ミハイル・カラトーゾフ
Михаил Калатозов ミハイル・カラトーゾフ | |||||||||
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本名 | ミヘイル・カラトジシヴィリ მიხეილ კალატოზიშვილი | ||||||||
生年月日 | 1903年12月28日 | ||||||||
没年月日 | 1973年3月27日(69歳没) | ||||||||
出生地 |
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死没地 |
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国籍 |
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職業 | 映画監督 | ||||||||
ジャンル | サイレント映画、トーキー | ||||||||
活動期間 | 1928–1971 | ||||||||
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ミハイル・カラトーゾフ(ロシア語: Михаил Калатозов, 1903年12月28日 - 1973年3月27日)は、ソビエト連邦の映画監督である。グルジアのティフリス(現在のトビリシ)出身。本名はミヘイル・カラトジシヴィリ(グルジア語: მიხეილ კალატოზიშვილი)。
人物・来歴[編集]
経歴[編集]
トビリシのゴスキンプロム・グルジイ撮影所でまず役者となり、続いてキャメラマンとしての修業を積む。監督としては1930年の辺境ドキュメンタリー『スワネチアの塩』で注目されるものの、『軍靴の中の釘』(1931年)がスターリン施政下の検閲により批判され、長らく監督業から身を引くことを余儀なくされる。第二次大戦の時期にはいくつかプロパガンダ映画に携わり、その後アメリカのソ連大使館文化担当官として赴任、ハリウッド映画産業の研究書を著した。
スターリン死後の1957年に発表した『戦争と貞操』がカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞、ソ連映画の新しい動きを代表する監督となる。1964年のソ連とキューバの合作『怒りのキューバ』では、撮影監督のセルゲイ・ウルセフスキーとともに鮮烈な映像を生み出したが、当時はソ連・キューバのどちらからも評価されなかった。
1973年3月27日、当時のソ連の首都モスクワで死去した。満69歳没。遺作は『SOS北極... 赤いテント』(1971年)。
没後[編集]
『怒りのキューバ』が、1990年代になってからアメリカで再評価され、マーティン・スコセッシとフランシス・フォード・コッポラの尽力で再公開された。
2000年に孫のミハイル・カラトーゾフが「ミハイル・カラトーゾフ財団」を設立、ロシアの若手映画人への製作支援などを行っている。なお、孫のミハイルは2009年に死去。
2010年、イタリアのポルデノーネで開かれた第29回ポルデノーネ無声映画祭で特集され、5作のサイレント映画が上映された[1]。
おもなフィルモグラフィ[編集]
- スワネチアの塩 მარილი სვანეთს (1930) サイレント映画、ドキュメンタリー映画
- 軍靴の中の釘 Гвоздь в сапоге (1931)
- 戦争と貞操 Летят журавли (1957) のちに『鶴は翔んでゆく』へ改題
- 送られなかった手紙 (1960)
- 怒りのキューバ Я - Куба (1964)
- SOS北極... 赤いテント Красная палатка (1971)
註[編集]
- ^ Programma/Programme 2010 (イタリア語) / (英語), ポルデノーネ無声映画祭、2010年10月18日閲覧。
外部リンク[編集]
- Mikhail Kalatozov Fund - ミハイル・カラトーゾフ財団公式ウェブサイト
- ミハイル・カラトーゾフ - allcinema
- Mikhail Kalatozov - IMDb(英語)