ポンティニー

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Pontigny
Blason de la ville de Pontigny (89).svg

Pontigny (89) Mairie.jpg
行政
フランスの旗 フランス
地域圏 (Région) ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏
(département) ヨンヌ県Blason département fr Yonne.svg
(arrondissement) オセール郡
小郡 (canton) リニー=ル=シャテル小郡
INSEEコード 89307
郵便番号 89230
市長任期 ユベール・トラペ
2008年 - 2014年
人口動態
人口 727人
2010年
人口密度 61人/km2
地理
座標 北緯47度54分28秒 東経3度42分42秒 / 北緯47.9078度 東経3.7117度 / 47.9078; 3.7117座標: 北緯47度54分28秒 東経3度42分42秒 / 北緯47.9078度 東経3.7117度 / 47.9078; 3.7117
標高 平均:?m
最低:102m
最高:183m
面積 11.92km2 (1 192ha)
Pontignyの位置(フランス内)
Pontigny
Pontigny
公式サイト site officiel
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ポンティニー (Pontigny)は、フランスブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏ヨンヌ県コミューン

歴史[編集]

晴朗なポンティニーは、7つの封建的荘園(オセール伯領、トネール伯領、シャンパーニュ伯領、オセール司教領、サンス司教領、ラングル司教領、そしてポンティニー修道院領)が交差する場所だった[1]

最初の入植は1114年に遡る。修道院をつくるため、ヴェヌーズ教区に含まれるセラン川の岸を人が住めるようにしたのはシトー会修道士たちだった(ポンティニーとは川の上につくられた橋の名である)。イングランドジョン欠地王に対して反乱を起こしたイングランド貴族らがマグナ・カルタを起草したという伝説が、この修道院に伝わっている。

1240年以降、多くの巡礼者たちが、ポンティニー修道院に埋葬された聖エドム(英語名:聖エドマンド・リッチ。カンタベリー大司教)の聖遺物に巡礼するようになった。1285年以降、修道院を取り巻く壁沿いに木造の住宅が並んだ。これがポンティニーに移住した最初の在俗者らの居住区であった。

諸侯たちや高位聖職者たちの間で紛争が起きると、戦うか破門するかでなく、交渉のため他方に赴くことが認められなかった。ポンティニーの橋のアーチ中央部をそれぞれが自分たちの家とみなしたので、協定を結ぶ際や署名のたびごとに集まった。こうした重要な機会にはセラン川の中心部にテーブルが設置され、3人の伯爵たち、司教たち、そして修道院長が自分たちの地域の仕事を正餐の場に持ち込み解決していた。

1549年、地元では質の良い粘土がとれ、タイルおよびテラコッタタイルが製造されていた。製粉所で水力が生み出された(1746年当時は縮充機)。

フランス革命時代、ポンティニーからヴェヌーズ集落が分離してコミューンとなった。ポンティニー修道院は閉鎖され、修道士たちは追放された。建物は廃止され、住民たちによって住宅資材に使われた。教会は破壊を逃れて教区教会にされた。1848年から1903年まで、ジャン・バティスト・ミュアール神父が設立したサンテドム会の修道士たちが、修道院の遺構とその土地を所有していた。

人口統計[編集]

1962年 1968年 1975年 1982年 1990年 1999年 2006年
677 668 684 727 737 748 757

参照元:1962年から1999年まで、人口の2倍カウントなし。1962年までEHESS[2]、1968年以降INSEE[3][4]

史跡[編集]

ポンティニー修道院付属教会

20世紀初頭、村の面積の一部をポンティニー修道院が占めていた。そこは重要な知的活動であるデカド・ド・ポンティニー(frポール・デジャルダン設立)が行われた。デカド・ド・ポンティニーとは「ポンティニーでの10日間」の名のごとく、毎年夏の10日間、異なる背景を持つ知識人たちがポンティニー修道院の当時のオーナー、デジャルダンのもとに集って議論を交わした会合を指す。ガストン・バシュラール、シャルル・デュ・ボ、アンドレ・ジイドアレクサンドル・コイレアンドレ・マルローガブリエル・マルセルロジェ・マルタン・デュ・ガールロバート・オッペンハイマーレイモン・アロンジャン・ポール・サルトルポール・ヴァレリーH・G・ウェルズウラジミール・ジャンケレヴィッチらがポンティニーを訪れた。デジャルダンの死後もセリジーにてシンポジウムが開催された。デジャルダンのインスピレーションのもとは、ポール・ロワイヤル修道院であった。

脚注[編集]