ヘームー

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ヘームー
Hemu
デリーの支配者
ヘームー
在位 1556年
戴冠式 1556年10月7日
別号 マハーラージャ

全名 ヘーム・チャンドラ・ヴィクラマーディティヤ
出生 1501年
アルワル
死去 1556年11月15日
パーニーパット
父親 ラーイ・プーラン・ダース
宗教 ヒンドゥー教
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ヘームーविक्रमादित्य, Hemu, 1501年 - 1556年11月5日)は、北インドスール朝の武将、軍総司令官、宰相。ヘームー・ヴィクラマーディティヤ(Hemu Vikramaditya)、ラージャ・ヴィクラマーディティヤ(Hemu Vikramaditya)とも呼ばれる。ヒームーとも呼ばれるが、これは英語読みである。

ヒンドゥー教徒でありながら、スール朝において台頭し、最高位に上りつめた。成立間もないムガル帝国の首都デリーを占領し、帝国を一時滅亡の危機に追いやった人物でもある。また、デリーの350年にわたるムスリムの支配に終止符を打った人物でもあった。

生涯[編集]

商人として[編集]

1501年ラージャスターン地方アルワルの小村で、商人ラーイ・プーラン・ダースの息子として生まれた[1][2]

ヘームーは野菜売りあるいは食料雑貨店を営んでいたが[3][4]、のちにメーワール地方レーワーリーに移り住んだ[5]。ここはデリーへの中継地であり、イランイラクからの隊商や交易品がここに集中し、中世の重要地点だった。

ヘームーは一生を商人などで終わるような男ではなかった。ムガル帝国に代わり、スール朝シェール・シャーが台頭すると、スール朝の軍隊へ穀物を供給する商売をはじめた[6]

ヘームーは穀物供給業だけでなく、レーワーリーで真鍮産業もはじめ、銅版や調理器具、さらには大砲鋳造所も建設するなど、一躍この地方の大商人となった。

スール朝における活躍[編集]

ヘームーの像

だが、ヘームーの才能を見出したのはシェール・シャーではなく、その息子イスラーム・シャーだった[7]

イスラーム・シャーは最初、ヘームーを最初は町の警備役を命じたが[4]、町の管理を見てただならぬ才能があることを知り、戦場に赴かせると、ヘームーはその期待を裏切らぬ行動をとった[8]

このため、イスラーム・シャーは重用し、ヘームーはスール朝の武将となって、王朝を支える存在とまでなった。歴史家バダーウーニーは、「メーワールのレーワーリーの町の青物商をイスラーム・シャーは次第にとりたて、町の警備の地位から、徐々に信頼すべき腹心の一人に昇進させた」と記している[4]

1554年11月、イスラーム・シャーが死亡し、その息子フィールーズ・シャーが継いだが、彼の従兄弟ムハンマド・アーディル・シャーが殺害し王座を得た[9]。これにより、スール朝が内乱となると、ムハンマド・アーディル・シャーはヘームーに最大限の信用をおき、宰相と軍総司令官の地位を与え[10]、ヘームーは新王に刃向う勢力を次々と制圧した[11][3]

だが、主君たるムハンマド・アーディル・シャーはイブラーヒーム・シャーにデリーから追われ、東方に退いた。そのうえ、スール朝の内乱に乗じ、ムガル帝国の皇帝フマーユーンがスール朝の領土に侵攻し、1555年7月23日にデリーとアーグラを奪い返し、スール朝は滅亡した[12]

ヘームーはムハンマド・アーディル・シャーのため、イブラーヒーム・シャーを始めとする敵対者の対応にあたった。彼はイブラーヒーム・シャーをカールピーカーンワーで二度にわたり破り、バヤーナーに包囲した。また、同年12月にはアーディル・シャーと敵対するムハンマド・ハーン・スーリーの軍を破り、戦死させている。

デリー占領[編集]

ヘームーとその武将たち(武将たちの宗教はさまざまで、ヒンドゥー教イスラーム教シク教などを信仰していた)

1556年1月、フマーユーンは図書館の階段から落ちて頭を強打して死亡し、13歳の息子のアクバルが皇帝となった[3]

ムハンマド・アーディル・シャーはヘームーにムガル帝国の軍勢を駆逐する命令を出し、遠征に向かわせた[10][11]。ヘームの軍勢はベンガルから進撃し、ビハールとインド中央部を制圧した。ムガル帝国軍は次々に打ち破られ、アーグラも制圧された[11][3]

同年10月6日、ヘームーはムガル帝国の首都デリーを攻撃し、3000人の犠牲を代償に、帝国軍をデリーから追い払い、その手中に収めた。そして、同月7日、ヘームーはデリーで王位を宣し、「ラージャ・ヴィクラマーディティヤ(単にヴィクラマーディティヤとも)」あるいは「ヴィクラムジート(ヴィクラマージート)」を称して[10][11][3][12]、その名を刻んだ硬貨を鋳造した[3][11]。「ヴィクラマーディティヤ」の称号は歴史的な称号であり[12]、かつてはグプタ朝の君主チャンドラグプタ2世が称していた。ただし、歴史家サティーシュ・チャンドラは「ヴィクラムジート」の称号は主君ムハンマド・アーディル・シャーから授かったものだしとしている[10]

ヘームーは軍事的才能おいて非常に優れた指導者で、ヒンドゥー教徒であったにもかかわらず、アフガン人といったイスラーム教徒をはじめ、多くの人の支持を集められたのは、その非凡な才能のおかげであった。その生涯における戦いの勝利数は、知られているだけでも22に及んだ[10]

