (河南省开封市: 河南大学、河南省历史学会) (1998年第5期): 39-42. ISSN 0583-0214. https://www.ixueshu.com/document/cb4c3b476214ca80318947a18e7f9386.html. 
  2. ^ 定宜庄 (2012). “《满族早期一夫多妻制及其在清代的遗存》” (中国語). 满族文学 (辽宁省丹东市: 辽宁省作家协会、丹东市文联) (2012年01期). ISSN 1003-7012. http://www.cnki.com.cn/Article/CJFDTotal-MZWE201201011.htm. 
  3. ^ 徐文明 (2002年12月2日). “天命五年后金国的大福晋”. 国学网,原刊《甘肃民族研究》2000年第4期. 2017年8月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧。 “富察氏名滚代[……]。然而正是由于富察氏先归太祖两年,就顺理成章地当上了继任的大妃。努尔哈赤虽然钟爱孟古姐姐,却也无法随便改变已定的名分,只好让其充任侧妃。对于此事,皇太极一直耿耿于怀,因为正是富察氏的存在,才使他的母亲始终未能当上大妃,在身份上比其他嫡子低了一筹,为他争权夺位设置了一道天然的障碍。因此他避而不谈其母与富察氏孰嫡孰庶,转而大讲谁更受宠。可能当时年轻貌美、温柔娴淑的孟古姐姐最为受宠,其子以庶子身份而位居四大贝勒之列,进而登基称汗便是证据。”