メール・バシン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
メール・ヴェリコヴィチ・バシン
Меер Велькович Басин
Meyer Basin-1.jpg
1918年8月のバシン
生年: 1890年
生地: ロシア帝国の旗 ロシア帝国モギリョフ県ロシア語版チェリコフ郡チェリコフベラルーシ語(タラシケヴィツァ)版
没年: 1918年9月20日
没地: ロシア社会主義連邦ソビエト共和国の旗 ロシア社会主義連邦ソビエト共和国ザカスピ州クラスノヴォツク郡、カスピ海横断鉄道ペレヴァル駅=アフチャ・クイマ駅間[1]
思想: マルクス・レーニン主義
活動: バクー油田での労働運動の主導
バクー・コミューンの指導
所属: ボリシェヴィキ

メール(メイル)・ヴェリコヴィチ・バシンロシア語: Меер (Меир) Велькович Басин1890年 - 1918年9月20日)は、ロシア革命家であり、26人のバクー・コミッサールの一員である。

生涯[編集]

1890年[2]ロシア帝国モギリョフ県ロシア語版チェリコフベラルーシ語(タラシケヴィツァ)版に生まれ、1909年モギリョフユダヤ人学校を卒業した[3]1910年から兵役に就いたが、健康上の理由から半年で除隊し、翌1911年からバクー油田で技師として働き始めた[2]。翌1912年からボリシェヴィキの党員となり、フィリップ・マハラゼジョージア語版やマンメト・マンメジャロフ (az) との知遇を得た[2]

1914年に石油労働者のストライキを主導して逮捕され[2]、また革命活動による逮捕を繰り返される[3]1917年5月にはイヴァン・フィオレトフらとともに石油産業労働組合組織の設立者となり、7月にはボリシェヴィキのバクー地区委員会メンバーとなった[2]。9月にはゼネストを主導し、11月からはバクー・ソビエト執行委員会幹部会書記、翌1918年2月には石油労働者連合書記となる[2]。バクー人民経済会議ロシア語版労働局長として、紙幣発行の監督も担当した[2]。4月にバクー・コミューンが発足すると、人民経済会議石油局長に任命され、国有石油企業の保護を担当した[3]

7月末にコミューンが崩壊すると逮捕されたが、にもかかわらず8月には獄中からバクー・ソビエトのメンバーに選出された[4]。その後、赤軍の働きによってバシンらは一時釈放されたが再度捕らえられ、他のコミューン成員らとともに9月20日に処刑された[4]

バシンの名はチェリコフとバクーの通りの名として残されていたが[5]、バクーの通りはその後フィズリ通りロシア語版と改称されている[4]

脚注[編集]

  1. ^ Джапаридзе Прокопий Апрасионович”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. 2016年4月3日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g Сперанская Т (2010年11月22日). “Басины Меир Липа и Кейля - служащие”. Наш Баку. 2016年4月3日閲覧。
  3. ^ a b c Литин А. “Чериков”. Мое местечко. 2016年4月3日閲覧。
  4. ^ a b c Басин Меер Велькович”. ПомниПро. 2016年4月3日閲覧。
  5. ^ Басин Меер Велькович // Биографический справочник — Мінск: «Белорусская советская энциклопедияベラルーシ語版» имени Петруся Бровки, 1982. — Т. 5. — С. 44. — 737 с.