第二次パーニーパットの戦い[編集]

パーニーパットにある、第2次パーニーパットの戦いを再現したレリーフ

だが、ムガル帝国の皇帝アクバルとその武将バイラム・ハーンはヘームーを討つためにデリーに進軍した。ヘームーもこれに対し自ら大軍を率いて向かい、11月5日に両軍はデリー付近のパーニーパットで激突した(第二次パーニーパットの戦い[11][13]

第二次パーニーパットの戦いにおける両軍の総兵数は、帝国軍20000に対し、ヘームーの軍は、彼自身が指揮する象軍1500、騎兵30000、多数の歩兵からなり(少なくともその総兵数は100000を越していたと考えられる)、兵数では帝国軍より圧倒的に優勢だった[13]

ヘームーの大軍は数で圧倒し、ムガル帝国の左翼と右翼を包囲し、壊滅寸前に追い込んだ[11][13]。ヘームー自身も象軍による突撃を敢行し、その勝利は目前にまで見えてきた。

しかし、そのとき、ヘームーの片目に帝国軍の放った矢が突き刺さり、彼は意識を失い、彼の軍は混乱に陥った[11][13]。のちに、歴史家アブル・ファズルは自らの著書「アクバル・ナーマ」で、「彼の傲慢さが、煙となって頭から出て行った。」と語っている。

死と戦闘後の経過[編集]

数時間後、ヘームーの軍は壊走し、ヘームー自身も帝国軍に捕えられて、意識も朦朧とするなか、アクバルの前に引きずり出された。

バイラム・ハーンは、アクバルに「ガーズィー(聖戦士)」として処刑するようにすすめた。だが、アクバルが「抵抗しない者を斬るのは嫌だ」と言ったため、ヒームーはバイラム・ハーン自らによって処刑された[14]

ヘームーは一ヶ月足らずしかその栄光を味わえず、商人からデリーの王座にまで上りつめた男の生涯は、ここに幕を閉じた。ヘームーの首はカーブルへ、体はデリーへそれぞれ送られた[13][15]。その後、帝国軍はヘームーの軍を大量虐殺し、首でモンゴル式の塔を作り、その死体はパーニーパットからデリーまで続いたとされる[13]

11月7日、アクバルがデリーに入城し、ヘームーの父ラーイ・プーラン・ダースは捕えられ、イスラーム教に改宗することを強要されたが、拒んだために一族皆殺しにされた。その後、アクバルはデリーで統治をはじめ、ムガル帝国は黄金期を迎えたることとなった。

脚注[編集]

  1. ^ Smith, Vincent Arthur (1917). Akbar the Great Mogul, 1542–1605. Oxford at the Clarendon Press. pp. 32–40. https://archive.org/details/cu31924024056503 
  2. ^ Erskine, William (1854). A History of India Under the Two First Sovereigns of the House of Taimur, Báber and Humáyun, Volume 2. Longman, Brown, Green, and Longmans. pp. 490–493. https://books.google.co.jp/books?id=1bYoAAAAYAAJ&pg=FA490&redir_esc=y&hl=ja 
  3. ^ a b c d e f ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.186
  4. ^ a b c チョプラ『インド史』、p.141
  5. ^ Chandra, Satish (2004). Medieval India: From Sultanate To The Mughals: Part I: Delhi Sultanate (1206-1526). Har-Anand Publications. pp. 91–93. ISBN 9788124110669. https://books.google.co.in/books?id=0Rm9MC4DDrcC 2014年11月17日閲覧。 
  6. ^ Rahim, Muhammad Abdur (1961). History of the Afghans in India, A.D. 1545-1631: with especial reference to their relations with the Mughals. Pakistan Pub. House. p. 94. https://books.google.co.in/books/about/History_of_the_Afghans_in_India_A_D_1545.html?id=KuG1AAAAIAAJ 
  7. ^ Tabaqat-I-Akbari written by Nizamuddin Ahmad (translation by Brajendranath De), Vol II
  8. ^ Qanungo, Kalika Ranjan (1965). Sher Shah and his Times. Orient Longmans. https://books.google.co.in/books?id=qrY9AAAAIAAJ 
  9. ^ チョプラ『インド史』、pp.141-142
  10. ^ a b c d e チャンドラ『中世インドの歴史』、p.235
  11. ^ a b c d e f g h チョプラ『インド史』、p.142
  12. ^ a b c チョプラ『インド史』、p.127
  13. ^ a b c d e f ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.187
  14. ^ Abdul Quadir Badayuni, Muntkhib-ul-Tawarikh, Volume 1, page 6
  15. ^ George Bruce Malleson (2001). Akbar and the rise of the Mughal Empire. Genesis Publishing Pvt. Ltd.. p. 71. ISBN 9788177551785. https://books.google.com/books?id=GwSF6l59x88C&pg=PA71&lpg=PA68&focus=viewport&output=html_text 

参考文献[編集]

  • フランシス・ロビンソン 著、月森左知 訳『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)』創元社、2009年。 
  • アンドレ・クロー 著、杉村裕史 訳『ムガル帝国の興亡』法政大学出版局、2001年。 
  • P・N・チョプラ 著、三浦愛明 訳『インド史』法蔵館、1994年。 
  • サティーシュ・チャンドラ 著、小名康之、長島弘 訳『中世インドの歴史』山川出版社、2001年。 

関連項目[編集]