ヘンリー・ジョイ・マクラッケン

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ヘンリー・ジョイ・マクラッケン
Henry Joy McCracken.jpg
生誕 (1767-08-31) 1767年8月31日
アイルランド、ベルファスト
ハイ・ストリート
死没1798年7月17日(1798-07-17)(30歳)
アイルランド、ベルファスト
コーン・マーケット
国籍グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国
職業織物製造業
著名な実績ユナイテッド・アイリッシュメン協会創設メンバー

ヘンリー・ジョイ・マクラッケン(Henry Joy McCracken、1767年8月31日1798年7月17日)は、アイルランドベルファスト出身のアイルランド共和主義英語版者、実業家。ユナイテッド・アイリッシュメン協会英語版の創設メンバーのひとり。

プロテスタント系のアイルランド統一論者であり、1798年アイルランド反乱英語版の首謀者として逮捕、処刑された。

経歴[編集]

ヘンリー・ジョイ・マクラッケンはベルファストのハイ・ストリート (High street) に、当地の代表的な二つのプロテスタント系実業家の家系を引いて生まれた。父は海運業を営んでいたキャプテン・ジョン・マクラッケン (Captain John McCracken) で、母アン・ジョイ (Ann Joy) はフランスユグノーの系統を引くフランシス・ジョイ (Francis Joy) の娘であった。ジョイ家はリネン製造で財を成し、『Belfast News Letter』紙を創刊していた。ヘンリーは、政治活動家で社会改革家であったメアリー・アン・マクラッケン英語版の兄であり、ともにアイルランドの伝統文化に関心を寄せていた。

1792年、彼はベルファスト・ハープ・フェスティバル英語版の開催を支援し、アイルランド全土から熟練したハープ奏者を集め、数多くのアイルランド音楽エドワード・バンティング英語版に採譜させ、その保全に務めた。マクラッケンのローズマリー・レーン (Rosemary Lane) の家に住み込んでいたバンティングは[1]クラシック音楽の教育を受け、教会のオルガン奏者として働いていた音楽家であった[2]

マクラッケンは、若いころから共和主義に関心をもち、他のプロテスタント系の仲間と1795年ユナイテッド・アイリッシュメン協会を結成したため、すぐに当局から付け狙われることになった。彼は商用にかこつけて常々アイルランド全土を旅行し、協会支持者の集まりを組織化していったが、1796年10月に逮捕され、ダブリンキルメイナム刑務所に収容された。マクラッケンはキルメイナム刑務所に収容された最初の政治犯であった[3]。協会の他の指導者たちとともに投獄された彼は、重病となり、1797年12月に保釈金を支払って出獄した[4]

1798年5月に、ユナイテッド・アイリッシュメン協会主導のアイルランド反乱レンスターで始まると、アントリム県の協会員たちも6月3日に会合をもって自分たちはどうするかを決することになった。この集会では、フランスからの応援の到着を待つべきだとする動議が僅差で通ったものの、決定的な結論は出せなかった。6月5日には、新たな代表者会議がテンプルパトリック英語版で開催され、マクラッケンはアントリム県における将軍(軍事指揮者)に選出され、直ちに軍事作戦の計画策定に入った。

マクラッケンは、アントリム県にあるすべての小さな町を先に抑え、郡の重役たちが集まって危機対応委員会が開催される見込みだった6月7日アントリムに向かうという計画を立てた。この計画は、当初はうまく運び、反乱軍はアントリム攻撃英語版へと進んだが、マクラッケンが連携を期待していたカトリック系のディフェンダーズ英語版は現れなかった。マクラッケンが率いていた、おもにアルスター・ スコットランド人英語版から成る反乱軍は、イギリス軍に敗れて壊滅した。マクラッケンは、ジェームズ・ホープ英語版ジェームズ・オール英語版ジェームズ・ディッキー英語版とともに脱出したが、木綿の取引でマクラッケンと面識のあった男と偶然出会ったことから、結局は逮捕された。マクラッケンは、他のユナイテッド・アイリッシュメンの指導者たちについて、当局に有利な証言をすれば恩赦を与えると持ちかけられたが、同志を売ることを拒んだ。

マクラッケンは、軍法会議絞首刑となり、その敷地をかつて彼の祖父が市に寄贈したベルファストのコーン・マーケット(Corn Market、穀物市場)で1798年7月17日に刑が執行され、30歳で死去した[4]。マクラッケンに関わる歴史書をまとめたガイ・ベイナー英語版によれば、不名誉な斬首刑とすればさらに新たな反発が起こると思われたことから、遺骸が毀損されずに残されたのだという。マクラッケンは、ベルファストの聖ジョージ教区教会 (the Parish Church of St George) に埋葬されたが、しばらく後に、その墓は破壊された[5]

マクラッケンの亡骸は、フランシス・ジョゼフ・ビガー (Francis Joseph Bigger) によって、1909年にベルファストのクリフトン・ストリート墓地英語版にある、妹メアリー・アンの墓に合葬されたと考えられている。彼の私生児として生まれた娘マリア (Maria) (母親は明らかにされていないが、メアリー・ボーデル (Mary Bodell) と考えられている)は、叔母であるメアリー・アン・マクラッケンが養育した。

脚注[編集]

  1. ^ 小村, 2015, p.27.
  2. ^ 小村, 2015, p.25.
  3. ^ 竹内. “アイルランドの旅2012・8”. 人権平和・浜松. 2018年12月13日閲覧。
  4. ^ a b Hamilton 1893.
  5. ^ Guy Beiner (2018). Forgetful Remembrance: Social Forgetting and Vernacular Historiography of a Rebellion in Ulster. Oxford University Press. https://books.google.com/books?id=8KqqtgEACAAJ 

参考文献[編集]

  • Hamilton, Thomas (1893). "McCracken, Henry Joy" . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). 35. London: Smith, Elder & Co.
  • 小村志保「ダニー・ボーイはロンドン/デリー出身?「ダニー・ボーイ」の歌をめぐる一考察」『学習院女子大学紀要』第17号、2015年、 23-34頁。 NAID 120005579001

関連項目[編集]